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水流と水神コミュの大己貴命(大物主神/大国主神)

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大己貴命(オホナムチ)は「大いなる“自分”を持つ貴人」の意か。

己=蛇

とする説もある。
大国主の若き日の名称であり、大神神社(奈良県桜井市)の祭神。
『古縁起』(中世)では
大三輪神(大物主神/大己貴命)には
水蛇龍〈蛟(みずち)=水霊〉という説があり。
蛟とは蛇体に四肢を有し、龍になる前の状態。
大己貴命の祀るところ蛇を殺めてはならないという禁忌がある。

●若き日の別称
国作大己貴命(くにつくりおほなむちのみこと)
大巳貴命(おほなむち)
大穴牟遅神(おほなむぢのかみ)
大穴持命(おほなむちのみこと)
於保奈牟知命(おほなむちのみこと)
●別称
大国主命(おおくにぬしのみこと)
大物主神(おおものぬしのかみ)
大国玉神(おおくにたまのかみ)
大國魂大神(おほくにたまのかみ)
八千矛神(やちほこのかみ)
八千戈神(やちほこのかみ)
葦原醜男(あしはらしこを)
葦原色許男神(あしはらしこのをのかみ)
宇都志国玉神(うつしくにたまのかみ)
●出雲国風土記における尊称
所造天下大神(あめのしたつくらししおほかみ)

《目次》
滋賀県草津市
●大巳貴命(大宮若松神社)=書き込み13/14

東京都内
●大己貴命(太田区 湯殿神社)=書き込み17/18
●大己貴命(渋谷氷川神社)=書き込み22/24
●大己貴命(新宿区 鎧神社)=書き込み5/6
●大己貴命(中野氷川神社) =書き込み15/16
●大己貴命(練馬区 石神井 氷川神社)書き込み7/8
●大己貴命(練馬区 八幡神社境内社須賀神社)=書き込み10/11
●大己貴命(目黒区 八雲氷川神社)=書き込み9
東京都東久留米市 
●大己貴命(南沢氷川神社)=書き込み1/3
奈良県吉野郡
●大己貴命(今木甲神社)=書き込み21

奈良県御所市
●大物主命(卯神社)=書き込み19

兵庫県
●末社大国主西神社(西宮神社)=書き込み25

↓MAP
http://www.google.co.jp/maps/ms?ie=UTF8&hl=ja&om=1&msa=0&ll=35.752784,139.527877&spn=0.001522,0.001532&t=k&z=19&msid=113844027188609943916.00000112a01be7ac6816f

コメント(26)

●大己貴命(南沢氷川神社)  境内
東京都東久留米市南沢3-5-8

東久留米市は武蔵野台地の中央部にあり、
名水と言われる湧水があちこちにある。
そんな湧水地のひとつ、南沢に氷川神社がある。
祭神の素戔鳴尊(すさのおのみこと)、
櫛稲田姫命(くしいなだひめのみこと)、
大己貴命(おおなむちのみこと)は
古事記に記述の見られる出雲の肥河
〈ひのかわ/現、斐伊川(ひいかわ)〉に関する
素戔鳴尊、櫛稲田姫命、八岐大蛇(やまたのおろち)の故事にならい、
湧水守護神として奉斎されたという。
素戔鳴尊は八岐大蛇の生贄になろうとした櫛稲田姫命を助け、
大己貴命をもうけた。
櫛稲田姫命には櫛を付けた女性であるところから
川の主(八岐大蛇)に仕える巫女という見方もある。

2007.4.30
愛車(バイク)で落合川をさかのぼって氷川神社に着いた時には
陽射しは強く、この年の最高気温に達していた。
杜はみごとに樹木が茂り(写真左)、
屋根のような笠木の付いた明神鳥居には
『氷川大明神』の額が掛かっていた。
鳥居からは突き当たりにある拝殿が見えている。
敷石の参道を歩いて鳥居をくぐるとすぐ左右に石灯籠があり、
その先にかすかに太鼓型の石橋(写真中)。
橋の下には現在は水が無いが、幅3mほどの水路が設けられている。
おそらく南沢の湧水が取り込まれていたのだろう。
石橋を渡るとすぐ左右に雪洞があり、そこから15段の石段。
その上に権現造の拝殿がある(写真右)。
拝殿の左奥には天照大神の社、
右奥には10段の石段を持った稲荷大明神の祠。
まったく同じ形式で祠は2棟並んでおり、
赤い幟が6本、風にはためいていた。
●大己貴命(南沢氷川神社)  水脈環境
東京都東久留米市南沢3-5-8

氷川神社鳥居前には真直ぐ南東に延びる公道があるのだが、
その西脇は森になっている。
鳥居から50m地点に竹林の私有地があり、
その中に湧水地である直系4mほどの澄んだ水の溜まった池がある。
(写真左)
周囲の地面も池の底も笹の葉で被われている。
現在、湧水は多くないようで、ここから森を抜けて
氷川神社鳥居前宮前橋(写真中)の下を流れる
落合川支流(写真右)に向けて水路がある。
森の中の水路はほとんど水が流れていないのだが、
公道脇の溝には落合川支流から水が入っている。
落合川支流の水源の支流では昭和時代には
水を飲料にできたとのことだった。
●鎧神社 境内
東京都新宿区北新宿3-16-18

神田川沿いをバイクで下っていたら、
周辺地図板があり、その近所に『鎧(よろい)神社』という
奇妙な名称の神社が表示されていたので、
覗いてゆくことにした。
おおよその見当をつけて、一方通行の道を避けて
迷路のような露地に入っていったら、
いきなり石鳥居のある神社の横に出た。
駐車場のスペースは無さそうなので、石製の垣根の端に愛車を停車。
(写真左)
その石鳥居は鎧神社の脇の鳥居だった。
神社に行った時は必ず杜の全景をチェックするのだが、
鎧神社の周囲を巡る露地は狭く、住宅に取り囲まれており、
杜全体を眺めるのは困難な状況にあった。
正面入口(写真中)にまわってみるが、樹木の寂しい境内だった。
3月末ということもあり、銀杏はまったく葉が出ていなくて、
それも寂しい原因になっていた。
やはり拝殿(写真右)はうっそうとした樹木で被われていてほしいものだ。
『鎧』の名称の由来は神仏分離令の出る以前のこの神社の名称が
『鎧大明神』であったことによる。
境内に掲げてある縁起書によると『鎧』の由来は3つある。

1ヤマトタケルが甲冑六具をこの地に納めた
2平将門を追慕して民衆が将門の鎧をこの地に埋めた
3平将門を討伐した藤原秀郷(ひでさと)がこの地で重病になり、
 将門の怨念が原因と考えて、鎧神社の近所にある
 病気治癒の薬師如来を本尊とする円照寺に
 将門の鎧を埋め、祠を建てて霊を弔い、
 その祠がこの地の産土神(うぶすなかみ)、鎮守の杜として祀られた

1説は他でもある話だし、
おそらく明治時代初期に割り当てられた話だろう。
3は1と比較してリアリティのある伝承だ。
2は3の話が大衆に人気のあった将門の方を主役にして
アレンジされたものとしか思えない。

以上の伝承でここの祭神がヤマトタケルと平将門であるのはわかるが、
ヤマトタケルに続いて大己貴命、少彦名命(スクナヒコノミコト) が
祀られている。
ヤマトタケルとの3柱はセットで祀られている神社が多い。
大己貴命は後の大国主命であり、少彦名命とともに医療の神でもある。
ヤマトタケルをはじめとしたこの3柱は神仏分離令発布時
神仏習合していた寺院を寺院と神社に解体した時に
神社に割り当てられた例が多いのだが、
根拠の無いものが割り当てられたわけではなく、
航空写真を見ると、この辺りから神田川の柏橋にかけては
樹木の連なりが見られ、途中に雨水貯留・浸透施設も存在する。
この地、柏木(旧地名)は平安朝の武士柏木右衛門の
館があったことによるもので、周囲は田畑地であったという。
神田川から見ると鎧神社は丘の頂点にあり、
田が存在したということはその間に水脈があった可能性があるのだ。
●鎧神社 水脈環境
東京都新宿区北新宿3-16-18

神田川に架かる橋で鎧神社からもっとも近い橋は万亀橋なのだが、
航空写真を見ると鎧神社から円照寺へと続く樹林は万亀橋より上流の
柏橋や大久保通りの通る橋、末広橋の方に続いているように見える。
そこで鎧神社からいったん万亀橋を通って、柏橋に行ってみたのだが、
柏橋は対岸にある東中野氷川神社との関係でさっき観た橋だった。
柏橋から上流を見ると柏橋の上流の一部だけ淵が掘り下げてあるようで、
途中から水流は川幅の1/3になるように調節してある。
東中野方面からの暗渠が合流していることと(写真左)
関係しているのかもしれない。
逆に下流の方を見ると水面は川幅一杯に戻してある(写真中)。
こんどは柏橋から鎧神社の方に直接向かってみることにした。
柏橋から道なりに鎧神社方面に向かうと北新宿公園にぶつかった。
この公園は地下に貯水地があり、雨水貯留・浸透施設になっていて、
表面はグランドになっている(写真右)。
北新宿公園を迂回してさらに鎧神社方面に向かうと急に上り坂になり、
図書館などの公共施設、の脇を抜けると円照寺があり、
鎧神社は円照寺の鬼門の方角にある。
『鎧(よろい)』はどうも円照寺の鬼門封じとしての意味があるようだ。
●大己貴命(石神井 氷川神社)境内
東京都練馬区石神井台1-18-24

バイクで三宝寺池南側の住宅街の露地に入ってゆくと
石の垣根のある氷川神社の前に出た(写真左)。
神社入口のすぐ前に愛車を停めた。
入口の南向きの鳥居はそれほど大きくはなかったが、
社殿は屋根の高い、しっかりした社殿だった(写真中)。
本殿の後が三宝寺池になっているのだろう。
参拝客は休日の製もあるのか、途切れることが無く、
人気のある神社だった。
境内に立っている説明板によるとこの地の領主だった豊島氏が
応永年間(1394〜)に石神井城内に武蔵一ノ宮から分霊を奉斎して
創建したのが始りという。
祭神は須佐之男命、稲田姫命、大己貴命の三柱。

ここでは小さいながらも神田があって古代米を栽培しているらしい。
ここに行ったのは5月の初めだったが、下旬には田植えが行われ、
11月23日の秋の新嘗祭の時に収穫された米が
神前に供えられるという。

鳥居を出るとその前は石のブロックを組んだ直線道路が
南にまっすぐ延びており、その両側は住宅街になっている。
もしかして大鳥居があるのかと、辿ってみると
100mほどその先にの角、片側に『石神井 氷川神社』の石柱、
両側に石灯籠があった(写真右)。
どうもこの直線道路は参道だったらしい。
●石神井氷川神社 水脈環境
東京都 練馬区 石神井台1-18

氷川神社の本殿の真後ろから40mほどの地点は
すでに三宝寺池なのだが、
その間には森があって、直接池に出ることはできない。
100mほど北西の三宝寺池の中に出島があり、
氷川神社で管理をしている厳島神社がある。
そちらにバイクで移動して氷川神社の真後に迂回してみた。
そこには知らなければ対岸に見えるような大きな島があって、
5月の初めだったが島側には蓮の葉が群れているのが見えた。
(写真左)
睡蓮(俗称水蓮)はエジプト原産と言われているが、
蓮の原産地はインドとも東南アジアとも言われる。
蓮と睡蓮は近縁だとされてきたが
遺伝子による調査では
系統的には離れていることがわかってきているそうだ。
蓮を眺めていたら、頭上の枝に野鳥がやって来た(写真右)。
ユーラシア、アフリカに分布する水辺に住む小鳥で、
日本列島では当初、北海道や東北地方などの北部で繁殖していたが、
近年、繁殖地が南下してきているという。
水辺で棲息するのは
水中や湿地などに潜む虫やミミズなどを食べるためなのだが、
三宝寺池のような住宅街にある池に棲息するものは
パン屑などの人間食べこぼしも摂取するようになってきているという。
●大己貴命(八雲氷川神社) 
東京都目黒区八雲2-4-16

神社の杜に興味を持つようになって、最初に行ったのが
八雲氷川神社だった。
1月末の週末に近所で用事を済ませて、
地図をみたら神社のマークがあったので寄ってみることにした。
2007年の冬は嘘のように暖かかった。
辿り着いたのは八雲氷川神社の拝殿に近い場所の脇道だった。
バイクを露地に停めて参道の脇から境内に入ると
三ノ鳥居の前に出た。石鳥居だ。
鳥居前に由来書きが掲示してあり、祭神は

・素盞嗚尊(スサノオノミコ)
・稲田姫尊(イナダヒメノミコト)
・大己貴命

となっていた。日本書紀に従えば親子を祀ったわけだ。
素盞嗚尊は父伊弉諾(イザナギ)から海を割り当てられた神。
稲田姫尊は八岐大蛇(ヤマタノオロチ=水流?)の生贄だった神。
ふたりの息子の大己貴命は生まれながらの水霊だったことになる。
境内に隣接した寺院が隣にあることからも神仏分離により
本地垂迹説にしたがって
牛頭天王社(ゴズテンノウシャ)が姿を変えたものなのだろう。
3段の石段を上がって三の鳥居をくぐり、
参道を進んでさらに3段上がると
左手に絵馬堂があった。大絵馬がいくつか奉納されているが
どれも絵が色落ちてしまっており、
八岐大蛇退治の大絵馬だけがかろうじて内容が判断できるような状況だった。
こういう旧い創作物を見ると、
自分がグラフィックな仕事を生業にしているものの、
平面である“絵”は印象が薄いなと思う。
どんな大家の描いた大作も
石工の作った石像に及ばないなと思うことがある。
石造物をたくさん見てきていると、
石材も実は考えてるほどは耐久力が無いことがわかる。
火災で燃えてしまったり、強風で折れてしまうことはあるが、
生きている樹木は育ちながら1000才以上のものはいくらでもある。
石の細かな造作は1000年風雨に当たればかなり磨耗する。
磐座のようにひびが入って割れてもその価値に変わりないものもあるから、
どちらが長持ちするかは一概に言えないところがあるが。
いずれにしても人類は古代から
山、島、湖、岩、樹木、金物、人為的な仕組みなど、
さまざまな物質や形式をうまく利用して
神をそこに見たり、降ろしたりしてきた。
その中でも個人的にもっとも興味の持てないものが拝殿だ。
その日も拝殿は飛ばして
拝殿と社務所の渡り廊下を潜って奥を見に行った。
拝殿の脇や奥には祠が祀られていることが多く、
明治時代に入ってから祀られるようになった本殿の神と違って、
もともと祀られていた土着的な神や周辺に祀られていた神社が
そんな場所に持ち込まれているのだ。
現在祀られている表向きの神よりも
そんな土着的な神がどうしても気になるのだ。

拝殿の裏に巨大な切り株が祀ってあった。
それはアカガシの御神木だということで、
樹皮を煎じて呑むと癪封じのご利益があるといわれ、
樹皮をはぐ者が後を絶たなかったために
枯れてしまったものとのことだった。
その奥には立派な石鳥居と参道があり、
参道の突き当たりに狛犬を供えたコンクリート造りの祠があった。
軒下にクラシックな照明ランプまで下がっている。
それはなんと稲荷社だった。
狛犬の奥に狐像が隠れていたのだ。
朱色は鈴紐に使われている五色の色に混じっているだけで
ほかにはいっさい使われていない、艶を消し去った稲荷社だった。
この稲荷社の後ろの壁が八雲氷川神社の最奥の壁だった。
拝殿前に戻ると節分の豆撒きの準備で
櫓が組んであったりすることもあって、
稲荷社前のような落ち着いた雰囲気は無く、
どうも雑多なバイブレーションに溢れている(写真左)。
真南に延びる参道を逆に辿る。
両側にはアカガシ等の老木が繁るが、閑散としてやはり落ち着かない。
一ノ鳥居を出ると、目の前は商店街で、
杜を振り返って見るが、やはり落ち着かない(写真中)。
呑川を暗渠とした緑道(写真右)は
一ノ鳥居から真南50m辺りを通っている。
その両側は閑静な住宅街で、
そこまで出てきてやっとほっとするものがあった。
●大己貴命(八幡神社境内社須賀神社)境内
東京都練馬区高松1−16

環状8号線を南下している時に通りかかったのが高松 八幡神社。
2度目は石神井川沿いを下っている時に遭遇した。
5月の初め、八幡神社の森は
一の鳥居前の銀杏を初めとした古木が新緑を爆発させていた(写真左)。
一ノ鳥居は明神鳥居だが、6、7m先には朱塗りの権現鳥居があり、
その先に30段ほどの登り石段があるのだが、
石段左手前の崖の窪みに大山大聖不動明王を祀った一画がある。
雨乞いの山として知られる大山詣でをするこの神社の氏子たちは
ここでお参りをして、
南120mあたりを流れる石神井川で身を浄め、出発したという。

小高い樹木の包まれた拝殿の左脇奥に
天王宮と須賀神社のための鳥居を持った参道がある(写真中)。
天王宮の祭神は須佐之男命(牛頭天王)。
須賀神社(写真右)の祭神は

・須佐之男命
・奇稲田姫命
・大己貴命

の両親と息子。
須賀神社は八幡神社の未御湧き奥に在る連棟末社にも祀られている。
●大己貴命(八幡神社境内社須賀神社)水脈環境
東京都練馬区高松1−16

八幡神社一ノ鳥居の真南120m地点を流れる石神井川は
江戸時代には禊ぎが行われたと言うが、
そこに渡された道楽橋から上流を見ると、
現在の水量は少なく、水流も穏やかで、
カーブのコナー部分には土砂の堆積が見られる(写真左)。
一方、下流側の水面を見ると、ごく低い堰が設けられており、
川登りをする魚のためだと思われる水路が設けられている。
(写真中)
なぜここに堰が設けられているのかはよくわからない。
まさか、江戸時代に禊ぎをするためにある程度の水深が必要で
設けられた堰の名残りではあるまいと思うのだが。

道楽橋の『道楽』はいつの時代の話なのか不明だが、
この橋を架けるために農民を集めようとしたが、農繁期で集まらず、
いつまでも橋が架からないので、
まるで道楽で橋をかけていると言われたのが由来だという。
いつの時代も、空気の読めない役人はいるようだ。
現在の道楽橋は1990年にできたもので、橋中央左右に
街灯が設けられており、観覧のための膨らみも設けられている。
(写真右)
道楽橋はごく短い橋であり、
現在はなぜここにコストをかけているのかは不明だ。
堰が設けられていることで、水深が確保でき、
水鳥か鯉でも眺めることができたのだろうか。
●大宮若松神社 境内
滋賀県草津市南山田町776

am7:00 息子とタンデムで
近江八幡で宿泊したビジネス・ホテルを出た。
気温は涼しいが、Tシャツ1枚でも寒くはない。
街で朝食のできそうな店を探すが、
それらしき外食産業はまったく見あたらなかった。
近江八幡市は来る前に想像していたよりも小さな町だ。
「琵琶湖に沿って走ろうよ」という
息子のリクエストでそのまままっすぐ琵琶湖に向かい、
食事は店の開くam10:00まで我慢して、
琵琶湖の望める奇麗な場所でということにし、
琵琶湖畔を周回する自動車道を湖南へ向かった。

湖南に向かったのは日本に2氏族しか存在しない、
自分の姓である『横江』姓の集中している
草津市の北山田町に向かうためだった。
この情報は横江姓のコミュニティーのメンバーから知った。

非常に大ざっぱな地図しか用意してなかったので、
ほとんど無計画で“感”で動く。
これが方向転換、その場駐車の自由度の高い、
バイク・ツーリングの楽しみだ。

水田地帯を貫く自動車道から1本入った路地に
石製明神鳥居を見つけた。
入口は東を向いており、前と側面の路地の端には用水路がある。
参道には鳥居から真直ぐプレーンな敷石が敷いてあるのだが、
その突き当たりは建物ではなく石像の乗った基壇だ。
両脇には石灯籠があり、
像の真後にウラジロガシらしき背の高い樹木が1本直立している。
近くでその石像を見てみると、
それは烏帽子を被った猿だった(写真左)。羽織も着ている。
由緒によると上古、出雲国より出でました大巳貴命が伴ってきた
神使の猿ということだ。
猿像の前で参道は90度北に折れ、入口と同じく石製の明神鳥居があり、
その両手前には石灯籠。
参道は真直ぐ正面の拝殿(写真中)に向かっている。
拝殿はこのあたりの神社で標準になっている4方の壁の無い形式のもの。
手前両側に狛犬がある。
拝殿の左に回ると、拝殿の方を向いた境内社が2つあった。
両方とも囲いと瓦屋根の門を持った立派な神社で、
大市神社と小市神社とされている。
由緒では山田町あたりは
延喜年間姓氏録に名を連ねる山田宿弥(やまだのすくね)、
大市首(おおいちのおびと)らの豪族によって開発されたとしている。
大津市在住のYagikenさんによれば
朴鐘鳴氏編の「滋賀の中の朝鮮」では
大市首は大和に本拠をもつ任那からの渡来人豪族で、
その一部が草津に来たのだろうとしているという。
本殿の背後に古墳があり、
大市神社と小市神社は元はそこに祀られていたという。
大市神社の祭神の大市比売命は須佐之男命御后とされている。
小市神社の祭神は不明だが、比売(ひめ)なのではないだろうか。

本殿は3本の勝男木と千木を屋根に乗せた神明造の
屋根瓦を葺いた門と塀を持っている。
門の両脇には狛犬と石製雪洞。
3本の勝男木と外削ぎの千木が男神、大巳貴命(大国主)を表わしている。
●大宮若松神社 水脈環境
滋賀県草津市南山田町776

大宮若松神社前の用水路は幅、1.5mほど(写真左)、
大宮若松神社境内南側に沿った用水路は幅2mほど(写真右)で、
こちらは700mほど西に流れ、川手川に合流している。
量水路ともに水量は少ないものの流れはある。
大宮若松神社境内から1400mほど西に琵琶湖の海岸線があるが、
200年前には水位が高かったようで、境内から400mあたりから
川手川が急に太くなっているところを見ると、
そのあたりに海岸線が来ていた時代もありそうだ。
●中野氷川神社 境内
東京都中野区東中野1-11-1

バイクで山手通を走っていたところ、鳥居が見えたので覗いてみた。
石鳥居をくぐると、参道の左手に大きな社務所ビルがあり、
境内に沿った蛇行した路地が平行しているのだが、
境内と路地の間には垣根がなく、妙な神社だなと思った。
境内脇の笹薮には徳利と勧進帳を持った狸の石像が立っていて。
神仏習合の場だったことが想像できる。
境内に入ると、入って来た入口は脇の入口であることがわかった。
境内の隅には庚申塔があり、
その前に朱の鳥居を2基重ねた稲荷社があり、
ひとりの女性がしっかり参拝していた。
稲荷社は祠の後ろに植えられた榊の葉で被われていた。
隣に石垣を組んだ基石の上に祀られた木製の祠があった。
電話で問い合わせてみたところ、
海や塩の神、塩土老翁神を祀った塩竈神社であることがわかった。
驚いたことに拝殿(写真左)はそんな稲荷社と塩竈神社と相向いに建っていた。
見たことのない配置だ。
拝殿は落ち着いた赤を主体に金の飾りをポイントにした華やかな雰囲気。
最初に行ったのは2月の初めだったので、森は少し寂しかった。
石段を下って、南側の入口(写真中)を見に行ってみると、
一の鳥居は石製神明鳥居。
参道両側は一般の住宅が並んでいる。
二の鳥居前には大きな石灯籠が2基並んでいる。
境内の由緒書きにはこの神社が旧中野村の総鎮守社で、
長元3年(1030)に武蔵一の宮である大宮(埼玉県)の氷川神社から
勧請されたとある。
江戸時代にはこの地で護摩修行が行われたということだ。
●中野氷川神社 水脈環境
東京都中野区東中野1-11-1

氷川神社一ノ鳥居前から参道の延長のように
道路が130mほど南の車道に伸びており、
車道に平行する形でマンション群の裏道のように
桃園川緑道(写真左)が走っており、
川は暗渠となって、
地表はコンクリートとタイルのたたきが交互に連なっている(写真中)。
緑道両側の煉瓦の花壇は緑が豊富。
にもかかわらず、あまり居心地の良い場所になっていないのは
コンクリートのたたきが視覚的に渇いた印象を与えるからだろうか。
表通りの歩道が狭いこともあって、
この緑道を利用する人は多いようだ。
夜間の対策として、暗い場所には照明(写真右)も設けられている。
しかし、日本は通勤帰りの女性が住宅街で簡単に拉致されて、
殺害されるという、完全に危険な場所になってしまった。
●湯殿神社 境内
東京都大田区南馬込5-18-7

昔、この近所に2年ほど住んでいたことがある。
前を何度も通っていたのに、入口が表通りから引っ込んで、
マンションに挟まれた奥にあるので、
この神社の存在にまったく気付いていなかった。
このすぐ近所にある大田区立郷土博物館内の展示パネルに
この周辺の神社が表示してあり、それで発見した。

バイクで湯殿神社に向かったが、やはり正面入口が発見できずに、
20段ほどの石段の上にある社殿を見つけたときは
社殿の脇の入口に居た。
脇入口の横は公園になっていた。
境内に入ると、すぐ拝殿の前に出た。
拝殿は屋根が雨漏りでもあるのか、ブルーシートが掛かっていた。
拝殿の左脇には稲荷社があったが、
右脇には細くて曲がった短い登りの石段があって、
その階段を登り切ると正面に格子戸の付いた社があった(写真左)。
傍らには根元から幾筋にも幹の分かれた大きな樹木が立っていた。
季節は夏の初めだったが、幹の下に枯れ葉が散っていた。
その社と同じ高さに本殿もあった。

拝殿前に戻り、正面入口を見ようと思って拝殿前の急な石段を下ると、
石段の途中に蚊取り線香が置いてあった。
そこから下を見ると、境内は生活空間になっており、
洗濯物が干してあったりして、あちこちで蚊取り線香が燃えている。
石段の下には社務所があり、住居になっているようだ。
その前を通りかかったところ、
中年の女性が玄関から出てきたので、声を掛けてみた。

拝殿裏のさっき見た社に何が祀られているのか聞いてみたところ、
『権現』という返事だった。
何権現なのか再度尋ねるが、ただ『権現』と呼んでいるとのことだった。
元は近所にある寺院からここに移されたものだということだった。
湯殿山権現としか考えらなかったが、ここに住んでいた時は
近所に温泉があるという話は聞いたことが無かったので、
念のためにこのあたりに温泉があるか聞いてみると、
温泉は聞いたことはないものの、今でも井戸水は豊富で、
水道水は使っていないとのことだった。
境内でもっとも高い本殿のさらに上には
現在はマンションと畑が少しあるが、
それでも大田区の住宅街で井戸水が豊富に出ていたとは驚いた。
現在の祭神は湯殿山権現の垂迹神のひとつである大己貴命になっていた。
結局、社務所前で1時間も立ち話をしているうちに
夕方になってしまった。

再度、昼間に湯殿神社神社を訪づれ、
こんどは正面入口から入ってゆくと、
前回気付かなかった慈母観音や地蔵菩薩などの石像が
権現鳥居前の巨木の前に並んでいた。
やはり、神仏混淆の場だったのだ。
昼間見ると、権現鳥居の素木がとてもよい色に変色していて(写真中)、
この神社にあるもので、いちばん素晴しい人工物だと思った。
短い石段を上がると
境内の入口には左右に雄雌の銀杏の巨木があり(写真右)、
これが権現鳥居に負けない好い樹だった。
●湯殿神社 水脈環境
東京都大田区南馬込5-18-7

南馬込に住んでいたころ、息子はまだ2才で
湯殿神社の西に面した湯殿公園にはよく遊びに来た。
ここには木製のよく出来たアスレチックがあったのだ。
この公園には遊具のある広場の端に
武家屋敷をイメージさせるような
複数の岩の置かれたをせせらぎがあって、
美しく石の組まれた石垣に設けられた水口から水が流れ落ちていた。
だが、その石垣の上に組まれた竹垣から先が
神社(湯殿神社)であることにはまったく気づいていなかった。
水口から落ちていた水は湯殿神社の井戸水だったらしい。

17年ぶりに湯殿公園のせせらぎを見に行ってみたところ、
木製のアスレチックと
息子の好きだったカラフルな動物にまたがって揺らせる
スプリング遊具は無くなっており、
水口から水は落ちていなかった(写真左)。
もちろんせせらぎの水も枯れていた(写真中)。
公園内で暗渠に流れ込んだ水は
そこから120mほど南に東西に伸びる遊歩道である、
南馬込桜並木(写真右)の地下を流れる暗渠に流れ込んでいるようだ。
この桜並木の桜は有名で、満開時にはこの遊歩道は
毎年、花見の人手で大にぎわいになる。
●大物主命(卯神社)
奈良県御所市大字奉膳

和歌山線、近鉄吉野線の吉野口駅の南で
両線の上を超える陸橋から枝道の120号線に入り、
曽我川沿いの
卯神社(うじんじゃ)という変わった名称の神社前に着いた。
コンパクトな境内だった。
玉垣で囲われた内陣の前に石製明神鳥居、石灯籠、狛犬が並び、
(写真左)
その前は何もない空間があり、鳥居と相向かいに
作業場に使用できるような正面だけ壁の無い建物がある。
頭を下げて鳥居をくぐると正面に大物主命の祀られた春日造の本殿。
屋根は銅板で覆われた桧皮葺。
左右に春日神社と稲荷神社らしき末社の祠。
石柵内はそれでいっぱいで、それを樹木が覆って、
森になっている。
本社は吉野郡今木の神社が洪水でここに流されて来たのを、
拾い上げて祀ったものという。
洪水の多かった多摩川にもこの手の話はあるが、
流れてきたものを返却しないで、
自分のところに堂々と祀ってしまうというのが面白い。
隣の庭から飛んできたTシャツを平気で着ているようなものだが、
こういう場合は神様の意志でやってきたものと見なしたのだろうか。
洪水があったのが、卯年だったのか。
卯神社境内右にある薮に入り、森を抜けると
紅色に塗られた鉄の端が架かっており(写真中)、
足下を、水量は少ないが、透明な水が流れ、
川の土手は茂った植物で覆われていた(写真右)。

卯神社のある『奉膳(ぶんぜ)』という地名は
後醍醐天皇が吉野へ向かうときにこの村で休息を取り、
村人が天皇に食事を奉ったことに由来しているという。
●大己貴命(今木甲神社)
奈良県吉野郡大淀町今木小字畑中

309号線から1本路地を入った場所に
甲神社があった(写真左)。
境内は奥行きが浅く、左右に広がり、長屋風拝殿の後ろは山で、
深い森になっていた。
拝殿右奥には祀られた太い神木が立っていた。
社務所があり、年配の女性がお世話をしていた。
その女性に神社名の読みを「かぶとじんじゃ」教えていただいた。
神社名の由来はなんと、
蘇我入鹿の甲と鎧を祀られていることによるという。
兜を祀った神社は全国に見られるが、
蘇我入鹿とはさすがに大和だ。
祭神は

・大己貴命
・素戔鳴命
・月読命
・保食命(入鹿大明神)

となっている。

今木甲神社から南25mあたり、
309号線の向かい側を平行して流れる曽我川を見に行き、
橋を渡って、邪魔にならない場所に愛車を停めると、
大きな製材所があり、
仕事が終わった後の談笑をしていたふたりのおじさんが
驚いた顔でこちらを見ている。
この先は袋小路のようで、
よそ者がここに入ってくることはないのだろう。
曽我川は川床の半分以上が土の堆積によって雑草で覆われており、
水量も多くなかった(写真中/右)。
●渋谷氷川神社 境内
東京都渋谷区東2丁目5-6

以前、並木橋(渋谷区)に住んでいたのに、
当時は神社に興味の無いころで、
渋谷氷川神社はいちども覗いたことが無かった。
ほかの場所に住むようになって、
庚申塔に興味を持ってから、初めて氷川神社を覗いたのだが、
その頃は庚申塔も氷川神社の性格も呑み込めてなかったので、
氷川神社は「おもしろいものの置いてない神社」
という判断をしていた。
今考えると、ぼくの“おもしろいもの”とは
密教系のものや神仏混交したものであった。
氷川神社は元は牛頭天王社だから、
神仏混交の場なのだが、
祭神が神仏分離令で牛頭天王からスサノオに変更された時に
仏教的な要素は排除されたが、
仏教とともに伝来したものの、
宗教施設以外でも照明装置として定着していたためか、
石灯籠は残されていることが多い。
南西向きの入り口のひびの入った渋谷氷川神社門柱を過ぎて
石畳が一直線に伸びる参道を進むと、
ここには石製明神鳥居の一ノ鳥居の手前両側に
石灯籠の大きな基礎だけが残っていた。
大戦の難は免れたというから、関東大震災の被害を受けたのだろうか。
参道(写真左)には鬱蒼とした樹木の葉が被いかぶさり、
石段を含めて南南東を向いた本殿前まで
200mの自然のトンネルになっている。
その参道の左手には参道からも入れる公園があり、
家族連れが何組も居る。
反対側の右手には高野山真言宗宝泉寺のコンクリート塀が連なっている。
渋谷氷川神社は江戸時代には下豊沢村の総鎮守で、
以前は氷川大明神と言った。
氷川大明神とは仏法の(祇園精舎の守護神)
牛頭天王の信者を守護する神のことだ。
これが隣に神仏混淆の密教寺院のある理由だ。
『江戸名所図会』には渋谷氷川神社に関して、

「渋谷川の端にあり。
相伝ふ、右大将頼朝卿の勧請なり」

と、足立郡を中心に武蔵国の総本社であった氷川神社(さいたま市)から
から氷川大明神が勧請されたことが書かれている。
しかし、渋谷川に面していたとは驚きだ。
渋谷川は現在、境内門前の西南120m地点を南北に流れているが、
渋谷川の流れが変わったのではなく、
おそらく、牛頭天王を祀った寺院境内が
現在の渋谷川に面していたのだろう。

だが、氷川神社の『御由緒』には

『創始は非常に古く、現在これを詳らかにするものはありませんが、
慶長10年(1605)当社別当宝泉寺第百代住職・実円の記した
「氷川大明神宝泉寺縁起」によると、
景行天皇の御代の皇子日本武尊東征の時、
当地に素盞鳴尊を勧請した』

と、頼朝が氷川大明神を勧請するはるか以前に
日本武尊が素盞鳴尊を勧請したとされている。
江戸末期まで江戸各地に祀られていた牛頭天王は
各氷川神社縁起には影も形も無く、
氷川神社の『御由緒』はどこもおおむねこんなことになっている。

さて、一の鳥居の突き当たりにある長くはない石段を上がると、
脇入り口からの参道が集合する広い踊り場があり、
そこからさらに短い石段があり石段の上に石製明神鳥居がある。
(写真中)
その二ノ鳥居をくぐると先は突き当たりで、
左に

・素盞鳴尊
・稲田姫命
・大己貴尊
・天照皇大神

を祀った拝殿(写真右)に向かう参道。
右手に境内社の稲荷神社と厳島神社の社殿が建っている。
ちょうど、境内社をダーク・スーツ姿で掃き清めている人がいて、
境内は塵はおろか、砂1ツブも無いくらい奇麗だ!
境内の樹木は豊富で、拝殿は直前に立たないと全貌は臨めない。
拝殿右脇には境内社の八幡神社と秋葉神社の小さな社とが並んでいた。
●渋谷氷川神社 水脈環境
東京都渋谷区東2丁目5-6

『江戸名所図会』には渋谷氷川神社の前身であった氷川大明神に関して、

「渋谷川の端にあり。
相伝ふ、右大将頼朝卿の勧請なり」

と、氷川大明神が渋谷川に面していたことが書かれている。
渋谷川(写真)は現在、境内門前の西南120m地点を南北に流れているが、
渋谷川の流れが変わったのではなく、
おそらく、牛頭天王を祀った寺院境内が
現在の渋谷川に面していたのだろう。
渋谷川の氷川神社にもっとも近い地点(写真左)は
明治通りに面したビル街の裏側を流れている。
深度は7mくらいあって、ふだんは水量は少ないものの、
大雨が降れば、あっという間に
その80%以上が水流に埋まるのを何度も見ている。
橋の上から水面を覗き込むと、
この辺りは川底のコンクリートのマチエールの影響のせいで、
予定外の美しい波紋を見せながら
水はスムースに流れている(写真中)。
70mほど上流には氷川橋という橋があり、
氷川橋を渡った道路はそこから車道となって緩やかな坂道を上がり、
氷川神社脇入り口に連なっている。
●大国主西神社(西宮神社末社)
兵庫県西宮市社家町1-17

祭神は、大己貴命と少彦名命。
創建年不祥、延喜式神名帳に載る。
現在の社は、元は阿弥陀堂という仏堂で、享保20年(1735年)に、二神が勧請されています。
●飛瀧神社(熊野那智大社別宮)
和歌山県那智勝浦町那智山

「飛瀧」と書いて、「ひろう」と読みます。
いわゆる那智の瀧です。
瀧が御神体です。
祭神は、大己貴神。
本地仏は、観世音菩薩。
大瀧守護は、不動明王です。
この神社には、本殿もなければ拝殿もありません。
直接瀧を拝みます。
ここで立てる法螺貝は、最高に気持ちが良いです。

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