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末日聖徒イエスキリスト教会コミュの聖書は誰が翻訳したのですか?

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他のトピでの質問ですw

私も聖書は良く読んでいるのですが、
他の方から、この質問を受けると、恥ずかしいながら「誰だろう?」と考えてしまいました(^_^;)

皆さんはどのようなお考えですか?

コメント(71)

いずれにしても「他の翻訳を使っても問題(支障)ありません」というのは、個人の思うことであり、主観であることには変わりありません。
逆に、「口語訳聖書以外は問題だ」とする見解も主観でしかありません。

もともと別訳の聖書を持っているのに、都合が悪いからと言って買い換えさせるようなことは教会はしないはずです。

私は1970年からは主に「新改訳聖書」(いのちのことば社)を多用していますが、これは脚注に七十人訳の引用があるからでした。然し、日本聖書協会発行の口語訳(1954,55訳)も改訳の参考にしたとは言え、本文は前者の口語訳の方が正しい個所もあり、それ故時には比較しています。また、翻訳前の原販が異なる教会公認の「欽定訳」(1611英訳)も多用しています。こちらは、巻末のJST訳の他に脚注にも預言者ジョセフ・スミス訳が沢山引用されているので非常に有益です。また、それ故に本文に関しては欽定訳が正しい個所があれば、和訳の方が正しい個所もあります。そういうわけで、聖書に関しては写本過程での抜き去り・加筆・改竄があるために、全面的に正しいわけではないことを知って読まなければなりません。これに関しては、徳間書店発行「キリスト教、暗黒の裏面史」(ヘレン・エラーブ)でも詳しく述べられています。

 モルモン経とモルモン書云々は、まず文語訳と文章口語訳の違い、それに甚だ失礼とは存じますが翻訳者の能力の違いがあります。と言うのも英文はそのままだからです。日本語の能力の違いも極めて重要です。
 翻訳上の留意点をいくつか述べるならば、おそらく先ず「古語」があることによって現代用法とは意味が異なること、それに「慣用句」の誤訳でしょう。慣用句と言うのは例えば、good morning を「いい朝です」とは誰も訳さないでしょう。また直訳で「一切れのケーキ」も同じことです。「朝飯前だよ」とか、「簡単だよ」と和訳するでしょう。「骨を折る」も同じです。このようにどこの国の言語でも言葉の使い方には「慣用句」が沢山あります。
 モルモン書では最初からこれが登場してきます。現和訳は、「私ニ―ファイは善い両親から生まれたので」となっていますが、この英文は慣用句ですから「私ニーファイは良家に生まれたので」と訳さなければなりません。そうすると、この後の話の意味がもっとはっきり解るはずです。即ち、経済的に恵まれていたばかりでなく、先祖から代々優れた信仰と伝統のもとに生まれたと言うことです。それゆえに、ニーファイの兄達はある意味で「おぼっちゃま」「良家のぼんぼん」であったわけです。
 慣用句の直訳では旧約にも出て来る「主は生きておられる」がありますが、これを正しく和訳するならば「命にかけて・・・」です。ですから、ニーファイがゾーラムに言った言葉は「私は命に懸けて誓う。もし私の言うことを聞くならお前の命を助けてやる・・・」です。
 さて、古語の代表では、D&C84などにあるmagnifying がありますが、正しく和訳するならば「礼賛する」とか「尊ぶ」が順当です。
 
 
>33もともと別訳の聖書を持っているのに、都合が悪いからと言って買い換えさせるようなことは教会はしないはずです。


この場合、皆と同じ聖書を買うように勧める教会員もいます。


これまで45年間、複数のワード・支部、また其々の日曜学校、そしてInstituteのクラスにも10年以上集って来ましたが、訳の違いによる支障は一度もありませんでしたし、教師からも他の教会員からも同じ訳版を使うように勧められたことも一度もありませんでした。むしろ翻訳者の主観による文章の構成・並べ方、また単語の選択肢を比較することが出来て良かったと思っています。そういうわけで、どの聖典でも私がクラスで聖典を読む場合は自分が訳した文章を読み上げることもあります(自分の聖典は、箇所によっては修正テープで消した上から上書きしている所もあります)。他人の和訳より、自分の日本語の文章の方が分かりやすいと判断してそうして来たわけです。ですから、私の聖典は書き込み出来るように一番大きなものを使っていて、そこに欽定訳やJSTから和訳したものも書き入れています。
私は、皆と違う翻訳の聖書を使っている人が会員に、皆と同じ聖書を使ったほうがいいと勧められているのを見たことがあるし、私自身モルモン径は使っていませんが、合本で一番新しい翻訳のものでないものを使っているので、一番新しい翻訳を使った方がいいと勧められました。
学んでいるのは本人なのですから他人がとやかく言う筋合いのものではないと思います。本人が一番分かりやすいと思う策を選べば良いでしょう。そのうち不便になって来れば自らまた別の方法を選べば良いのです。私は最初の頃、文語訳の聖書を使っていました。その後、口語訳三冊、新共同訳、新改訳、他には岩波書店版や「ものみの塔」の新世界訳、英文の欽定訳、旧約はヘブライ語版、新約はギリシャ語版と購入して来ました。他のユニットに集っている40年来の親友の一人は「今もモルモン経(所謂合本)を読んでいる」と言ってましたが、箇所によっては全く意味の異なる所があるものを果たしてどんな理解をしているのやら、私は一切口出ししていません。尤も箇所によっては旧版の方が正しい所もありますし、親友ですから教義に関する見解や自前翻訳ついては逐次情報を提供して来ました。私自身は末日聖典合本も英文を持ち歩いていますのでどうしても書き込みの多い旧和訳を使っていますが、時々新版も併用します。
私は事実を言っているだけです。皆と違う翻訳の聖書を使っている人が会員に、皆と同じ聖書を使ったほうがいいと勧められているのを見たことがあるし、私自身モルモン径は使っていませんが、合本で一番新しい翻訳のものでないものを使っているので、一番新しい翻訳を使った方がいいと勧められたというのは事実です。




まぁ、教会員の中にもステレオタイプでなければ容認出来ない人がいるというだけの話で、教会がある意味そのような標準への準拠を求めているという点では忠実なんでしょうw
根本的な部分を見落としがちなだけでねw
>学んでいるのは本人なのですから他人がとやかく言う筋合いのものではないと思います。
>まぁ、教会員の中にもステレオタイプでなければ容認出来ない人がいるというだけの話で、
>根本的な部分を見落としがちなだけでねw

こちらにコメントしている方は、皆と違う翻訳の聖書を使っている人に、皆と同じ聖書を使ったほうがいいと勧める会員や、合本で一番新しい翻訳を使った方がいいと勧めらる教会員に対して、ネガティブな印象をおもちのようですが、その場に遭遇した私としては、全くネガティブな感情は存在せず、「あぁ、この人は親切でいっているんだな」としか思いませんでした。
善意で言ってることは否定しないし、その場にいてもその助言を阻害することもしないよ。

ただし、そのような薦めは自分の作り上げた正義を押し付ける行為になる恐れがあることを指摘している。

わざわざ余計な出費を強いる配慮の無さは戴けない。
どうしても口語訳を使わせたいと思うなら、買ってプレゼントしてやればいい。

全く聖書を持っていなかったり、自発的に買い替え(買い増し)を考えてる場合の選び方としては申し分ないけど。
>43
私は、口語訳を勧めていた会員が完全でなくともどんなにすばらしい方か知っている。少なくとも、まさかまきおさんよりは。

>わざわざ余計な出費を強いる配慮の無さは戴けない。
どうしても口語訳を使わせたいと思うなら、買ってプレゼントしてやればいい。

だったら、あなたがそうすればいいことで、それを他者に求めるのは、>作り上げた正義を押し付ける行為になる恐れがあることを指摘している ことにもなると思います。


44の文章が変ですね。

だったら、あなたがそうすればいいことで、それを他者に求めるのは、>作り上げた正義を押し付ける行為になる恐れがある ことにもなると思います。

に訂正します。



オイラはことさら強く口語訳を薦めないからねw

黄金律から、自分の正義を押し付ける者は他人の正義を押し付けられても文句は言えない。

それを「善意」と正当化するならば、オイラの提案も「善意」として正当化されるだけの話。
>オイラはことさら強く口語訳を薦めないからねw
38、40で述べている会員の方も、強くは勧めていませんよ。

>そのような薦めは自分の作り上げた正義を押し付ける行為になる恐れがあることを指摘している

のであれば、

>わざわざ余計な出費を強いる配慮の無さは戴けない。
どうしても口語訳を使わせたいと思うなら、買ってプレゼントしてやればいい。

というのを>自分の作り上げた正義を押し付ける行為になる恐れがあると指摘されても、文句は言えないと思います。

38、40の教会員を「正義の押し付け」と、不当化するならば、まさかまきおさんの提案も「正義の押し付け」として不当化されるだけの話。


なるほど、こうしてみると黄金律って理にかなてますね〜ww
そうそうw

黄金律ってよく出来てるでしょ?

ちなみに、オイラの提案は

どうしても口語訳を使わせたいと思うなら

という条件をつけているわけで、

どうしても口語訳を使わせたいわけではないのならば、あてはまらないだけの話。

強く薦めているわけでないのであれば特別問題視しているわけでもないし、選択の自由を尊重した上でより良いと思う方法を提案するのはいいことだ。
私は、一度も「強く」勧めた、とは言ってません。
が、しかし、話の流れ的には
>43そのような薦めは自分の作り上げた正義を押し付ける行為になる恐れがあることを指摘している。

というのを、38、40の口語訳をすすめている教会員を指していると、とるのが一般常識です。
うん、だから

どうしても口語訳を使わせたいと思うなら

という仮定での話をした。

その方が、相手の出費になることに配慮した薦め方をしたのであれば、仮定と結び付ける必要は全くない。
要は『押し付け』を『強く薦める』と言い換えているだけの話で、提案の仕方の問題だということ。
話の流れ上
43>そのような薦めは自分の作り上げた正義を押し付ける行為になる恐れがあることを指摘している。

の、 「そ の よ う な 薦 め」 とは、39、40の、皆と違う翻訳の聖書を使っている会員に、皆と同じ聖書を使ったほうがいいと勧められている会員と、合本で一番新しい翻訳を使った方がいいと勧めている会員を指しています。

つまり、皆と違う翻訳の聖書を使っている会員に、皆と同じ聖書を使ったほうがいいと勧められている会員と、合本で一番新しい翻訳を使った方がいいと勧めている会員は、自分の作り上げた正義を押し付ける行為になる恐れがあることを指摘している。

と解釈するのが、一般的です。

また他にも
>41まぁ、教会員の中にもステレオタイプでなければ容認出来ない人がいるというだけの話で、教会がある意味そのような標準への準拠を求めているという点では忠実なんでしょうw
根本的な部分を見落としがちなだけでねw

も、39、40の、皆と違う翻訳の聖書を使っている会員に、皆と同じ聖書を使ったほうがいいと勧められている会員と、合本で一番新しい翻訳を使った方がいいと勧めている会員に対してのもととるのが妥当です。
そのような薦め

の部分に過剰反応しているようだが

押し付ける行為になる恐れがある

と、「提案の仕方」についてそうなる可能性を示しているに過ぎない。

41についても、根本的な部分である「選択の自由を尊重する」ことが軽視されがちと指摘しているのであって、断定はしていない。
別な翻訳について容認出来ていないのは事実だしw
こどもみたいな言い訳をしているようだが

>わざわざ余計な出費を強いる配慮の無さは戴けない。
どうしても口語訳を使わせたいと思うなら、買ってプレゼントしてやればいい。

というコメントに対し、
だったら、あなたがそうすればいいことで、それを他者に求めるのは、>作り上げた正義を押し付ける行為になる恐れがある

と、そうなる可能性を示しているに過ぎなく、断定はしていない。

41についても、新しい翻訳のもの勧めただけで、もしくは口語訳の聖書を勧めただけで
>別な翻訳について容認出来ていないと、決め付けるのは考え方が偏っていると思われる。


> もじみさん

だったらあなたがそうすればいい

の部分は断定ですけどねw

容認するならそのまま黙ってるだけの話です。

まぁ、この件についてはそれ以前の流れもありますから、

口語訳に買い換えさせようとする行為=別な翻訳では問題ありと認識

というニュアンスで進むのは不自然ではないと思いますがw
まさかまきおさん

>だったらあなたがそうすればいい

>の部分は断定ですけどねw

でしたら、あなたの言われる>買ってプレゼントしてやればいい。
も断定になります。

口語訳に買い換えさせようとする行為=別な翻訳では問題ありと認識
ではなく、
口語訳に買いかえさせようとする行為=別な翻訳では問題ありと心配する会員もある

というニュアンスです。
黄金律までもちだして、教義や理屈だけで相手を黙らせられるとでも思っているんだろうか?この人。
え!?59消しちゃったのげっそり 59があったから60を書いたのに・・・
聖書の日本語訳は、いくつかあると思います。
翻訳の違いで、言葉が違ってくることもあるでしょう。

でも、それは、あまり問題ではないように思います。
一番問題として考えないといけないのは、神様に対する信仰があるかどうかだと思います。

確かに、翻訳が違うので違和感を覚える会員もいると思います。
それはうわべでみているから。

翻訳が違うと解釈のしかたが違ってくると思われるでしょ(^_^;)
でも、同じ翻訳された聖書でも、人によって解釈は様々です。
従って、翻訳された言葉が違うか同じかは、関係ないと思う。
神様への信仰が一番重要だと思います。
そうですね、翻訳の違いについて問題視するひとはあまりいないですが、0
ではありません。私個人も特に問題視はしていません。

>確かに、翻訳が違うので違和感を覚える会員もいると思います。
それはうわべでみているから。

翻訳の違いで違和感を感じている方は、不便だという理由で問題視してる方が多いように思います。


また、教師の責任をしている人に対しては、共通している翻訳のもの勧める人もあります。
>0 聖書は誰が翻訳したのですか?

それは、ウイリアム・ティンダルです。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%AB
聖書の原本は、旧約聖書はヘブル語(ヘブライ語)、新約聖書はギリシア語(ギリシャ語)で書かれ、複数の写本があり、そこから様々な言語に翻訳されました。
翻訳者は、それぞれの言語によって、また同じ言語の聖書でも翻訳によって、翻訳者は違うと思います。

モルモン書も、原本からの初版の英語への翻訳はジョセフ・スミスですが、そこから各国の言語に翻訳した人はたくさんいます。

はい、最も正確な和訳を目指して、私も私訳しています。MIXIの日記に載せていますし、Amebroにも、またfacebookの「真理の玉手箱」のページにも載せています。今現在は、KJVとJSVの併合和訳を、マタイによる福音書の21章迄完了しました。
 
 因みに、一般に出回っているものは、日本聖書協会が口語訳、新共同訳など。また命のことば社は新改訳聖書。他にも岩波でも出していますが、読みにくいです。ものみの塔聖書協会も英文からの和訳を出しています。新約はギリシア語から、旧約はヘブライ語とアラム語からです。他に、七十人訳聖書と言うのもあるのですが、初期の頃のものであるため、脱落のある他の翻訳の参考になっています。一方、末日聖徒イエス・キリスト教会は、1611年にジェームス王に献呈された英訳版のKJVを公式に使っていて、その補正分を預言者ジョセフ・スミスが霊感訳聖書として付け足しています。

 いずれにしても、分かり難いのでは話になりません。特に翻訳者の福音に関わる知識がその結果を左右するものです。また、慣用句や古語もありますので、その用法を知らなければ正確な翻訳は出来ないと思っています。
そう言う訳で、昨年までは、モルモン書を和訳して第二ニーファイの初めまで行きましたが、今年2019年は新約聖書が教科課程だったため、頑張ってKJVの脚注にあるJSTと照合しながらマルコ2章迄和訳しました。然し、後日、KJVの脚注には完全なJSTが載っていないことが分かり、改めて「復元イエス・キリスト教会発行」JSTのINSPIRE VERSIONをDLして最初から照合和訳し直しました。。今現在マタイ27章迄完了しましたが、おそらく、最も正確な新約聖書のマタイであると自負しています。但し、JSTはジョセフ・スミスが1844年に暗殺されたため完全に推敲し終わったものでは無く、文章構成や表現が不完全な個所も見受けられ、復元イエスキリスト教会はその不完全なままで版を重ねて来たことが分かります。然し、「高価な真珠」に載せられている「ジョセフ・スミス マタイ」と「モシェ書」だけはこのJSTから取って推敲掲載されたものです。当然、マタイ24章はJST版と構成が異なっていますので、小生は不完全なJST版ではなく、高価な真珠版から24章を和訳しました。。因みに、版権の所有が無い為か、完全推敲されていないためか、ジョセフ・スミス霊感訳聖書は末日聖徒イエスキリスト教会の公式聖典にはなっていません。然し、十分貴重な資料であることに間違いありません(聖句ガイドより)。
>>[6] さん 末日聖徒イエス・キリスト教会の公式なモノは1611年に英国のジェームス王に欽定された「KJV」です。日本語は一般的に日本聖書協会が翻訳発行している1954、55年和訳の口語訳、及び’87,88年の新共同訳が一般的で、拙者は前者の方が正確であると思っています。

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