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万葉集コミュの万葉集 969・970 ・971・972

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6 969;雑歌,作者:大伴旅人、望郷,奈良,飛鳥,恋慕

[題詞]三年辛未大納言大伴卿在寧樂家思故郷歌二首
三年辛未(かのとひつじ)、大納言大伴の卿の、寧樂の家に在りて故郷(ふるさと)を思しぬひてよみたまへる歌二首

須臾  去而見<壮>鹿  神名火乃  淵者淺而  瀬二香成良武

しましくも 行きて見てしか 神なびの 淵はあせにて 瀬にかなるらむ
 
しましくも ゆきてみてしか かむなびの ふちはあせにて せにかなるらむ
・・・・・・・・・・・・・・・・・
ほんのしばらくの間でも
行けるものなら行って見たいもの
神南備川のあの淵は埋まって
いまは瀬になっていないだろうか
・・・・・・・・・・・・・・・・・

* 「しましくも」は「しましく」しばし。「も」(係助詞)せめて・・・だけでも。

天平3年(731年)に奈良の佐保にあって、飛鳥の雷丘付近の飛鳥川を思い出している。この川の淵瀬の変化は有名。



6 970;雑歌,作者:大伴旅人、望郷,亡妻,恋慕,飛鳥

[題詞](三年辛未大納言大伴卿在寧樂家思故郷歌二首)

指進乃  粟栖乃小野之  芽花  将落時尓之  行而手向六

指進の 栗栖の小野の 萩の花 散らむ時にし 行きて手向けむ 

[さすすみの] くるすのをのの はぎのはな ちらむときにし ゆきてたむけむ
・・・・・・・・・・・・・
さすすみの来栖の小野で
萩の花の散るころには
きっと出かけて行って
神まつりをするのだ
・・・・・・・・・・・・・

(大伴旅人67歳、死の床での歌)

大伴旅人(おおとものたびと)
父は大伴安麻呂(やすまろ)、母は巨勢郎女(こせのいらつめ)。
大伴坂上郎女(さかのうえのいらつめ)の兄、家持の父。
征隼人持節(せいはやとじせつ)大将軍に任ぜられ、九州の隼人を鎮圧した武人でもあった。
晩年は藤原勢力に圧迫され、老齢にもかかわらず大宰帥(だざいのそち)として九州に下された。

世の中は 空(むな)しきものと 知る時し いよよますます 悲しかりけり
 
<ハギ(萩)を詠んだ和歌と俳句>
秋風は 涼しくなりぬ 馬並めて いざ野に行かな 萩の花見に  作者: 不明
わが岳に さを鹿来鳴く 初萩の  花妻問ひに 来鳴くさを鹿  旅人
指進の 栗栖の小野の 萩の花 花散らむ時にし 行きて手向けむ 旅人
をみなへし 秋萩しのぎ さを鹿の 露別け鳴かむ 高円の野ぞ 家持
高円の 野べの秋萩 この頃の  暁露に 咲きにけるかも  家持  
わけている 庭しもやがて 野辺なれば 萩の盛りを わがものに見る 西行法師

一家に 遊女も寝たり 萩と月  松尾芭蕉
行き行きて たふれ伏すとも 萩の原  河合曽良
萩の風 何か急(せ)かるゝ 何ならむ  水原秋櫻子


6 971;雑歌,作者:高橋虫麻呂,藤原宇合

[題詞]四年壬申藤原宇合卿遣西海道節度使之時高橋連蟲麻呂作歌一首[并短歌]
(天平四年(732)、藤原宇合が西海道節度使に任命された時に作ったという歌。節度使は、地方の軍事などのチェックをするために派遣される人。
西海道節度使; 九州地方の軍備を固める特使。当時、新興の渤海国が日本に接近する一方、新羅との対立を高めていた。)
・・・・・・・・・・・・・・・
白雲乃ー白雲のー[しらくもの]ー「立つ」から「龍田」に掛かる枕詞。
龍田山乃ー龍田の山のーたつたのやまのー奈良県生駒郡三郷町の龍田大社背後の山。 大和から河内・摂津方面へ向かうには、生駒越えと共に龍田越えが利用された。白雲の立つ龍田の山の(が)
露霜尓ー露霜にーつゆしもにー露と霜で
色附時丹ー色づく時にーいろづくときにー色づく頃に
打超而ーうち越えてーうちこえてーその山を越えて
客行<公>者ー旅行く君はーたびゆくきみはー遠く旅を行くあなたは
五百隔山ー五百重山ーいほへやまー幾重にも重なる山(を)
伊去割見ーい行きさくみーいゆきさくみー踏み越え
賊守ー敵守るー[あたまもる]ー外敵を見張る。「筑紫」の枕詞のように用いられる。国防のかなめ
筑紫尓至ー筑紫に至りーつくしにいたりー筑紫に至り
山乃曽伎ー山のそきーやまのそきー山の果て
野之衣寸見世常ー野のそき見よとーののそきみよとー野の果てを視察せよと
伴部乎ー伴の部をーとものへをー配下の者達を
班遣之ー班ち遣はしーあかちつかはしー分けて派遣し
山彦乃ー山彦のーやまびこのー山彦の
将應極ー答へむ極みーこたへむきはみー聞こえる限りまで
谷潜乃ーたにぐくのーひきがえるの(が)
狭渡極ーさ渡る極みーさわたるきはみー這い回る限り(一郡程度の範囲を指すかという )
國方乎ー国形をーくにかたをー国の様子
見之賜而ー見したまひてーめしたまひてーをご覧になり
冬<木>成ー冬こもりー[ふゆこもり]ー「春」の枕詞
春去行者ー春さりゆかばーはるさりゆかばー春になったら
飛鳥乃ー飛ぶ鳥のー[とぶとりの]ー飛ぶ鳥のように
早御来ー早く来まさねーはやくきまさねー早くお帰りください
龍田道之ー龍田道のーたつたぢのー龍田道の
岳邊乃路尓ー岡辺の道にーをかへのみちにー岡辺の道に
丹管土乃ー丹つつじのーにつつじのー真っ赤なつつじが
将薫時能ーにほはむ時のーにほはむときのー映える時
櫻花ー桜花ーさくらばなー桜の花が
将開時尓ー咲きなむ時にーさきなむときにー咲く時に
山多頭能ー山たづのーやまたづのー「迎へ」の枕詞
迎参出六ー迎へ参ゐ出むーむかへまゐでむーお迎えに参ります
<公>之来益者ー君が来まさばーきみがきまさばーあなたがお帰りになったら
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[左注](右檢補任文八月十七日任東山々陰西海節度使)



6 972;雑歌,作者:高橋虫麻呂,藤原宇合、

[題詞](四年壬申藤原宇合卿遣西海道節度使之時高橋連蟲麻呂作歌一首[并短歌])反歌一首


千萬乃  軍奈利友  言擧不為  取而可来  男常曽念

千万の 軍なりとも 言挙げせず 取りて来ぬべき 男とぞ思ふ 

ちよろづの いくさなりとも ことあげせず とりてきぬべき をのことぞおもふ

[左注]右檢補任文八月十七日任東山々陰西海節度使
・・・・・・・・
たとえ相手が千万の軍勢であろうとも

あなたはとやかく言わずに討ち取って来るに違いない

そんな勇猛な男子であると思いますよ
・・・・・・・・

* 「言挙げ」は、言葉の霊力が信じられていた万葉の時代に祈りを込めて発する言葉のこと。
いまなお「言霊」という言葉は生きており、一言が勝敗や生死までも分かつ。

高橋虫麻呂 たかはしのむしまろ 生没年未詳 
天平四年(732)、「藤原宇合卿の西海道節度使に遣さるる時、高橋連虫麻呂の作る歌一首」のこの一首があり、藤原宇合の部下であったらしい。
東国での詠作は他にも多く、富士山を詠んだ歌(3-321)、「詠上総末珠名娘子歌」(9-1738・1739)、「見武蔵小埼沼鴨作歌」(9-1744)、「鹿嶋郡苅野橋別大伴卿歌一首」(9-1780・1781)、「詠勝鹿真間娘子歌」(9-1807・1808)などがある(いずれも「高橋虫麻呂歌集」から万葉集に採られた歌)。
修辞・表現も異色であり、いわゆる宮廷歌人の流れとは一線を画する特異な万葉歌人として注目される。


藤原朝臣宇合 (ふじわらのあそみうまかい)
生没年 694(持統8)?〜737(天平9)

系譜など; 不比等の三男。藤原式家の祖。母は蘇我連子の女娼子(尊卑分脉)。初め名を馬養に作ったが、渡唐後宇合に改める。
同母兄に武智麻呂・房前、異母弟に麻呂がいる。
文武夫人宮子・聖武皇后光明子は異母姉妹。
子に広嗣・宿奈麻呂・綱手・百川・蔵下麻呂らがいる。

716(霊亀2)年、第8次遣唐使の副使に任命され(この時正六位下)、翌年出航。
718(養老2)年12月、帰国入京。翌養老3年、正五位上。同年、常陸国守に任官。この時高橋虫麻呂を部下として『常陸国風土記』編述に関与したとの説がある。
721(養老5)年、長屋王の右大臣就任と同時に一挙に4階昇進して正四位上。
神亀6年、六衛の兵を率いて長屋王邸を囲む。
731(天平3)年、多治比県守・藤原麻呂・葛城王(橘諸兄)らと共に参議となる。天平4年8月、西海道節度使。
天平6年、兄武智麻呂の右大臣就任の時、正三位に昇る。
737(天平9)年8月、薨去(おそらく疫病死)。時に参議式部卿兼大宰帥正三位。

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