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水流と水神コミュの御嶽神社(龍神/蔵王権現)

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御嶽神社には『ミタケジンジャ』と読む
各地の御嶽(ミタケ)に由来した神社と、
『オンタケジンジャ』と読む
木曽御嶽山(キソオンタケサン)に由来する流れの神社が存在し、
さらに沖縄には御嶽(ウタキ)と呼ばれる信仰が存在する。
ウタキには「拝み山」という別称もあり、
いずれも山岳信仰が元にあるものと思われる。
両御嶽神社に関しては、後に修験道の影響を受けて
蔵王権現を祀った信仰であることが共通している。
修験の影響は双方の流れの神社に
現在も山犬の狛犬が存在する神社のあることでも推測できる。
明治時代の神仏分離令により、現在の祭神は
両方の流れに蛇神(水流)〈=蛟(みずち)〉という説のある
大己貴命(オホナムチ)がみられ、
ミタケジンジャの流れの祭神は
櫛真智命(クシマチノミコト)を主祭神とするところが多いものの、
各神社によりまちまちで、統一されていない。
櫛真智命は卜占を掌る神とされる。

蔵王権現は雨乞い祈願を行ったとされる役行者が
吉野の金峯山で修業中に示現したとされる神仏混交の神。
同じく役行者が祈り出したとされる弁財天と蔵王権現は真言が同じで、
龍神や巳信仰と関わりがあり、
かつて蔵王権現が祀られていた秩父の武甲山御嶽神社、鳥取県の三滝、
蔵王権現は祀られていないものの、奈良県の室生寺でも
龍神、雨乞い祈願の伝承が存在した。

ウタキは琉球神話の神、あるいは祖先神が来訪する場所のことで、
具体的には男子禁制とした森の空間、泉、川、島そのものを神域とし、
「ノロ(祝女)」と呼ばれる女性の司祭によって、管理される。

●代表的な御嶽神社(ミタケジンジャ)
武蔵御嶽神社(東京都青梅市)
http://www.mitaketozan.co.jp/shrine/index.html
●代表的な御嶽神社(オンタケジンジャ)
信州木曽御岳 御嶽神社(長野県)
http://www.ontakejinja.jp/index2.html


《目次》
茨城県
●境内社御嶽神社(東茨城郡大洗町 大洗磯前神社)=書き込み76

神奈川県
●末社御嶽神社(川崎市 市ノ坪神社)=書き込み51/52
●御嶽神社(川崎市幸区)=書き込み53/54
●御嶽神社(川崎市宮前区)=書き込み56/57
●御嶽神社(跡?)(横浜市栄区)=書き込み16

岐阜県岐阜市
●金華山御嶽神社 =書き込み69

埼玉県
●境内社御嶽山神社(さいたま市東大宮 八雲神社)=書き込み71/72
●末社御嶽神社(志木市 宿ノ天神社)=書き込み40
●末社御嶽神社(所沢市 天神社)=書き込み47 

東京都
●御嶽神社(大田区)=書き込み67/68
●末社御嶽神社(品川区 品川神社)=書き込み31/32
●御嶽神社(渋谷区)=書き込み63/64
●境内社御嶽社(渋谷区 金王八幡宮)=書き込み49/50
●馬橋稲荷神社(杉並区)=書き込み20/21
●末社御嶽神社(杉並区 下高井戸八幡神社)=書き込み29/30
●末社御嶽神社(杉並区 須賀神社)=書き込み1/2
●末社御嶽神社(杉並区 荻窪八幡神社)=書き込み33/34
●末社御嶽・榛名神社(杉並区 大宮八幡宮) =書き込み12
●烏山神社(世田谷区)=書き込み44/45
●末社御嶽神社(練馬区 諏訪神社)=書き込み35/36
●武蔵御嶽神社=書き込み65/66
東京都東村山市
●末社御嶽神社(熊野神杜)=書き込み46
東京都三鷹市
●久我山御嶽神社=書き込み42/44

長野県
●御嶽神社奥社(御嶽山 剣ヶ峰)=書き込み58/60
●御嶽山=書き込み58/60

山梨県
●小御岳神社(富士山5合目)=書き込み22/24/27

和歌山県
●葛城蔵王権現社=書き込み70

↓MAP
http://www.google.co.jp/maps/ms?ie=UTF8&hl=ja&msa=0&msid=113844027188609943916.000001129e551757c1c8e&ll=35.697949,139.631589&spn=0.011937,0.010192&z=16&iwloc=addr&om=1

コメント(77)

●久我山御嶽神社 境内
東京都三鷹市牟礼1

神田川を辿っていたら久我山の三叉路で小さな神社に遭遇した(写真左)。
片方の道は昔は甲州街道から府中方面へ抜ける裏道だった人見街道。
現在は井の頭通りの京王井の頭線浜田山駅入口の分岐点から
京王井の頭線久我山駅東側の踏切を渡って府中市若松町に至っている。
ブロック塀で囲われた境内の半分が社殿になっている。
社殿と手水舎の屋根の銅葺きが塀から覗いていて、
樹木のは少ないのが寂しいが、コンパクトにまとまった杜だ。
社殿は日吉造なのだが、
拝向の庇だけが流造のように屋根が延長された珍しいもの。
大きくはない屋根には不釣り合いな
熨斗(屋根の棟の線を強調する装飾)が付いているのが
権現ぽい雰囲気を出しているが、鳥居はよく見ると靖国鳥居だ。
(写真中)
神社名の表示がどこにも無いので、何を祀った神社なのかわからない。
境内に入ってみると社殿両側にイタチのような狛犬が置かれていた。
(写真右)
イタチなら稲荷社の可能性があるが、稲荷社の雰囲気はまったく無い。
山犬なのだろうか?
しかし、イタチかテンのようにしか見えない。
帰宅して地図で調べてみたところ御嶽神社であることがわかった。
ということは山犬かオオカミということになる。
●久我山御嶽神社 水脈環境
東京都三鷹市牟礼1

御嶽神社の北東100m地点に牟礼橋があって、
下には玉川兄弟が江戸の水源を確保するために
に私財で造成したという玉川上水が流れている。
しかし、私財で川を作るとは凄いな。
このあたりの玉川上水は幅が5mほどしかないので、
牟礼橋も短いコンクリートの橋なのだが、
橋脚はアーチ形で煉瓦タイルを張ったお洒落なものだった。
(写真左)
橋上から上流を覗くが、両側の木のはが鬱蒼としていて、
水面は見られない。
底は深く暗い、川と言うよりも渓谷だ。
反対側を覗き込むとこちらは木が少なく川底が見える。
川底まで6、7mだろうか。
水深は浅いらしく、大きな鯉がウヨウヨいるのだが、
みんな背中が水面から出ている(写真中)。
ここなら簡単に手づかみできそうだ。
ぼくが橋の上から顔を出したらみんな一斉に騒ぎだした。
上水の両側は遊歩道があって、上流の長兵衛橋まで歩いてみたが、
水面の見られるような樹木の途切れは無く、
すごい森になっていて、
遊歩道の外側はすべて住宅街であるにもかかわらず暗い田舎道だ。
その間、脇に抜ける道も無かった。
御嶽神社は玉川上水に平行に走る車道、人見街道に面した
ちょうどふたつの橋の中間あたりに位置している。
長兵衛橋の袂には片側に稲荷社、片側に不明の小祠が祀ってあった。
不明の小祠は基壇が丸石を組み合わせてあることや全体の雰囲気が
御嶽神社のように思えた。
長兵衛橋の造りはコンクリートを白樺の幹風に処理した
よく公園にあるタイプのもので、雰囲気無し。
車の通行量も多い。
●烏山神社 境内
東京都世田谷区南烏山2-21-1

先週土曜日に芦花恒春公園に行くついでに芦花恒春公園のすぐ北にある
烏山神社にバイクで向かった。
烏山神社前に愛車を停めたところ、
自転車で通りかかった警察官が“尋問”を始めた。
烏山神社を探してまごついてたのが挙動不審に映ったのだろう。
『どこに行くのかね』
聞いてきた。
(ここに停まってヘルメットを脱いでるのに
『どこに行くのかね』はないだろうと)
ぼくはムッとしながら目の前の烏山神社を指差した。
警察官が『お寺?』と言うので、
ぼくは『これはお寺じゃなくて神社でしょ』と
切り返したタイミングで、あとは無視して鳥居をくぐってしまった。

境内に入った場所は正面ではなく横の入口だった。
すぐ右手に拝殿があるので、左手を見ると
ほとんど空き地のようなスペースの中途半端な位置に
朱の鳥居を3基重ねたちゃんとした(?)稲荷社があった。
参道を正面の入口に向かうと入口近くに由緒書きが掲示してあった。

・主祭神=シラヤマヒメノオオカミ
・御獄大神(ミタケオオカミ)
・合祀祭神=天照皇大神/菅原道真公
      /倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)

社名の変遷は以下のようになっている。

白山権現社(烏山近隣の鎮守)

御獄神社(烏山村鎮守)を合祀=白山御嵩御獄神社

町内の神明社、稲荷社、天神社を合祀=烏山神社

正面入口脇には庚申塔を祀った堂が2棟と番神堂撤去記念碑、
それに堂無しの庚申塔が1基置かれた一画があった。
参道から表露地に出てみると、鳥居の額が外れていて、
まだ新しい石製額が鳥居脇、神社入口の展示台に乗せてあった。
(写真左)
額周囲の昇龍、降龍のレリーフは
下高井戸八幡神社の鳥居額とまったく同じものだ。
鳥居前の東40mあたりにあるはずの烏山川暗渠方向から
烏山神社の杜(写真中)を眺めると、境内前は三叉路になっていた。
改めて鳥居をくぐって参道を進み、拝殿の左脇を覗くと、
末社の祠がある。
表示は無いが、菅原道真公を祀った社だと思われる。
拝殿は権現造で屋根には破風、熨斗部分に
金色の三つ巴を雲が囲む意匠で統一された鬼瓦が多用されていた。
金色の三つ巴の神紋は屋根の棟にも着けられていた。
●烏山神社 水脈環境
東京都世田谷区南烏山2-21-1

いったん分流した烏山川暗渠は
烏山神社からもっとも近い部分で水路がT字に
ふたたび合流しているのだが、
地表は団地とマンションの狭間の幅3mほどの空き地になって
(写真左)南東に続いている。
その空き地を辿ると、どんどん雑草が深くなるだけで状況は変わらず、
世田谷文学館に到達したところで、幅の広い歩道に変わった(写真中)。
この歩道は車道より広く、
向側の歩道に面して和風の大邸宅と世田谷文学館があるのだが、
そのふたつの建物の間から大邸宅の門前まで水路があって、
50匹以上いそうな巨大な鯉が回遊している。
その中でも最大の鯉は50cmはありそうで、
これまで見た鯉で最大だった。
鯉の体色は緋鯉から金色までほとんどのバリエーションがいるのだが、
その中に人面をした金色の鯉がいた(写真右)。
こいつ、顔も魚らしくないのだが、
鰓びれの使い方も他の鯉とあきらかに違うのだ。
●末社御嶽神社(熊野神杜) 
東京都東村山市久米川町5-13

府中街道から路地に入ったところに開けた熊野神社があった。
境内の60%は空き地で、キャッチボールをしている親子がいた。
南向き入口には石製靖国鳥居(写真左)。
拝殿には見たことのない、完全に棒状の注連縄が軒に下がっていた。
拝殿の西側には

・稲荷社
・神明宮
・御嶽神社(写真中)
・伊勢神宮

の末社が並ぶが、神明宮と御嶽神社が拝殿の方を向いているのに、
伊勢神宮の末社だけが拝殿んと並んで無並を向いている。
末社と平行して、用水の一部が残されたと思われる池があった。
(写真右)
池には落ち葉が沈澱して沼と化していた。
境内の北西200mあたりには北川が流れている。
●末社御嶽神社(天神社) 
埼玉県所沢市坂之下64

柳瀬川に沿う道路を下ると、英インターにぶつかる手前で
道路は直角に折れて、浦和所沢バイパス(463号線)に繋がった。
その坂の下交差点にはもう一本マイナーな道路が交差していて、
その道路と浦和所沢バイパスに挟まれた三角形の敷地に
天神社があった。
マイナーな道路を入ってゆくと、途中で用水路とぶつかり、
用水路は天神社境内に沿った道路脇を流れていた。
この日、陽射しは強烈だった。
鳥居が道路から見えたので、その鳥居前にバイクを止めて
境内に入ると、日吉造拝殿の横に出た。
拝殿の左脇には3つの小祠の収められた横長の連棟社があった。
(写真左)
右から

・熊野神社(石祠)
・氷川神社(木祠)
・御獄神社(木祠)

参道を逆に辿って石製の明神鳥居をくぐって表から杜を眺めてみると、
全体に樹木が若く、痩せている(写真中)。
強い陽射しを遮るほどの力強さは感じられなかった。
境内脇を流れる用水路の水量は少なくない(写真右)。
用水路の向い側は山崎製パンの工場だった。
●末社御嶽神社(宿ノ天神社)
埼玉県志木市中宗岡1-4-36

埼玉県、東京都を流れる新河岸川と柳瀬川の集合点から
300mほど北に天神社がある。
柳瀬川に架かる栄橋と柳瀬川いろは橋を渡ると、
表通り車道に面して小さな門柱が立っていた。
門柱の立っている参道は一般道になっている。
バイクで参道をはいってゆくと、
広場の真ん中にポツンと石製の明神鳥居が立っていた(写真左)。
広場の片隅に愛車を停めた。
鳥居脇の由緒には祭神

・菅原道真公
・天照大神
・八幡大神

とある。
森の無い神社なので、陽射しがきつい。
拝殿は丸石を積んだ石垣の上にあり、
石段脇には狛犬と太い銀杏の樹が1本。
長くはない石段を上がると、拝殿の前にあるのは石灯籠だった。
拝殿の左脇に石灯籠や不明の石祠とともに御嶽神社の祠があった。
(写真中)
反対側の右脇には稲荷社と大きな社殿の八坂神社があった。
社殿の配置や石垣がなかなか好いのに、
樹木が少ないのがもったいない。
新河岸川を見るためにいろは橋のたもとに出ると、
橋の欄干が立派で、
魚、舟運、船問屋の風景がレリーフとして飾られていた。
江戸期、川越藩主松平信綱は
計画的に新河岸川に多くの屈曲を持たせて流量を安定化させ、
江戸と川越を結ぶ舟運のインフラを整備させた。
客を乗せる喫水が浅い高瀬舟を使用した『川越夜船』は、
川越〜江戸を4日、5日で往復したという。

いろは橋から上流を眺めると
中洲に20羽くらいの鴨が習合している中洲があった(写真右)。
●境内社御嶽社(金王八幡宮)境内
渋谷区渋谷3-5-12

金王八幡宮は渋谷警察の裏手にある。
この近所には6年も住んでいたが、
金王八幡宮は覗いたことがなかった。
初めて境内に入ったのは
このあたりに庚申塔があるという情報をネットで知ったからだった。
だが、当時のぼくには金王八幡宮には
とくに興味を引かれるものは無かった。

その後、この近所にある
白根記念渋谷区郷土博物館・文学館に初めて行ったとき、
たまたま、渋谷金王丸という
源義朝・頼朝に仕えた武将に関する展覧会が行われており、
金王八幡宮の『金王』が渋谷金王丸の『金王』であることを知った。
金王八幡宮は寛治6年(1092)に渋谷家の祖、河崎基家によって、
渋谷城内に創建され、その子重家の時、渋谷の姓を賜り、
これが渋谷の地名の起こりと言われている。
つまり現在の金王八幡宮境内は渋谷城の一隅だったというのだ。
先週末、ふたたび金王八幡宮を覗いたところ、
目立たない場所に金王丸御影堂を見つけた。
現在の社殿は徳川家光が三代将軍に決定したとき、
守り役の青山忠俊が家光の乳母、春日局とともに慶長17年(1612)に
造営を開始したものというので、
徳川家とは無縁な金王丸御影堂は目立たない場所に置かれたのだろう。
ただ、粗末にされているわけではない。

拝殿へ向かって左手に奥から境内社の玉造稲荷社と御嶽社(写真左)が
参道に向かって並んでいる。
境内社はこの2社のみだ。
御嶽社社殿はこれまで見て来た御嶽社の中でも最大のものだった。
左右に狛犬を従え、2段の石段を供え、低い柵の中に
石垣風に処理された基壇があり、
その上に銅葺き屋根の旧い木造社が乗っている。
柵の右には2本の楠が伸びている。

境内には脇の入り口から入ったので、
御嶽社前の門をくぐり、石製明神鳥居を抜け、短い石段を降りて、
外から杜を眺めてみた。
杜の中央は森ではなく、
ガラス窓の多いモダンな白い高層ビルが透けて見えており、
暗い杜が映えて見える(写真中)。

石段と石製の大きな一ノ鳥居(写真右)との間は一般車動になっている。
●境内社御嶽社(金王八幡宮)水脈環境
渋谷区渋谷3-5-12

金王八幡宮境内から200mほど南西に渋谷川が流れている。
渋谷川は宮益橋の宮益橋(穏田川・宇田川合流点)から
明治通に沿いのビル街の裏を流れ、天現寺橋まで流れる二級河川。
そこから先は『古川』と言う名前に変わる。
金王八幡宮境内南西にある脇入り口前の路地を
まっすぐ南東に向かうと、渋谷川に架かる八幡橋に出る。
八幡橋から上流(渋谷駅)を見ると、水はほとんど無くて、
川床が完全に出ていた(写真左)。
下流(恵比寿方面)も同様だった(写真右)。
500mほど下流の氷川橋前後には水量は多くはないものの、
川床は水で埋まっていたから、
この500mの間のどこかに水源があるようだ。
●末社御嶽神社(市ノ坪神社)境内
神奈川県川崎市中原区市ノ坪54

409号線が東急東横線武蔵小杉駅南のガード下をくぐる、すぐ南に
市ノ坪神社はあった。
駅から2、3分の商店街と東横線の高架に挟まれた複雑な路地の
マンション街の中に境内はあった。
雑多な住宅街の中で、市ノ坪神社境内だけが空間が開いていた。
バイクを止めたのは境内の脇の入口前だった。
広くはない境内に似つかわしくない、風格のある社殿が
東側を南北に通っている東横線高架に向かって、立っていた(写真左)。
社殿は銅葺き屋根を持った、素木格子の塀に囲まれていた。
社殿は高くはないが豊富な樹木に包まれて、美しい。
その風格から、
アマテラスに関係のある神社である可能性が高いことは感じたが、
境内には何も表示されていなかった。
東横線の高架に背中をもたれて、撮影した杜の写真が(写真中)だ。

参道の右手に赤い鳥居が立っていたので、稲荷社かと思ったが、
御嶽神社だった(写真右)。
御嶽神社は南を向いていた。
●末社御嶽神社(市ノ坪神社)水脈環境
神奈川県川崎市中原区市ノ坪54

東横線の高架に沿って150mほど南下すると
北西から南西に流れる二ケ領用水が東横線のガード下を抜けている。
このあたりの二ケ領用水は深さが2.5mほどしかなく、
川床には両側に50cmほどの幅の棚が護岸の石と同じ石で組まれ、
連なっている。
水量はあるものの、多くはない。
●御嶽神社 境内
神奈川県川崎市幸区塚越1丁目

多摩川の上河原堰と宿河原堰の2カ所から
南武線鹿島田駅前東100mあたりまで二ケ領用水は続く。
水はその300mほど北にある平間浄水場
から川崎市内に配水されているようだ。
鹿島田駅前から2km東に南北に流れる多摩川に水門があるから、
かつては、二ケ領用水はそこまで、水路があったのかもしれない。

鹿島田駅の南120m辺りには職住近接をコンセプトに開発された
「パークシティ新川崎」という高層住宅群があり、
そのビルの中央谷間に水路が設けられている。
ここは日立製作所跡地であり、水路の一部には旧い石組が一部残されている。
国分寺中央公園の元地であった日立製作所敷地でも湧き水があり、
野川の源流となっているから、
“水”は日立製作所が工場地を立地する場合の条件だったのか、
あるいは単に日立製作所に立派な庭園が設けられるような
“水”のある敷地を手に入れる力があったのか。

パークシティ新川崎の水路から二ケ領用水までは400mほどで、
間には緑地があるから、暗渠でつながっている可能性がある。
パークシティ新川崎の水路の南端から御嶽神社(写真左)境内までは
450mほどで、
御嶽神社鳥居の遠景にその高層ビルが望める(写真中)。

多くの御嶽神社の社はその性格上、
高台や塚の上に設けられていることが多いが、
ここの社殿も奇麗に整地された塚の上に建っている(写真右)。
この塚を築く際に、
ここの地名「塚越」の由来となっている円墳の土が使用されたという。
その円墳は御嶽神社の境内に沿った、
曲がりくねった路地の先100mあたりにあったが、
見に行ってみたら、住宅に囲まれた中にあり、私有地だということで、
登ってみるわけにはいかなかった。
円墳の裾は廃物が置かれたりしていたが、
御嶽神社創建のための採土の際に刀剣が出土したという。
●御嶽神社 水脈環境
神奈川県川崎市幸区塚越1丁目

「パークシティ新川崎」内の現在の「ひょうたん池(写真左)」は
人工的な施設で、大きな円弧の中央に噴水装置があるが、
5月の半ばには水はまったく出ていなかった。
ひょうたん池周囲には旧い石垣が残っており、
石垣の上の土手も整地されてなく、樹木の根が張っているから、
もともと、池があったものと思われる。
ひょうたん池から北20mほどまでが暗渠になっていて、
そこから水路が始まり、旧い石垣はその先で途切れて、
新しいコンクリートで整地されたお洒落な遊歩道になっている(写真中)。
ひょうたん池から水路北にある未来的なデザインの噴水までは
270mほどあり、
その間、水路にはモダンな太鼓橋が架かっていたり、
丸石で造成されたなだらかな土手があったり、
大きなひらがな文字がデザインされた敷石、
門を思わせる大きな石のオブジェが、配置されていて、
親水公園としての役割りがあるようだ。
ただし、水路は下流あたりが少し湿っているくらいで、
水は流れていなかった。
前日降った雨の名残なのかもしれない。
そんな水路が高層ビルの谷間を縫っていた。
パークシティ新川崎は分譲が始まってすでに20年経っているが、
それにしては水路に青藻や雑草の痕跡がまったく残っていないから、
コンセプトだけで、水流は実際には利用されてきていないのかもしれない。
●御嶽神社 境内
神奈川県川崎市高津区野川

6月の初旬、中原街道(45号線)をバイクで南下。
野川の一部の区間で中原街道に沿って、用水が流れており、
右手に森になった丘陵が立ち上がっていた。
中原街道から用水路に架かる短い橋を渡って、その丘陵に向かうと、
麓に続く短い路地の両側には中小企業の工場らしきものがある。
そこを抜けると、正面に大きくはない石造りの明神鳥居があり、
その手前左右には頂上が屋根型の石柱が建っていた(写真左)。
鳥居の前に愛車を停めて、鳥居をくぐると、
正面に、幅が狭くて急な石段が立ち上がっていた。
30段ほどある各段は奥行きが浅いが、
石段にはステンレスの手すりが付いていて、
なんとか、不安無く、登ることができた。
石段を登りきると、すぐ正面に1段高くして、
シンプルでモダンな社殿が建っていた(写真中)。
横幅よりも縱寸法の方が大きな建物だが、これが通常の屋根の高さであれば、
とたんにチープな雰囲気になることは目に見えている。
建坪は小さくとも、屋根を高くすることで、「聖なる」雰囲気が出るものなんだなと、
設計者に拍手。
赤い屋根には熨斗が付いており、山岳系の信仰に関係のある社殿であることがわかる。
社殿の周囲は何も無い空き地になっており、そこはドクダミで埋まっており、
白い花が咲きほこっていた(写真右)。
●御嶽神社 水脈環境
神奈川県川崎市高津区野川

御嶽神社の麓には中原街道(45号線)に沿って、用水が流れている。
幅は上部で4mほどだが、深さは3m以上あり、鉄砲水に対応させているようだ。
水量は多くはないが流れており、上流(写真左)は東有馬の方に向かっている。
下流を眺めると、橋はかなり傾斜しており(写真右)、
左手の丘陵の麓にこの用水路があることがわかる。
この用水は1.2kmほど下流で、矢上川に流れ込んでいる。

はじめまして(^^)
実は先祖が、御嶽教の神社を名古屋の千種区でしていました。
今は空家で小さな建物と鳥居があります。
最近まで興味がなかったのですが、父親が一度だけ御嶽山に付き合ってくれと言うので、2004年に初めて行きました。
翌年の2005年に、初の山頂に登りました。
2006年は行けなくて、それ以後毎年山頂に行ってます。
今年は、下山の時、ガスが多くて下山道を間違えて、写真の池に遭遇しました。
池にいる間は太陽が輝いていました。
その池を離れる時、ガスが池を隠しましたぴかぴか(新しい)
とても神秘的な出来事を体験しました。
2004年から御嶽山の波動が大好きになってしまっています。
来年も楽しみです。


>sa 23 raさん

真ん中の写真の場所は不思議な場所ですね。
白いのは雪ですか?

>一度だけ御嶽山に付き合ってくれ

子供に伝えるものを知ってる親と出会えたのは幸運ですね。

>とても神秘的な出来事を体験しました。

そういうことって、起きることがありますね。

左右の写真は奥社ですか?
メインの仏像は十一面観音?
AYUさん

二の池っていいます。
今思うと、不思議でとても神秘的でたまらない場所でした。
白いのは雪です。
登山したのは8月の盆でした。

右の写真は、剣ヶ峰の御嶽神社奥社です。
空の中にいるような場所です。

左は、何か分かりません 9合目から
剣ヶ峰御嶽神社奥社に向かう場所にポツンとあったのが
とても気持ちを昇華させていただきました。

違う写真をもう一度アップさせていただきますね。
書き込み58/60の基本情報を追加しておきます。

●御嶽神社奥社(御嶽山 剣ヶ峰)
●御嶽山
長野県木曽郡王滝村3315


>sa 23 raさん

幻想的な感じが写真から伝わってきます。
写真、見事ですね〜♪
もともと白山が気になっていたんですが、今は御岳から位山、そして白山への流れが気になっています。
剣ヶ峰の御岳神社奥社へはいつか行ってみたいと思っていたので、ワクワクしながら拝見しておりました!

身近にある岐阜の金華山山頂には何度も行ってるのに、最近そこにも御岳神社があることを知りました。
まずはそこに行って感じてみようと思ってます...
●御嶽神社 境内
東京都渋谷区笹塚2-19

事務所の近所の地図を見ていたら、
近所に小さな神社がいくつかあることに気づき、回ってみることにした。
国道20号線の北側は杉並区の和泉給水所から新宿西口の淀橋浄水場をまっすぐ結んだ、
玉川上水新水路と、
はるか多摩川上流の羽村取水堰から新宿区四谷まで蛇行しながら流れる
玉川上水道に挟まれた場所にある。
玉川上水新水路は現在は埋め立てられて、水道道路(431号線)と呼ばれており、
この辺りでは、玉川上水道も水路が露出しているのは一部で、
その多くが暗渠となり、緑道や公園になっている。

6月の末、どん曇り。
バイクで、隣駅の笹塚にある御嶽神社に向かうが、
国道20号線は中央分離帯があるため、先に玉川上水道をチェックして、
20号線をUターンして戻る形になった。
路地に入ると、すぐ左手に石造りの靖国鳥居が路地に面してあった(写真左)。
境内はマンションの狭間にあり、鳥居の正面に社が見える。
鳥居額の「御嶽神社」の文字と賽銭箱の三つ巴の神紋は鮮やかな朱色で、
神紋からすると、「みたけじんじゃ」であるようだ。
鳥居をくぐると、境内には砂利が敷きつめてあり、
社までコンクリートの敷石が並べてある。
トタン屋根の社がコンクリート造りの基壇の上に立っており、
周囲にさほど育っていない木が植えられていた。
●御嶽神社 水脈環境
東京都渋谷区笹塚2-19

玉川上水道は20号線と京王線笹塚駅を挟んだ反対側で
笹塚駅にぶつかる形Uターンしており、そこまで、御嶽神社から150mほど。
笹塚駅前だけは暗渠になり、緑道と生け垣になっている(写真左)。
京王線に平行してU字の玉川上水道を横切っている車道の南側は、
深さ3mほどの水路が露出しているが、水量はほとんど無く、
水路内は伸びた草で埋まっている(写真中)。
6月の末ということで、その土手には立葵がピンクの花を開いていた。
●武蔵御嶽神社 境内
東京都渋谷区幡ヶ谷2-14

6月の末、20号線から路地を北に入ると、マンションと駐車場に挟まれ、
路地に面して、コンクリート柵の塀に、まだ新しいアルミサッシの扉のついた境内があった。
(写真左)
扉には鍵がかかっていなかったので、勝手に開けて、
入り口に立っている石造りの靖国鳥居をくぐると、
コンクリートの敷石がまっすぐ、祠に向かって伸びていた。
境内の地面は湿っており、この地域はもともと湧き水の多い場所だったから、
今でも水はけの悪い場所であることがわかる。
祠の祀られた基壇、その前左右にある石灯籠の屋根、その外側に立っている樹木の幹にも
苔がむして緑色になっている(写真中)。
このあたり一帯が
境内の南側は駐車場で、特に日当りが悪いわけではないので、
よほど、水はけの良くない場所のようだ。
南側のブロック塀の陽の当たらない部分には止血作用のあることで知られる、
ノチドメの小さな葉が繁殖して覆っていた(写真右)。
●武蔵御嶽神社 水脈環境
東京都渋谷区幡ヶ谷2-14

江戸時代には市民の飲料水として使用された玉川用水は
現在は杉並区高井戸の浅間橋から下流は通水されていないようで、
神田川に放水されている。
武蔵御嶽神社の200m南の幡ヶ谷あたり(写真左+上流/写真中=下流)から
新宿駅南口まで併走する部分はほとんどが暗渠化されて、
遊歩道や公園になっているが、
それも明治神宮西参道口で消滅している。
暗渠化されて、幡ヶ谷駅前から西原に向かう
幡ヶ谷駅前商店街の下をくぐっているのが、二字橋だが、
その脇に暗渠のメンテナンスのための出入り口らしき施設がある(写真右)。
橋の傍らには江戸時代には余水が灌漑用水にも利用され、
流水は水車の動力に利用されたという案内が掲げてあった。
●御嶽神社 境内
東京都大田区北嶺町37-20

6月の初旬日曜日、バイクで環八通り(311号線)に入り、御嶽神社に向かった。
ここの最寄り駅は東急池上線「御嶽山(おんたけさん)」駅。
御嶽神社前の商店街は通行止めになっていたり、1方通行になっていたりで、
素直には入れず、裏側の路地から入るために、東急池上線の踏切を迂回したりと、
面倒だった。
入り口の明神石造り鳥居の前にスーパーの駐車場があったので、
そこに愛車を停めた。

御嶽神社は駅前の住宅街にあるにもかかわらず、境内は木立で覆われ、
暗いくらいだった(写真左)。
入り口に立っている神社名の石碑は都内では例が無いほど大きなものだった。
鳥居には、これも都内では見かけないほど立派な房の下がった注連縄が掛かっていた。
見ている間にもふたりづれの参拝者が境内に入ってゆくが、
常時、境内に3人くらいの参拝者がいるような、神社だった。
山道の敷石は鳥居から拝殿にまっすぐ伸びている。
鳥居をくぐると、すぐ左手に社務所があるが改装工事中だった。
社務所の前に椅子を出して、社務所関係者らしき年配の女性と、
地元のおばちゃんらしき人が雑談をしている。
その社務所の右隣には背の高い鉄柵が巡らされた御嶽塚があり、
大きな不定形の石碑がたくさん立っている(写真中)。
御嶽講の石碑だ。
向かい合う形で、参道の反対側にも、石碑を集めた
境内の中に入ってしまうと、空は抜けており、拝殿の前両側に樹木はあるものの、
背景に樹木は見えない。
拝殿の方に進むと、江戸時代のものらしい、
美しいカーブの破風を持った切り妻屋根と傾斜した柱を持つ手水舍があった。
手水桶は明和8年(1771)と文政13年(1830)に制作された2基。
拝殿前には山犬の狛犬と雪洞(写真右)。
山犬は耳が垂れ、経巻らしきものをくわえている。
この山犬はここが山岳信仰にかかわった神社であることを意味している。
ここの賽銭箱は銅製の大きなもので、
その胴に、神紋、文字を別個に同じ銅で立体的に制作されたものが、
浮き彫りのように合わせてある、デラックス(?)なものだ。
こんな賽銭箱はほかで見た経験が無い。
拝殿の桟を見上げると「三社宮」という扁額が掛かっている。
オンタケジンジャの神紋の丸の中の3本の横棒は
この「三社宮」の「三」を意味していることがわかる神紋が金箔押しされた
別の扁額も掛かっている。
「三社宮」とは三社形式で神を祀った宮のことだろうが、
ここでは
国狭槌命(クニノサツチ)、国常立命(クニトコタチ)、豊雲野尊(トヨクニノ)の
三神が祀られている。
それぞれ、天龍、金龍、銀龍という龍神と見ることができる。
拝殿の左手並びにはここの御嶽神社を開いた一山行者を祀った一山神社社殿、
その前に参道を向いた妻入りの水行堂がある。
手水舍と同様の、美しいカーブの破風を持った切り妻屋根を持ち、
軒下に鶴、燕の浮き彫り、桟に龍と波が装飾された洒落た建物だ。
●御嶽神社 水脈環境
東京都大田区北嶺町37-20

御嶽神社境内は
平行して流れる呑川(のみかわ)と多摩川のほぼ中間点にあたる、丘の上にある。
境内からそれぞれの川までは600mほど。
境内から東急池上線を超えて、すべてが住宅の坂を下ってゆくと、
区立雪谷中学校にぶつかった。
学校を迂回して進むと、学校の脇を流れる呑川に架かった橋に出た。
川幅10mくらい。
上流の雪谷方面を望む(写真左)。
深さ8mくらいだろうか。
水量は多くはないが、川底は水面下に隠れている。
下流の久が原方面(写真中)まで、このあたりは直線だ。
橋から御嶽神社方向を望むと(写真右)、緩やかな上り坂になっているのがわかる。
●金華山御嶽神社
岐阜県岐阜市/金華山山頂

62でコメントした御嶽神社に行ってきました!

その方向は、木曾の御嶽に向かっています。
織田信長の岐阜城で有名なこの金華山も、斉藤道三のころまでは稲葉山でした。
ここから北東の鬼門となる木曾御嶽を、そのままずっとまっすぐにいった延長線上には、なんと宮城の金華山があります。
http://mixi.jp/view_album.pl?id=24474231


●水脈環境

これはやはり長良川でしょう。
そして、巨大な貯水タンクの金華山そのものだと思います。

伏流水を生み出している、鏡岩という地名も気になります...
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=36994576&comm_id=3180326
●葛城蔵王権現社
●和歌山県伊都郡かつらぎ町大字大畑824

毎年4月18日が、春季大祭です。
●境内社御嶽山神社(東大宮 八雲神社)
さいたま市見沼区東大宮1-30-3

5月の中旬、さいたま市の八雲神社を覗いた。
このあたりはかつて、砂村だった。
「砂」に素戔鳴尊(スサノオ)を祀った神社(八雲神社)とは、話ができ過ぎている。
古代にたたら製鉄が行われていた場所か?
電子地図の八雲神社表記の場所に行ってみると、そこは駐車場だった。
しかし、周囲にケヤキの巨木、瓦屋根の社殿が2棟、塚があり、
中央を道路が横切っている(写真左)。
瓦屋根の社殿は八雲神社本殿と境内社天満宮で、天満宮の後ろにそびえる塚は
御嶽山(おんたけさん)だった(写真中)。
ここの御嶽山の塚は麓が芝草で覆われた、異例のものだが、
ここから、もっとも近い川が「芝川」という名称であることと
関係がありそうだった。
日本芝は茎の長さなどで、6種類に分類されるが、日本芝であるにもかかわらず、
その多くは「◯高麗芝」とか「朝鮮芝」という名称で呼ばれる。
しかしながら、高麗芝、朝鮮芝は朝鮮半島には自生しないことから、
誰しも疑問に思うのだが、
渡来人が芝を人為的に利用したことから、
そう呼ばれるようになったのではないかと想像した。
石造物に植物(芝/樹木)を組み合わせるのは、
渡来人が持ち込んだ五行思想では「土 × 木」の組み合わせとなり、
木が土を生み出す相生(陽の関係)になる。
塚には頂上、石段脇、芝生部分にも石碑が造立されていた。
頂上に上がってみると、2基の石碑があり(写真右)、
片方は

「 八海山神社
 御嶽山神社
  三笠山神社」

片方は「阿夫利神社」とあった。
阿夫利神社も大山に祀られた神社だから、
すべて、山岳信仰と関わりのある神社ということになるが、
大山も御嶽山と同じく、江戸時代に庶民による登山が盛んになった霊山である。
三笠山とは御嶽山の長野県側に存在する寄生火山。
つまり、御嶽山も火山ということになる。
八海山は『天地人』の冒頭のタイトルバックで、
直江兼続(妻夫木聡)が立っている現実の山頂のある山だ。
http://yamazaki-3.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2009/02/16/cimg6264.jpg

御嶽山(写真右)の現在の標高は3,067mで、国内第14位だが、
マグマ噴火で山頂が崩壊する以前は、
富士山に匹敵する標高だったと見られている。
この1万年の間に4回の噴火があり、
最後のマグマ噴火は5000年ほど前のことであることがわかっている。
そして、何らかの理由があると思われるが、
現在の御嶽山より西には、御嶽山より高い山は存在しない。
●境内社御嶽山神社(東大宮 八雲神社)水脈環境
さいたま市見沼区東大宮1-30-3

携帯していた電子地図に表示される、
八雲神社からもっとも近い芝川の河原に出てみることにした。
御嶽山信仰には山岳信仰のほかに、
御嶽山の一ノ池に棲んでいたという、
白籠、黒龍、赤龍、青籠、黄龍の五柱の龍神に対する信仰もある。
沖縄の御嶽(ウタキ)信仰でも、
泉、川、森、島そのものを神籬(ひもろぎ)とする信仰があり、
島=山と見ることもできるし、ウタキは「拝み山」と呼ばれる場合もあり、
信州、琉球に共通して、山と水に関る信仰と言える。

芝川は御嶽山神社の南西500mあたりをほぼ南北に流れる1級河川で、
川口市を横切って、荒川に流れ込んでいる。
芝川はもともとあった河川ではなく、見沼が1728年に干拓されて
見沼田圃(たんぼ)になったときに、排水路として造立され、
江戸との通船路としても用いられたといい、農業用水ではなかったようだ。

八雲神社を分断し、住宅街を抜ける道路をそのまま南西に350mほど進むと、
住宅街が尽き、帯状に低地になった農地に差しかかった。
花木や野菜の製産が行われているようだ。
この帯は芝川に沿ったもので、
あきらかに芝川の河原だった場所であることがわかった。
アスファルト舗装の1直線の農道を抜けると、芝川の堤防にぶつかった(写真左)。
堤防といっても土手があるるわけではなく、川の方が掘り下げてあって、
そこから水面は見えず、一面に深い草むらになっていた。
芝川の向こう側に土呂中学校(とろちゅうがっこう)の校庭の樹木が見える。
地図を見ると、こちら側には大砂土中学校(おおさとちゅうがっこう)がある。
この地域の地名は音に漢字を当てたもののようで、通常の濁音の読みではない。
堤防には杭が打ち込まれ、ワイヤーが張られている。
堤防の草むらに分け入ってみると、
金属性の蓋の付いた水門があった(写真中)。
生活用水か過剰な降雨のための排水路だろうか。
本筋の川面を見るには土手の草むらが凄くて、
堤防の端まで分け入る気がしなかった。

ところで、芝川が造立される元になった見沼は
縄文海進期には東京湾の海水が入り込んでいたようで、
縄文時代前期の貝塚遺跡が多く見られるという。
湿地となって沼が出現するようになったのは、6000年ほど前のことで、
見沼は三沼、箕沼、御沼などとも表記されてきた。
「ミ」音はもちろん、蛇(巳)のことで、水(ミ)を示唆するが、
漢字の「箕(ミ=みの)」は美濃に転訛され、美濃加茂市が存在するように、
賀茂氏のトーテム。
賀茂氏の代表的な人物、役小角には「箕(みの)」の関る伝承が複数、存在する。
いわく、「箕掛け岩」「箕面(みのお)」「箕宿(みぼし/きしゅく)」。

芝=柴

桃太郎(吉備津彦=越人)を育てたおじいさんが柴刈りに山に入っていたように、
「山で柴刈り」は「山の民=鬼 退治」に通じることから、
「柴/芝」は
山の民=海人族=秦人(大山祇命を祀った民族)のトーテムということになり、
「箕」をトーテムとする民族と「芝」を墳墓に張る秦人は系族ということになる。
そして、
御嶽山神社にあった石碑「阿夫利神社」の祭神が
秦人の氏神大山祇命であることと整合する。
箕沼(見沼)から芝川が引かれ、
その周辺に阿夫利神社石碑が祀られていることには関係があるわけだ。
さらに、見沼を貯水池として開拓した関東郡代伊那忠次(いなただつぐ)は
信濃国伊奈郡(現飯田市)を出自とする、菅原道真後裔伊奈氏であり、
伊奈郡は御岳山の南東50kmに位置した。
伊那忠次は治水・土木工事に秀で、
見沼に信州から織工を招き、それまで無地だった結城紬の染色法や
柳條(しま=模様)の織法を定着させている。
土木工事と織物が秦氏のトーテムであることは言うまでもない。

土呂中学校前の橋から芝川を見下ろすと、水はほとんど流れてなく、
川の形をした沼といった感じで(写真右)、芝川自体が龍神のようだった。
●福島 御嶽神社
愛知県名古屋市中川区福島2

中型スクーターで国道1号線から南の農道に入り、
南300mの水田地帯にある御嶽神社(おんたけじんじゃ)に向かった。
農道を進むと、白い幟が何本も立っている一画があり、
その隣に駐車場があった。
道路を挟んだ向かい側に広い墓地があるので、
駐車場はそのためのものだったかもしれない。
暮れの墓参にきたらしい家族の乗ったファミリーカーが1台
駐車場から出て行った。
その車と入れ替わるように駐車場に入った。

南向きの入り口に回ると、境内は大きな自然石を組んだ石垣の上に在った(写真左)。
「御嶽大神」と「池上大龍王」の2種類の幟が複数立っている。
入り口の外側に地蔵菩薩が祀られていた。
神仏分離のため、境内に入れてもらえないようだ。
短い石段の上に石造の明神鳥居があったが、
新年用なのか、新しいゴボウ締めの注連縄が掛かっていた。
石鳥居のすぐ奥には笠木と藁座(わらざ)が銅で、
他は素木という類型の無い鳥居が立っていた(写真中)。
その鳥居にも同じゴボウ締めの注連縄が掛かっている。
境内に上がると、参道は広くはないし、コンクリート製の敷板だが、
玉砂利の縁取りがされたお洒落なものだった。
その参道に沿って右手に池があり、
この神社の間口の半分を占めていることがわかった。
鳥居の真正面にある拝殿は瓦屋根だが、
正面は全面がアルミサッシで、棟入りの建物になっている。
池の奥に銅板葺き屋根の祠があるので、
拝殿と池の隙間を抜けて奥に進むと、
拝殿の真後ろに「御嶽大神」の石碑(写真右)。
左右に銅板葺きの祠が祀られている。
祠の祭神は不明だ。
石碑の正面には参道の途中にあったものと同じ奇妙な鳥居。
この部分の玉垣の奉納者は「加藤」姓が多く、
かつてこの地域が藤原氏と関係のある荘園であったことと関係がありそうだ。
●福島 御嶽神社 水脈環境
愛知県名古屋市中川区福島2

御嶽神社の境内の池(写真左)は池上大龍王のための池なのだろうが、深く、
この神社の間口の半分を占めている。
境内全体の1/3ほどを占めている。
かつては周囲の水田の貯水池を兼ねたものだったのだろうか。
池の中の水は不透明で底は見えないが、水位は低く、
水を満たせば3m以上の深さの池になるはずだが、
危険回避のために水面を抑えているようだ。
数は多くないが、緋鯉が泳いでいる。
石垣は愛知県に多い丸石を組んだものだが、
使用した丸石が大きく、立派なもので、
上部は境内外側と同じ自然石の石垣の二重になっている。
境内の東側50mあたり南北には福田川が流れている(写真中/右)。
福田川は愛知県北部から愛知県西部へ流れ、伊勢湾に注ぐ日光川の支流のひとつで、
流域のほとんどが海抜0メートル地帯となっているようだ。
福田川の堤防の上に出てみると、川幅はこのあたりでは30mほどで、
水量は豊富だが流れはほとんど無く、日光川には800mほど下流で合流している。
ゆえあって茨城県の神社をまわっているのですが、東茨城郡大洗町の大洗磯前神社境内で御嶽神社をお見かけしたのでご報告しておきます。
時間が無くて禰宜さんに詳細を聞いたりすることはできませんでした。
鳥居に「日の出講」とあるので、このあたりからも講を作って御嶽山に参拝していた方がおられたのだろうと思います…というか、今でも活動されているのでしょう。
茨城県で御嶽神社というのは珍しいと思います。
総社として祭っておられるところ以外でちゃんとしたお社や鳥居があるところは、今のところここだけしか見たことがありません。
>くにさん

ご紹介ありがとうございます。
場所からすると、ミタケジンジャなんでしょうね。

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