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水流と水神コミュの宗像三女神(海神/水神/龍神)

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『宗像(むなかた)』の語源は
三女神が宗像に天降った時、青い玉を奥つ宮に、紫の玉を中つ宮に、
八尺只(やた)の鏡を辺つ宮に納め、
三女神のご神体として祀ったことから身形(みなかた)とする説がある。

宗像三女神(むなかたさんじょじん)は
古事記では以下の三女神を指す。

・多紀理比賣命(タギリヒメノミコト)=奥津島比売命(おきつしまひめ)
・市寸島比賣命(イチキシマヒメノミコト)=狭依毘売(さよりびめ)
・田寸津比賣命(タギツヒメノミコト)

多紀理比賣命と市寸島比賣命には別名が多い。

『宗像』は紀記では
 胸形
 胸肩
 宗形
の表記もある。

宗像三女神(ムナカタサンジョシン)別名=
 比売大神 (ヒメノオオカミ)
 江島大明神
 江島大神
 宗像三姉妹

『古事記』では胸形氏ら海人集団の祀る神としており、
『紀記』ではアマテラスとスサノオの誓約(ウケヒ)において
アマテラスがスサノオの十拳剣をもらい受け、
三つに折って、天の真名井の水に振りすすぎ、これを噛みにかんで、
吹き棄てた息吹の霧の中から生まれた神。
海の神、航海の神として信仰されている。

江島神社社伝によると欽明天皇13年(552)に
天皇の勅命で島の岩屋(洞窟)に祀られた神。

●宗像三女神を祀った代表的な神社
宗像大社(福岡県宗像市田島2331)
http://www.munakata-taisha.or.jp/
厳島神社(広島県廿日市市宮島町1−1)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%B3%E5%B3%B6%E7%A5%9E%E7%A4%BE
江島神社(神奈川県藤沢市江の島2-3-6)
http://www.enoshimajinja.or.jp/

《目次》
愛知県
●厳島社(猿投神社)=書き込み27
●名城 宗像神社(名古屋市)=書き込み24
●八草 胸形神社=書き込み28/29
●入海神社相殿弁天神社(知多郡)=書き込み25/26
●境内社宗方社(冨士浅間神社)=書き込み23
埼玉県
●摂社宗像神社(武蔵一宮氷川神社)=書き込み20/21
神奈川県 
●江の島弁財天道標(江島神社)=書き込み5
●奥津宮(神江島神社)=書き込み6
●久地弁天堂=書き込み14/15/19/20
東京都
●嚴島大神(西向天神社)=書き込み9
●江島大明神(柳森神社 末社江島神社)=書き込み2/3
●宗像三姉妹(江島杉山神社)=書き込み17/18
奈良県
●摂社宗像神社(宇太水分神社摂社)=書き込み22
広島県
●市杵島姫命・田心姫命・湍津姫命(宮島町 厳島神社)=書き込み30/31
福岡県
●宗像大社=書き込み10〜12

↓MAP
http://www.google.co.jp/maps/ms?ie=UTF8&hl=ja&t=k&om=1&msa=0&ll=35.697382,139.773771&spn=0.001523,0.001532&z=19&msid=113844027188609943916.000001129fc202b73d189

コメント(31)

●江島大明神(柳森神社 末社江島神社) 境内
東京都千代田区神田須田町2-25-1

柳森神社の末社の中でもっとも大きな社である金比羅神社の
右隣に江島大明神と厳島大明神を合祀した祠がある(写真左)。
合祀といっても江島大明神とは宗像三女神のことで、
厳島大明神は宗像三女神の中の1柱、市寸島比賣命だから、
市寸島比賣命だけ、ダブって祀られていることになる。

祠の前には小さいながらもちゃんと池があり、
小さな石橋が架かっている(写真中)。
池の水は流れていないので水面が多く、濁っているが、
境内のお世話をしている老婆(宮司さんの母?)によると
鯉を放流してもすぐ猫に取られるという。
蛙も多いそうで、池の中をよく見るとおたまじゃくしがいた。
今年はおたまじゃくしが少ないということだったが、
神田川の水面と近い環境であることが影響しているのだろう。
5月半ばということで、池の脇の水盤のカキツバタが花を開いていた。
祠の前両側には石造の龍神像が置かれていた(写真右)。
祠の背後のワイヤーの塀のすぐ向うに
神田川のコンクリートの堤防が見えていた。
●江島大明神(柳森神社 末社江島神社) 水脈環境
東京都千代田区神田須田町2-25-1

柳森神社境内を出て、すぐ脇の神田川を渡る山の手線に平行して
川を渡る歩道橋に回ってみた(写真左)。
鉄の欄干は水色でペイントされ、明治期風の街灯の周囲には
古書から複写された図版が飾られていた。
山手線の鉄橋も水色ベースで、
あまり意味のないパターンで装飾されている。
歩道橋と柳森神社との間だけが旧い切妻屋根の建物で、
周囲はすべて鉄筋の箱になっている。
歩道橋からは柳森神社末社群の裏側が見える(写真左)。
神田川上流は山手線の鉄橋に阻まれて見えないが、
下流はかなりの川幅があり暗い水面の水量も少なくない。
遠方に国道4号線の通る和泉橋とその上を走る首都高速道路が見える。
川には船や鳥などはまったく見えなかった。
江ノ島神社
神奈川県藤沢市江の島2丁目3番8号


9月9日 岩山の一番奥にある「奥津宮」の
龍宮(わだつみのみや)での例大祭に参列。
派手さがない 奥津宮は 三人姉妹の一番上の姉神で
多紀理比賣命を祀る。

 

道中 電車がかなり遅れたにも 関わらず
11時に間に合い、ご朱印もいただけたのが 
奇跡に等しい。

>てるりんさん

書き込みに気づいてませんでした。
この石碑は見た記憶が無いですね。
>NOONさん

書き込みありがとうございます。

江ノ島駅はこんなだったんですね!
●嚴島大神(西向天神社)
東京都新宿区新宿6-21-1

歌舞伎町の北側を東西に通る、いわゆる職安通り(302号線)を
新宿方面から西に向かって急坂を登ると、
その頂点で道は二手に分かれ、その二股に抜弁天厳島神社がある。
小さな境内に池はあるのだが、ほかに水気は無く、
なぜそんな場所に天厳島神社があるのか不思議に思ってきた。
その抜弁天厳島神社のある交差点から南西に下る急な下り坂があって、
その坂道の枝道は職安通りの下をくぐって、
西向天神社(にしむきてんじんしゃ)の入り口に連なっている。
ただ、この道は一方通行で、
職安通り下からは車では入ってゆけない。
もう一つ抜弁天厳島神社前の交差点から
西向天神社方面に下る坂道があって、
それは昔、路面電車が通っていた廃線跡だという。
その廃線跡を下って、西向天神社前の一方通行を迂回して、
入り口(写真左)の石製靖国鳥居前の右脇の
坂の上にある駐車場にバイクを入れた。
駐車場の前に大きな富士塚があった。
これまで、8月から10月にかけて、
週末に5回はこの神社を覗いているのだが、
5度とも作業着姿の中年男性が境内の整備をしていた。
神主さんだろうか。
それにしても少なくとも天気が良ければ、ほぼ毎週末、
境内の手入れをしていることになるが、
それでも落ち葉はいっぱい落ちていたから、
想像するよりも、境内のメンテナンスは大変なようだ。

西向天神社は名称の通り、拝殿も入り口も
主祭神菅原道真の埋葬されている西(太宰府)を向いている。
入り口は坂の下だが、拝殿(写真中)は石段の上正面にあるから、
拝殿は抜弁天厳島神社と同じ高さの場所にあるようだ。
西向天神社の祭神は

・菅原大神〔すがわらのおおかみ〕
・稲荷大神〔いなりのおおかみ〕
・秋葉大神〔あきばのおおかみ〕
・厳島大神〔いつくしまのおおかみ〕

で、拝殿の裏手には妙音弁財天の石像も祀られている。
だが、境内に説明板は無いため、
初めて訪れた時には厳島大神が祀られていることにも、
拝殿の裏に妙音弁財天が祀られていることにも気づかなかった。
拝殿の並びには魅力を感じる不動明王石像が祀られていて、
ここが密教と関係のある場所であったことはわかった。
不動明王石像のさらに隣の建物が不動堂であることに気づいたのは
3度目に訪れた時のことだった。
それは西向天神社別当寺の大聖院の本堂にあたる建物だった。
大聖院は天台宗の寺院で、その前の広場は公園として解放されており、
その公園は過剰な降雨があった場合に、
一時的なプールとして使用できるように
浅い堤防が周囲に巡らされている(写真右)。
>青龍18さん

宗像大社の紹介、ありがとうございます。
宗像大社は1度行ってみたい場所です。
中と右の末社は何を祀ってあるでしょうね?

基本情報を追加しておきますね。

●宗像大社
福岡県宗像市田島2331
>青龍18さん

追加説明ありがとうございます。
第二宮、第三宮が伊勢神宮の遷宮古材によって再建されたのは
まさに呉越同舟で
呉系の宗像大社と越系の伊勢神宮との関係でしょうか。
あるいは共通する宮大工の関係かな?
●久地弁天堂 境内
神奈川県川崎市高津区久地511

12月の初めの週末午後、
日暮れまでバイクで溝ノ口(川崎市)から二ケ領用水沿いをさかのぼって、
神社をのぞいて歩いた。
久地(川崎市高津区)にある成田山守護尊寺のある津田山にぶつかると、
南西部には津田山(七面山(しちめんやま))と呼ばれる丘陵が
立ち上がっている。
丘陵の上にある成田山守護尊寺に向かって坂道を登っていると、
右手に朱の太鼓橋がかかった池があり、
橋の手前に石製の明神鳥居があるので(写真左)、
弁財天であることを直感した。
それは久地弁天堂だった。
池周辺の雑草や雑木にまぎれて、
おそらく、三女神を祀った厳島神社らしく、
素木に流れ造りの三連の銅葺き屋根を持った祠があり、
その祠の前に小さな石祠が見える(写真中)。
久地弁天堂は何故か、
入り口の蛇腹のスチールシャッターに錠前が掛かっていて、
境内に入ることができないようになっている。
地図を見ると、
成田山守護尊寺境内から久地弁天堂の裏面に辿れるような通路もあるようだが、
ネット上の情報を見ても、
私有地として、立ち入り禁止にしてあるようだ。
成田山守護尊寺の方も前まで行ってみたのだが、
なんとなく、入りがたいのと、道は守護尊寺で行き止まりになっていたので、
そのままUターンした。
地図を見ると、守護尊寺の北150m地点の津田山内に
天照大神を主祭神にした久地神社があり、
久地弁天堂はちょうどその中間点に位置する。
おそらく、神仏分離令発布以前はすべてを含めた七面山全体が
成田山だったのだろう。
久地弁天堂から津田山麓の二ケ領用水までは50m。
そこには津田山の地下を抜けて
南西の麓にある南武線津田山駅東側で地表に水路が現われる、
暗渠の入り口が二つある(写真右)。
このあたりの二ケ領用水は深さが5mほどあり、
水面を覗き込むと、季節的に農閑期だからなのだろう、
引き込んだ水量は多くなく、1羽のカルガモが水面を移動しており、
そのカルガモより大きな鯉が2匹、カルガモの後ろに付いて泳いでいた。
●久地弁天堂 水脈環境
神奈川県川崎市高津区久地511

二ケ領用水は久地弁天堂の北東50mあたりで、
おそらく、弁天堂の地下を抜ける暗渠となっているようだ(航空写真左)。

二ケ領用水は徳川家康が小泉次太夫に作らせた
多摩川の水を水田耕作に利用するための用水路で、
川崎領と稲毛領の二つの領地にまたがっていたことから名付けられた。
完成するのに14年の歳月を要したという。

上河原堰を取水口にする上河原線と、
宿河原堰を取水口にする宿河原線の、ふたつの二ケ領用水が
久地円筒分水(写真中/右)で合流して、ここから
川崎堀、根方堀、六ヶ村堀、久地・二子堀の4方面に、
それぞれの流域の耕地面積に応じて用水の量を分割するための装置だ。

久地円筒分水のできる以前は水量をめぐって、
村同士の争いが絶えなかったので、
正確に水を分けるために昭和16年(1941)になって考案されたのが
円筒分水装置だという。

久地円筒分水の原理はその日は整備中ということで、
円筒プールの水が抜かれていて設備の構造はよく見えるのだが、
実際に水がどう流れるのかはわからなかった。
その公平な水量が分水される仕組みは
真ん中の円の部分から水が、
その外周部分の、
ちょうど円グラフのように各集落の耕地面積に応じた区切りに
溢れる仕組み。

久地円筒分水にいると、見物人がけっこう現われる。
二ケ領用水は桜の名所として知られるが、
円筒プール脇の深い水路にはカルガモの群れがいたり、
津田山の丘陵には最高神アマテラスを祀った久地神社、
不動明王を祀った成田山のある森もあって、
ちょっとしたパワー・スポットだ。
●市寸嶋比売命(江島杉山神社)境内
東京都墨田区千歳1-8-2

東西を隅田川と荒川に挟まれた地域で、
隅田川で言えば言問橋から東京湾の間には
碁盤の目になった人工河川が張り巡らされていることにこの新年に
東京の地図を見ていて気づいた。
年末の最終週末の夕方にバイクで、
月島から北上してその人工河川のひとつ、堅川と隅田川に近い
江島杉山神社に向かった。

一旦、通りすぎてしまい、
堅川に架かった一之橋を渡って、見落としてしまいそうな、
江島杉山神社の一ノ鳥居前に到着した。
一ノ鳥居は真西を流れる隅田川に向いている。
愛車は鳥居の真ん前に停めた。
その石製明神鳥居には提灯、しめ縄、
鳥居より背の高い笹竹と松の苗木が飾り付けられ、
初詣の準備はできているようだった。
鳥居をくぐって、
住宅の狭間を東ににまっすぐ伸びる、
人がすれ違えないほどの細い参道を
30mほど進むと、突然開けた場所に出て、
真正面に石柵で囲まれた拝殿があった。
その入り口にも石製明神鳥居。
その二ノ鳥居をくぐり、拝殿前に進むと、
拝殿には紫の大きな幕が掛かっており、
左側には浪に囲まれた九星紋、
右側に浪に囲まれた三つ葉葵紋が白く抜かれている。
浪紋から、
「江島」が江ノ島の「江島神社」と関係があるのだろうとは思ったのだが、
境内に説明板は無く、確認できなかった。
ところが、拝殿の右脇奥に岩室(写真左)があることに気づいた。
穴稲荷でもあるのだろうと、深紅の寒椿の前を通り、
しめ縄をくぐってその岩屋に入ってゆくと、
5mほどの深さの穴の突き当たりに、石像があった。
後で調べてみると、
それはこの地に弁財天を祀った
杉山和一扶持検校(すぎやまわいちふちけんぎょう)の神像だった。
杉山検校像の右手には祭壇があったのだが、
反対側に祀ってあった宇賀御魂神の方を先に参拝し、
その神像を撮影しようとしたところ、
バッテリーが上がったり、ストロボが発光しなかったりという
トラブルが続いて、撮影ができなかった。
これは新年に挨拶に来いということなのかもしれないと思い、
杉山検校像の右手の祭壇には参拝しないで、その日は帰ったのだ。
2008年の新年は生まれて初めて東京で迎える予定になっていたので、
それは可能だった。
岩室から出てくると、すでに外は暗くなっていた。

年が明けた5日目、
やはり夕方に江島杉山神社に到着。
今度は南口の鳥居前の車道に愛車を停めた。
前回よりも時間は少し遅くて、すでに外は暗くなりはじめていた。
南口から鳥居をくぐると、目の前の池に石製太鼓橋が架かり、
橋は朱塗りではないものの、
正面に位置する拝殿の朱色や、朱塗りの手すりが、
弁財天がまつられていることを暗示していた。
入り口によってここの印象はまるで違ったものになっておもしろい。
今回は拝殿に祀られている神々がわかっていた。

・市寸嶋比売命
・倉稲魂命
・大国主命
・杉山和一大人命

「江島杉山神社」の「杉山」は杉山検校の「杉山」なのか、
神奈川県に多く見られる杉山神社に由来しているものかは不明だ。
現在地(旧本所一つ目)に弁財天が祀られたのは、
杉山検校が綱吉に欲しい物を問われ、
「目がひとつ欲しい」と答えたからというエピソードが残っている。
「一つ目」という地名の由来は
万治2年(1659)に竪川が堀割りされた時に架けられた橋に
隅田川よりから順次、
「一ツ目橋」「二ツ目橋」「三ツ目橋」と名付けられたもので、
現在はそれぞれ「一之橋」「二之橋」「三之橋」という名称になっている。

ところで、石室の宇賀御魂神像に
ふたたびロウソクと線香を上げ、撮影させていただいところ、
今回はストロボ無しでなんなく写った。
前回よりも時間帯が遅く、暗いはずなのに、なぜなのかわからない。

前回、宇賀御魂神が写らなかったことから、
新年になってから参拝しようと思っていた反対側には
かなり溶けてしまっているため、意味不明の
石のブロックが祀られていた(写真中)。
説明板を読んで、初めてそれが宗像三姉妹の神像であることがわかった。
宗像三女神の神像というもの自体がほかで見たことのない珍しいものだ。
上段に三女神が並び、
下段には岩屋みたいな窪みがあり、そこに三角形の像が見える(写真右)。
いったい何なのだろう?
弁財天で三角と言えば三鱗の神紋だが、
もしかすると下半分は「浪に三鱗」を丸彫りにしたものなのだろうか?
そうだとしたら、神紋の浮き彫りはよく手水桶などにも付けられるが、
丸彫りの神紋というのもほかで見たことの無いものだ。

宗像三姉妹像を撮影させていただいたのだが、
帰ってからチェックしてみたら、ブレていた。
それで明くる日も江島杉山神社に参拝することになった。
年末から新年にかけて3度の参拝は三女神に対するものであったのかもしれない。
●宗像三姉妹(江島杉山神社)水脈環境
東京都墨田区千歳1-8-2

東西を隅田川と荒川に挟まれた地域で、
隅田川で言えば言問橋から東京湾の間には
碁盤の目になった人工河川が張り巡らされていることにこの新年に
東京の地図を見ていて気づいた。

本所一つ目(現千歳)の「一つ目」という地名の由来は
万治2年(1659)に竪川が堀割りされた時に架けられた橋に
隅田川よりから順次、
「一ツ目橋」「二ツ目橋」「三ツ目橋」と名付けられたことによるもので、
現在はそれぞれ「一之橋」「二之橋」「三之橋」となっている。
暮れに江島杉山神社を訪れた時には一之橋から竪川を見たのだが、
初詣の時にはひとつ隣の万治年間には存在しなかったであろう、
塩原橋から眺めた。
川面上方に首都高速7号小松川線が流れており、
堅川にはその高速道路支柱が並んでいるのは変わらないが、(写真左)
突き当たりに一之橋、その向こう側に青色にペイントされた隅田川水門が見える。
堅川の北側岸には何艘も小型ボートが係留されている(写真中)。
塩原橋のたもとには江戸時代の東都本所堅川の
浮世絵が表示されており、そこには堅川を運搬路として利用した
材木問屋で働く職人たちと対岸の住宅街が描かれていた(写真右)。
●摂社宗像神社(武蔵一宮氷川神社) 
埼玉県さいたま市大宮区高鼻町1-407

5月の中旬、
バイクで、さいたま市内の2号線を17号線に向かっていた。
2号線の途中に台輪を持った大鳥居があり、
いつも前を通るたびに気になっていたのだが、
この日は時間があったので、夕刻に近かったが、寄ってみることにした。
後で、調べてみると、この鳥居は二ノ鳥居で、
国内最大の木造鳥居だということがわかった。
この大鳥居のまたがる参道に沿って車道があり、その車道に入って、
社殿のありそうな北に向かった。
500mほど走ると、
屋根付きの塀に挟まれる形で、やや小型の三ノ鳥居があり(写真左)、
鳥居手前の参道脇に2輪車を停められそうなスペースがあったので、
そこに愛車を停めた。
鳥居の先は開けており、行く手には森だけが見え、
かなり広い境内らしかった。
来た方向を振り返るとケヤキと杉を中心とした並木が両側に続き、
最初の大鳥居は霞んで見える。
目の前の鳥居をくぐると、大きな案内板があった。
ここは武蔵一宮氷川神社だった。
祭神は

・須佐之男命
・稲田姫命
・大己貴命

出雲にスサノオがやってきたように、
出雲たたら族は蝦夷の利用していた砂鉄を目当てに
ここにやってきた可能性があることになる。
1〜2世紀のころ、出雲の兄多毛比命(エタモヒ)が武蔵国造となり、
氷川神社を崇敬したとあるが、
素盞嗚尊を祀る出雲斐伊神社(ひいじんじゃ)の由緒には、
斐伊神社の分霊を武蔵一宮氷川神社に祀ったとあり、
「斐伊(ひい)」が「氷(ひ)」に転訛されたとみられている。

三ノ鳥居をくぐり、参道を進むと、左手に枝道があって、
そこに入ってゆくと池があった。
池の中には島があって、そこに渡る、朱塗りの石橋の入り口には
素木の立派な鳥居があった。
鳥居には「宗像神社」の扁額。
橋の正面には銅板葺き屋根の社が見えていた(写真中)。
石橋から社までは敷石が敷いてあり、その先の石の基壇の上に平入屋根の本殿が。
なぜか、鰹木が5本に外削ぎの千木という男神を示唆する形式だ。
本殿は低い素木の瑞垣で囲まれており、
その周囲は水神を意識してか、河原石で方形に叩かれており、
さらにその外側は石畳になっている。
社殿前には素木に銅板葺き屋根の雪洞も立っておりおり、
スケールの割に重厚な雰囲気の神社だった。
●摂社宗像神社(武蔵一宮氷川神社) 水脈環境
埼玉県さいたま市大宮区高鼻町1-407

宗像神社のある池(写真左)は神池と呼ばれているが、かつての見沼の名残だという。
見沼は三沼、箕沼、御沼などとも表記されてきた。
「ミ」音はもちろん、蛇(巳)や、水(ミ)を示唆するが、
「箕(ミ=みの)」はスサノオの子、宗像三女神の一神、
市杵島比売命に関る役行者のトーテムでもある。
いわく、「箕掛け岩」「箕面(みのお)」「箕宿(みぼし/きしゅく)」。
「箕(みの)」は美濃に転訛され、美濃加茂市が存在するように、
役小角(役行者)は加茂氏を代表する人物である。
そして、役小角は名前に「角」を持つように、
武蔵一宮氷川神社の主祭神、須佐之男命(牛頭天王)の後裔と見られている。

見沼は古芝川が大宮台地を浸食した谷に
縄文海進期には東京湾の海水が入り込んでいたようで、
縄文時代前期の貝塚遺跡が多く見られるという。
Y字形の岬や入江の多い複雑な沼沢地となったのは、6000年ほど前のことで、
武蔵一宮氷川神社は当初、宗像三女神ではなく、
先住民の水神(蛇神)、
足摩乳命(アシナヅチ)、手摩乳命(テナヅチ)が祀られていたようだ。

神池には鯉の姿が見えたが(写真中)、亀は見えなかった。
神池には朱の欄干を持つ石橋が架かっていて、その橋を渡ると、
やはり朱色の神門があり、本殿に向かえるようになっている(写真右)。
●宗像神社(宇太水分神社摂社)
奈良県宇陀市菟田野区古市場245

祭神は、市杵島比売命のみのようです。
社殿は重要文化財に指定されています。
創建年不祥、祀られた由来もよく分からないようです。
●境内社宗方社(冨士浅間神社)
愛知県名古屋市西区浅間1丁目3-2

1月下旬 晴れ。
三の丸の北西1.3kmあたりにあった 浅間に向かった。
その1丁目に木花咲耶姫命(コノハナサクヤヒメ)を祀った
冨士浅間神社(写真左)がある。
周囲は住宅街だ。
これまで、名古屋市内で遭遇した浅間神社から、
名古屋市内に浅間神社があるのは
旧東海道の存在と関係があるのではないかと想像していたので、
旧東海道から隔たった場所に冨士浅間神社があったのは意外だった。
『西区の歴史』にある冨士浅間神社社伝によれば、
応永5年(1398)に現在地ではなく、
藤塚町(現東区東桜1丁目)に勧請されたとある。
なんと! その住所は、わが母校冨士中学校の住所だった。
当時は子供心になぜ、名古屋なのに「冨士中」なんだと思っていたのだが、
かつて、そこには浅間神社があったというのだ。
現在も冨士中学校の北に面して冨士神社がある。
旧浅間神社の地が名古屋城築城工事のための普請小屋となり、
浅間神社はいったん現在地の西区浅間に遷社し、
後に戻って冨士神社となったものらしい。
戻ったものの、西区浅間にも木花咲耶姫命は勧請されたようだ。
そして、うちの先祖は名古屋城築城の普請方をしていたので、
旧浅間社敷地の普請小屋に出入りしていた可能性が大きいのだ。
ここの旧町名「藤塚町」は「冨士塚」からアレンジされたのだろう。

冨士浅間神社の石造の伊勢鳥居をくぐって、拝殿で参拝したが、
どうもピントの合わない神社だった。
拝殿の向かって右には天神社、浅間稲荷社ほか5社の末社が祀られていた。
後日、『西区の歴史』(山田寂雀/西岡寿一著 愛知県郷土資料刊行会発行) で拝殿の向かって左にも 宗像社と金刀比羅社の末社があることを知ったので、
2週間ほど後にふたたび、 両末社を観るために冨士浅間神社に向かった。
両末社は冨士浅間神社拝殿の向かって左側に並んで祀られていたが、
拝殿脇からは死角になった場所にあったので、気づかなかったのだ。
宗像社は内側に祀られており、祠と同じくらいの賽銭箱が置かれていたが、
賽銭箱には冨士浅間神社の神紋が浮き彫りされていたが、
私見では宗像三女神と木花咲耶姫命の姉妹たちは同神とみているので、
不思議ではない。
ここから真西40mあたりを南北に
かつて用水路だった江川が流れているのだが、
大正時代に暗渠化され、現在は江川線という道路になっている(写真右)。
●宗像神社
名古屋市北区名城2-4

2月下旬 晴れ
名古屋城の東210mあたりに市営住宅密集地があり、
その中に市営城北荘21棟があるが、21棟の敷地の東側が駐車場となっており、
その端の一画が白い金属ネットで囲いがしてあり、
その中に突然といった形で銅板葺き流れ造りの屋根を持った祠が
荒い自然石を組んだ基壇の上に南を向いて立ち上がっていた(写真左)。
囲い沿いにバイクを停め、囲いの切れ目に向かうと、
その脇に『記』という立て札が立てられ、

「宗像神社(弁天社)
   御祭神
 田心姫(たごりひめ)神
 湍津姫(たきつひめ)神
 市杵島姫(たごりひめ)神」

とあった。
囲いの中に入ると、囲い内には本殿を取り囲むように
自然石を並べたサークルが設けてあり、
そのサークルの中は砂利が敷きつめてあった。
本殿前左右には素木の常夜灯が設けてある。
ここから北240mあたりに堀川が東西に流れている。
4月の上旬、満開の桜がみられる最後の週末、
その地点に向かった。
ちょうどこの辺りから堀川は北に少し折れて、東北に向かい、
東西に流れる庄内川に向かう(写真中)。
堀川を北上してくると、名古屋城の外堀となっている部分で
満開の桜並木は連続し、いったん途絶えた後(写真右)、
ここからさらに堀川の両岸に桜並木が現れる。
●入海神社相殿弁天神社
愛知県知多郡東浦町大字緒川字屋敷壱区48

6月の上旬 晴れ。
西側の知多郡東浦町側から
逢妻川(あいづまがわ)、境川、緒川(おがわ)の3河川に平行して南北に走る
366号線の通る地、緒川の北部、366号線の西側の路地に入り、
右折するとすぐ、
丘に向かう石段緒の麓に石造の伊勢鳥居が立ち上がっていた(写真左)。
鳥居は道路に向かって真東を向いており、先にはなだらかな石段が続いており、
脇には丘に登るコンクリート叩きのスロープがある。
そのスロープの入り口脇しか愛車を停めるスペースは無く、
そこに愛車を停めて向かい側の社号票の後ろの案内書きをチェック。

祭神 弟橘比売命(オトタチバナヒメ)
相殿 弁天神社 宗像三神

「昔日本武尊御東征の折り当地の穂積忍山宿弥(ホヅミノウジノオシヤマノスクネ)は水軍を編成し 娘弟橘比売命は御后として従軍し途中荒天に遭い全軍の安泰を祈り弟橘比売命は海に入られた
御櫛が当里の紅葉川の辺りに流れつき これを御祭りした これが入海神社宝亀年間(770〜780)の起原と伝えられている」

と由緒にある。
弟橘比売命と宗像三神はどんな関係にあるのか。
まず、弟橘比売命の実家・穂積氏は「幣紋(神紋A)」を代表家紋としているが、
宗方氏の中に同じ神紋を使用した一族が存在し、つながりがあるとみられる。
ただし、入海神社の神紋は「五三の桐紋(神紋B)」だが、
これは豊臣秀吉の家紋であり、
秀吉に「五三の桐紋」の使用を許された経緯があったのかもしれない。
もうひとつは弟橘比売命の御櫛と亀の関係だ。

櫛(クシ)=クジ(籤)=亀卜

「流れついた櫛」とは「上陸した亀」のメタファーであり、
宗像三神の神紋・「三つ盛り亀甲に花菱(神紋C)」が
http://p.tl/VzxJ

「亀甲」を含む紋であることも両海人族の関係を暗示している。
紅葉川とは現在の緒川だが、この地は弟橘比売命の実家であり、
河口であったものと見られる。
現在も緒川河口から衣浦港(きぬうらこう)まで700mほどだ。
さらに、穂積氏は饒速日命の後裔とされているが、
彦火明命(饒速日命の別名)の子孫、海部氏・倭宿禰命(ヤマトノスクネ)が
亀に乗って神武天皇の前に現れ、大和国へ先導した神話も
亀と海人族・穂積氏の関係を物語っている。
入海神社は古社だが、社格は「五級社」となっている。

鳥居をくぐって、石段を登ると、
誰かが境内でキャッチボールをしている音が聞こえる。
石段を登りると、参道は90度北に折れ、
幹の低い枝葉(桜?)でできたトンネルの下をくぐって、
正面の拝殿に向かっている(写真右)。
キャッチボールをしていたのは地元の中学生たちのようだった。
●入海神社相殿弁天神社 水脈環境
愛知県知多郡東浦町大字緒川字屋敷壱区48

弁天神社があることから、地図で池をチェックすると、
この丘と道路の狭間に池があるようだった。
丘を下ると、社頭北側に細長い池がすぐ見つかった。
不透明な水面に灌木の枝葉が多い被さっていて水面は暗いが
緋鯉の稚魚が群れている。
水面に降りる虫を狙って鬼蜘蛛が池の上に網を張っている。
現在は境内の北東80m以内を緒川が流れているが、
入海神社の北西部から水路があり、部分的に暗渠となり、境内の北側を抜けて、
緒川に流れ込んでいるようだ。
水路は部分的に計画的な形をしていない部分があり、
かつては湧き水の水路になっていた可能性もあり、
この水路と池はかつて繋がっていたか、
現在、繋がっている可能性もありそうだ。
●厳島社(猿投神社)
愛知県豊田市猿投町大城5

6月下旬週末、晴れ。
台風が過ぎて二日、この日までは気温は比較的低い予測だったが、
正午近くになると、やっぱり熱暑だった。
昼食を食べてから、豊田市にある猿投神社(さなげじんじゃ)に向かった。

283号線から349号線に入り、北に向かって
猿投グリーンロード、東海環状自動車道の高架下をくぐると、
車道沿いの歩道に金色の大鳥居が現れた(写真左)。
鳥居の奥に千木と鰹木を持った拝殿のようなものが見えるが、
それは総門だった。
鳥居と南向きの総門の間を車道が横切っている。
愛車は総門前の歩道に停めた。
総門前に黒御影に刻まれた『猿投神社』の案内書きがあった。

「一、御祭神
   主祭神 大碓命 景行天皇第一皇子で日本武尊と双生児
   相殿 景行天皇(第十二代)
      垂仁天皇(第十一代)」

 一、創祀・沿革
   創祀は社伝によれば、第十四代仲哀天皇元年(192年)勅願により現在の地  
   に祀るとある。猿投山東峯に東宮、西峯に西宮を祀り、猿投三社大明神と
   崇敬され、平安時代に制定された延喜の制では延喜式内社に定められた。
   三河国国内神名帳に『正一位猿投大明神』と記載され『三河三宮』と称さ
   れた。
   神領は七七六石で、三河国の神社では最も多く、明治維新まで徳川幕府よ
   り賦与された。」

とある。
猿投神社本社は猿投山の南南東の麓にあり、
黄金色の鳥居から山頂までは3.8kmほど。
猿投山の上に東宮と西宮があるということのようだ。
779年に編纂された縁起書によれば、
大碓命は景行天皇52年(122年)に猿投山中で蛇毒のために42歳で死去し、
山上に葬られたという。
猿投山西峯にある西宮の後に大碓命の墓がある。
東宮・西宮まで往復5時間コースらしい。

総門をくぐると、
一直線に杉並木が延び、参道には一面に細かな砂利が敷かれていた。
途中の手水舍で手水を使い、さらに参道を進むと、西側に社務所があり、
山伏と白装束のおじさんがその前で談笑していた。
ほかにも男女の参拝者がいた。
社務所前から行く手に巨大な建造物が見えている。
壁が無いので神楽殿かと思ったが、拝殿だった。
拝殿の奥の中門前で参拝して、西側を観に行くと、水路があった。
水路のさらに西側は崖が立ち上がっている。
水路には石垣を組んだ上に建てられた竹垣の奥から
糸のような細い水が流れ落ちている。
現在、水が流れ落ちている場所とは別に、右隣の少し高い位置に
丸太を削り出した太い樋が突き出ているが(写真中:右上)、
こちらは水が落ちていない。
台風が来て、間もないのにこの状態であるということは
通常は水が枯れてしまっているのかもしれない。
水路の向こう岸の崖の麓には朱の鳥居が立っており、
神額には「厳島社」とあった(写真右)。
猿投神社の祭神と宗像三女神の関係は見えないが、
中門の東側に祀られている境内社八柱神社の祭神には
宗像三女神が含まれており、
それが、水路に祀られたものに思える。
●胸形神社
愛知県豊田市八草町丁田

7月下旬の週末、快晴で熱暑。
豊田市から愛知県北設楽郡へ東西に走る
猿投(さなげ)グリーンロード(6号線)の豊田市側の起点になっている
八草東に向かったが、
途中、6号線に繋がる60号線(東山線)の望が丘(のぞみがおか)で
黒雲が出てきたなと思っていたら、あっという間にスコールになり、
30分ほど東名高速道路の高架下で雨宿りした。
猿投グリーンロードの八草東から北に向かう523号線に入り、
最初の交差点八草来姓でマイナーな道に折れ、東に向かった。
八草来姓交差点から870mほど走ると2叉路があり、
道標右手の道は一般道。
左の丘の上へ向かう道路からは20mほど先で弁財天社の石段が分岐している。
道標の背後には『椀貸池』の案内板があり、
「〈願かけ池〉として知られ由緒ある池です」とある。
「椀貸池」の読みをネットで探していたら、
「椀貸池」は全国に分布しているようで、
「椀貸伝説」という用語でkotobankに項目があった。
それによれば、

「椀貸塚,椀貸池などで頼めば膳(ぜん)・椀を貸してくれたという伝説で,全国に分布し,不心得者が返さなかったため今では貸さなくなったと伝える。その土地から実際に土器などの出土することもあるが,木地屋(きじや)のように椀を作る者との沈黙交易の説話化とみる説が有力。」

とある。
この伝説は近江(おうみ:中国地方)を中心に全国に分布しているらしく、
近江の木地屋が全国に移り住んだことで、広まったとする説がある。
地誌『掛川誌稾(かけがわしこう)』の編纂者、掛川藩士斎田茂先(さいだしげとき/1774〜1815)は
「椀貸(わんかし)」は「椀かし(椀を洗う)」からの転訛であり、
椀貸伝説は「椀貸」という字意への後付けだとしているという。
伝説では竜神、河童、大蛇、乙姫などが
椀の貸し主となっている場合があるようだ。
愛車は丘の麓の一般道脇に停めて、丘の上に向かう道を登り、
丘の上に立ち上がる石造の明神鳥居(写真中)に向かう石段を上がった。
石段脇には「弁財天」の社号票が立っている。
石段を登り切り、鳥居をくぐると、目の前に山林に包まれた椀貸池があった。
目の前に椀貸池が広がったとは形容できない微妙な広さの池で、
池端に椀貸池を背景にして祀られた弁財天社で参拝し、
椀貸池に沿って先に進むと、土手は並走する舗装路と一体になり、
ガードレールが始まった。
その舗装路の路肩には
4段しかない石段の上に石造の大鳥居が立ち上がっており(写真左)、
社頭額と社号票には「胸形神社」とあった。
弁天社と胸形神社の関係がよくわからないが、
胸形神社大鳥居から始まった参道は
ループして山頂に向かう舗装路とすぐ先で一体となっている。
胸形神社の社殿がどれくらい奥にあるのかわからないのと、
日陰のまったくない上り坂なので、一旦、愛車に戻って、
愛車で山頂に向かうことにした。
愛車で山道を辿ると、社殿は想像していたよりは近い場所に建っていた。
本殿の建っている2.5mほどの高さの石垣の横の空き地に愛車を停めた。
本殿は椀貸池の方向、北西を向いている。
ここは椀貸池に突き出した段丘であり、椀貸池の周囲で最も高い場所で、
それが宗像三女神を祀った理由であることは推測ができた。
八草の胸形神社の祭神の情報は無いが、
社名が祭神を表明していると考えていいだろう。
「ムナカタ」への当て字は3種類ある。

・宗像
・宗形
・胸形

宗像大社がもっとも知られているが、
「宗像」とは海人族が護身のために胸に刻んでいた刺青のことだが、
意味からすると、「胸形」がオリジナルと思える。
実際、米子の宗形神社は延喜式では「胸形神社」と表記されているという。
「宗像」が「宗形」から転訛されたものなのか、
「胸形」から直接転訛されたものなのか、興味深いところがある。
本殿の石垣の下にある拝殿前に回ると、脇にまだ工事中の手水桶があった。
拝殿もまだ新しく、この地域のほかの神社と同様、
壁の無い建物だったが、ここだけは腰板が巡らせてあった(写真中)。
木部はすべて、防腐剤が塗布されているようだ。
床部分は風化除けの緑色のテント地が張られている。
改めて本殿を望むと、
入り母屋根棟入りの建物に民家風の集会所らしき建物が繋がっている
異例の建物だった。
この本殿と思える建物は幣殿としての役割で、
この中に旧い本殿が収めてあるのかもしれない。
これもまだ真新しく、白壁部分にもシミひとつ着いていなかった(写真右)。
使われている石材も真新しいので白っぽかった。
●椀貸池 
愛知県豊田市八草町丁田

(航空写真左)で見ると、
椀貸池(わんかしいけ)は細長い池から人手のように4肢が伸びた形をしている。
池の南部と北西部分の一部は石垣でほぼ直線で護岸工事がしてあるが、
ほかの部分は池端まで山林が迫っている。
池の南側は弁財天参道と胸形神社参道があって、開けているが、
この丘はどうも人口的な堤防ではないかと思える。
椀貸池の水面には池を包む山林と青空が映り、水中はまったく見えない。
(写真中)
水は汚れてはいないが、澄んでいるとは言えないようだ。
胸形神社大鳥居前から椀貸池の奥を望むと葦が繁茂しており、
向こう岸は水深が浅いことがわかる(写真右)。
向こう岸近くには水草も繁殖しているようだ。
●宮島町 厳島神社奥宮御山神社
広島県廿日市市宮島町

8月の下旬、名古屋市内の実家からバイクで 宮島に向った。
途中何ヶ所かを巡り、名古屋を出発して4日目am10:00、
ミク友Mさんと宮島に向かうフェリーに乗船。
フェリーは20分ほどで厳島神社の大鳥居に接近した(写真左)。
厳島神社とは別のもう一つの目的地、宮島の最高峰弥山は
(写真左)の左端に切れている山だが、
北側から宮島を眺めると、その右隣の尖った峰の方が高く見えるが、
これは手前にあるためにそう見えているだけだ。
多くの観光客と同様、鹿のいる御笠浜から大鳥居を真近に眺め、
厳島神社内を巡り、大願寺、大聖院、弥山本堂を巡って弥山に登った。
弥山に登ったのは
厳島神社の奥宮があるのではないかと漠然と考えていたものの、
奥宮が無くても、弥山山頂の巨石が見られれば、それでいいと考えていた。
弥山山頂から巨石の間を抜けて大聖院コースを下っていると、
枝道の先に黒塗りの笠木を乗せた朱塗りの明神鳥居が見えた。
枝道に掲示された板書きにはこうあった。

「御山神社は、厳島神社の奥宮で、本殿三棟が品字形に並び、御祭神三女神が
 夫々一柱ずつ祀られています。
 いずれも一間社流造で屋根は杮葺、丹塗の御社殿で、昔から〈さんきさん〉
 として崇敬の篤いお社です。                     」

この板書きだけ見ていると、〈さんき〉とは〈三亀〉かと思う。
品字形に並んでいるのは奥宮の本殿三棟だけではなく、
厳島神社&御山神社(みせんじんじゃ)の神紋もまた
〈三つの亀甲〉を品字形に並べたものだからだ(http://bit.ly/1bcZL6F )。
しかし、後で調べてみると、弥山山頂下に祀られていた三鬼堂が、
もとは弥山の守護神として御山神社に合祀されていたと言い、
〈さんきさん〉とは
「三鬼神(追帳鬼神・魔羅鬼神・時眉鬼神)」のことであることが判った。
弥山麓の厳島神社に掲示された『厳島神社御由緒』には以下のようにあるが、

「平清盛公が久安2年(1146)安芸守となり当神社を篤く信仰し仁安2年(1167)現在の規模に建て替えた」

この厳島神社立て替えの時、御山神社も建てられたと言われている。
御山神社に
田心姫命・市杵島姫命・湍津姫命の三神が祀られたのはその時として、
三鬼神が三鬼堂に移されたのは神仏分離によるものという説がある一方で、
安芸国の大名だった福島正則(1601〜1619年頃)が
関っているとする伝承がある。

キ=姫=鬼=亀(甲)

弥山の巨石からはシュメールのペトログリフ「七枝樹」ほか
多数のペトログリフが見つかっているが、
私見に過ぎないが、シュメールの基本的な神である蛇女神「キ」が
この島の基本的な神だった可能性もありえるなと思う。
鳥居をくぐって、50mほど灌木に包まれた平坦な参道を進むと
野性の雌鹿が参道脇の灌木の中にある手水桶の水を飲んでいた。
同行Mさんとふたりで近づくと、怯えて立ち去る様子も無いが、
水場を空けてくれた。
清水を流し込んでいるようで、水はすこぶる透明でしっかり冷えていたので、
手に水を掛け流して、思わず冷を取った。
参道は手水桶のすぐ先から登りに転じた。
坂道はすぐに御山神社境内の麓を取り巻く参道にぶつかり、二股に別れた。
直感で右に向う通路に入ると、石造両部鳥居の前に出た。
鳥居の先には急な石段が立ち上がっている。
石段はさほど長くはなく、登り詰め、振り返って見下ろすと、
鳥居は南を向いているようだが、
厳島海峡は名前の無い頂に眺望を遮られていた。
周囲は赤松が多い。
石段を登り切ると,すぐ正面が朱塗りの板垣で囲われた神域だった。
板垣きの上下には黒塗りの横棒が巡らされている。
入口は扉の無い朱塗りのゲートがあり、
ゲートのすぐ先に3社ともまったく同じ規格の柿葺一間社流造の本殿が
「品」字形に配置されていた(写真中)。
朱は半分は色が褪めている。
門のすぐ内側で参拝したが、感じた光は厳島神社とは少し異なった者だった。
厳島神社の方は宗像三女神より旧い神が合祀されていると感じる。
御山神社3社のうち、中央の社が市杵島姫命だと思われるが、
その後ろに回ってみると、 折り重なっているように見える巨石があり、
あきらかに本殿はこの巨石を意識して配置されている(写真右)。
その岩には根を張った樹木が2本伸びているが、
太い方は針葉樹だが、樹種不明。
この境内の標高は450mだという。           
本殿を降りて手水舍まで下ったが、
さっき手水舍にいた雌鹿の姿が見えなかったのは、ちょっと寂しかった。
それにしても、御山神社の存在を調べて弥山に登ったわけでは無かったので、
ちゃんと奥宮に参拝できたのは幸運だった。
●宮島町 厳島神社奥宮御山神社 瀬戸内海
広島県廿日市市宮島町

当コミュニティーを立ち上げた切っ掛けの一つは、同じ桓武平氏の平清盛が
宗像三女神を崇敬したことを知ったことにあるのだが、
ひねくれ者なので、この超メジャーな厳島神社に参拝することに
さほど興味は持っていなかった。
それで、宮島のことを調べ初めたのは
前々日宿泊した尾道市内のホテルが初めてで、
昨日宿泊した広島市内のホテルはWi-hiが使用できず、
宮島に渡った時には宮島に関する詳しい情報は持っていなかった。
それで、宮島口から宮島まで20分あまりしか掛らなかったことに驚いた。
フェリー上から眺める大鳥居の背景に重なる山影は想像していたより高かった。
(MAP左)
宮島に上陸して厳島神社前に着いた時には引き潮で、
厳島神社社殿下の御笠浜海岸はほとんど露出していた。
厳島神社の出口下には御手洗川が流れているが、
御山神社周辺には湧き水が流れ落ちているものの、
大きな水路や池は見当たらない。
標高535mの弥山の南側の山頂下100mあたりにある御山神社参道から
直接見下ろせるのは宮島の南側の瀬戸内海、厳島海峡と
そこに浮かぶ,西能見島と小黒神島だ(写真中) 。
熱暑と関係があるのだろうが、
この日、弥山上から眺める厳島海峡は常に眠く霞んでいた。
弥山の南側は風が強いのか、枝がすべて西に流れている。
弥山に登る途中の尾根から見下ろした北側の眺望は
対岸の山陽の岸が迫っていて、島影一つなく、
あまり強い印象の残る景色ではなかった。
そこに朱色の大鳥居を据えたのはすばらしい見識だったと思える(写真右)。
朱の大鳥居は厳島神社の社殿全体に匹敵するほどのインパクトを持っていて、
ほとんどの観光客があちこちの角度から見ると表情を変える大鳥居を
何度も撮影しているはずだ。
帰途のフェリーに乗った時にはすでにpm4:30となっており、
薄暗くなった宮島を後にした。

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