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HUCC小説うpるコミュコミュの奈っさん:中編

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書きはするけど完結させないダメ字書きと評判の私です。
すいません、思いつくままに書かせてもらいます…
世界観は拙作「グリゼルディス」「血よりも強く」と同じですがまあそんなことはどうでもいいです。

というわけで「女神の毒」はじまるよ〜★

コメント(2)

【1 言葉の毒】
 まるで監獄のようだった。否、そもそもここは監獄だ。街で一つだけの犯罪者収容施設、築五十年の建造物は老朽化という単語を大事に抱きながらその黒い腕で彼らを包み込んでいる。犯罪者と、刑務官と、異邦者である彼らを。故に、彼が今佇んでいる個室が「監獄めいて」いたとしても、何の不思議も無い。
 グロリオ=ブルーはタイを絞りながら、周囲を見回した。時代遅れの堅牢な石造りの建物の壁は、どこか妙な湿気を孕んでいる。触れてみようと思って、やめた。一見してそれが湿っている事が分かったからだ。室内にもかかわらず黴だか苔だか、深緑色のものが石の継ぎ目に手を伸ばしている。
 そこでグロリオは自分がタイを絞っている事に気付き、手を緩めた。緊張で固くなった喉元を自ら絞め直してどうするというのだ。手持ち無沙汰にポケットへと手を収め、背後に佇む男達を肩越しに見る。
 天井から心細げにぶら下がっている暗いランプの光の所為で、目が奈落のように落ち窪んで見える二人の男は、グロリオを睨むように視線を返してきた。まるで籠の中に迷い込んできた雛を凝視する野犬のようだ。毎日牢の中の連中とやりあっている刑務官にとって、実際グロリオは雛以外の何者でもないのだろう。役人の上に若造なのだから。
「大した事じゃないわ」
 不意に声をかけられ、グロリオは弾かれたように顔を元へ戻した。隣に佇む女性が、嗜めるように、それでいて慈しむような茶色の瞳で彼を見つめている。瞳と同じ色の髪は、ランプと黴の影の所為で、黄昏に燃え盛る沼地のように見えた。
「大した事じゃない、」エレノア=シェインは再び言った。
「派手な経歴の奴だけど、凶暴じゃない。これまでに刑務官に怪我を負わせた事も無い。ただ、無罪を主張し続けているだけの犯罪者。そもそも私達警察がいるんだから、何も不安に思う事は無いわ」
 彼女の説得は徒労に終わりそうだ。グロリオは曖昧に首肯して返す。
 エレノアは彼よりも一つ二つ歳下だろう、その肌はこんな暗渠の世界でも未だ瑞々しい娘らしさを残していた。勝気な眉の下の瞳は、強靭な信念に輝いている。正義と言う名の信念に。彼女は南方からヨーク平原に抱かれた、沼だらけのこんな町の治安を守る事に不満を抱いているかもしれない。彼女にはそんな不満を抱く為の若さと矜持という資格を持っている気がした。
 尤も、初対面である。出来れば一生会いたく無かった。
「あの、」グロリオは喉まで出かかった言葉を嚥下し、首を傾げてその先を促す女性警察官から視線を逸らした。どうも自分の方が年長のようだが、かと言って対等な、つまりぞんざいな言葉遣いをしても良いものだろうか? 相手の機嫌を害す恐れがあるのではないだろうか。特に、背後の刑務官どもの。
「何?」
「どうして僕なんだ?」
 思わず同僚に対する風な口調が飛び出したが、彼の小さな懊悩は全くの杞憂で、エレノアも彼女の同僚に対するように目玉をぐるりと回して肩を竦めて返した。それを見るや、実に馬鹿馬鹿しい事で胸を痛めたものだと、グロリオは自分の小胆さに立腹した。
 エレノアは言葉を選ぶように短く返す。
「禁錮十年以上の重罪人の仮出所には、警察官の他に必ず一名以上の役人の付き添いが必要だからね」
「でも、僕はただの教会係で」
「この町の教会法《カノン=ロー》の番人」
「つまり、出生だの結婚だの葬式だの、そういった教会儀式の記録を留めるだけのつまらない役人だ。それがどうして」
「つまらない役人だからこそよ。忙しい人間には負担だからね。気を悪くしないで、保守的で堅実でしかも若く体力のある役人は貴方だけだったのよ」
 気を悪くしないで、だって? 少なくとも彼女は二つの思い違いをしている。一つ、今の言葉によって、この陰惨な石牢獄の中で育まれた不安と憂鬱に憤懣を加えられた結果、グロリオはいよいよもって気を悪くした。二つ、グロリオの体力は二十を越えた辺りから下り坂で、その勢いは減速する事を知らない。四十代の彼の上司の方が余程元気だ。
 そう、上司だ。あの痩せぎすの、落ち窪んだ眼窩に光る青い瞳が全く似合わない、うち捨てられた教会の屋根裏の主のような男、彼が例の如くの強張った冷たい声音で命じた今朝の言葉を思い出し、グロリオは悄然と視線を廻らせた。「罪人のお守りをしたまえ、」しかしグロリオにはその意味が未だに解らない。この牢獄に至ってもなお、彼は自分の置かれた立場を明らかにする事に腐心していた。ヨーク城が雨と平原を従える白き宮殿ならば、ここは黴と陰を従えた黒の教会だ。それこそ、あの上司がいつ物陰から姿を現しても不思議ではない。少なくとも、ここは自分には殆ど全く縁の無い場所だ。
 その時、ランプの光が小さく震え、陰湿な影を大きく揺らめかせた。視界の隅の暗がりで、漆黒の闇が蠢き、小さく戦慄いたかと思えば、のそりと大きな影が姿を現した。グロリオはぎょっとして、思わず体をそちらへ向けた。
 三人目の刑務官に連れられて部屋に入ってきたのは、ぼさぼさの長髪に黒い手枷を鳴らしてのろのろと歩む、陰のような男だった。彼こそが、グロリオが「お守り」をする相手に相違ない。しかし、闇が陰を産んだ、そんな錯覚に不安を覚え、グロリオは隣のエレノアの横顔を窺う。彼女はやや緊張した面持ちで、それでも涼やかな瞳で、牢の主が目の前の貧相な椅子に腰を下ろすのを注視していた。
 そういえばこの部屋は何という部屋なのだろう? まさか面会室とでも言うのだろうか。こんな霊廟みたいな場所が?
「男が居るじゃないか!」
 不意に甲高い、非難がましい金切り声が鼓膜をつんざき、グロリオは地の底から引き摺り出された陰の男を見た。垢と埃に塗れて闇の牢に閉じ込められるには、一体どれほどの重罪を犯したのだろう。人一人殺した程度では済まないはずだ。
 なるほど確かに、ここは死と見紛うばかりの彼と話をするには相応しい霊廟だ。
「まさかこいつが付き添いなのか? 冗談じゃない! 私は女性警察官を指名したはずだ」
 男の声は意外と高い。グロリオは戸惑い、矢張りエレノアと男を順繰りに眺めるばかりだ。
「警察官は私。彼は町役場に勤めている民間人よ」
「なんで民間人が!」
「そういうルールなの。アイフォン法律大全刑事手続法編でも読めばいいわ。差し入れくらいはしてあげるから」
「そっちこそ、その糞みたいに分厚い本を目玉が溶けるまで熟読すべきだな。私の独房に差し入れは不可能だ。そう決めたのはお前達だろう」
「少なくとも、その決まりが出来たのは私が生まれる前ね」
 軽蔑するように深い溜息を吐き、次に小さく舌を打つと、男は前のめりになってグロリオに視線を置く。手枷が歪な音を立てた。
「おい、お前、結婚してるか? 子供はいるか?」
「……言いたくないね」
「結構、口を噤んでいろ。ついでに薬指のリングも隠すんだな」
 グロリオはぎくりと心臓を跳ね上げた。ぼさぼさの長髪の所為でどこを見ているか判らないはずの彼の眼球は、確りとグロリオの指先を捉え、次に彼の瞳を追った。青年は控えめに左手を相手の視線から守る様に体の横へと持って行った。重罪人は構わず続ける。
「深爪は良くないな。几帳面で糞真面目な性格を押し付けがましく見せ付けられているようで辟易する。シャツに綺麗に糊が効いている所を見ると、御内儀も真面目みたいだな。それとも新婚だからか? 家を継ぐ男の子が生まれるまではお互い優しくしようと暗黙の了解を取り付けている?」
「相手にしないで」
 エレノアが囁いた。
 分かってる、とグロリオは些か軽蔑の光を込めて相手を見つめた。そんな視線も全く意に介さず、それどころか挑発する様に真直ぐ跳ね返す暗い色の瞳で、罪人は饒舌に続ける。
「不安になるだろ? 奥さんにじゃない、自分にだ。彼女が身籠っている間、自分は他所の女に心を奪われずに済むだろうか? 子供が出来た後も、自分は彼女を女性として見ることが出来るだろうか? 無力な男にとっては不安と試練だらけだ。自分の子供が産まれる時期というのは」
「馬鹿馬鹿しい。それで人の身上を見透かしたつもりだっていうんなら、お気の毒だよ、ミスター=ジェイル。あんたが頑としてここを動かないなら別に良いさ、僕だってあんたと腕を組んで町を歩きたくない。確かに、あんたは派手だ。でもそれは見た目だけみたいだな」
 グロリオはそれまで溜まっていた憤懣や不安を、この愚かな心理学者にぶつけて溜飲を下げるつもりだった。エレノアがその小爆発に困ったように眉を顰め、罪人が首を傾げて椅子の背に凭れた時、その望みは果たされたかに見えた。「いや、文句は無い。行こう」
 僅かにトーンの落ちた声音で相手が言う。まるで肩透かしだ。グロリオの憮然とした相貌を眺め、汚らしい男は歯を剥いて微笑んでみせる。それは異様な白さを帯びていた。
「小さい女の子を持つ良い父親なら、まあ、なんとか許容範囲だ。付添い人として問題無い」
 今度こそ、グロリオは飛び上がって柳眉を吊り上げた。
 何故? 何故、この男は自分の事を知っている? さっきの言葉には殆ど自分に当てはまるものは無かったのに!
「お前、僕のことを知ってるのか? いつ? どうやって? 僕はお前なんか知らない!」
「初対面さ。お前は私に対する軽蔑の視線をどんどん強くしていった。あれだけ自信の無かった若造が、私の威圧的な言葉で逆に自信を取り戻して、そして私を大した事の無い人間だと思うようになった。つまり私の言った言葉は殆ど全部お前には当てはまらないって事だ。家督主義でもなく、愛妻家で、子供が産まれる事に何の不安も無かった事を経験して知っている男。つまり良い父親だ。深爪は子供の為だろう。小さい子は父親に構って欲しがる」
「しかし、女の子までは分からないはずだ」
「適当だ。強いて言えば、私の願望だ。二択なんだから当たってもおかしくないだろ」
 グロリオは呆気に取られるばかりだった。
 彼の言葉はまるで悪魔のようで、偶然までもを味方につけてグロリオを翻弄し篭絡したのだ。こんな機知に富んだ人間は見たことが無い。少なくとも、彼の平凡な人生の軌跡の上には一人たりともいるはずが無かった。
 男は押し黙ってしまった青年にすっかり気をよくしたのか、ふんぞり返って腕を組んだ。手枷が鳴る。その小指が一本だけ欠損している様子が、ランプの揺曳する光の中でくっきりと浮かび上がった。
「結構、まずは風呂と服と食事を用意してくれ。十年ぶりの娑婆だからな、お洒落くらいはさせて貰う。それからどこへ行って何をさせたいのかも教えろ。場合によっては今より数段階高尚な交渉を必要とするだろう。ヨーク平原を一望できる見晴らしの良い部屋へ移動させろ、一般家庭並みの料理を食わせろ、差し入れを許可しろ、何しろこの陰気な住居に対する不満を紙にしたためたら、なんとか法大全より分厚くなるに違いないからな。ああ、それから」
 白い歯が覗く。笑ったのか、それとも牙を剥いたのか、声音が低くなる。獣のように。
「冤罪による裁判の再上告を求める事も考えないとな。お前ら全員、馘首してやるから、今の内に壁にサインでもしておくんだな」
 エレノアが肩を竦め、小さくグロリオに囁いた。
「派手でしょう」
「――滅茶苦茶な奴だ」
 しかしグロリオには、この罪人の言葉で唯一首肯出来るものがあった。
 どこへ行って何をするのか。
 彼の仕事はあくまで付き添いだから、その質問の答えを真に受けることが出来るのは、あの罪人だけだった。口を挟むべきではない事には口を噤む、それは役人生活の中で最も鍛えられた感覚だった。それでも、朝から気になって仕方が無い。今を以っていよいよその思いは強くなる。
 あんな観察眼と悪魔のような舌を持つ人間に、警察は一体何をさせたいのだろう。
【2 魔女の毒】

 生温い水はどこか錆びの舌触りがあった。井戸桶の金具から染み出した鉄の味だろうか。グロリオは一口飲んだきり、コップを机の上に置いた。
 手持ち無沙汰に椅子の上で身じろぎをしてから、予想外に広いエレノアの客間の家具を端から眺める事にした。時折、扉の向うの廊下から彼女と囚人の声が微かに聞こえてくるが、その内容まではどうも明瞭に聞き取れない。仕事柄、人を待たせる事は慣れているが、待たされる事には余り耐性が無いので、なおざりにされた際の上手な忍耐の仕方を彼は知らなかった。
 あの陰気な監獄において風呂と服を要求した囚人の為にエレノアが用意した場所は、何故か彼女自身の家だった。汚らしい黒い重罪人を見て、警察官だったという彼女の父以外の家族は吃驚して部屋に引き篭もってしまったが、エレノアはそんな彼等には目もくれず、監視の目を光らせながら囚人を浴室へと放り込んだ。ついでにグロリオも客間に押し込み、待機命令を下した。どうもエレノアには戦力として信頼されていないようだ。尤も、それはグロリオにとってはどちらかと言えばありがたいことだった。例えば刑事である彼女と同じくらいの役割を要求されたとしたら、小胆で凡夫な彼はあっという間に胃に穴を開けるだろう。兎に角そんな具合で、彼は今、孤独の上に不安だった。
 彼を放置する代わりに、まるで暇潰しの大衆小説を与えるようにエレノアが置いていったのは、紙の束と、紅茶の代替品である水だった。ざっと読み通して、グロリオはすぐに放り投げ、そしてあの錆びのような生温い水を飲んだのだ。二度とその薄い書類を読もうとは思わない。一度目を通しただけで、一生忘れられない程度には斬新な内容だったからだ。
 その書類には、囚人についての経歴が端的に記されていた。
 ディル=スプリングロード。
 D町における土着の自然信仰を下敷きとした新興宗教『キシャル教団』の元教祖として数々の予言や奇蹟を起こし、D町の住人の殆どがその信徒であった。十年前に炭鉱で使用される焔硝を用いて五人を殺害、逮捕される。その後教団は解体、自然消滅。公式には現在のD町に信徒は存在しないとされる。本人は現在に至るまで一貫して冤罪を主張、当時の裁判官・検事を糾弾し続けている。
「とんでもない!」
 グロリオは声に出して笑い、やがて頬の筋肉がひきつけを起こすまで笑顔で天井を仰ぎ続けた。
 予測の遥か上空をいっちまってる犯罪者じゃないか! 焔硝で五人を殺すってことは……つまり……岩を吹っ飛ばす要領で体に火薬を仕込み、四肢をぶっ飛ばしたって事だ。子供の頃に蛙の腹に玩具用焔硝を押し込んで破裂させて遊ぶという非道な遊びをした事があるが、それを人間でやるってことは、つまり、どうしようもなく『とんでもない』!
 公務とは言えこんな人間と行動を共にするなど、狂気の沙汰だ。この犯罪者にグロリオがどれだけ苦労して平凡で安定した道を模索し続けたか一晩中語って聞かせたい、平穏でそこそこ見栄も張れる職に就く為に高等学校を出て、酒も煙草も麻薬もやらず、悪い友達には見切りをつけ、あやしい場末には近寄りもせず、そして手に入れたこの人生の話を。勿論、彼と自分との間に厚い鉄格子を挟んで。賢者は危険なものには近寄らないものだ。
「それ読んだ? これから大通りの喫茶店に行くから、準備して頂戴」
 厚い鉄格子ならぬ木目のドアを開け放って入ってきたエレノアの声を聞き、グロリオは慌てて硬直したままの頬を解した。椅子から立ち上がってドアの方を向くと、果たして、見慣れぬ人間が増えていた。
 一人は廊下から憮然とした相貌で人々を眺める初老の男性。鷲鼻に皺の走る皮膚、そこに取ってつけたように埋め込まれる茶色の瞳は大きく、若い頃の端正な面影を残してはいるものの、眼光の厳しい鋭さがそれを打ち消していた。元刑事であるエレノアの父、シェイン氏だろう。白いシャツの胸元のボタンを緩め、くつろいだ姿をしているが、何故か体の筋肉は緊張しているようで、今にも素早く駆け出しそうな想像をグロリオに与えた。そしてもう一人、その手前に佇む若い女性は、場違いな黒いイブニングドレスを夜のように纏い、ベルベットの長手袋に収めた細い腕を胸元で組んでいた。ドレスと同じ色をした黒髪が緩やかに白い肩から宙に滑り落ちる様は、まるでとぐろを巻く蛇のようだった。彼女は天藍石の青い瞳であさっての方向を眺め、その先にあるカーテンも暖炉も意匠の凝った食器も、まるで視界に入らないようだった。
 グロリオは彼女とエレノアを見比べた。彼女の大きな瞳と、厳しくもどこか柔らかい顔立ちは背後の男性と似たものだったが、ベルベットの女性はエレノアと血汐を別けた者とは思えない。黒い女性は切れ長の怜悧な瞳で、その上少し痩せ過ぎなほどに細い。似通った背丈でも、エレノアと較べて、押せば倒れそうな痩躯だった。しかし、不思議な事に、どうしても彼女が倒れこむような映像はグロリオの脳裏には浮かばなかった。それどころか押してもびくともせず、その細い手の爪を食い込ませるように腕を絡み取られる――そんな不愉快な映像を覚える。
「手錠はかけない。人目があるし、そういう決まりだからね。だからと言って逃げようなんて思ったら、半殺しにするわ」
 エレノアがグロリオを見ながら静かに宣言した。彼が首を傾げる前に、背後の女性が嘲笑をあげる。
「公僕というものはつくづく、なんとか法大全が好きみたいだな。書を捨てろ。人と話せ。そのままじゃ根暗になるぞ」
「あんたみたいに?」
「もっと悪い。嫁の貰い手が無くなる」
 グロリオはほんの一瞬、気が遠くなった。次いで凄まじい驚愕がやってくる。飛び上がって後ろ退らないのが不思議な程だった。思わず彼は叫んだ。
「ディル=スプリングロード!!」
「なんだ」
「……スプリングロードか?」
「だから、なんだ。阿呆か、お前」
 不機嫌にグロリオを眺めるベルベットの女性は、ハスキーな声音にあからさまな苛立ちの色を隠そうともしない。青年はしどろもどろに言葉を継ごうとし、口をぱくぱくさせ、そしてついに二度と手に取るまいと誓った錆味のコップの水を飲み干した。矢張り水は錆びの香りで、先程よりも生温くなっていた。
「……いや、何でもない。ただちょっと驚いただけだ。その、書類には性別と年齢の欄が無かったから」
「はん、なるほど。そら見たことか、刑事、お前らが差し入れも風呂もろくに世話してくれないお陰で、私は彼の瞳を欺いてむさ苦しい乞食の男と見せていたようだ。そこの唐変木の目がいかれてる事を差し引いても、アイフォン国先鋭女性として人格権を侵されてるとは思わないか? 良いね、また一つ裁判官に訴え出る事が増えた」
 寝言は寝て言って、とエレノアが呻く。
「先鋭女性なんて、今年の流行語よ。あんた、隠れて本の差し入れをして貰ってるでしょう」
「知らんね。私には決まり馬鹿の刑事と違って友達が沢山いるからな、あの監獄でも。なんせ善良な無辜の民なのだから」
「あんたの戯言は聞かない。曲がりなりにも元『教祖様』の言葉には凄まじい毒が含まれてる。高を括ってたら足元を掬われるわ」
「光栄だ」
 呟いたディルの目は僅かに細められる。そこに僅かな侮蔑と嫌悪の光をみとめ、グロリオは空気を嚥下した。どれほど美しい女性の姿をしていても、彼女は奇天烈な経歴を持った殺人鬼である。彼女の冷たい瞳はその事実を思い起こさせた。
「さて。行くなら行こうか。十年振りの紅茶の味はどんなものかな」
 歌う様に呟き、ディルはベルベットを翻して部屋を出て行った。エレノアが非難の声をあげ、慌ててその背中を追う。ディルが擦れ違いざまにシェイン氏に流し目を送ったのが印象的だった。
 ディルがシェイン氏の前を会釈して通り過ぎる時、彼が唾棄するように「魔女め」と独り言ちる。「忘れるものか、お前はあの日、あの赤い部屋で」
 青年は思わず振り返り、シェイン氏を見た。彼は遥か先に行ってしまった囚人の後姿を凝視している。
「さっさとしろ、役人!」
 鋭い声が背後から飛び、彼は身を竦ませて駆け足で玄関へと向かった。
 まさか囚人に怒鳴られ顎で使われる日が来るとは、保守的な親が聞いたら泣いて怒るに違いない。外に出て、扉が自然に閉まるに任せる間隙に、屋内を垣間見た。シェイン氏は相変わらず廊下の中途に佇んでいて、その姿は闇に溶け込むようだった。白昼の外界が明るすぎるのだ。グロリオがもう一度会釈して顔を上げた時には、扉は既に閉まっていた。

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