ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

水流と水神コミュの建御名方神(水神)

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
『御名方(みなかた)』は南方の意から
「しっかりした南の押立柱(おったてぱしら=元山柱)」の意味か。
建御名方神(たけみなかたのかみ)は
日本神話では大国主の子で
奴奈川姫(沼河比売)との間の子であるという伝承が各地に残っている。

別称=
 武南方神(たけみなかたのかみ)
 建御方命(たけみかたのみこと)
 南方刀美命(みなかたとみのみこと)
 御名方富命(みなかたとみのみこと)
 建御名方富命(たてみなかたとみのみこと)
 諏訪大明神
 諏訪神
 多摩大明神

古事記の国譲り神話に関係した建御名方神の記述もあるが、
『諏訪大明神絵詞』などでは
建御名方神は諏訪湖の龍神(霊蛇)や、
土着神(精霊)のモリヤノオトド(ミシャグジ神)と天竜川で対立し、
平定してこの地の支配者となったとする。

出雲族あるいは宗像(ムナカタ)海人族が
諏訪湖土着の神と融和して
諏訪湖畔の水神〈蛇神=蛟(みずち)〉となったという説もある。
蛟とは蛇体に四肢を有し、龍になる前の状態。

●建御名方神を祀った代表的な神社
諏訪大社(長野県)
http://park14.wakwak.com/~systemheart/suwataisya/

《目次》
愛知県
●諏訪山諏訪社(名古屋市)=書き込み40/42

神奈川県
●諏訪神社(川崎市)=書き込み32/33
●建御名方大神(女躰神社)=書き込み34/35

東京都
●境内社諏訪社(大田区 子安八幡神社)=書き込み15
●天祖諏訪神社(品川区)=書き込み28/29
●稲荷諏訪神社(練馬区)=書き込み5/6/11
●諏訪神社(品川区)=書き込み30/31
●諏訪神社(文京区)=書き込み
●諏訪大明神(世田谷区 諏訪社)=書き込み16/17
東京都羽村市
●玉川神社=書き込み36/37

長崎県
●諏訪神社(雲仙市 諏訪の池)=書き込み18/23/25

長野県
●建御名方命陵墓(諏訪市)=書き込み2
●諏訪大社上社前宮=書き込み38/39

↓MAP
http://www.google.co.jp/maps/ms?ie=UTF8&hl=ja&t=k&om=1&msa=0&ll=35.738655,139.599972&spn=0.001522,0.001532&z=19&msid=113844027188609943916.000001129ff4b1f02a0b1

コメント(42)

>大きな境内の守矢神社に対し、藤島神社は祠のみである

諏訪大社の神長官を守矢氏が務めているのをみても
建御名方と漏矢一族は融和したのではないですかね。
諏訪神社の祭の内容も漏矢一族優勢の感じがします。
『水潟』は状態を表わし、
『水方』は関係性を表わすから、
言葉としては『水潟』の方が先に出来た可能性がありますが、

ミナカタ=水方=水の精

もありえますね。
ムナカタ(宗像)も語源は同じではないでしょうかね。
●建御名方神(稲荷諏訪神社) 境内
東京都練馬区石神井町5-23

地図で石神井池の畔に稲荷諏訪神社という
稲荷社と諏訪社が合祀されたとすぐわかる神社を見つけたので寄ってみた。
社務所も無い小さな神社で石神井池を背にして社殿は建っている。
参道も短いのに鳥居は無理矢理と言う感じで二つ。
一の鳥居は石鳥居で二の鳥居は赤いので、
それぞれ諏訪社と稲荷社を意味しているのだろうと思われる。
社殿の左脇にはぎりぎり頭を下げればくぐれるくらいの
薄い水色の鳥居が建っていて、奥に祠がある。
賽銭箱の神紋は三つ巴だから稲荷社とも諏訪社とも関係がないものだが、
狐像が無いところをみると、おそらく諏訪社だろうと思われる。
それにしてもこの境内に狐像は見られなかった。
●建御名方神(稲荷諏訪神社) 水脈環境
東京都練馬区石神井町5-23

稲荷諏訪神のすぐ裏にある石神井池に行ってみると
岸には人が多く、ボートも出ていた(写真左)。
池の水は濁っていて不透明だ。
驚いたことに2羽の鵜が
池の中に立っているモニュメントに止まっていた(写真中)。
水面に降りてくる気配はまったくないところをみると、
こうした止り場所を増やせばもっと鵜が増えそうな気がする。
いったいどこからやってきたんだろう?
おもしろいのは水面にいる鴨たちがみんなくり返し、
飛び上がっては急降下して着水するのを楽しんでいたことだ。
そのたびに水面に長い水尾ができる(写真右)。
あきらかにエサを取るのが目的ではなく、
着水を楽しんでいるようにしか見えない。
こんなのほかの場所では見たことがないが、
5月初めにしては初夏のような気温だったので、
それが原因だったのか、
たまたまこの池でだけ流行していたのだろうか。
●後楽 諏訪神社 境内
東京都文京区後楽2-18-18

後楽園と西側を流れる神田川に挟まれた地域に諏訪神社がある。
バイクが着いたのは境内の脇で、脇の入口から境内に入った。
脇の入口前には朱の鳥居の並んだ思の森稲荷大明神があり、
境内はさほど広くはなかった。
諏訪神社の正面入口に回ると、入口には『諏訪神社』と刻まれた
石柱だけが立っていた。
短い参道の正面に立派な銅の鳥居(写真左)が立っているが、
両側はモルタルのアパートと家内工業の工場らしき
モルタルの建物の壁が迫っている。
銅の鳥居と拝殿(写真中)までは短い直線で、
それが境内の短い辺いっぱいいっぱいだ。
境内にもネット上にもこの神社に関する情報が無く、
主祭神は建御名方神で間違いないだろうが、
ほかの祭神があるのか無いのか不明。
西側に流れる神田川に出てみる。
神田川にはこのすぐ南で皇居の外堀が合流しており、
神田川も外堀も上空は高速道路が並走している。
神田川の水は水量はあるものの汚くて、
すぐ上流で巨大な鯉が悠然と泳いでいたのが嘘みたいだ。
●境内社諏訪社(子安八幡神社) 境内
東京都大田区北糀谷1-22-10

呑川(のみかわ)は世田谷区桜新町付近を水源とし、
東京湾にそそぐ二級河川。
二級河川とは都道府県知事が管理する川で、
国が管理する河川が一級河川とされる。
呑川の東京湾出口正面が羽田空港だ。

東京湾から呑川をさかのぼると最初に川沿いに存在するのが
子安八幡神社。
境内に樹木が少ないためそこだけ空が開けている(写真左)。
呑川の北側に位置する。
境内に入ってゆくと拝殿左に2社の境内社が並んでいるが、
左側が諏訪社(写真中)で、もう1社は不明。
不明の社よりも諏訪社の方が社殿が大きい。

子安八幡神社の前に八幡橋が架かっており、
その下を流れる呑川は水量が多く、流れは穏やかで、
おそらく東京湾で漁に使われているのだろうと思われる
小型の漁船や小型ボートなどが係留されていた。
これらの船舶は少し上流の東蒲田あたりまで見られる。
●諏訪大明神(諏訪社)境内
東京都世田谷区玉川3-26

野川に沿う多摩堤通りを下ると、
多摩川を渡る246号線のための高架の新二子橋脇に諏訪社があった。
境内はほとんどが駐車場と住宅で、その端に参道が通っていて、
石製の一ノ鳥居(写真左)をくぐり、真直ぐ進むとすぐに突き当たり、
右手に水の無い手水桶、左手に『諏訪大明神』の石柱。
そこから90度左に折れると、やはり石製の二ノ鳥居が在り、
鳥居の先には登り階段(写真中)。
階段はビルの二階屋上に登るようになっており、
屋上正面に日吉造の拝殿があった(写真右)。
拝殿前から野川と平行している多摩川を望むが、
堤防は国土交通省の資財置き場になっていたり、
新二子橋が景観を遮っているので、眺めはよくない。
●諏訪大明神(諏訪社)水脈環境
東京都世田谷区玉川3-26

諏訪大明神の横を通っている多摩堤通の向うは
すでに野川の堤防だが、
国土交通省の用地になっているようで、野川に降りることはできない。
350mほど迂回すると野川と玉川を分けている中州にある
兵庫島公園に渡れる場所があったのでそこに向かった。
兵庫島公園には週末ということでドン雲りにもかかわらず、
多くの家族連れが多摩川の広大な河原に散らばっていた。
兵庫島公園に渡る橋から上流を望むと都内側は鬱蒼たる森だ。
正面に新二子橋が見える(写真左)。
下流を望むと、大勢の人が岸から釣りを楽しんでいる。
正面には二子橋と東急田園都市線二子玉川駅のプラットホームが
重なって見え、その向うに多摩川がちらっと見える(写真中)。
野川と多摩川の合流地点はそのすぐ先だ。
上流に向かい、新二子橋をくぐって、諏訪社の向いあたりに出ると、
その先の堤防は護岸工事がしていない自然の川だ(写真右)。
遠方の川の真中に白い鷺がいる。
曇で虫が低いのか、数羽のつばめがしきりに水面近くを滑空していた。
> フィオさん

書き込みに気づいてませんでした!
ここは鳥居と磐座のみの神社ですか?
●諏訪神社 境内
東京都東村山市諏訪町1-4-3

諏訪神社は表道路に面した懐の浅い神社だった(写真左)。
境内にある由緒書きには
洪水で流れ着いた御神体を諏訪明神として祀ったとある。
入口の鳥居は権現鳥居(写真中)で、江戸時代までは
徳蔵寺の管理下にあったことをしのばせる。
拝殿はまだ新しく、参拝者はぼくがいる間にもやって来ていた。
境内には縁日の立つスペースがあった。
ここは久米川宿の西側にあたり、「西宿」と呼ばれており、
その氏神が諏訪神社で、
氏子からは「おすわ様」と 呼ばれていたという。
●諏訪神社 水脈環境
東京都東村山市諏訪町1-4-3

諏訪神社境内の西100mあたりを南北に水路があり、
1kmほど北で北川に流れ込んでいる。
水路は用水路と思われるが、よく整備されていて、
水も奇麗で、水流は穏やかだが、水量もそこそこある。
川床は砂利が敷き詰められているのか、堆積しているのか不明だが、
砂や土の堆積は見られない。
片岸は樹木が豊富で、すばらしい環境だ(写真左)。
途中に堰がいくつも設けられており(写真中)、
堰の上流では流れが停滞しているため、
アメンボがたくさん見られた(写真右)。
アメンボは肉食性で、主に水面に落ちた他の昆虫に口吻を突き刺し、
消化した液体を吸汁する。
岸の豊富な樹木から昆虫が落下し、流れが穏やかなことから
アメンボには適した環境なのだろう。
アメンボは食物連鎖で魚類や鳥類などのエサにされるが、
魚影は見られなかった。
>フィオさん

ドルメンとすると、向う側に落ちてるらしき岩が
天井石ですかね。
磁石が写っているのは
磁性のある岩ということですか?
> フィオさん

これは見たことの無い岩の配置ですね。
方位石(?)とドルメンの組み合わせですかね?
このあたりはほかにもこういうものがありますか?

大蛇同士の争いは
地方豪族の争いがあった伝承なかもしれないですね。
このあたりにも隼人はいたんでしょうか?
●境内社諏訪神社(長島香取神社)
東京都江戸川区東葛西2-34-20

旧江戸川の東葛西と浦安の間に妙見島という水滴型の中洲があり、
この島、下流に少しづつ移動していると言われている。
妙見島で二手に分かれた旧江戸川が上流側で一つになる場所から
南西に向かって長くはないが旧道らしき、
不規則に蛇行した道が連なり、
その旧道の両側に寺院、神社が密集している。
旧江戸川の西側には香取神社が多い。
香取神社の祭神、経津主神(ふつぬしのかみ=伊波比主命)は

経津=ふつ(ぷつり)=カット

から刀に関わる武芸の神とされている。
香取神社、鹿島神社が『神宮』社号を持つ本社を持つのは
皇室祖先神を祀る神社だからだが、
この地域に香取神社が多いことは
江戸川を盾にした、
皇室側の対蝦夷(えみし)前線基地があったことをしのばせる。
ここ長島の香取神社は真言宗寺院の隣にあり、
その拝殿の右奥に
狛犬ではなく、石灯籠を持った諏訪神社社殿がある(写真左)。
諏訪神社社殿から旧江戸川までは450mほど。
旧江戸川から望む妙見島側堤防には釣りを楽しむ人たちが
等間隔で並んでいる(写真中)。
上空には水鳥が飛び交っているが、
秋の旧江戸川にはイソシギが多いという。
妙見島は浦安側よりも東葛西側に寄っており、
浦安側水路は釣り船の係留地となっている(写真右)。
●天祖諏訪神社
東京都品川区南大井1-4-1

旧東海道と立会川に面して天祖諏訪神社境内はある。
旧東海道に面して西側に大きな石製靖国鳥居があり、
旧東海道から鳥居が続く敷石の突き当たりに6段の石段を持った
石柵に囲われた境内がある。
拝殿もそのまま石段の正面にある(写真左)。
大きな樹木は拝殿の前庭にあるだけで、
拝殿の背景に高層マンションがそびえていて殺風景(写真中)。
拝殿は神明造に妻入りの向拝が付いた形だが、
鉄筋造なので、単調に見えないための工夫なのだろう。
この神社でもっとも旧い人工物は拝殿前の一対の狛犬と
石柵下の石垣のようだ。
●天祖諏訪神社 水脈環境
東京都品川区南大井1-4-1

天祖諏訪神社境内に面して北側には立会川が流れている。
そこから江戸時代の海岸線、勝島運河までは200mだ。
立会川は都内目黒区にある碑文谷池と清水池を水源とした二級河川。
旧東海道から上流にある天祖諏訪神社境内脇の流れを見ると、
水は不透明な濃い緑色に淀んでおり、
境内は高くはない林になっている(写真左)。
天祖諏訪神社の南と西を迂回すると、弁天橋という名称の
鉄とコンクリートで作られた妙にしっかりした橋があった(写真中)。
このあたりは弁財天の祀られている場所が何カ所かあるので、
この近くにも祀られていたのだろうか。
弁天橋は天祖諏訪神社境内の北の角にあり、
橋の上から境内方面を眺めると、
木の枝が境内を覆い隠し、川面に影を落としている。
川床の端が一部露出しているくらい水深は浅いはずだが、
水底はまったく見えないくらい不透明で、
ほとんど流れていない状態だった。
満ち潮になると、あるいは東京湾の水が逆流してくるのだろうか。
●諏訪神社 境内
東京都品川区南品川2丁目7

旧東海道品川宿で、見落としている場所をたどり、
諏訪神社に入る、旧東海道西側の住宅と住宅に挟まれた路地の入口に到達した。
石製明神鳥居の内側に大きな樹木が1本立っている(写真左)。
拝殿は瓦屋根で、拝殿前に石門があり、その手前左右には石灯籠(写真中)。
狛犬はさらにその左右手前にある。
隣が寺院だから、神仏習合の場所だったのだろう。
拝殿前の石灯籠の根元には左右とも昇龍が絡み付いていた(写真右)。
●諏訪神社 水脈環境
東京都品川区南品川2丁目7

諏訪神社境内の800m北に目黒川が東西に流れている。
目黒川に架かる旧東海道を渡る品川橋に出てみた。
上流には夕焼け空を背景にして鎮守橋と、
その向こう側に京浜急行新馬場駅のプラットホームが見える(写真左)。
下流には新品川橋とその向こうそびえる品川火力発電所の巨大な煙突が見える。
(写真右)
これは煙突ではなく、ビルに見えるようにしてあるようだ。
●諏訪神社 境内
神奈川県川崎市高津区諏訪3-16-48

都内から246号線で多摩川を渡り、二子橋の南東600mあたり、
多摩川に沿った低地のくねった路地に入ってゆくと、
路地にまたがった石製明神鳥居があった(写真左)。
ほぼ、真西を向いている。
鳥居前には仏教系らしき石碑。鳥居の奥に森に包まれた二ノ鳥居が見える。
アスファルト舗装の左側はブロック塀で、
右側は住宅だが、奥は明王院という寺院がある。
鳥居前の路地脇にバイクを停めて、参道に入ってゆくと、
鉄パイプでつないだ、低くてまばらな石柵に囲まれた境内があった(写真中)。
正面にやはり石製明神鳥居があり、束には水色で「諏訪神社」と書かれた石額。
鳥居のすぐ奥に拝殿が見える。
拝殿には切妻の瓦屋根の軒に、明らかに後から追加した唐破風の向拝がある。
(写真右)
拝殿前には狛犬は無く、石鳥居。
祭神は相殿に

・五十猛命(イソタケル)
・日本武尊

ほかが祀られている。

拝殿の左側には鳥居を持った参道があり、
その突き当たりには
瓦屋根の小さな堂の正面をセメントで塞いだものと思われる祠。
祭神は不明だ。

諏訪神社拝殿の北400mあたりを東西に多摩川が流れ、
多摩川をはさんで、ほぼ北の対岸にも諏訪神社が存在する。
●諏訪神社 水脈環境
神奈川県川崎市高津区諏訪3-16-48

諏訪神社から多摩川堤防に出ようとして、路地を抜けている途中に
諏訪神社の北300m辺りに用水跡があることに気づいた。
どうも諏訪神社南600mあたりを流れていた用水(現二子坂緑道)から引き込み、
多摩川に合流していた用水らしい。
上流側は完全に舗装されていて、
路面を見ただけでは暗渠になっているのかどうか不明だが、
両側がツツジなどの花壇になっており、
もともと道路だったのでは無いことがわかる(写真左)。
南側は土手になっていたようだ。
下流側は道路の中央に蓋の並んだ溝が始まっており、
暗渠にするほどの水量が無いようだ(写真中)。
5月の半ばということもあって、用水跡に面した住宅の庭には
美しいマーガレットが咲き乱れていた(写真右)。
●建御名方大神(女躰神社) 境内
神奈川県川崎市幸区幸町1ー994

409号線を辿り、JR川崎駅の北300mあたりに至ると、
女躰神社(にょたいじんじゃ)がある。
多摩川までも700mほどだ。
この不思議な社名は永禄年間(1558-69)より、
女躰権現が祀られていたことによるが、
このあたりは荏原郡八幡塚(現東京都大田区南六郷三丁目) の農民が
移住した場所だったが、降雨のたびに
土の堆積、田畑の冠水、流域の変化による災害を被り、
農耕が困難な状況だった。
そんな時に一人の女性が水中に身を投じ、水害が収まった。
その女性の偉業を称えて多摩川あたりにあった「ニコニコ松」の下に
1祠を建立したという。

女躰神社の由緒書きに以下の3社が合祀されたとあり、

・八幡神社(幸町 河原厨子)
・神明社(中幸町 神明社中厨子)
・諏訪社(高幸町 諏訪社原厨子)

幸町河原厨子とは八幡神社を指すわけだが、
八幡神社にはかつて龍神とされる
比売大神(ヒメオオカミ)が祀られていたから、
水中に身を投じた女性は
龍神である比売大神に比定されたのかもしれないのだが、
現在の女躰神社の主祭神は
伊邪那岐命(イザナギ)伊邪那美命(イザナミ)となっている。

女躰神社にたどり着くと、その鳥居は珍しく、黒い明神鳥居だった。
●建御名方大神(女躰神社) 水脈環境
神奈川県川崎市幸区幸町1ー994

女躰神社の北西700mあたりを蛇行して流れる多摩川堤防に出てみた。
ここには凄いものがある。
409号線を跨いで多摩川堤防に出るための陸橋があるのだが、
なんとこの陸橋には両側にエレベーターが着いているのだ。
409号線がバイパスなら、交通の効率化が図れるので、分かるのだが、
ただの一般道に過ぎない。
片側は多摩川の堤防しか無いから、
大勢の老齢者がここを行き来するわけでもなく、
ここに大きな税金を投入する感覚がわからない。
陸橋の下には交番がある。
神奈川県警はパトカーにポルシェを導入したりしてるから、
金の使い道に困ってる県のようだ。

堤防から上流を見ると、川床に舗装された工事中の区域があった。
川は右に蛇行しており、川崎側には高層マンション、
都内側は並木(写真左)。
下流を望むと、東海道本線の鉄橋が見える。こちらも、川崎側だけがビル街で、
川は左に蛇行している(写真左)。
5月半ばの多摩川の土手にはレンゲの白い花がまっさかりだった(写真右)。
●羽村 玉川神社 境内
東京都羽村市羽中4-1-16

7月の半ば、曇天。
都内からバイクで、福生市の巨大な米軍横田基地を南側から迂回して、
多摩川に平行に走る29号線を北上していたら、神社があった。
名称は玉川神社。
入り口に石造りの靖国鳥居があり、正面に見える拝殿に至る上空は空が抜けて、
森は深くない(写真左/中)。
鳥居をくぐると、入り口脇に寄進者の名前を刻んだ、
まだ新しい大きな石碑があって、
氏子に大切にされている神社であることがわかる。
拝殿は平入の入母屋造で、拝所まで寺院のような6段の石段があり、
拝殿前には対の狛犬と並列に石灯籠が立っている(写真右)。
この神社の備品で際立っているのは大きな賽銭箱に取り付けられている
直系が30cmほどもありそうな、
真鍮製の五根の諏訪梶を浮き彫りにした神紋だった。
拝殿に置いてあった栞はペラではあるが、情報量が多く、
ここが人類史上最長の小説『大菩薩峠』の作者、中里介山所縁の神社であり、
『大菩薩峠』の盲目の剣士、机龍之助の使う、
甲源一刀流のメッカであることがわかる。
●羽村 玉川神社 水脈環境
東京都羽村市羽中4-1-16

玉川神社の南を流れる多摩川に出てみることにした。
玉川はこのあたりで、大きく蛇行している。
玉川神社境内から南にある羽村市唯一の水田地帯に下ってゆくと、
水田の一部が蓮養殖場になっている区画があった。
航空地図で見ると、この水田区域も玉川が暴れた跡であることが想像できる。
ここの蓮養殖場は睡蓮のようだが、開花期の真っ盛りのはずなのに、
白い花が3輪、見えるのみ。
その蓮畑を抜ける舗装された細い農道を通り抜けると、
この水田地帯を保護するために大正時代に護岸工事で築造された、
大正土手にぶつかった。
土手下の駐車場に愛車を停めて、大正土手に登ると、
目の前には広い野球グランドが広がり、試合が行われていた。
グランドの端を抜けて、低い土手を超えると、
砂地に大きな丸石や砂利が乗った河原が開けていた(写真左)。
河原を抜けて、川縁に出ると、地元の子供たちが川で泳いだ暖をとるために、
焚き火を焚いていた。
川の向こう岸はテトラポットで護岸してあり(写真中)、
そのテトラポットの上で、男の子たちが甲羅干しをしている。
下流方向の向かい側には樹木で覆われているが、断崖が立ち上がっていた。
●諏訪大社上社前宮
長野県茅野市宮川2030

11月中旬 夕刻
知人ら5人で、守屋山北東の麓にある諏訪大社上社前宮に向かった。
諏訪大社がほかのどの神社とも異なっているのは、
祭神は別にして、建物自体が、
知識がないことには把握できないようになっていることだ。
まず、上社と下社に別れていて、上社は本宮と前宮が存在していて、
下社は春宮と秋宮に分かれている。

境内の駐車場に入ると、広場に面して長くはない石段の下に
柱の中程に意味不明のマチエールのある銅の鳥居がそびえていた(写真左)。
鳥居の奥に紅葉したなだらかな山が萌えている。
鳥居をくぐり、石段を上がると、参道右手に拝殿らしき建物があるが、
それは神宝が安置されていた内御玉殿だという。
参道の反対側左手に、中を覗いてみたら、中に何も置いてない
板張りの部屋だけの長い建物。
ここが十間廊だが、ここで75頭の鹿の頭が供えられる行事が行われる。
ふたつの建物の間を通って、やはり長くはない、二つめの石段を上がると、
正面に「中小路(なかこうじ)」と呼ばれた、なだらかな上り坂の舗装路があって、
参道右手に塚のような場所がある。
根本から5支に別れたケヤキの巨木と杉が植えてあり、
その狭間奧に小さな石祠が祀ってあった。
その石祠が穴巣始(あなすはじめ)神事に関る御室社だ。

御室社周囲の小町屋集落はクラシカルな住宅区となっているが、
中小路の両側には前宮神殿に居館を構えていた
現人神(あらひとがみ)となる上社大祝直属の家臣たちの屋敷、精進小屋などが
建ち並んでいたという。
中小路の正面にはウラジロモミらしき背の高い樹木と、
紅葉した桜らしき樹木を左右に配置した前宮本殿があった(写真中)。

ここは拝殿が無く、塀と瑞垣に囲われた本殿になっているようだ。
現在の諏訪大社上社前宮の祭神は 建御名方命と八坂刀賣神(ヤサカトメ)。
かつては現人神である前社大祝(おおほうり)に
原始的な蛇神と思われるミシャグジ神を降して祭祀が行われたという。
案内板に

「前宮とは上社本宮に対し、それ以前にあった宮の意味とも考えられている」

とあるが、4社で構成されている諏訪大社の中で、
「前」 は
「きさき(もっとも先)」に創建された宮の意味で使用されたもののようだ。
だから、いわゆる「元宮」とは少しニュアンスが異なる。
案内板にはさらに「前宮の奥に鎮まるところが墳墓と伝えられる」とある。
すでに感じていたよりも暗くなっていたようで、
ここで撮影した写真が全部ブレていることでわかった。
拝所前の雪洞にはすでに明かりが入っていた。
前宮神域は丸石を組んだ石垣で上げてあり、そこに瑞垣が巡らせてある。
向拝に掲げられた神前幕には足が4本の上諏訪梶の葉紋。
本殿の背後はみごとに守屋山山頂西峰を向いている。

みんなで神域の左手に迂回してみると、神域の本殿の裏に、
斜めに反って途中から二股に別れたケヤキの古木が、
まだ明るい空に向かって立ち上がっていた。
その巨木に天女の比礼(ひれ)のような、あるいは、のたうつ蛇のような蔦が
絡み付いてやはり空に向かっている。
瑞垣の左奥に当る場所に
樅(モミ)の皮を剥いだ、白っぽい木肌の御柱(おんばしら)が立っていた(写真右)。
御柱の頂上はオベリスクのように尖らせてあり、頂上に取り付けた避雷針が
なんとなく十字架に見える。
この御柱が瑞垣の4つの角に立っている。
●諏訪大社上社前宮 水脈環境
長野県茅野市宮川2030

一般道になっている部分の諏訪大社上社前宮参道沿いは、
小町屋集落と呼ばれるクラシカルな住宅区と畑地になっており、
本殿前の参道左手に水量の多い水流が流れており、
『名水「水眼(すいが/写真右)」の清流』というタイトルの案内板が立っていた。
(写真左)
「水眼」という名称の由来が気になるが、その説明は無い。
水は前宮左手の瑞垣に沿って、山の上方から流れてきているが、
瑞垣の横に小さな貯水池が設けてある(写真中)。
もしかしたら、ここに精進小屋があったのかもしれない。
貯水池を経由した水はそのまま瑞垣に沿って下流に流れていた(写真右)。
●諏訪山諏訪社
愛知県名古屋市緑区鳴海町諏訪山159

1月の上旬 晴れだが気温は低い。
東西に走る国道一号線に近い南側にある諏訪山諏訪社に向かった。
地図表記の「諏訪山」とは山名ではなく、町名だが、

『緑区の歴史』(榊原邦彦著/昭和59年発行)にこうある。

「諏訪山の旧字は多く、平部山(ひらぶやま)、蛇池(じゃいけ)、諏訪、諏訪前、諏訪下、前山などである。」

町名だが、ここにある山に由来する町名であることはまちがいない。
地図には諏訪山に諏訪山諏訪社と下諏訪社が表示されている。
南東を向いた社頭には一般道を兼ねた参道両脇に幟を立てる石柱があるのみで、
鳥居はその参道の70mほど奥の突き当たりにあった(写真左)。
諏訪山に位置する鳥居前から参道と直角に一般道が始まっており、
太鼓田側の角に「村社 諏訪社」の社号標が立っていた。
鳥居脇のスペースに愛車を停めた。
すでに薄暗くなってきており、鳥居前の常夜灯には明かりが入っていた。
鳥居前に一般道との境になる石が横一列に並べてあり、
その奥には白い大粒の砂利が敷きつめてあった。
石造の明神鳥居から石段までは10m以内。
石段もそれほど長いものではなかった。
「山」といっても、標高はせいぜい、5〜6mか。
石段を上がると、参道は90度北に折れ、正面に瓦葺棟入りの拝殿があった。
(写真中)
ここの祭神は建御名方神。
拝殿の周囲は開けていて、拝殿の奥にある幣殿と本殿は
石垣の上に巡らせた瓦葺の透かし塀で囲まれており(写真右)、
幣殿と拝殿は渡り廊下の屋根でつながっていた。
本殿は銅板葺流れ造。
尾張・三河に式内社の諏訪社は存在しない。
ところが鳴海には1.7kmを隔てて2社の諏訪社が存在する。
両社とも天白川の支流、扇川と
扇川の支流、太鼓田川(ちょうたがわ)周辺にあり、
諏訪信仰と天白信仰の関わりを示している。
●諏訪山諏訪社 水脈環境
愛知県名古屋市緑区鳴海町諏訪山159

『緑区の歴史』(榊原邦彦著/昭和59年発行)によれば、
跡形もなくなっているが、かつて諏訪山には
室町期以前に造られたため池、蛇池(じゃいけ)があったという。
2月初旬に改めて蛇池の痕跡を探しに向かった。
諏訪山諏訪社の杜は諏訪山の東半分を占めているので、
蛇池は諏訪山の西側にあったはずだ。
ふたたび諏訪山諏訪社の杜に上がってみると、
午後1番の時間帯だったので、諏訪山の杜は野鳥の鳴き声で騒がしかった。
杜を西側に向かうために諏訪山諏訪社の参道の分岐道を50mほど南に向かい、
境内社の下諏訪社の前を抜けると、道は森の中を南西に向かう細道に変わった。
その道に入ってゆくと、20mも進まないうちに森を抜け、
高圧線の鉄塔の立った、開けた草原に出た(写真左)。
草はきれいに刈ってあり、低いがワイヤーネットの塀が連なっている。
その塀に沿って北西に進むと、道は下りになり
諏訪山諏訪社の杜から離れて一般道の路地に出た。
草原はその路地を抜けた先に一直線につながり、
丘の上に向かって登りになっているが、
路地を抜けた場所からは舗装となり、道と駐車場になっている(写真中)。
丘の上には高圧線の鉄塔がもう1基立っている。
諏訪山でもっとも低い場所が草原と駐車場のスペースを横切る路地なので、
(写真右)
池があったとすれば、この路地の周辺である可能性はありそうだが、
低地であることと、開けた場所になっていること以外に
痕跡は見当たらなかった。
(写真右)の左奥が諏訪山諏訪社の杜。

ログインすると、残り14件のコメントが見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

水流と水神 更新情報

水流と水神のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。