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城下町コミュの土佐中村

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 四万十川下流の現中村市街地は縄文海進の時期は海面下だったと考えられ、当時の海岸線だった山麓部に中村貝塚が残されています。
 弥生時代に入ると、四万十川と支流の後川の合流地点に沖積平野の中村平野が形成され、肥沃な土壌と温暖湿潤な気候に恵まれて農耕が盛んとなり、多くの弥生遺跡が残ります。
 『国造本紀』によると人皇第10代崇神天皇〔位;97B.C.〜30B.C.〕に都佐国造(トサクニノミヤツコ)に先立って波多(ハタ)国造が置かれたとされ、中村と現宿毛市平田がその本拠の有力候補地となっていますが、県下最大の前方後円墳たる平田曽我山古墳があった平田に対し、中村には古墳時代前期の遺跡は残されておらず、6世紀の後期古墳も円墳の古津賀古墳〔四万十市指定史跡〕以下5基程度に留まるため、波多国造本拠地は平田だったと考えるのが自然でしょう。
 律令時代になると、この地は土佐国幡多(ハタ)郡宇和(ウワ)郷となり、鎌倉時代初期まで国衙領でしたが、承久の乱(1221年)後に関白九条道家を本所、参議・文章(モンジョウ)博士の菅原為長(スガワラノタメナガ)を領家とする幡多荘となりました。幡多荘は幡多郡全域に高岡郡の一部も加えた広大な荘園で、摂関家の有力な財政基盤となったのです。年貢取立てに当たる目代職は横田氏が世襲しました。
 また、承久の乱後、土御門上皇が11年に亙って中村の常照寺に配流されていたと伝えられています。
 その後、建長2(1250)年に道家が財産を嫡孫の九条忠家と三男の一条実経に分与した時に幡多荘は一条家の所領とされました。
 応仁2(1468)年、前関白左大臣一条教房が応仁の乱を避けて幡多荘に下向、中村御所を設けて幡多荘直轄統治を始めました。当初は国人領主達の反抗に手を焼いた教房でしたが、やがて国人達の信望を得る事に成功、伊勢北畠氏・飛騨姉小路氏と並ぶ戦国三国司家の一つたる公家大名としてしっかり基盤を築いたのです。
 教房は加久見氏・為松氏等の国人領主を家老とし、中村御所の背後に詰城の中村城を築いて為松氏が城主となりました。さらに、教房は土佐守護を兼ねる幕府管領細川氏と連携して日明貿易にも関与し、明帝国寧波(ニンポー)に赴く堺商船が中村に寄港する事が慣例化したため、土佐一条氏は貿易の利益で巨富を蓄え、土佐国で圧倒的な力を持つに至りました。中村からは明銭や陶磁器が多数出土しています。
 土佐一条氏の家紋は「下り藤」です。
 一条教房の長男権大納言政房は応仁の乱に巻き込まれて殺害されていたため、教房の弟で京都に留まっていた冬良が一条家督を継いで関白太政大臣となりましたが、文明12(1480)年に教房が中村で死去すると、土佐国人は教房が加久見宗孝の娘に産ませていた僅か4歳の房家を擁立して土佐国司家を存続させました。文明15(1483)年には内紛が起きて為松氏等の国人が
教房側近だった公家難波氏を討つ騒ぎもありましたが、事実上の執政だった加久見宗孝の尽力で紛争は収拾されました。
 成人後の房家は高岡郡の有力国人大名津野元実を撃破して高岡郡を支配下に置き、長岡郡岡豊(オコウ)城主の長宗我部兼序(チョウソカベカネツグ)が本山氏・吉良氏・大平氏等に撃滅された際には長宗我部氏復興に力を貸すなど政略・軍略に優れた手腕を発揮、そして、御所周辺には京都を模した碁盤目状の市街地が形成され、父と京都を偲んで「大文字の送り火」を始めるなど、中村は「小京都」の異称も持つ事となったのです。
 房家の次男房通は冬良の養子となって関白左大臣となり、房家自身も権大納言に叙されています。天文8(1539)年に房家が死去すると、長男の左近衛大将房冬が土佐国司家家督を継ぎましたが、二年後に死去してしまい、その子で従三位右近衛中将房基が第4代土佐国司となりました。
 房基は豊後守護大友義鑑(ヨシアキ)の娘を娶り、岳父と共に伊予出兵を行って南宇和方面をも版図に加え、土佐国内でも津野氏を完全に屈服させ、大平氏を滅ぼすなど勢威を振るいましたが、天文18(1549)年に28歳の若さで突如自決してしまいました。公式には「乱心のため」とされますが、戦国大名の様な粗暴な行動を疎んだ叔父の太閤房通による暗殺説もあります。
 この結果、房基の子で僅か7歳の兼定が第5代土佐国司となり、大叔父の太閤房通が土佐に下向して養父となり、政務を執りました。弘治2(1556)年に房通が死んで親政を行う事になった権中納言兼定は、伊予に出兵して河野氏に大敗し、土佐国内でも妹婿の安芸国虎と結んで長宗我部元親を討とうとしたものの、永禄12(1569)年には国虎が逆に元親に討たれる事態となり、以後、元親に領土を蚕食されて行く事となりました。
 ところが、この危機に際して兼定は政務を放擲、平田村の百姓娘お雪を愛妾として平田通いを繰り返したため、元亀3(1572)年に筆頭家老土居宗珊(ドイソウサン)が諫言しますすが、却って手打ちにしたため人望を失い、羽生・為松・安並の三家老の合議によって天正元(1573)年に隠居を強制されてしまいました。三家老は兼定の子の従三位左近衛中将内政を第6代土佐国司に擁立、翌年、兼定は追放されて岳父の大友宗麟を頼って豊後国臼杵へ逃れています。
 しかし、兼定の追放を知って憤慨した加久見城主加久見左衛門が挙兵して中村を襲い、羽生・為松・安並の三家老を討伐、この混乱に乗じて、叛乱鎮定に名を借りた元親により中村は占領されてしまったのです。元親は弟の吉良親貞を中村城主とし、一条内政は長岡郡大津城に移されて元親の娘を妻とする事となり、一定の領主権を与えられて大津御所と呼れました。
 一方、一条兼定は天正3(1575)年に大友宗麟の援助で伊予国宇和島から土佐へ侵攻、旧臣達の支持を受けて中村を奪回しますが、四万十川の戦いで長宗我部元親に大敗、その後は伊予国の戸島(トジマ)で逼塞したまま天正13(1585)年に生涯を終えています。
 他方、大津御所内政も、天正9(1581)年に長宗我部元親家臣の波川清宗の謀叛に加わった嫌疑で伊予国法華津に追放され、大友宗麟に援助を求めますが、天正13(1585)年6月5日に至って元親によって毒殺されたとも言われています。父兼定の死は同年7月1日ですから、もし内政が毒殺なら、兼定の方も怪しいですね。
 さて、四万十川合戦の後、中村城主に復帰した吉良親貞は翌年死去し、息子の親実が城を大規模な近世城郭に改造しますが、天正16(1588)年に元親への諫言が咎められて一族もろとも切腹させられてしまい、「七人みさき」と呼ばれる悪霊と化したとされています。
 以後、桑名弥次兵衛が中村城主を務めていましたが、慶長6(1601)年に山内一豊が土佐国202600石を与えらえると、一豊は弟の康豊に中村20000石を与えて支藩主としました。
 慶長10(1605)年に一豊が死去すると、その養嗣子となっていた康豊の長男忠義が土佐藩第2代藩主に就任、若年だった忠義のため、康豊が二年間程後見人を務めました。
 慶長18(1613)年、康豊は中村城の大規模な修築を行い、城下町は上町・下町と農民居住区の郷分に分けられて、一条氏時代以来、中村目代を称して来た横田家が目代職の世襲を認められて町人町の管理に当たりました。しかし、元和元(1615)年の一国一城令で中村城は廃城を余儀なくされ、陣屋が設けられました。
 寛永2(1625)年、山内康豊が死去すると、次男の政豊が中村藩主の座を継ぎましたが、寛永6(1629)年に嗣子断絶してしまい、明暦2(1656)年に至って忠義の次男忠直が30000石を分与されて中村藩は再興されました。忠直は万治年間(1658〜61)に土佐藩奉行野中兼山の指導で後川に麻生堰を築いたりして治水・灌漑事業による米の増産を図っています。
 寛文7(1667)年に忠直が死去すると、長男の豊定が中村藩主の座を継ぎ、次男の豊明に3000石が分与されました。
 延宝5(1677)年に豊定が死去すると、その嫡子豊次が幼少だったため、豊明が中村藩主となりました。豊明は産業開発等に尽力しましたが藩財政は厳しく、貞享5(1688)年には阿波の商人から銀20貫の借金を余儀なくされています。
 豊明は一方で、5代将軍徳川綱吉の寵愛を受けて元禄2(1689)年4月に奥詰衆となり、同年5月3日には外様支藩主の分際で若年寄に任じられるという異例の栄進を遂げています。ところが5月10日、豊明は病気により放心状態で目も見えず、耳も聞こえないとして若年寄辞職を綱吉に求めました。真の理由は若年寄就任で一層藩財政が悪化する事を懸念したからだとされています。
 しかし豊明の行動は不敬とされて、5月12日に江戸屋敷を召し上げられて謹慎を命じられます。同年8月3日に謹慎は許されましたが、代償として所領のうち27000石を没収され、残り3000石の寄合旗本としての存続を許される事となりました。ところが、豊明は大名から寄合への格下げを拒否したため綱吉の逆鱗に触れて改易され、身柄は浜松藩青山忠重に預けられてしまったのです。
 そして中村藩領30000石は幕府に収公されて天領とされましたが、元禄9(1696)年に至って土佐藩主山内豊昌へ返還されました。この結果、土佐藩では中村に幡多郡奉行を置いて、宿毛領7000石を除く幡多郡70000石を管轄させる事としました。中村では町人町統治のための目代職が引き続き横田氏によって世襲され、大庄屋の上の身分とされています。
 寛保3(1743)年の郷村帳によると、中村町人町は482戸・1897人となっています。中村は郡奉行一人しか上士がいない町人主体の町だったため、事実上有力商人達によって運営されており、幕末には町人達による学芸が盛んとなりました。
 また、中村の外港に当たる四万十河口の下田港では菱垣廻船による江戸・大坂との交易が行われていました。
 明治4(1871)年の廃藩置県の結果、中村は高知県幡多郡に属する事となり、明治12(1879)年に郡役所が中村に置かれました。明治22(1889)年に幡多郡中村が誕生、明治31(1898)年に中村町となりました。大逆事件で処刑された幸徳秋水(1871〜1911)は中村の薬種商俵屋の生まれです。
 昭和21(1946)年の昭和南海地震と津波で中村市街地は大きな被害を受け、古い町並みは消失してしまいましたが、昭和29(1954)年に周辺10町村と合併して中村市が誕生、昭和45(1970)年には国鉄中村線が開通、平成14(2002)年には将来の高速道路網の一環となる中村宿毛道路の一部も開通しました。
 そして、平成17(2005)年には幡多郡西土佐村と合併して四万十市となり、高知県下第二位の都市として重きを成しています。平成22(2010)年には旧中村市街地に市役所新庁舎が完成しています。現在の人口は34855人です。
 中村は「最後の清流」と呼ばれる四万十川観光の拠点であるだけでなく、中村城跡には城郭を模した幡多郷土資料館が建ち、5月には土佐一條公家行列藤祭りが行われるなど観光振興に力が入れられていますが、高速道路開通の見込みは立たず、状況は厳しいようです。

・中村御所跡
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=398257&id=77920901
・中村城跡
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=398257&id=77932385
+一条教房の墓
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=398257&id=77935123
・玉姫の墓
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=398257&id=77938133

コメント(68)

須賀神社〔村社〕 祭神;神速須佐之男命・櫛稲田媛命・海津見神社・大海津見命
 中村貝塚です。
 昭和40(1965)年に発見された縄文時代晩期(約2500年前)の貝塚で、高知県下有数の規模です。カキやハマグリ等の海産貝殻が多数出土しているため、縄文海進がこの付近まで及んでいた事が判ります。土器や石器も多数出土していますが、土器は九州や瀬戸内地方で出土している物と同じタイプが多く見られ、当時の交流の状況が窺えます。
 中村出身の幸徳秋水(1871〜1911)の墓です。
 幸徳家は、俵屋と称する酒造業・薬種業を営む豪商で、元々は幸徳井(カデイ)という姓の陰陽師の家でした。なお、妻の師岡千代子の父は幕末の尊王攘夷運動で活躍し、足利三代木像梟首事件の首謀者とされている国学者の師岡正胤です。秋水は9歳の時、儒学者木戸明の修明舎に入って四書五経等を学び、11歳で中村中学校に進学しますが、台風で校舎が全壊しなかなか再建されなかったため退学し、明治20(1887)年に上京して同郷の中江兆民の門弟となりました。
 そして、同郷の板垣退助社長の『自由新聞』記者を経て、明治31(1898)年に黒岩涙香の創刊した『萬朝報』に移籍、明治33(1900)年に旧自由党系政党の憲政党が曾ての政敵である長州藩閥の伊藤博文と結び立憲政友会を結成した事を嘆いて、「嗚呼、自由党死すや」との一文で有名な「自由党を祭る文」と題した批判論文を発表しました。さらに同年の北清事変の際、日本軍が清国の馬蹄銀を横領した嫌疑を追求し、内閣総理大臣山縣有朋侯爵元帥の側近だった歩兵第9旅団長真鍋斌(マナベアキラ)陸軍中将を休職に追い込んでいます。
 また、明治34(1901)年、田中正造が足尾銅山鉱毒事件について明治天皇に直訴した時の直訴状は、まず秋水が書き、正造が手を加えた物です。
 明治36(1903)年、ロシア帝国との緊張が高まると、黒岩涙香社長が開戦論を唱えたため、非戦論に拘泥した秋水は同僚の堺利彦と共に退社して平民社を開業、週刊『平民新聞』を創刊しました。この頃から社会主義思想にかぶれた秋水は、翌年には堺と共に『共産党宣言』を発表しますが、当然、即日発禁処分を受けています。
 明治38(1905)年、新聞紙条例違反で入獄しますが、獄中でクロポトキンの思想をを知り、無政府主義に傾倒します。出獄後、アメリカ合衆国サンフランシスコに渡って、アメリカ亡命中のロシア人アナーキストのフリッチ夫人等と交わり、翌年のサンフランシスコ地震に際する市民の自助努力の復興を見て、無政府主義こそ理想だとの妄想を深めました。
 帰国後の明治39(1906)年、第1次西園寺内閣の融和政策の下で結党が認められた日本社会党に参加しますが、武装蜂起論を唱えたため、合法主義を唱える片山潜等と対立して袂を分かち、社会革命党を結成しました。
 このように、どんどん過激化する一方の秋水は、馬蹄銀事件を恨んでいた枢密院議長の山縣有朋公爵元帥に目を付けられる事となり、明治43(1910)年6月に明治天皇暗殺を企んだ容疑で情婦管野須賀子と共に逮捕され、翌年1月24日、大逆罪で絞首刑に処されました。
 秋水の墓は、浄土宗知恩院派龍珠山正福寺跡の墓地に設けられましたが、昭和20(1945)年迄は墓碑に鉄格子が嵌められていました。中村市民にとって逆賊秋水の存在は、恥ずべき黒歴史として抹殺されていましたが、平成時代に入って再評価が成され、平成12(2000)年に中村市議会が名誉回復決議を行っています。
 正福寺は承元2(1208)年に後鳥羽上皇の命で法然上人の土佐流罪が決まった際に幡多郡宇和(ウワ)郷の人々が建てたものですが、結局法然は土佐までやって来ず、讃岐国に留まる事を許されました。そこで、法然は自分を待っていた衆生のために弟子に袈裟などを届けさせ、この品を地元の人達が寺に安置したと伝えられています。正福寺は廃仏毀釈のため、明治4(1871)年に廃寺になりましたが、明治36(1903)年に場所を移して再興されました。
一條神社 〔県社〕 

祭神;若藤男命(ワカフジオノミコト)・若藤女命(ワカフジメノミコト)・一条教房と土佐一条氏歴代当主及び連枝
一條神社 

咲かずの藤と中村御所跡〔四万十市指定史跡〕
一條神社

左;天神社〔村社〕 祭神;少彦名命・菅原道真
中;本殿
右;四万十市郷土資料館遠望
 土佐国司家第4代の従三位右近衛中将一条房基(1522〜49)の供養墓です。
 房基は豊後守護大友義鑑(ヨシアキ)の娘を娶り、岳父と共に伊予出兵を行って南宇和方面をも版図に加え、土佐国内でも津野氏を完全に屈服させ、大平氏を滅ぼすなど勢威を振るいましたが、天文18(1549)年に28歳の若さで突如自決してしまいました。公式には「乱心のため」とされますが、戦国大名の様な粗暴な行動を疎んだ叔父の太閤房通による暗殺説もあります。房基の墓は光寿寺に設けられましたが、慶長6(1601)年に廃寺になった後は行方不明となってしまいました。そこで、後世になってこの供養墓が作られたようです。
 前期中村藩第2代藩主山内政豊(1598〜1629)の墓です。
 政豊は初代中村藩主山内康豊の次男で、第2代土佐藩主山内忠義の弟です。3歳の時に起きた慶長5(1600)年の関ヶ原合戦の際には、伯父山内一豊によって徳川家康へ人質として差し出されています。慶長19(1614)年の大坂冬の陣は兄忠義に従って出陣しましたが、翌年の夏の陣では土佐藩兵は暴風雨のため出航出来ず、参戦が叶いませんでした。寛永6(1629)年4月8日、嗣子無くして32歳で死去し、前期中村藩はあっさり断絶しています。
 中村城跡〔宿毛市指定史跡〕三の丸(東ノ城)です。土塁が残ります。
 中村城三の丸には樋口真吉頌徳碑と南海大地震記念碑が建ちます。
 樋口真吉(1815〜70)は幕末の剣客として知られた人物で、中村に置かれた幡多郡奉行所の足軽の子でしたが、筑後柳川で大石新陰流免許皆伝を得た後、中村で道場を開き、1000人もの門弟を抱えました。武市半平太が高知城下で土佐勤王党を結成すると、それに呼応して中村で幡多勤王党を結成しますが、単なる狂信的攘夷論者では無く、江戸の佐久間象山の門弟となったり、長崎で高島流砲術を学んだりもしています。坂本龍馬と親しく交流した事でも知られます。頌徳碑は土佐出身で聯合艦隊参謀長や海軍軍令部長等を歴任した島村速雄男爵元帥(1858〜1923)の筆です。
 昭和21(1946)年12月21日0419時に起きたM8.0の昭和南海地震は全国で死者・不明者1330名を出しましたが、中村では四万十川鉄橋が崩落した外、火災で市街地が全焼して277人の死者を出しています。戦災を受けずに江戸時代の街並みが維持されていた中村は一撃で灰燼に帰してしまったのです。
 二の丸に建つ四万十市郷土資料館と四万十市立体地形図です。
 四万十市郷土資料館にある剥製です。

左;コウノトリ〔特別天然記念物〕
中;ニホンカワウソ〔特別天然記念物〕
右;ヤイロチョウ
 四万十市郷土資料館です。

左;中村貝塚出土品〔四万十市指定文化財〕
中;入田(ニュウタ)遺跡出土品〔四万十市指定文化財〕
右;古津賀古墳出土品〔四万十市指定文化財〕
 四万十市郷土資料館です。

左;四万十市石丸で出土した中広形銅矛〔高知県指定文化財〕
中;木造釈迦如来坐像〔四万十市指定文化財〕
右;宿毛市の高尾寺に伝わっていた鰐口(ワニグチ)〔高知県指定文化財〕
 四万十市郷土資料館です。

左;木造南仏上人坐像〔高知県指定文化財〕
中;中村城平面図
右;中村城推定図
 四万十市郷土資料館です。

左;中村城想像図
中;中村城(今城)想像図
右;栗本城想像図
 四万十市郷土資料館です。

左;中村城縄張り図
中;天正17(1589)年の中村
右;中村城出土瓦
  四万十市郷土資料館展望台からの眺望です。

左・中;後川
右;中村市街地
 四万十市郷土資料館展望台からの眺望です。

左;四万十川
右;標高222mの香山寺(コウサンジ)山
 幸徳秋水が死刑判決を受けた明治44年1月18日に詠んだ漢詩碑です。中村城二の丸にあります。
 「区々成敗且休論 千古唯応意気存 如是而生如是死 罪人又覚布衣尊」
 「区々たる成敗、且(シバ)らく論ずるを休(ヤ)めよ 千古、唯(タダ)応(マサ)に意気を存ずべし 是(カク)の如くして生き、而(シコウ)して是(カク)の如く死す 罪人、又(マタ)覚ゆ、布衣(ホイ)の尊(タット)きを」
 中村城本丸です。土塁や石垣の残滓が残ります。
 一条教房の墓〔高知県指定史跡〕です。
 教房は、応永30(1423)年、後に従一位関白太政大臣となる内大臣一条兼良(カネラ)の長男として生まれ、永享10(1473)年に一条家歴代当主の中では初めて足利将軍家からの偏諱の授与を受けて元服しました。享徳元(1452)年に内大臣、康正元(1455)年に右大臣、長禄元(1457)年に左大臣と順調に出世し、長禄2(1458)年に人皇第102代後花園天皇の下で関白・藤氏長者となりました。長禄3(1459)年には左大臣を辞して関白専任となりますが、同時に政敵の太政大臣二条持通にも内覧宣下があり、関白と内覧が並立する異例の事態となりました。持通は既に二度の関白経験がある上に、息子の一人を8代将軍・内大臣の足利義政の猶子とし、将軍家御台所日野富子の兄で実力者の正二位権大納言日野勝光とも親しくしていたため、幕府の介入があったのかもしれません。
 結局、教房は寛正4(1463)年に関白・藤氏長者を二条持通に譲り、応仁元(1467)年に応仁の乱が勃発すると、弟の興福寺大乗院門主尋尊を頼って奈良へ避難しました。このため、同年、二条持通が関白・藤長者を辞すと、後任には教房では無く一条兼良が任命されています。しかし、応仁2(1468)年に兼良も奈良へ避難して来たので、教房は父に奈良の避難所を譲り、一条家領の土佐国幡多荘に下向、中村御所を本拠としたのです。
 当初は国人領主達の反抗に手を焼いた教房でしたが、やがて国人達の信望を得る事に成功、伊勢北畠氏・飛騨姉小路氏と並ぶ戦国三国司家の一つたる公家大名としてしっかり基盤を築きました。
 教房は加久見氏・為松氏等の国人領主を家老とし、土佐守護を兼ねる幕府管領細川勝元と連携して日明貿易にも関与し、明帝国寧波(ニンポー)に赴く堺商船が中村に寄港する事が慣例化したため、土佐一条氏は貿易の利益で巨富を蓄え、土佐国で圧倒的な力を持つに至りました。中村からは明銭や陶磁器が多数出土しています。
 教房の長男従二位権大納言政房は応仁の乱に巻き込まれて摂津国福原で殺害されていたため、教房の弟で京都に留まっていた冬良が一条家督を継いで関白太政大臣となりましたが、文明12(1480)年10月5日に教房が中村で死去すると、土佐国人は教房が加久見宗孝の娘に産ませていた僅か4歳の房家を擁立して土佐国司家を存続させたのです。
 罔象女神(ミズハノメノカミ)を祭る奥御前宮(オクゴゼングウ)です。
 この地は、承久3(1221)年の承久の乱の後、自発的に土佐国へ配流された土御門(ツチミカド)上皇の行在所(アンザイショ)だった場所ですが、上皇が京都の貴船神社を勧請(カンジョウ)して創建した神社なので、社紋が菊花になっています。
 長宗我部時代には奥金仙宮(オクコンセングウ)宮と呼ばれて、釈迦如来を祭る小堂と化していたようですが、中村藩領になってから現社名に改められました。
 中村藩土居・幡多郡奉行所跡です。
 中村藩土居とは、元和元(1615)年の一国一城令で中村城が廃城となった結果として設けられた陣屋の事です。後期中村藩主も、ここを政庁としていました。元禄2(1689)年に山内豊明(トヨアキラ)が改易されると、中村藩領30000石は幕府天領となり、元禄9(1696)年に至って土佐藩主山内豊昌へ返還されました。この結果、土佐藩では中村に幡多郡奉行を置いて、宿毛領6800石を除く幡多郡70000石を管轄させる事とし、旧中村藩土居がそのまま奉行所として活用されました。
 右は京都の朱雀大路に該当する京町通です。
 玉姫墓〔四万十市指定史跡〕です。
 玉姫(?〜1547)は伏見宮邦高親王王女で、大永元(1521)年に土佐国司家第2代目の従二位前権大納言一条房家(1475〜1539)の嫡男である従三位左近衛中将房冬(1498〜1541)の妻として土佐国中村へ下向、翌年嫡男房基を産んでいます。夫房冬は大永4(1524)年より上洛、権中納言、次いで左近衛大将として京都に留まり、天文6(1537)年に帰国しているので、玉姫も同行していたと推測されます。天文8(1539)年に房家が死去すると、正二位前左近衛大将房冬が第3代土佐国司となりますが、僅か二年後の天文10(1541)年に房冬は没してしまいました。
 玉姫は天文16(1547)年8月22日に中村御所で没し、常照寺に葬られました。法名は真照院です。常照寺は明治初年の廃仏毀釈で廃寺となり、現在は寺跡に玉姫の五輪等のみが残されています。
 毎年5月3日に行われる一條神社の祭礼たる土佐一條公家行列藤祭では、玉姫に扮した女性がヒロインを務めます。
幸徳秋水の生家である豪商俵屋の跡です。
 中村駅にて 岡山行54D特急〔南風24号〕 2000系アンパンマン列車
 〔南風24号〕車内で食べた中村駅の駅弁「幕の内」です。
 本来は700円なんですが、550円に値引きされていたのでラッキーでした。鶏肉も豚肉も非常に美味しく、ヴォリュームもたっぷりで大満足でした。なお、中村駅は三セク駅ですから、当然、公式駅弁マークは入っていません。
 お土産です。

左;清流青のりせんべい・川えびせんべい
中;四万十の宿 合せ焼
右;川のり 四万十川物語

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