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城下町コミュの久留里

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 久留里は小櫃(オビツ)川中流右岸に位置する小盆地で、6〜7世紀には馬来田国造(マクダノクニノミヤツコ)の支配に置かれ、律令制下では上総国望陀(モウダ)郡に属しました。
 享和元(1801)年刊の『久留里記』に掲載された伝説に拠れば、平将門(903?〜940)の三男頼胤(ヨリタネ)が細田妙見参詣の折、「城を浦田山に築き、久しく当地に留まるべし」との御託宣を得た故事に由来するとされます。
 久留里の地名が一次史料で確認されるのは室町時代になってからです。甲斐守護武田信重の弟で古河公方足利成氏に仕えた武田信長が、康正元(1455)年に成氏から上総守護代に任じられ、翌年、当時関東管領上杉房顕の支配下にあった上総国へ兵を進めて接収、標高190m・比高145mの山頂に久留里城を築きました。信長は長禄2(1458)年頃に庁南(チョウナン)城・真里谷(マリヤツ)城を築き、以後、武田本家が庁南城、分家真里谷氏が真里谷城を継承し、久留里城は真里谷氏の支配下に置かれました。
 久留里城は、山頂エリアの外、安住原(アンジュウバラ)地区、怒田(ヌダ)地区、及び山麓小櫃川河畔の居館部の四つの曲輪から成る大規模な山城で、上総南部の重要拠点となっていました。
 戦国時代前半には真里谷氏が本家を凌いで上総国西部から中部一帯を領有する大勢力に成長、真里谷信清は古河公方足利政氏の子の義明が家督争いの末に出奔するとこれを迎え入れて「小弓(オユミ)公方」と名乗らせ、自らは「房総管領」を称しました。しかし、その子信隆の代になって、弟の信応(ノブタダ)との間で紛争が起こり、信応派が足利義明や安房の里見義堯(サトミヨシタカ)と同盟を結んで信隆を真里谷城から追放します。このため信隆は小田原の北条氏綱の元へと亡命、これが一因となって天文7(1538)年に北条氏綱と足利義明・里見義堯・真里谷信応の間に第一次国府台(コウノダイ)合戦が起きます。その結果、足利義明は戦死し、真里谷信応は降伏、信隆が真里谷氏当主に復帰しましたが、久留里城は里見義堯の支配下に入り、義堯は天文10(1541)年頃に安房国から久留里城へ本拠を移し、南関東制覇に乗り出します。
 義堯は山頂エリアと安住原地区を放棄して、標高145m・比高100mの尾根上に新たな城郭を築いたため、真里谷氏時代の久留里城は、久留里古城とか上の城と呼ばれる事となりました。
 天文21(1552)年、里見義堯は真里谷信隆の子信政を攻撃、信政は椎津城内で自刃して真里谷氏は滅び、上総国はほぼ里見氏の支配下に入りました。これに対し、小田原の北条氏康は天文23(1554)年に海路上総へ軍勢を上陸させ、二年間に亙って久留里城攻防戦が展開されましたが、弘治2(1556)年に義堯は北条軍を撃退して久留里城を守り抜きました。
 永禄3(1560)年にも北条氏康は大軍を上総に上陸させて久留里城を包囲させましたが、義堯は越後の上杉謙信と同盟、上杉軍が北関東へ進出したため、北条軍は上総から撤退しています。久留里城が強靭な防御力を発揮したのは、山上の湧水が豊かだったのが大きな原因だとされています。
 しかし、調子に乗って下総にまで進出した里見義堯は、永禄7(1564)年の第二次国府台合戦で北条氏康に大敗を喫し、久留里城を含む上総全域を失って、安房国への逐電を余儀無くされますした。
 この結果、北条氏康は小田小太郎を久留里城代として配置しましたが、永禄9(1566)年には里見軍の大反攻が成功して、久留里城奪回に成功しています。更に義堯は永禄10(1567)年の三船台合戦で北条軍を撃破して上総全域を奪還、再び久留里城を本拠としたのです。
 天正2(1574)年、里見義堯は久留里城で死去し、息子の義弘が後を襲いますが、天正4(1576)年に小田原の北条氏政は海路上総へ攻め込みます。義弘は上杉謙信に救援を求めましたが、備後国鞆(トモ)の浦の将軍足利義昭の要請を受けて織田信長と対決していた謙信に関東出兵の余力は無く、天正5(1577)年に義弘は上総国北部を北条氏へ割譲して講和しています。この際、小櫃川と一宮川が北条領と里見領の境界とされましたが、小櫃川北岸にある久留里城は例外的に里見領とされ、引き続き義弘の居城とされています。なお下総国の一部も里見領とされました。
 天正6(1578)年に義弘が久留里城で死去すると、嫡男梅王丸が上総国、養子義頼が安房国を相続しましたが、天正8(1580)年に義頼は久留里城以下の梅王丸所領を全て奪取して里見氏統一に成功、安房国岡本城を本拠としました。久留里城には城代として山本弾正と秋元勘解由(アキモトカゲユ)が置かれています。
 天正10(1582)年3月、織田信長が武田勝頼を滅ぼして滝川一益を上野国に配すると、義頼は北条氏政と手切れして信長に与する構えを見せましたが、同年6月に信長が本能寺で横死すると再び北条側に戻り、旧武田領の争奪戦である天正壬午の乱に際して北条方へ援軍を派遣しています。
 天正15(1587)年に里見義頼が死ぬと、息子の義康が15歳で家督を継ぎ、天正18(1590)年初めに関白豊臣秀吉へ臣従を誓って領土を安堵されます。その際、岡本城から安房国館山城へ居城を遷し、久留里城には山本越前守を城代として配しました。
 ところが、同年3月、秀吉の小田原征伐が開始されると、里見義康は独断で小弓公方足利義明の遺児頼淳(ヨリアツ)を奉じて、三浦半島へ渡海進軍し、鎌倉公方家再興を標榜、独自の禁制を発したため、私戦を禁じた惣無事令(ソウブジレイ)違反に問われてしまい、同年7月の小田原開城と共に上総・下総の所領を没収されて安房40000石に減封されてしまったのです。
 この結果、上総国は江戸に入府した権大納言徳川家康の所領となり、久留里城には大須賀忠政が30000石で入りました。忠政は徳川四天王の一人榊原康政の子で大須賀家の養子となった人物ですが、久留里城を近世城郭として改築し、城下町も整備しています。即ち、山上の本丸に天守閣を建て、西側に二の丸、西側山麓に居館のある三の丸を整備、更に三の丸西方の小櫃川沿いの低地には四の丸も設けられています。城下町は城の北方に広がり、小櫃川水運も開かれました。
 慶長6(1601)年末、大須賀忠政は関ヶ原合戦の功により遠江国横須賀60000石に加増転封され、代わって旧武田家臣だった土屋忠直が20000石で久留里へ入城しました。慶長17(1612)年に忠直が死去すると、僅か5歳の利直が家督を相続しますが、慶長20(1615)年の大坂夏の陣に際しては幼少のため家臣を代理として参陣させ、相模小田原城と箱根関所の警備を務めました。
 利直の時代に江戸詰めの目付を務めていた新井正済の子伝蔵が、後に正徳の治を行う新井白石(1657〜1725)で、利直は幼いが聡明な伝蔵の事を「火の子」とよんで可愛がったと伝えられています。これは、伝蔵が怒ると眉間に「火」の字に似た皺が生じた事に由来します。
 延宝3(1675)年に土屋利直が死去すると、息子の直樹(ナオキ)が後を襲いますが、直樹は「狂気」の人物だったため、新井正済は一度も出仕しませんでした。このため激怒した直樹は延宝5(1677)年に正済を追放、しかも他藩への仕官を禁ずる奉公構(ホウコウカマイ)としたため、少年時代の白石は困窮の中で育つ事になりました。
 その後、土屋直樹は延宝7(1679)年に狂気を理由に改易され、久留里城も破却されてしまいました。しかし、甲斐武田家以来の名門であることを考慮されて、長男の逵直(ミチナオ)が遠江国内で3000石を与えられ、土屋家は旗本として存続する事となります。
 こうして久留里は天領とされましたが、寛保2(1742)年になって譜代の黒田直純が上野国沼田30000石から久留里30000石へ移封される事となり、久留里城再建のため5000両を給わった直純は、独立式望楼型二重三階の天守閣を建設しています。なお、久留里城は雨が多かったため雨城(ウジョウ)の別名でも知られました。
 直純が安永4(1775)年に死去すると養子の直亨(ナオユキ)が後を継ぎ、天明4(1784)年に直亨が死去すると、息子直英が後を継ぎました。この頃から久留里藩では財政の困窮化が深刻となり、このために倹約や俸禄制度改革、三割の法制定などによる藩政改革が行なわれましたが、効果はありませんでした。直英は天明6(1786)年に大坂加番として赴いていた大坂城に於いて29歳で死去してしまい、次男の直温(ナオアツ)が後を襲いました。
 黒田直温は嗣子を設けないまま享和元(1801)年に18歳で死去したため、叔父の直方が養子となって跡を継いでいます。黒田直方の嫡男直明が早世しており、庶子の次男直静(ナオチカ)も幼少であったため、直方は文化9(1812)年に出羽国庄内藩主酒井忠徳(サカイタダアリ)の子直侯(ナオヨシ)を養子に迎えて家督を譲り、隠居しました。
 黒田直侯は文政6(1823)年に直静へ家督を譲って隠居、直静は天保13(1842)年に藩校三近塾を創設して藩士の教育化を図る一方で、度重なる外国船襲来に備えて大砲を鋳造するなどの軍備強化にも努めました。しかし、弘化3(1846)年には飛地藩領である武蔵・上野領内で利根川の氾濫などにより大規模な被害を受けるなどしたため、藩財政は一層悪化しています。
 黒田直静は嘉永7(1854)年に死去し、直侯の庶子だった直和(ナオヤス)が後を継ぎました。幕末の動乱の中、直和は文久3(1863)年初頭に治安が悪化していた江戸市中の取締役に任じられ、同年4月には大坂城山里丸加番に任じられています。その外にも外国船に備えて海防強化にも尽力しましたが、慶応2(1866)年に病気を理由に家督を直静の甥である直養(ナオタカ)に譲って隠居しています。
 慶応4(1868)年2月、徳川慶喜が上野寛永寺に謹慎した際、黒田直養は越後高田藩主榊原政敬(サカキバラマサタカ)と共にその警護を務め、新政府に恭順するかどうか逡巡していました。その様な状況下の同年4月上旬、江戸を脱出し真里谷に駐屯していた福田八郎右衛門麾下の旧幕府軍撤兵隊が援軍を要請して来たため、久留里藩論は佐幕に傾きました。しかし、新政府軍が小櫃地区の山本に迫り撤兵隊が逃走してしまったため、久留里藩も官軍に帰順する方針になったのです。ところが、4月10日、若き久留里藩士杉木良太郎が久留里に進駐して来た官軍の一兵卒が「久留里の腰抜侍」と言ったのを耳にして激怒、家に刀を取りに帰って「徳川の恩義に報いるのは今なり」と一人で官軍の陣地に斬り込もうとする事態が突発します。それを知った父良蔵が、藩を守るために泣く泣く息子良太郎の首を斬り、官軍の陣に差し出したため、久留里藩は朝敵になる事を免れたのでした。明治2(1869)年6月、直養は版籍奉還により久留里藩知事に任じられ、明治4(1871)年7月の廃藩置県を迎えました。
 廃藩置県によって久留里藩は久留里県となり、同年11月に上総・安房の諸県が統合されて木更津県となりました。
 明治5(1872)年の廃城令によって久留里城は破却され、その跡地は「町」でも「村」でもなく単に「久留里」と呼ばれる事になり、城下町は久留里市場(クルリイチバ)村となりました。
 明治6(1873)年に6月に木更津県は旧下総国の印旛県と統合して千葉県となりました。
 なお、最後の久留里藩主黒田直養は個人的に多額の負債を抱えていたため、明治10(1877)年に直和の次女である鏻子(レイコ)へ家督を譲って隠居した上で、翌年別家しています。鏻子は対馬藩主宗義和(ソウヨシノリ)の六男和志(ヨリユキ)を夫に迎えて、明治14(1881)年に黒田家を継承させ、和志は明治17(1884)年に子爵に叙されました。
 明治11(1878)年に郡制度が設けられると久留里は望陀(モウダ)郡に属する事となり、明治18(1885)年の戸数は171、人口は750人でした。
 明治22(1889)年に市町村制が施行されると、久留里は久留里市場村・吉野(ヨシノ)村・小市部(コイチブ)村・大谷(オオヤツ)村・怒田(ヌダ)村・浦田(ウラタ)村・大和田(オオワダ)村・富田(トミダ)村・愛宕(アタゴ)村・向郷(ムカイゴウ)村・栗坪(クリツボ)村・川谷(カワヤツ)村と統合されて望陀郡久留里町となりました。明治24(1891)年の久留里町の戸数は820、人口は4519人でした。
 明治30(1897)年に望陀郡は周淮(スエ)郡・天羽(アマハ)郡と統合されて君津郡となり、明治32(1899)年には久留里銀行が設立されています。明治42(1909)年からは米の品種統合が図られ、大和錦・関取・神力(シンリキ)等の品種が昭和初期まで栽培される事になります。
 久留里町は非常に交通の便の悪い所だったため、千葉県が帝國陸軍鉄道連隊に工事を依頼し、大正元(1912)年に千葉県営鉄道が木更津―久留里間で開通しました。大正2(1913)年には久留里電気会社が設立されて電力の供給も始まっています。大正10(1921)年の久留里町の世帯数は976、人口は4650人です。
 大正12(1923)年9月1日に千葉県営鉄道は国有化されましたが、同日に発生した関東大震災で一ヶ月不通になっています。久留里町の震災被害は全壊10戸・半壊25戸でした。
 大東亜戦争中の昭和18(1943)年には久留里電気が東京電力に吸収合併され、昭和20(1945)年初頭には米軍の房総上陸に備えて、北海道から転進した部隊が久留里国民学校に駐屯する事となりました。同年6月10日には横浜市を空襲したB29が帰途、余った爆弾を久留里上空で投下したため、死者6人・負傷者2人が出ています。更に8月10日には米艦載機の機銃掃射で1人が亡くなりました。
 昭和29(1954)年に久留里町は亀山村・松丘村と合併して上総町となりました。昭和30(1955)年に上総町が久留里城跡の国有地を借り受けて城山公園として整備を行っています。
 昭和45(1970)年に上総町は小糸町・清和村・小櫃村と共に君津町に併合、翌年、君津市が成立する事になりました。
 昭和54(1979)年には久留里城の模擬天守が土壇の天守台脇にRC構造で建造されました。江戸末期の天守閣は二層二階でしたが、模擬天守は浜松城模擬天守をモデルとした二層三階であり、実際に建っていた物とは大幅に異なっていますが、観光客誘致には大いに役立っています。
 また、久留里の名水は江戸時代から日本酒製造に活用されて来ましたが、平成時代にはミネラルウォーターやサイダーとして発売されるなど、近年は観光開発に力が入れられています。

・土屋家五輪塔
 https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=398257&id=99967799

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 円覚寺の土屋家五輪塔〔君津市指定史跡〕です。

左;久留里藩主土屋忠直(1582〜1612)墓
中;忠直正室墓
右;久留里藩主土屋利直(1607〜75)墓
左・中;円覚寺の土屋家五輪塔〔君津市指定史跡〕
右;上総地域交流センター 雛人形展
 上総地域交流センターの久留里線開業110周年展です。
左;久留里線開業110周年展
中・右;久留里観光案内所
左;久留里の名水 水汲み広場
中;藤平酒造
右;藤平酒造前の名水
左;久留里の名水
中;高澤家の名水
右;曹洞宗久留里山真勝寺
 真勝寺です。

左;由緒
中;山門 久留里城城門を模した物
右;本堂
 真勝寺です。

左・中;最後の久留里藩主黒田直養(1849〜1919)墓
右;鐘楼
左;真勝寺 杉木良太郎墓
中・右;新井白石旧居跡
久留里神社〔郷社〕
祭神;天御中主命・伊邪那美神・天照皇大神・少彦名命・応神天皇etc.
 久留里神社です。

左;楼門
中・右;本殿〔君津市指定文化財〕
左;久留里神社本殿
中;久留里神社御神水
右;雨情庵の井戸
左;君津市森林体験交流センター 新井白石展
中;君津市森林体験交流センター 新井白石書簡〔君津市指定文化財〕
右;寒緋桜と蝋梅
左;寒緋桜
中;三葉躑躅保護地域
右;城山探鳥路
 久留里城跡です。

左・中;堀切
右;久留里曲輪
 久留里城跡です。

左;鶴の曲輪
中・右;お玉が池
 久留里城二の丸の新井白石銅像です。
 久留里城跡です。

左・中;二の丸長屋塀
右;雨城八幡神社 祭神;応神天皇
 久留里城薬師曲輪からの眺望です。
 久留里城跡です。

左;薬師曲輪
中・右;上総掘り
 久留里城址資料館の久留里城ジオラマです。
 久留里城跡です。

左;二の丸堀切
中;久留里城址資料館
右;天神曲輪
 久留里城跡です。

左;波多野曲輪
中;本丸
右;本丸天守台
 久留里城跡です。

左;弥陀曲輪
中・右;三の丸

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