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ゴスペルハウスコミュの「あなたの決心でなく、父の覚悟が」(父の日礼拝)2020.06.20

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ゴスペルハウスメッセージ 2020.06.20
「あなたの決心でなく、父の覚悟が」(父の日礼拝)ルカ15:11-24

11 イエスはまた、こう話された。「ある人に二人の息子がいた。
12 弟のほうが父に、『お父さん、財産のうち私がいただく分を下さい』と言った。それで、父は財産を二人に分けてやった。
13 それから何日もしないうちに、弟息子は、すべてのものをまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して、財産を湯水のように使ってしまった。
14 何もかも使い果たした後、その地方全体に激しい飢饉が起こり、彼は食べることにも困り始めた。
15 それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑に送って、豚の世話をさせた。
16 彼は、豚が食べているいなご豆で腹を満たしたいほどだったが、だれも彼に与えてはくれなかった。
17 しかし、彼は我に返って言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が、なんと大勢いることか。それなのに、私はここで飢え死にしようとしている。
18 立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。
19 もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」』
20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとへ向かった。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。
21 息子は父に言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。』
22 ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。
23 そして肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。
24 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。』こうして彼らは祝宴を始めた。

父の日、おめでとうございます。
父の日礼拝には、毎年、この「放蕩息子と父の愛」の箇所からメッセージしていると思っていたのですが、昨年・一昨年は、別の箇所だったので、3年ぶりです。

ルカ第15章は、3つのたとえ話で構成されています。
「見失った一匹の羊」「失われた一枚の銀貨」そして、「放蕩息子(父の愛の執念)」です。
迷子になった羊は、自力で戻ってくることができません。
もちろん銀貨も、自力では戻れません。
そして、この弟(放蕩息子)も、戻って来てはいないのです。

彼は父のもとへ向かいました。
しかし、まだ家まで遠いところまでしか、自分の力では戻ることができなかったのです。
「そこまで来たんだから、戻ったのと同じじゃないか」という人もいるかも知れません。
しかし、そうではありません。
そこには歴然とした、大きな差があるのです。

今から25年前、私が生きるエネルギーを失い、海外へ逃亡する前のことです。
海外に行く前に、私は、疎遠になっていた実家に車を走らせていました。
この交差点を右に曲がれば父母のいる家というところで、私はハンドルが切れなくなりました。
あとは田んぼの中を500メートル行けば、到着するのです。
ハンドルが切れなくなったのは、車の故障ではありません。
切る勇気、切る心のエネルギーがなかったのです。

私は、車を降りました。
母がベランダに布団を干しているのが見えました。
きっと、父も家の中にいたことでしょう。
しかし、当然ですが、二人とも私に気がつくことはありませんでした。
私は車に戻り、Uターンしたのです。

家の近く、家の方まで行くことと、家に戻ることには、大きな差があるのです。
家の方まで行くだけなのは、中途半端な姿なのです。
だから、多くの場合は、人はそれに気がつくことはありません。
私の父母もそうでした。
それが当たり前のことです。

しかし、このたとえ話の父親は、たとえで表されている神様は、それを見逃さないのです。
だれ一人、見逃さないのです。
それは、失うため、滅ぼすため、罰するためではなく、救い、赦し、愛するためのです。

そして、父親は弟のもとに走りました。
それは、覚悟を必要とする行動、非常識とも言える行動でした。
現代でも、街中をスーツで走っている人は少ないでしょう。
もしいたとすれば、何か緊急事態と考えられます。
大人は、普段の生活では走らないのです。

しかし、父親は走りました。
非難を受けることも、無理解も、世間体の悪さも、健康や安全面のリスクも、すべてを負う覚悟で走ったのです。
それは、愛のゆえです。
そこには、中途半端な姿はありません。
弟の中途半端さに対して、父親は完全な覚悟と行動をリスクや損失を負ってまで貫くのです。

この姿は、イエスさまの姿そのものです。
私のために、あなたのために、愛と覚悟をもって、痛みや苦しみを伴って、救いを成就してくれたのです。

父親の愛が、弟にはわかりました。
父親に連れられて家に戻った弟に、父親は宴会を催します。
そこに帰ってきた兄は、そのことについて憤るのです。
兄には、父の愛がわかりにくかったのです。
それは、ずっと正しく生きてきた(つもり)だったからです。
真面目に生きてきた(つもり)だったからです。
これは、現代のクリスチャンにも、言えることではないでしょうか。

弟の不十分な決心や悔い改めも、弟を救うことはできません。
兄の不十分な従順や信仰も、兄を救うことはできません。
ただ、父の決心・神様の覚悟が、そしてイエスさまの従順が、あなたを救うのです。

父なる神様があなたに注ぐ、この覚悟の愛の中に、今日も生かされましょう。

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