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X JAPAN画像&動画 HMコミュのX JAPANのProfile&Biography

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X JAPAN(エックス ジャパン)は日本の代表的なロックバンド。1989年にX(エックス)としてメジャーデビュー。その後1992年にX JAPANへと改名する。1997年解散。通称としてXと呼ばれる。

コメント(23)

概要
1982年、千葉県館山市で当時高校生だったYOSHIKIとTOSHIを中心に結成。後に「ヴィジュアル系」といわれるロックの先駆者的存在とされ、ロック界のみならず日本の音楽業界、J-POPにおいても様々な意味で多大なる影響を与えたバンドである。そんな彼らの活躍はJanne Da Arc、Dir en grey、ナイトメアなどに影響を与えている。


メンバー
Drums & Piano:YOSHIKI(ヨシキ、1965年11月20日 -) (リーダー) [1982-1997/09/22]
(ex.DYNAMITE⇒ノイズ⇒エックス⇒X JAPAN)


Vocal:TOSHI(トシ、1965年10月10日 -)[1982-1997/04]
(ex.DYNAMITE(ギター)⇒ノイズ⇒エックス⇒X JAPAN)


Guitar:HIDE(ヒデ、1964年12月13日 - 1998年5月2日) [1987-1997/09/22]
(ex.サーベルタイガー⇒エックス⇒X JAPAN)


Guitar:PATA(パタ、1965年11月4日 - ) [1987-1997/09/22]
(ex.ブラックローズ⇒ジュディ⇒エックス⇒X JAPAN)


Bass:TAIJI(タイジ、1966年7月12日 -) [1985, 1986-1992/01/07]
(ex.トラッシュ(ギター)⇒ディメンシア(Ray)⇒ブローラー⇒エックス⇒ファティマ⇒デッド・ワイヤー⇒エックス)


Bass:HEATH(ヒース、1968年1月22日 -)[1992-1997/09/22]
(ex.パラノイア⇒カオスモード⇒ビート・スィート(ボーカル)⇒スィート・デス⇒メディア・ユース⇒マジスティック・イザベル⇒X JAPAN)


以上は1987年以降のX、1992年からのX JAPANメンバーである。Xのアマチュア(インディーズ)時代にはメジャーデビューするメンバーに固まるまで度々メンバーチェンジが行われていたために、「元X」の経歴を持つミュージシャンは数多く存在する。

インディーズ時代の旧メンバー(一部)
TERRY(テリー)(YUJI(ユウジ))ギター [1982-1985]:YOSHIKIとTOSHIの高校の同級生。
TOMO(トモ)ギター [1984-1985]
ATSUSHI(アツシ)(TOKUO(トクオウ))ベース [1985]:YOSHIKIとTOSHIの高校の先輩。
EDDIE(エディー)ギター [1985]
HALLY(ハリー)ギター [1985]:現United。TAIJIが最初に加入した時に連れてきたギタリスト。
JUN(ジュン)(SHU(シュウ))ギター [1985,1986]
ZEN(ゼン)ギター [1985-1986]
HIKARU(ヒカル)ベース [1985-1986]
KERRY(ケリー)ギター [1986]
SATORU(サトル)ギター [1986]
ISAO(イサオ)ギター [1987]:バイク事故により脱退。後に臨時ギタリストであったPATAが正式加入。
大魔神五人組
大魔神五人組(だいまじんごにんぐみ)とはXだったころに、主にファンサービスとして行われていたXのパートチェンジバンドである。
メンバーは、


Vocal:HIDE
Guitar:YOSHIKI
Guitar:TAIJI
Bass:PATA
Drums:TOSHI
バンド名の由来
Xというバンド名は、Xという字が本来持っている「無限の可能性」という意味がこめられている。結成当初は、「正式なバンド名が決まるまでの仮の名前」であって、「1文字だとコンテストのパンフレットで目立つから」という、軽い気持ちであった。 その後、アメリカに同名のバンドが存在することが分かり、1992年8月HEATH加入発表と共にX JAPANへと改名する。

来歴

結成から東京進出まで
幼稚園の頃からの幼馴染だったYOSHIKIとTOSHIは、小学校高学年でアメリカのロックバンド「KISS」の話をするような少年であった。小学校6年生の時に「一緒にバンドを組もう」と約束をした、とされる。中学生の時に「DYNAMITE」(1978-1980)、後の「NOISE」)(1980夏-1982)を結成。中学校の予餞会が初ライブだった。通っていた中学校が生徒増加で分割してしまい、ヴォーカルが別の中学に編入されてしまった為、当初ギターだったTOSHIがヴォーカルになった。地元では進学校として有名な安房高校に進学した2人は、その後もバンドを続けていたが、進学問題で他のメンバーが脱退。他校のメンバーを加えて1982年に始めたのがXだった。

当時のXは、コンテスト荒らしとして地元では有名なバンドで、TOSHIはバレーボール部と掛け持ちしていた為に、坊主頭で出場していた。

幼少の頃からピアノを習っていたYOSHIKIは、高校生当時「勉強もできてピアノも弾けるが、不良」という、学校にとっては厄介な存在だった。当時の様子をYOSHIKIは「バリカンを持った先生に館山市内を追い掛けられた」と、テレビ朝日「徹子の部屋」出演時に回想している。金髪リーゼントなのに期末試験ではトップクラスの成績、学校行事ではピアノを演奏するなど、当時から異彩を放っていた。

※ちなみに「笑っていいとも」などのトーク番組出演時に、YOSHIKIは他にも「ピアノの先生から『転ぶときは手をつかずに顔から転べ』と言われていた」などのエピソードも披露している。また上記「徹子の部屋」番組中、当時のX最高速曲は「Stab Me In The Back」だったにもかかわらず、過激過ぎると判断したのか、Xの1番速い曲として「ROSE OF PAIN」のツーバス連打部分を紹介している。

高校卒業後の進路として武蔵野音楽大学へ推薦入学するはずだったYOSHIKIは、クラシックに対して行き詰まりを感じ、入試1週間前の1984年1月に突如入試を断念してしまう。YOSHIKIは、ロックバンドとして成功する道を選び上京。TOSHIも、バンド活動の為に都内の調律の専門学校へ進学。こうして2人は活動拠点を東京に移した。

インディーズ時代
上京後の2人は、何のツテもない状態でメンバーやライブハウスを探し、1年後の1985年にはバンドとしての体裁を何とか整えられるようになる。6月、初のシングル「I'LL KILL YOU」をDADA RECORDSからリリース。YOSHIKIの母親が300万円出資し、有限会社として自身のレーベル「エクスタシーレコード」を設立。1986年4月に「オルガスム」をリリースする。この頃になるとファンもある程度定着したが、メンバーが常に流動的だった。販売が好調だった「オルガスム」を再プレスできなかったのは、この為である。

この頃のXは、日本テレビ「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」の「ヘビメタコーナー」に出演していた。「早朝シリーズ(就寝中の芸能人の部屋に侵入し、バズーカなどの爆音で起こす名物コーナー)」の一つである「早朝ヘビメタ」や、ステージ衣装のままで競技を行う「ヘビメタ運動会」などで話題となる。当時の放送では、YOSHIKIとTOSHIはそれぞれゲイリー・ヨシキ、オジー・アキラと名乗っていた。また、同番組の企画で「やしろ食堂ライブ」を行い、TAIJIが店の前の一般道で炎を吹き、狭い店内でYOSHIKIがドラムを叩き、HIDEがギターを振り回し、TOSHI、HIDEが客に向かって「食え〜!!」と叫び、高速ナンバー「オルガスム」を演奏。迷惑そうな店主と黙々と食事を続ける女性客をよそに僅か1分少々の間で新装開店の店内を破壊し尽くした。ちなみに、HIDEのX加入後初仕事でもある。番組最終回において過去の名場面を放送した際、Xが絡む場面については一切放送されなかった。

実際のライブにおいてもYOSHIKIやメンバーが暴れて火を吹いたりライブハウスを壊すなどの暴走は当たり前。ライブ中の毎回、ガソリン注いでシンバル燃やす、ライブ後の打ち上げでも喧嘩が絶えず、数々のライブハウスや居酒屋から出入禁止となった。当時、ロックミュージシャンが居酒屋へ入る時、YOSHIKIがいないかどうか店員にチェックされた程である。その特異な行動から、HIDE率いるサーベルタイガー、TAIJI率いるディメンシアと共に「関東三大粗大ゴミバンド」とバッシング(嘲笑い)の対象になった。

当時の音楽業界、特にロックのジャンルにおいて「テレビ出演」はタブー視されており、硬派なイメージを保つ事で彼等の世界観を保とうとする風潮があった。しかし、それを嘲笑うかの如くテレビ番組やライブでやりたい放題のXは、業界関係者や他のバンドから「ヘビメタをお笑いネタにされた」として厄介者のレッテルを貼られた。後の名作「紅」さえも認められない時期があったという。ただ、こうした批判にはXに対する彼等のやっかみがあったともされる。

結局、これらのテレビ出演がターニングポイントとなり、Xの知名度は一気に全国へと広がる事となる。また、この頃のXは、酒の席で「他のバンドがやらない面白い事をやろう」と考えた末、当時デモテープの配布すら滅多に無かった時代にプロモビデオを客に配布した。この時、他にも配布するものとして、冷蔵庫、電子レンジ、トラックなど本気とも冗談とも取れるアイデアが出たという。自身のプロモーションを積極的に行う点では、他のバンドより抜きん出ていた(他のバンドからは金持ちバンドとしてみられていたらしい)。

それと前後して、メンバーも固定化された。一時期Xに加入していたTAIJIが1986年の年末に再び加入。ビクターから発売されたオムニバスアルバムのレコーディングでPATAがヘルプで参加。その後、1987年初めには、サーベルタイガーを解散させ美容師になる決心をしたHIDEをYOSHIKIが説得し、Xに加入させた。いつの間にかPATAも正式にメンバーとなり、メジャーデビュー時のラインナップが揃った。

こうして最高のメンバーが揃ったXは精力的に活動を続け、1988年4月、遂にアルバム「VANISHING VISION」をリリース、発売1週間で初回プレス1万枚を完売する。これは、当時としては驚異的な事であった。この時、既に数社とのメジャーレーベルとの契約交渉を進めており、この年の夏に当時のCBSソニー(現・ソニー・ミュージックエンタテインメント)とメジャー契約を果たす。

CBSソニーとの契約
メジャー進出時、Xとの契約を巡ってレコード会社間の争奪戦となった。「VANISHING VISION」は、メジャーから発売される可能性もあったが、YOSHIKIの「インディーズでまだ何も残していない」との判断で、エクスタシーからのリリースとなった。結局、Xが契約したのは、1番条件が悪かったとされるCBSソニーだった。Xがソニーと契約した理由は、他社のディレクター達が「BMWを買ってやる」や「黒髪にしたら売れる」といったような、ナメた態度をとっていたからだとされている。こうしたメジャーレーベルの人間の横柄な態度にメンバーはその都度キレまくっていたので、交渉は冷静に対処できるYOSHIKIが担当したという。

実は、契約したソニー側も会社としては積極的にXを獲得する動きは見せなかった。ただ、当時「サウンドディベロップメント」(スカウト・育成部門、通称SD)部門所属だった津田直士が紆余曲折を経て「STAFF ROOM 3rd.」という新規プロジェクトチーム配属となった事から、津田自らがディレクターとなりXと会社を説得。結局「〜3rd.」はマネジメントまで引き受け、まさに「プロジェクトX」状態となっていった。

メジャーデビュー、東京ドーム3days
1989年4月21日、CBSソニーからアルバム「BLUE BLOOD」でメジャーデビュー。オリコン初登場6位を記録する。また、この年だけで60万枚のセールスを記録する。当時はまだ、音楽業界でミリオンヒットが珍しい時代であり、さらにトップレベルのロックバンドですら10万枚の売上で大ヒットだったこの時代、Xのセールス記録は正に驚異的な記録であった。

その後、同年9月に『紅』をシングルカット。テレビ朝日「ミュージックステーション」などをはじめとする音楽番組出演などの積極的なメディア露出で、ヴィジュアル系バンドを見た事の無かった多くの人達に強烈なインパクトを与え、また楽曲の良さでも世間の注目を浴びる。この時もXのメディア露出過多について音楽業界から賛否両論を浴びせられたが、そんな事も吹き飛ばすかの如く、世間の支持を集め瞬く間にトップバンドへと登り詰めた。

破竹の勢いでメジャーシーンを突き進むXであったが、YOSHIKIの過激すぎるドラムプレイがアクシデントを引き起こした。同年11月23日の渋谷公会堂でのライブ中にYOSHIKIが倒れ、以降のライブは延期されたのである。この時から、YOSHIKIは首や腕に「爆弾」を抱えながらバンドを続ける事となる。しかしYOSHIKIが不在でも、Xは日本有線大賞新人賞・日本ゴールドディスク大賞など数々の賞を総ナメにして、X現象は全国へと広まっていった。

1990年2月、初の日本武道館ライブでツアーを再開。5月の大阪城ホールライブをもって、次のアルバムのレコーディングの為に渡米、表舞台から姿を消した。しかし本人達が不在の間にも、前代未聞のFILM GIG(フィルムコンサート)を行い成功させるなど、Xの存在は一種の社会現象となった。

アメリカ・ロサンゼルスでの長期レコーディングでは、またYOSHIKIが倒れてしまう。Xの最高速曲である「STAB ME IN THE BACK」のレコーディング後に頚椎の異常を訴え、頸椎椎間板ヘルニアと疲労で倒れてしまう。以降のレコーディングスケジュールは大幅に延期。レコード会社からは1991年7月のリリースをリミットとされた為、他の高速ナンバーや「ART OF LIFE」などのレコーディングを断念し、同年6月帰国。翌7月1日、アルバム「Jealousy」をリリース。オリコンチャート1位を記録する。8月23日、初の東京ドーム公演を果たし、10月29日には日本武道館で「エクスタシーサミット'91」を開催。同時期、新宿の小田急ミロードに「X SHOP JEALOUSIX」を期間限定で出店、日清食品から「カップヌードルX味」が発売されるなど、この頃のXはメディア露出なども合わせて絶頂期を迎えていた。12月8日にはNHKホールで、「X with Orcestra」を開催。さらに紅白歌合戦出場など、Xは日本を代表するバンドとなっていた。

しかしその間、YOSHIKIとTAIJIには次第に埋まらない溝ができていた。

1992年1月5、6、7日には日本人アーティストとして初となる、東京ドーム3DAYS公演「破滅に向かって」を敢行し、延べ12万人を動員することとなる。しかし、このライブでTAIJIが脱退。ファンには知らされずにいたが、「TAIJIに何かがある」事を感じざるを得ないライブであった。その後、1月31日の「ミュージックステーション」番組内のビデオメッセージにより、TOSHIの口からTAIJIの脱退が正式に発表された。TAIJI脱退の理由について、当初「音楽性とファッション性の違いから」と説明されていたが、その後のTAIJIの著書において「YOSHIKIに直接脱退を迫られた」という内容を告白している。「ギャラのアップ要求などバンドの嫌われ役に徹していたことに、YOSHIKIが疲れ果てたのではないか」や、また「一部のスタッフがYOSHIKIに働きかけたのではないか」など解雇理由についてTAIJIが著書で述べている。軋轢対象や解雇を決定したのはYOSHIKIのようだが、TAIJI本人も認めたくない事実のようだ。

ソニーとの契約解除、世界進出
同年3月、ソニーミュージックエンタテインメントから「YOSHIKIの我が侭にはこれ以上つき合えない」といった理由で、メジャー契約の更新を拒否される。この時点でXは所属レコード会社、所属事務所(マネジメントもソニーが丸抱えだった為)も無くなってしまう。

これは1991年リリースされたアルバム「Jealousy」のレコーディング時におけるYOSHIKIの頚椎トラブルでレコーディング期間が大幅に伸び費用がかさんだことや、世界進出に対する費用対効果の面や方向性の違いが原因とされる。Xの人気を考慮しても、ソニーミュージックの我慢は限界に達していた。

契約が切れてしまったXは、新しいレーベルとの契約と同時に、新たなベーシストをオーディションをしながら探していった。そして1992年夏、世界進出を果たすべくアメリカのタイム・ワーナー(当時)と契約。ニューヨークのロックフェラーセンターで記者会見を開いた。海外ではアトランティックレーベル、日本ではMMG(後のイーストウェストジャパン、現在はワーナーミュージック・ジャパンの1レーベル)から作品をリリースすることに決定。この時、同時に元マジェスティック・イザベルのHEATHの加入も発表されている。

海外進出を決めたのは良かったものの、アメリカ・ロサンゼルスに同名の「X」というバンドが存在したため、X JAPANに改名(ちなみに当初はX FROM JAPANと名乗っていたが、直ぐに変更した経緯がある)。

長期のレコーディング、バンド以外の活動
ワーナーとの契約が済んだX JAPANが最初に取り組んだのが、「Jealousy」に収録できなかった「ART OF LIFE」のレコーディングだった。デモテープは1990年夏には既に出来上がっていたが、TOSHIのヴォーカル録りが難航。1993年8月に、ようやくリリースされる。

これと平行して各メンバーのソロ活動が活発になるが、次第にX本体とのスケジュールの都合がつかなくなるなどした為に、Xのレコーディングスケジュールも管理していたYOSHIKIが、他のメンバーに不信感を募らせていった。だが相変わらず、Xのアルバムレコーディングは遅々として進まなかった。

本来、「Jealousy」に続くアルバムは世界進出アルバムとしてリリースされるはずであった。しかし、上記のバンド内の状況、TOSHIの英語発音の問題(「ART OF LIFE」では、長期のヴォーカル録りでも満足できなかったYOSHIKIが、パソコンを使って修正し続けたという経緯がある)、他のメンバーがあまり乗り気でなかった等々の理由により、YOSHIKIは「DAHLIA」での全世界リリース(「DAHLIA」英語盤の製作)を断念した。

さらに、その長期にわたるレコーディングはワーナーとの関係をも悪化させる。契約から4年ものアルバムレコーディングで経費がかかりすぎるとして、レコーディング費用捻出の為に仕上った楽曲を片っ端からシングルとしてリリース。それでも費用がかさんだ結果、YOSHIKIはフェラーリを売却し自腹でX JAPANのレコーディングを続行。さらに、YOSHIKIは持病の頚椎椎間板ヘルニアの為に数曲のハイスピードな楽曲のレコーディングを断念している。

このようなアルバムがなかなか出ないバンドの状況とは別の所で、日本国内ではFILM GIGが開かれたり、X JAPANブランドのコンドーム発売、UFOキャッチャー向け人形のキャラクター化、セガサターン用ゲーム発売、フォーミュラ・ニッポンへの参戦、ユネスコ主催の奈良東大寺ライブへの参加、年末の東京ドームライブの恒例化、紅白への連続出場等々、様々な活動があった。

DAHLIA TOUR〜「DAHLIA」リリース、解散
出口の見えない「DAHLIA」のレコーディングが終わらぬまま、1995年11月、アルバムが未発表にもかかわらず遂に全国ツアー「DAHLIA TOUR1995-1996」が開始されてしまう。YOSHIKIの体調を考慮して、基本的に1〜2週間に1個所で2daysという緩い日程だった。にもかかわらず翌1995年12月、仙台公演2daysが中止。翌1996年3月14日、名古屋公演2日目にYOSHIKIがライブ中に椎間板ヘルニアを再発して、そのまま以後のツアー日程は全て中止され、事実上ツアー終了。実に(福岡の延期を除く)18公演中、7公演が中止という、悪夢としか言いようが無いものになってしまった。特に福岡ドームに至っては、延期公演の振替も中止というありさまであった。

そして長期のレコーディングの末、1996年11月4日に最後のオリジナルアルバム『DAHLIA』がリリースされた。しかしアルバム発売以前に全10曲中6曲までがシングルリリースされる(さらに『DAHLIA』リリース後に「SCARS」もシングルカットされた)という、ベスト盤的アルバムとなってしまった。この頃からTOSHIはXに息苦しさを感じるようになったと発言している。

1997年4月、音楽性・方向性の違いを理由にTOSHIが脱退する。後任のヴォーカルを見つけられなかったバンドは、「2000年X JAPAN復活再結成、その為の一旦解散」を決定。9月22日読売新聞紙上に広告を掲出、解散を発表した。同日、記者会見を開き、X JAPANは解散した。その後、ファンに対する「けじめ」としてライブをしよう、とHIDEがYOSHIKIを説得。TOSHIも参加して、1997年12月31日に東京ドームで「THE LAST LIVE〜最後の夜〜」が行われ、終了後出演した紅白歌合戦のステージで幕引きとなった。

解散後のX JAPAN
「2000年再結成」までの間、各メンバーはソロ活動を展開する。中でもHIDEは、hide with Spread Beaver名義で精力的に活動を始めた。しかしその矢先、1998年5月2日にHIDEが急逝、これによりX JAPANの再結成は叶えない幻となった(2005年6月のR-25、2002年1月のWeekly Oricon、1999年6月のFeatureなど様々な場でのインタビューでYOSHIKIが公言している)。HIDEの死は、X JAPANというバンドを解散早々伝説化させる要因になった。また、以降も「ART OF LIFE」や「THE LAST LIVE」などのライブ盤やDVD、インターネット上での投票によるベスト盤リリース、全国主要都市や韓国・ソウルでのFILM GIG開催などが続いた。

さらに、HIDEと同郷であり、hide MUSEUMの建設にも関わった小泉純一郎首相が「X JAPANのファン」と公言し話題を呼び、「Forever Love」が自民党の国政選挙の際にCFで使われた。

日本国内のみならず、海外、特に東アジア、東南アジア圏でのX JAPAN人気も相当なものである。韓国では「Tears」が、映画『僕の彼女を紹介します』挿入歌として、日本文化解禁後の韓国映画において初の日本語楽曲使用となった。

2007年再結成の展望について
この節には、現在進行中のことを扱っている文章が含まれています。
2007年には再び再結成の話が急浮上した。これはTOSHIが「YOSHIKIと再結成する話し合いを進めている」と同年2月10日に自身のホームページ上で明かしたことによるものだった。そのメッセージでTOSHIはX JAPANのかつてのマネージメント事務所社長がTOSHIのライヴ会場に何度も足を運び、他のメンバーが再結成したがってるがTOSHIはどうだろうかと、頼んで来たと話している。再結成に対して否定的であったTOSHIは、最初は頑なに断り続けていたが、あまりにも何度も来られたため、YOSHIKIにも確認し、共通の友人でもあるアーティストにも応援と期待を頂いて話を進めているとTOSHIはそのメッセージで話していた。共通の友人でもあるアーティストとは小室哲哉のことであり、小室もmyspaceに持っている自分のブログで英語で再結成について言及していた。

また、2007年2月13日発売の週刊誌・週刊女性では、TOSHIがインタビューに答え、「近々YOSHIKIがいるロサンゼルスに行く予定です。とりあえず音出してみようと思っています」とも話していた。

しかし2007年3月にX JAPANのリーダーとして活動の鍵を握っていたYOSHIKIが、自分のmyspaceブログ(項目YOSHIKIの外部リンクを参考)紙面を通じて「そのような事実はない」と英語ではっきり否定する発言を述べており、その直後TOSHIのホームページから再結成を言及したメッセージがなんの説明もなく削除されたことから、事実上2007年のX JAPANの再結成は無いことと考えられた。しかし、その後YOSHIKIがスポニチの取材に対し、「ぼくの意志は固まっている。ファンの人生でもあったバンドだから、慎重に意見を聞きつつ復活の準備を進めている」などと語ったため、再結成の可能性は濃厚になっている。「X JAPAN」復活 年内にライブ スポニチ2007年06月04日付

また、2007年3月21日にはTOSHI自身のオフィシャルサイトにて、ロサンゼルスのYOSHIKIのスタジオを訪ね、およそ10年ぶりに共に演奏したことを明らかにし、その際にセッションした楽曲はYOSHIKIがhideへの追悼曲として作曲し、2005年のYOSHIKIのソロアルバム『ETERNAL MELODY II』に収録していた「Without you」であったことも明かし、YOSHIKIとのプロジェクト、新曲のリリースの動きが進行していることをほのめかした。実際、X JAPANが解散し10年、結成から25年、メジャーデビューから18年経ったことになる。

また、YOSHIKIはPATAやHEATHにもバンドに合流してもらうように話し合いをしていること、hideの代わりのギタリストは流動的に、開催予定があるとされるライヴで複数のゲストを入れて活動することも明言した。

楽曲盤権について
Xのメジャーデビュー以降の楽曲は、オリジナル楽曲がたったの34曲しかないにもかかわらず数社のレコード会社からリリースされている。最初に契約した当時のCBSソニー(現在のソニーミュージックエンタテインメント)では、アーティスト契約と同時にマネジメント契約も交わしていた為、いわばソニーの丸抱え状態であった。よって、ソニーとの契約期間中にリリースされた楽曲の盤権は今もソニー側が所有しており、現在はソニーミュージック子会社のキューンレコードが管理している。

キューンが盤権を管理する楽曲は、アルバム「BLUE BLOOD」の12曲、「Jealousy」の10曲、それに本来「Jealousy」に収録されるはずだった、新たに新録された「Sadistic Desire」とシングル「Standing Sex」の計24曲。さらに、ソニーとの契約期間中に収録されたライブ音源も含まれる。

ソニーとの専属契約解除後、「自分達の楽曲を自由に使えない」という反省からXは「EXCESS24」という専属マネジメント会社を設立。以降の楽曲盤権は全てX側が保有し、後に楽曲をリリースするレコード会社とはリリース契約に限定された。X JAPAN解散後は、YOSHIKIのマネジメント会社「Japan Music Agency」に盤権が引き継がれている。現在でもYOSHIKIはこのソニーとの契約を「自分の子供を人質にとられたも同じ」と強く批判している。

1992年にリリース契約したMMGはワーナーミュージックの子会社で、海外デビューの際はワーナーのレーベル、アトランティックからリリースされる予定だった。シングル「Tears」発売後にMMGはイーストウエストジャパンと社名が変わるが、この「east west」もワーナーのレーベルである。現在ではワーナーミュージックに吸収合併されている。

Xの末期にはワーナーと平行してポリドールからもリリースされている。ポリドールは後に親会社がMCAと合併してユニバーサルミュージックとなったため、日本においても1999年に社名が変わっている。

解散前後には、YOSHIKIが「ワーナー・ポリドールとの契約消化の為」に企画物のライブアルバム等を乱発している。ちなみに、PV集「DAHLIA THE VIDEO PART II」とライブビデオ「DAHLIA THE TOUR FINAL 1996 東京ドーム完全収録」の2本は、諸般の事情からVHS盤はキングレコードよりリリース、後のDVD化の際にはユニバーサルからリリースされている。

1997年12月にリリースされたバラードベスト「BALLAD COLLECTION」では、ポリドールからのリリースながら、「ENDLESS RAIN」「Say Anything」といった、ソニーが盤権所有する楽曲もすんなりオリジナル音源で収録されている。ソニーから追い出された形のXだが、ソニーとの関係は険悪なものではなかった。事実、ソニーミュージックとの契約解除の数年後、親会社ソニーが発売するカセットテープ「X」のCMにはXの「X」が使われている。

しかし、1999年2月にワーナーからリリースされた「PERFECT BEST」では、ソニーが盤権保有する楽曲は何れもライブヴァージョンであり、それも全てソニーとの契約以前、もしくは以降に録音されたものである。これはレコード会社間の利害関係に巻き込まれた結果の苦肉の策である。

2001年12月にユニバーサルからリリースされた「X JAPAN BEST -FAN'S SELECTION-」は、ソニーも含め全てオリジナル音源で製作されたベストアルバムとなっている。

ディスコグラフィー

シングル
インディーズ時代

I'LL KILL YOU 1985年6月発売(DADA RECORDS)作詞・作曲:YOSHIKI
オルガスム 1986年4月発売(EXTASY RECORDS)作詞・作曲:YOSHIKI
メジャーデビュー後

紅(KURENAI) 1989年9月1日発売(CBSソニー)作詞・作曲:YOSHIKI
ENDLESS RAIN 1989年12月1日発売(CBSソニー)作詞・作曲:YOSHIKI
WEEK END 1990年4月21日発売(CBSソニー)作詞・作曲:YOSHIKI
※ストリングスが入った新録ヴァージョン。
Silent Jealousy 1991年9月11日発売(ソニー)作詞・作曲:YOSHIKI
※C/W「Sadistic Desire」は新録。「VANISHING VISION」収録のものとアレンジが違い、若干短い。
Standing Sex/JOKER 1991年10月25日発売(ソニー)作詞:五十嵐美由姫 / 作曲:YOSHIKI
※ダブルA面シングル。五十嵐美由姫とは、YOSHIKIのペンネーム。
Say Anything 1991年12月1日発売(ソニー)作詞・作曲:YOSHIKI
Tears 1993年10月25日発売(MMG)作詞:白鳥瞳&YOSHIKI / 作曲:YOSHIKI
※白鳥瞳もYOSHIKIのペンネームである。紅白歌合戦の為に作られた「Tears〜大地を濡らして〜」とは全く別ヴァージョンで、俗に「X JAPANヴァージョン」と呼ばれる。このシングル以降X JAPAN名義となる。
Rusty Nail 1994年7月10日発売(east west)作詞・作曲:YOSHIKI
タイアップしたドラマの放映開始時に楽曲が仕上らず、ドラマ6話目(リリース直前)までエンディングにはデモテープ音源がOAで流れた。
Longing 〜跡切れたmelody〜 1995年8月1日発売(east west)作詞・作曲:YOSHIKI
1994年年末よりTVなどで歌われ、その年の年末ライブではデモテープとして配布、歌詞が違う。
Longing 〜切望の夜〜 1995年12月11日発売(east west)作詞・作曲:YOSHIKI
Longing〜跡切れたmelody〜のフルオーケストラヴァージョン。X JAPAN初のマキシシングル
DAHLIA 1996年2月26日発売(east west)作詞・作曲:YOSHIKI
※黒のジャケットカバーの中はYOSHIKIのフルヌード。2タイプあり。
Forever Love 1996年7月8日発売(east west)、1998年7月22日再発売(east west)作詞・作曲:YOSHIKI
※hideの死後に再発されたものはhideをフィーチャしたジャケットデザイン、ピュアゴールドディスク仕様。
CRUCIFY MY LOVE 1996年8月26日発売(east west)作詞・作曲:YOSHIKI
SCARS 1996年11月18日発売(east west)、1998年7月22日再発売(east west)作詞・作曲:HIDE
「Forever Love」同様、hideの死後にピュアゴールドディスク仕様ジャケットデザインを変え再発された。
Forever Love (Last Mix) 1997年12月18日発売(POLYDOR)作詞・作曲:YOSHIKI
Forever Loveのアコースティックギターヴァージョン。ギターはXのメンバーではなくBill Whiteacreという人物が弾いている。
THE LAST SONG 1998年3月18日発売(POLYDOR)作詞・作曲:YOSHIKI
X JAPAN名義での最後の作品であり「THE LAST LIVE」最後の演奏曲のマキシシングル。CD EXTRAには解散時の新聞記事・THE LAST LIVEでのライブ映像・ディスコグラフィーのデータが入っている。
Forever Love 2001年7月11日発売(east west)作詞・作曲:YOSHIKI
「Forever Love」のオリジナルやライブ音源など4ヴァージョンを収録したマキシシングル。CD EXTRAで「THE LAST LIVE」の映像が入っている
オリジナルアルバム
VANISHING VISION1988年4月14日発売(EXTASY RECORDS)
YOSHIKI主宰のEXTASY RECORDSより発売。斬新かつ過激な楽曲の数々は「BLUE BLOOD」と共に日本ロック界の頂点に君臨するであろうアルバム。後のヴィジュアル系バンドブームに最も影響をもたらした作品。当時のインディーズ最高売り上げを更新する2万枚のセールスをあげている。2000年にはワーナーよりメジャー流通で復刻した。
BLUE BLOOD1989年4月21日発売(CBSソニー)
レコード会社の契約争奪戦の末、CBSソニー(当時)から発売されたメジャー第一弾アルバム。Xというバンドの存在を広く世に知らしめ、ヴィジュアル・楽曲など全てにおいて衝撃的なアルバムであった。現在までに100万枚を超えるセールス。2007年には期間限定でリマスタリングされて復刻した。
Jealousy1991年7月1日発売(ソニー)
1989年に始まったX旋風の絶頂期にリリースされたアルバム。レコーディング途中でYOSHIKIが頚椎椎間板ヘルニアに倒れた為、「ART OF LIFE」などのレコーディングが間に合わずに2枚組でのリリースを断念。現在までに100万枚を超えるセールス。2007年には期間限定でリマスタリングされて復刻した。
DAHLIA1996年11月4日発売(east west)
前作より5年のインターバル経てリリースされたアルバム。結果的に最後のオリジナルアルバムとなる。全10曲中6曲が先にシングルとして発表されてしまい、(SCARSはシングルカット作品)ベストアルバム的構成になった。
その他アルバム、ベスト盤、ライブ盤など
LIVE(自主製作)
Xがインディーズ時に、販売したデモテープ。Perfect BestのHistoryには紅を収録した1000円の5曲入りのデモテープと紹介されていたが、実際は4曲入り700円である。収録曲は「KURENAI」、「ENDLESS DREAM」、「LADY IN TEARS」、「STOP BLOODY RAIN」(音源は1985年6月26日の神楽坂EXPLOSIONライブ音源)。また同時期に、別の3曲入りのデモテープの配布も行っている。こちらの収録曲は「I'll Kill You」、「We are X」、「Stop Bloody Rain」(1985年10月4日の神楽坂EXPLOSIONライブ音源)。
ART OF LIFE 1993年08月25日発売(MMG)
アルバム「Jealousy」と共に2枚組アルバムとして1991年にリリースされるはずだった。しかし、YOSHIKIの体調不良とTOSHIのボーカル録り難航の末、1990年夏にはデモテープが出来上がっていたにもかかわらずX JAPANとなった1993年にようやくリリースされた。またYOSHIKIの「他曲との共存を拒む」との意見から、別リリースとなった。ロンドン・ロイヤル・フィルハーモニック管弦楽団を従えるなど、クラシックの要素も取り入れられ、29分という長さを感じさせない構成に仕上がっている。
※作品にはこの一曲しか入っていないので分類上はシングルだが、構成上その他に分類している。

X SINGLES1993年11月21日発売(キューン)
ソニー時代にリリースされたシングル6枚(「紅」〜「Say Anything」)までを収録したシングルベスト。
破滅に向かって(CD EDITION) 1992.1.7.TOKYO DOME LIVE1995年1月1日発売(キューン)
TAIJI在籍時最後のライブである、1992年の東京ドーム3DaysライブのVHS盤(1992年発売)をCDに再編集したアルバム。
B.O.X. 〜Best Of X〜1996年12月1日発売(キューン)
ソニー時代の全ての楽曲から選ばれたベストアルバム。同年3月に発売されたVHS盤との限定ボックスセットの中から、エクストラトラックを抜いたCDを一般発売。
LIVE LIVE LIVE TOKYO DOME 1993-19961997年10月15日発売(POLYDOR)
その名の通り、1993年から1996年までの東京ドーム公演の中から選ばれたライブ音源をまとめたアルバム。
Live Live Live Extra1997年11月5日発売(east west)
「LIVE LIVE LIVE」と同時期にYOSHIKIがプロデュースしたライブ盤。両者は所謂「契約枚数消化」の為のアルバムである。ライブでの「オルガスム」がノーカットで入っている。前者はポリドールからのリリースだが、これはワーナーからのリリースである。
BALLAD COLLECTION1997年12月19日発売(POLYDOR)
X全作品の中からバラード楽曲をまとめたアルバム。盤権の障害も無く、全てオリジナル音源で収録されている。「The Last Song」が、翌年3月のリリースに先駆けてメモリアルトラックとして収録された。
Singles 〜Atlantic Years〜1997年12月25日発売(east west)
「Tears」から「Scars」までの、ワーナー在籍時にリリースされたシングルを収録。
LIVE IN HOKKAIDO 1995.12.4 BOOTLEG1998年1月21日発売(POLYDOR)
ポリドールとの契約消化の為に、記録用のライブ音源から無理矢理製作されたアルバム。BOOTLEG(海賊盤)とあるように、音質が悪く(モノラル)まともに聴けるような代物ではない。
ART OF LIFE LIVE1998年3月18日発売(POLYDOR)
1993年12月31日の東京ドームライブにおいて、たった1度だけ演奏された「ART OF LIFE」を収録した作品。この模様を収めたDVDのリリースは、さらに5年半後の2003年9月に発売。
STAR BOX -X- 1999年1月30日限定発売(キューン)、2001年9月5日通常発売(キューン)
ソニーミュージックのメモリアル企画として、ソニー所属の(あるいは盤権を持つ)有名アーティスト達のベスト盤「STAR BOX」シリーズとして、一斉に限定発売されたアルバムの内の1つ。限定盤と通常盤はジャケットが異なる。
PERFECT BEST1999年2月24日発売(east west)
X全作品の中から選ばれたベストアルバム。しかしながら盤権の関係とワーナー・ソニーの関係から来るしがらみから、(先に発売されたSTAR BOXの発売時期が重なったため)ソニーが権利を持つ楽曲はライブヴァージョンでの収録となった。このため、「何処がパーフェクトなのか?」とファンから揶揄されることにもなった。
The Last Live2001年5月30日発売(POLYDOR)
1997年12月31日の「The Last Live」を収録したアルバム。曲間のインターバルSEなどもカットされずに収録されている。
X JAPAN BEST 〜FAN'S SELECTION〜2001年12月19日発売(POLYDOR)
TSUTAYAサイト上で一般投票された結果をそのまま収録曲に反映させたベストアルバム。「PERFECT BEST」の時のような盤権の障害も無く、全てオリジナル音源で収録されているベストアルバムである。
Trance X2002年12月4日発売(POLYDOR)
Xの楽曲をトランスにリミックスしたアルバム。
X JAPAN COMPLETE II2005年10月1日発売(Columbia Music Entertainment)
1992年に「X JAPAN」となった以後の一部を除く作品を集めたコンプリート盤。「II」を名乗っているのは、1996年3月にソニーからリリースされたX時代のベスト盤「B.O.X -Best Of X-」を「I」とみなしている為である。ボーナスDVDとして、「X FILM GIGS 1993〜VISUAL SHOCK 攻撃再開〜」のディレクターズ・カット、1987年に大阪バーボンハウスと東京・目黒鹿鳴館のみで限定配布(200本)された「XCLAMATION」「紅-KURENAI」を収録。
その他インディーズ時代の音源
BREAK THE DARKNESS 作詞・作曲:YOSHIKI
ENDLESS DREAM 作詞・作曲:YOSHIKI
FEEL ME TONIGHT
FEEL'S DAMAGE(INSTALL)
LADY IN TEARS 作詞:YOSHIKI&TERRY / 作曲:YOSHIKI
NO CONNEXION 作詞・作曲:YOSHIKI
ONLY WAY 作詞:JUN&TOSHI / 作曲:JUN
RIGHT NOW 作詞・作曲:JUN
STOP BLOODY RAIN 作詞・作曲:YOSHIKI
TIME TRIP LOVING 作詞:TOSHI 作曲:JUN
TUNEUP BABY 作詞・作曲:JUN
WE ARE X
※BREAK THE DARKNESSはオムニバスアルバム「HEAVY METAL FORCE III」に、NO CONNEXIONはオムニバスアルバム「SKULL THRASH ZONE Vol.1」に収録されている。

VHS / DVD
BLUE BLOOD TOUR 爆発寸前GIG
刺激!VISUAL SHOCK Vol.2
“CELEBRATION” VISUAL SHOCK Vol.2,5
VISUAL SHOCK Vol.3 刺激2 -夢の中にだけ生きて-
VISUAL SHOCK Vol.3,5 SAY ANYTHING
VISUAL SHOCK Vol.4 破滅に向かって
X CLIPS
DAHLIA THE VIDEO VISUAL SHOCK #5
DAHLIA TOUR FINAL
CLIPS II
THE LAST LIVE VIDEO
ART OF LIFE - 1993.12.31 TOKYO DOME
タイアップ一覧
ENDLESS RAIN:映画「ジパング」主題歌
JOKER:カネボウ「NFL」CF
Say Anything:テレビ朝日系ドラマ「ララバイ刑事'91」主題歌
Tears:TBS系ドラマ「憎しみに微笑んで」主題歌、韓国映画「僕の彼女を紹介します(原題:Windstruck)」挿入歌
Rusty Nail:関西テレビ・フジテレビ系ドラマ「君が見えない」主題歌
X(「BLUE BLOOD」収録):ソニーカセットテープ「X」CF
Longing 〜跡切れたmelody〜:MIZUNOスポーツ用品(イチロー出演編)CF
Forever Love:アニメ映画「X」(CLAMP原作・角川書店)主題歌、自由民主党国政選挙CF(小泉総裁出演)
CRUCIFY MY LOVE:日本石油(現在の新日本石油)「ZOA」第1弾CF、テレビ朝日系列「トゥナイト2」エンディングテーマ
White Poem I(「DAHLIA」収録):日本石油(現在の新日本石油)「ZOA」第2弾CF
SCARS:TBS系「CDTV」96年11月期オープニングテーマ
THE LAST SONG:日本テレビ系「知ってるつもり」エンディングテーマ

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