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ランドアートコミュのアースワークの何が魅力?

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漠然とここのコミュの皆さんが何が魅力と感じているのだろうと思ってトピを立てさせてもらいます。

やる側でも何でもない僕にとってはアースワークの魅力ってその個人のバイタリティとスケール感。
場所性における変化がある分、作品は常に作家とは別ベクトルで向かう可能性がある不完全さ。そしてそのテーマ。

エコとか社会性とかそういう部分の魅力である前に莫大な予算と時間を費やし完成はない取り込まれてしまう。一見バカらしいと思われるであろう部分。

言葉で説明するのは難しいけどそういった部分だと思っています。

皆さんはどう考えているのでしょうか?

コメント(18)

初めての書き込みします。
何が魅力って、地球と会話ができる、ただそれだけです。
人によってはそれが戦いかも知れませんが、自己に向かってくる言葉は有る意味自分が発したものなんでしょうね。
コメントありがとうございます。
会話が許されるのは作家だけということなんでしょうか?

基本的に製作者と作業者がアースワークの場合必ずしも一致しないですし、見る側に不親切な立地である場合がほとんどだと思います。

アースワークが宗教的に見えるのも
>何が魅力って、地球と会話ができる、ただそれだけです。
↑この部分が大きな何かを占めているであろうことは疑う余地はないと思います。

ただ、僕らの命のサイクルと地球の命のサイクルは比べものにならないくらい違うと思います。進んでいく時間の早さが違うというのでしょうか。はたして1人の人間がどれだけ地球と会話ができるんでしょうね。そう考えると不自由だと思ってしまいます。

文がまとまらずすいません。
すみません、ちょっと抽象的すぎましたか。
作家がメッセージを発信します。受け取る人が一人でもいれば成立する、
と言った方がわかりやすいでしょうか?
【創る人】は必ず媒体を利用しています。
それが、詩であったり絵画であったり音楽であったり地球の一部だったり。

>基本的に製作者と作業者がアースワークの場合必ずしも一致しないですし、見る側に不親切な立地である場合がほとんどだと思います。

それは作品や人によりけりですが、作業そのものに目的がない時も有ります。
見る側に不親切なのはビジネス(商業)ではないから。

色々な考えがあっていいと思います。僕らの命のサイクルと地球の命のサイクルが同じと考える人もいますよ。大きさも寿命も小さいちっぽけな人間ですが、宇宙の構成要素に変わりませんから。

実際ランドアートをやってる人間の頭の中は、既成概念を払拭したところから始まるのかも知れません。
こんばんは。
ランドアートに関して注意しておかなければいけないのは、ランドアートの作家たちが主に60年代後半のミニマリズムの運動になんらかの影響を受けて、コンセプチュアルなものを思考していた部分です。そのために、立地的に限定された観客のみならず、写真やビデオ、そしてカタログを介して、都市に住む多くの人々に対しても作品を提示していました。彼らは「地球との対話」という広義の意味も含めて空間(メディア、と言ってもいいかもしれません)の拡張、もしくはその限界に関心があったんだと思います。

僕が考えているのは70年代初頭のことなんですが、当時ホワイト・キューブという限定された展示空間からの脱却を求めて美術館から外に出たというは、単に外に出ればいいというだけではなく、それを転じてホワイト・キューブ自体も解体するという目論見があったのだと思います。だからランドアートの作家たちは荒野などで作品を制作するだけではなく、依然として美術館やギャラリーでも展示を行っていたのは、そういった理由があったのだと思うんです。
かれらが美術館やギャラリーに展示したのはランドアートという行為を経済的に成り立たせるためだったのではないでしょうか。実際にホワイトキューブが解体されるのはもっぱら建築家の力によるところが大きいと思います。経済的なことがなければ、多分ランドアートにはギャラリーなど必要なかったと思います。
コンセプチュアルアートに端を発したランドアートは、結局コンセプチュアルアートらしい表現方法で一つの形に収まったという風に自分は考えています。
もちろんそれがランドアートの価値をおとしめるものではありません。自分の興味は、環境に対して起こしたアクションとそれによって顕在化した現象にあるのであって、それを用いて美術館やギャラリーになにがしかの働きかけをしたことなどにはあまり面白みを感じません。なぜならそれはランドアート特有のことではないからです。
>ペンさん

コメントありがとうございます。
経済的部分も多少はあると思いますが、果たしてそれだけでしょうか。ランドアートの提示方法は主に写真やビデオ、インスタレーションですが、それが資金に寄与する部分はそれほど大きくないように思います。むしろアーティストにとって重要なものは、作品を提示するというその姿勢にあったと考えるのが妥当のような気もします。荒野から拾ってきた石や砂はギャラリーにとっても販売しにくいものですし、写真が市場価値を持ってくるのは80年代になってからです。結果的にその多くの提示方法が市場価値に転用されることになるわけですが、はじめから売るために制作したというのは考えにくいと思います。

建築家が積極的にホワイトキューブを解体するというご意見はおっしゃるとおりだと思います。ランドアートの記念碑的展覧会「EARTH ART」展(1969年)はコーネル大学の美術館で開かれており、コーネル派の影響も十分考えられるからです。もちろんコーネル派の思想をそのまま引き継いだ、という意味ではないんですが。この展覧会では主に美術館と野外の両方で展示し、双方を繋げる試みが行われました。

私もアーティストの提示として環境にアクションを起こす事に興味がありますが、それを野外のみに限定して考えたくないんです。ランドアートの特異性のひとつは、現象学レベルの問題から発展して、外部環境から内部環境まで変化させる作用にあるとおもうのです。そこから、複数のメディアを使いはじめる部分に私は魅力を感じています。
どうも
興味深く読ませていただいきました
自分もジャロさんの見解に同感で ランドアーティストという括りは庭師というよりも映画監督のそれに近いような気がします。 魅力/表現としてその存在自体が大事なのは Richard Long の表明 My Art is in the nature of things でも感じますが 同時に表現という課題と向かい合う者として 
>アーティストにとって重要なものは、作品を提示するというその姿勢にあったと考えるのが妥当のような気もします。

>現象学レヴェル問題から発展 
その場の空間がその場以外の空間ではないという当たり前の事実を正面から受け入れた上で 人間ができるのは維持ではなく変形だという単純な答え その「場」の自然/環境の 時間 場 材質 状況 を拡大/変形しうる ランドアートという行為 に自分は魅力を感じます。 その場の概念を拡大し変形して形成された都市の原型を眺めているような気分は もしかしたらこの土は前人未到の地かもしれない と砂漠でふと思うという境界を忘れた感動に似ているんじゃないか と想像したりします  
 
僕が思うのはアースワークのギャラリー展示はもともとペンさんのような経済的事情(パトロン確保)のための部分が大きかったんじゃないかと考えています。しかし、僕はそれを展示すること、その一連の流れに興味はあります。それが、ホワイトキューブの解体を意識していたかどうかはわかりませんが、流れを作る上で場所性の重要なアースワークをどこまで伝えることができるか?作家はそれを考えていただろうと思うし、もしかしたら、それが結果的に美術館を抜け出す(ホワイトキューブを解体する)行為の誘導であるかもしれません。作品があるのにその空間はバーチャルでしか成り立たない。変化するものであることが大前提のアースワークは展示はもっぱらただの記録行為にすぎない気もしますが。それが成立していること自体がおもしろいと思います。またそこに入れ込むメディアの可能性もあった?ある?んじゃないかとジャロさんのおっしゃる通り思います。

一つお聞きしたいのですが、結果的に現在、アースワークはホワイトキューブをどれだけ解体することができたのでしょうか?

頭が悪いのですいませんです。
一つお聞きしたいのですが、結果的に現在、アースワークはホワイトキューブをどれだけ解体することができたのでしょうか?

ホワイトキューブの解体を その無個性/半透明性/無場所性からの脱出という意味で言えば 場所性 という概念を持ち込んだ事 ある種の行動を写真と言葉で表すことで芸術として成り立たせる という手法でホワイトキューブの必然性を奪うこと などが 大きな功績だと思います。  サイトスペシフィックと呼応した68年以降の建築の概念が その後の第三世代の美術館(場所性を意識しながらもホワイトキューブの要素を残した展示空間)というアプローチを生み出しました。 ダニエル・ビュレンヌが作品を囲む環境を フレーム/境界と呼ぶ姿勢もランドアートのそれと同じ土俵で考えられなければいけないと思います。 

美術館から外に出れないひとつの理由として 美術館のアーカイブ機構というのがあります。 地域復興に美術館 なんてのは80年代の流行なのかもしれませんが 文化の中心としての美術館 という概念を腐食する試みは ランドアートは求めていなかった様に思うのですが どうでしょうか?

路上観察の心で すべての場/周辺に文化を認める動きはその後 色々なメディアから読み取ることができますが 例えば半永久的に残るパブリックアートがその芸術的な魅力をどのぐらい持続できるものでしょうか? 
またランドアートの功績としての 夢のような バカ/一見無意味 な想像という芸術観は これからどのように受け継がれていくとおもいますか?

質問ばかりですみませんです 
後でもうちょっとちゃんとお答えしますが、ちょろっとだけ

>例えば半永久的に残るパブリックアートがその芸術的な魅力をどのぐらい持続できるものでしょうか? 

芸術的魅力は持続しなければならないのでしょうか?パブリックアートは時間経過によりその場と一体化していき日常になっていくのではないでしょうか?しかし、それもある一つのカタチだと思います。でもそれが魅力か?というと気づかれないモノだからどうなのだろうと思います。


>夢のような バカ/一見無意味 な想像という芸術観は これからどのように受け継がれていくとおもいますか?

バーチャル傾向が強くなるような気がします。逆に常に変化可能なバーチャル空間を作ることは近い将来可能でしょう。それになにがしかのアクションを設定するアート。それは寂しいことかもしれないけど、ドライに考えるとそうなっていくと思えてなりません。


話かわりますが、最近チラホラコミュの人数減ってますね。。
ランドアートが美術館やギャラリーといった屋内に展示できる形態をとっていったのはもちろん経済的な理由だけではないでしょう。
そして、どのようにそれを再表現するかといった手法などに価値があるのも事実です。そういったものはランドアート特有のものというよりその他のアートでも堪能できるものだとは思いますが。

美術を支えているのは直接的には美術館に足を運ぶ市民というよりもコレクターだとおもいますが、多くの美術コレクターが純粋にコレクションを楽しむのだけではなく、サポートや投資の対象としても美術やアーティストを考えているのは最終的に美術館に収まるということで経済的なゴールがあるからです。(つまりいい作品は価値が上がる)これを墓場というアーティストもいますが、この墓場があるからこそ新しいアーティストに次なる投資が促される訳です。
前世紀末、一時期世界的に流行りかけた、収蔵庫を持たない、つまりコレクションを持たない現代美術館はそのような理由で成り立たなくなりました。
ランドアートの表現形態の変遷はアーティスト・ギャラリスト・キュレーターの共同作業によって美術表現の価値とともにお金を集めるシステムとしても練り上げられたものだと思います。

このような知的な作業や表現は確かに興味深いのですが、自分は個人的にはもっとストレートに感動したいのです。たくさんならんだ避雷針に雷が落ちるところを見たいし、渦巻き堤防もみたいし、風になびくおびただしい数のカーテンもくぐりたいのです。

ランドアートではないですが、でかいさいころを何個も転がしている日本人アーティストの作品は映像で見て大爆笑で彼の作品は最高ですが、映像ほか展示の表現は実際に起きている現象に対して驚くほどに工夫なく行われています。単なる記録という形をとっています。鑑賞する側もその表現方法にはいっさい興味を持つ必要すらないと思えるほどです。(ほんとはちがうんだけれども)これで事足りるのは見る側の理解が深まったということではないでしょうか。面倒な手続きなど要らなくなってきたということでしょう。
このような状況では、もはやホワイトキューブでもそうでなくてもどうでもよく、(つまり解体する必要すらない)より自由な空間での展示が可能になりました。これはアーティストのみならず空間を作る側の建築家にも自由を与えることになりました。
自分はそのような環境を歓迎しています。
>ストレートな感動

非常に共感します。
>このような知的な作業や表現は確かに興味深いのですが、自分は個人的にはもっとストレートに感動したいのです。たくさんならんだ避雷針に雷が落ちるところを見たいし、渦巻き堤防もみたいし、風になびくおびただしい数のカーテンもくぐりたいのです。

これは本当に共感。そして期待したいです。本当に純粋にただそれを体験したい。本当は記録的な疑似体験ではなくて。
アースワーク云々以前に。。

これに実は尽きてしまうのも事実なんですよね。
あ、でも、これをより分かり易く伝える手段として

展示の可能性を示唆することには興味があります。
そうですね。
やっぱり実物を見られる機会は滅多にないから、展示というのはほんとに大事です。
今回、妻有では実現できなかったけれど将来実現したいプロジェクトと、その代替案として実施するイベントのプレゼンをする機会が与えられて、その展示方法に頭を痛めています。
見る人の想像力を刺激する展示というのはなかなかむずかしい。
そのような意味でクリストのドローイングにでさえ不満を感じる自分が、いざやろうとするとその域に近づくことすらおそろしく難しいということの恐怖を突きつけられて、多少たじろいでいます。救いは誰もそこまで期待していないということ。
イメージを与えられる側と与える側のとてつもない壁を知的な展示という作業によって越えなければ、実際の『ストレートな感動』にたどり着くことができないです。
そういう意味でランドアートの(に限らないけれど)展示というのは非常に示唆に富んでいるものだと思います。
>ストレートな感動 
根本的な影響だと思います

>イメージを与えられる側と与える側のとてつもない壁を知的な展示という作業によって越えなければ、実際の『ストレートな感動』にたどり着くことができないです

桜を見るという日本の文化的美学は 現代では天気予報の桜前線の情報を付加されて 美しいという言葉で昇華されているかのような気がします。 もちろんその美しさの力は絶大だと思いますが それと共にそのストレートな感動を感じる土台 つまりルール設定のような文化的アクションがとられてると。

そのルール設定を表現するための展示は ランドアートの大きな意義というか面白さだなぁ と思います。 それが理解への欲望の中でつまらない袋小路に陥ってしまうか ひとつの出口へと向かうトンネルになるのかは アーティストの力量次第です。

ストレートな感動 はランドアートの魅力を考える上でとても大事な事だと思いました。 その概念の影の無さがとても刺激的で神秘的な経験だと思います。 

ただあえて言うならば 空間から得る快感に対してのどのように批評性/関係性を持つのか というのが ストレートな感動といつもペアになっている気もします
>13202さん

>ただあえて言うならば 空間から得る快感に対してのどのように批評性/関係性を持つのか というのが ストレートな感動といつもペアになっている気もします

これはでも必ずしもそうなるとは言えないんじゃないですかね。ルール設定を作品コンセプトと捉える場合それは作者サイドに近づくための感動の深さであり初めのアクションは予備知識云々以前に写真でも実物でも見て興味が沸く。そしてそれがどんなルールで実際行われたかを知る。そしてまた作品に立ち返る。その3段階のアクションがアースワークに限らず結構一般的だと思います。そういう意味ではストレートな感動っていうのはルール云々ではなくて第1段階は本当に知識なくただ「スゴイ!」という感動の部分を言っているように僕は思います。その後、批評性/関係性を知り、感動がより深いものになっていくのじゃないでしょうか?でもそれが、ストレートな感動か?というと作者の意図が頭に入る分ちょっと歪んでしまう気もします・・

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