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OSTINATOコミュの多重積分

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ワイルド・バンチの後にmaudit君が作ったバンド。

頭脳警察や裸のラリーズをカバーした日もあれば、ロートレアモンを暗誦した日もある。ヴェルヴェットの「シスター・レイ」1曲で終わった日もあった。
格好はメタルなのに、やってることはアングラ。パンク一辺倒の小倉では異色だった。

音源が全く残されていないのが惜しまれる。

コメント(18)

小倉から福岡へ移り住んだ二十歳のmaudit君は多重積分のメンバー集めを多夢や井戸端でやっていた。
ベースにはLeft Hand Yasu Blues Band の近藤さんが参加したようだ。
ドラムが見つからず、近藤さんも渡米したため、断念。

その後、気の合ったシンジさんのバンドに参加したらしい。
http://www.blue-jug.com/vol-20/index.html

「Blue Jug」20号に載っているらしい。
全部集めて博多湾に沈めると本人はのたまっておりますが(笑)
「いつワイルド・バンチは分裂したの?」という質問には、「そんなこといちいち憶えていません」とのお答えが。

「メタルをやりたいと言っていた連中が別バンドを作っただけだし、ギターが来れないから弾いてくれと言われ向こうにも参加してたから、分裂したといってもねぇ、喧嘩別れしたわけじゃないし」「Pink Fairies と Deviants みたいな関係じゃないの?ちょっと違うか」
(maudit君談)
「らりるれろ」「モロトフのカクテル」など、この頃に作った歌詞をCharlieさんに贈っているようだ。
牛心亭雑葉

一回だけ使った多重積分でのmaudit君のステージ名。
その次のライヴでは「牛心庵雑葉」と改名。牛心楼雑葉、牛心荘雑葉・・・と続いたが、誰もこんな名前では呼ばなかったため本名に戻った。

牛心とはキャプテン・ビーフハート、雑葉とはフランク・ザッパ。

マッド・マックスでのナイト・ライダーの方がまだマシな気がする。
野獣赤軍と韻が似てるって
よくmauditさんは、言ってました。

一緒にやってる時、
色んなバンド名候補が
出てきましたが、

多重積分
METALLIC LEATHER
MATT OSTINATO

他には
天使の恍惚
ガルシアの首
La Pensee sauvage

だったかな?
まぁうろ覚えなので、
本人に確認とって下さい
あせあせ
>本人に確認とって下さい
ご本人曰く、
「メタリック・レザーとパンセ・ソヴァージュは、ユキちゃんと三人でやってたバンドの候補だった」
「天使の恍惚とガルシアの首ねぇ。まったく憶えとらんわ。適当に言うただけじゃないの、好きな映画の題名を」

>MATT OSTINATO
Matto Ostinatoだそうです。意味はイタリア語で「頑固なキ○○イ」だとか。
パンク全盛期のあの当時の対バンは当然のことながら全部パンク。どれもこれも同じ格好で同じ音。多重積分を見に行っていたボクたちは辟易したものだ。しかも演奏の持ち時間は30分。あのギターの音にずっと埋もれていたかったのに。

多重積分が始まると客層が見事に入れ替わったものだった。他のバンドは「今度ライヴやるからおいでよ」みたいなノリで彼女や友人を呼んでいたのだが、maudit君のファン(あえてファンと言おう)は純粋にmaudit君の表現を楽しみにしていた。たとえ持っている技術が10代の拙さでも、彼は何かを表現しようとしていた。
http://mixi.jp/view_voice.pl?owner_id=290982&post_time=20160503233911
https://twitter.com/vendangeuse/status/727507803410034688
あの曲はマカロニ・ウエスタンの「怒りの荒野」だったのか!
https://twitter.com/vendangeuse/status/1028892581449494529
私は高校生の時に友人から教わるまではギターを弾けなかった(←そんな頃もあったのさw)。毎日昼休みに音楽室のギターを弾いている友人らに「教えて」と言うと一瞬呆気にとられたみたいだったなw。三味線やオルガンが弾けたせいか上達は友人が驚くほどに早かった(←ま、高校生レベルだからね)。

https://twitter.com/vendangeuse/status/1028894548431237120
ギターが弾けるようになると自分のが欲しくなる。で、隣町の楽器店に行ったら三日月の形をしたムーンサルトがあった。それから我がバイト人生の始まり。目標額を貯めると「またいつでも来い」と社長に言われたっけ。楽器店に行くと・・・形のせいか、売れないせいかムーンサルトは値下がりしていたw。

https://twitter.com/vendangeuse/status/1028898131495202817
私は服装違反もせず、頭髪検査にも違反無く、校内では目立たない学生だった(あ、笑ったのは誰?w)。それがある時期から噂が流れだした。「小倉の街で革ジャン、革パンでギターを背負っているのを見た」(汗)。先生の耳にも届くわなw。お呼びが掛かり、スッタモンダの末に先生が演奏を見に来る事に。

https://twitter.com/vendangeuse/status/1028900189132578816
「停学」の声もあったが、普段の私から「あいつがどんな事をやっているのか?」という声も。ライヴハウスやバンドの名前を言うと、ある先生がマスターに会いに行った。マスターからはお褒めの言葉があったようで、先生方は多重積分の演奏を見て判断、という事に。首の皮一枚だ…。

https://twitter.com/vendangeuse/status/1028901835665432576
私が詩で賞をとったり、短歌を詠んだりしてたのは先生にも知られていた。それに曲を付けて歌っている、という所に先生たちは興味を覚えたらしい。
これがあの世代によくあるビートルズのコピーだったり、あの当時流行っていたパンクだったら、マスターも擁護せず、問答無用に停学だったかもw。

https://twitter.com/vendangeuse/status/1028905075517714432
学生服姿の私しか知らない先生にはレザー姿の私はどう見えたのだろう?「リーゼントにせんのか?」あの〜R&Rじゃないんですけど…。「踊ったりせんのか?」あの〜こんな重たいサイケでは無理かと…。
結果は合格だったのかな。ライヴの前に届けろ、という事を言われた。これには異論も出たらしいが。

https://twitter.com/vendangeuse/status/1028908628302946304
サイケ・バンドの多重積分が友人のバンドやお店のイベント「高校生バトル」での対バンのようにパンクやR&Rだったら、多重積分は禁止だったかも。多重積分というバンド名も先生受けしたのかもしれない。これがありふれたザ・XXXズだったら…。
名の由来?二重積分や異常積分を本で見ていて思いついた。


https://twitter.com/vendangeuse/status/1028910647541547008
さて、ここで話は歌詞の方へ行く。
私が短歌に興味を持ったのは古文の授業での『万葉集』と『古今和歌集』や現国での近代短歌で。ここまではよくある話。
57577の形式にすればいいと思い、クトゥルフや吸血鬼を詠み込んでゴスな短歌を作っては先生は苦り切った顔にw。

https://twitter.com/vendangeuse/status/1028912685239304192
十代後半によく行っていた古本屋の店主との会話で塚本邦雄『十二神将変』を教えられたが、この時はまだ塚本邦雄が歌人とは知らず、寺山修司も演劇の人としか思っておらず、岡井隆に至っては名前すら知らなかった。要するに十代の私の短歌の知識は高校教科書の範囲でしかなかった。

https://twitter.com/vendangeuse/status/1028914162162851840
短歌や詩を書いているうちに七五でやると歌いやすいのに気が付き(←早く気づけよw)、長歌形式で多重積分の歌詞を書くようになっていた。
だからか、チャーリー林が私の作った歌詞を歌いやすいと言って、ずっと歌っていたのはw。
https://twitter.com/vendangeuse/status/1028973345021210624
なぜか境内で多重積分に演奏させてくれていた神社の神主が私の短歌の趣味を知り、短歌を詠んでいる知り合いを紹介してくれた。
彼女の家で私は塚本邦雄の序数歌集を見たのだった。その中には復刻版『水葬物語』もあったが、当然のように『蒼鬱境』だけは無かった。

https://twitter.com/vendangeuse/status/1028977058699927553
神主の知人は、二つ折りの半紙に草書で『水葬物語』を書き写し、製本していた。復刻版を持っていなかった頃に自作したらしい。
見せてもらったが、私には草書は達筆過ぎて読めなかったw。
まだ『塚本邦雄全集』が出ていなかった頃の話だ。
今は文庫版全歌集が刊行中。良い時代になったものだ。

https://twitter.com/vendangeuse/status/1028984554609029120
詩に関しては高校生の頃から通っていた小倉の古本屋の主人から添削してもらっていた。北九州大学(現・北九州市立大学)で講師もしていた彼からはフランス語の手解きも受けた。
ライヴハウスのマスターや同世代のバンド仲間、学校の先生から多重積分の歌詞が文学的と言われていたのはそのおかげだろう。

https://twitter.com/vendangeuse/status/1028988031913537538
そう、あの小倉の古本屋で高校生だった私はユルスナール『黒の過程』やユイスマンス『さかしま』、『大伽藍』やベアリュ『水蜘蛛』等を手に入れたんだ。
主人と話しているだけでフランス文学だけでなく異端文学にも詳しくなった。
もう亡くなられて何年か…。

https://twitter.com/vendangeuse/status/1039901648330534918
高校生の時に知り合ったあの高校生バンドはギター二人にドラムの三人編成で、ベースを探していた。私がオルガン奏者なのを知った彼らに誘われ、参加。
バンド名を考えていた彼らに私はペキンパーの映画からワイルドバンチを提案。乗り気ではなかった彼らもたまたまテレビ放送された映画を見て賛成。

https://twitter.com/vendangeuse/status/1039904047514312706
ワイルドバンチの途中で私はギターを友人から教わった。子供の頃から三味線を弾けたおかげか、ギターの上達は早かった。魔のFを除いてwww。

https://twitter.com/vendangeuse/status/1039914491826163712
ワイルドバンチで私がギターが弾けるようになった事は、二人のギターのうちの一人がベースを弾くきっかけになった。
私の三味線弾きが面白かったのかw純邦楽の響きが面白かったのかw私のギターを生かそうとしてくれた。
ある時期から私はオルガンとギターを担当、あのギタリストはベースも担当。

https://twitter.com/vendangeuse/status/1039917135655395328
ある時、私の書いた詩を見たワイルドバンチのメンバーは気に入ったらしく「この詩に曲を付けよう」と言い出した。
最初はヴォーカル担当が歌っていたが、詩の雰囲気を出せないとかで作詞者の私が歌う事に。これが多重積分の発端。
本来のヴォーカルがメインの方は後にマッドマックスになる。

https://twitter.com/vendangeuse/status/1040057901753065473
考えてみると、私が学校でワルだったり、詩で何度も賞をとっていなかったら、高校の先生がたは私のバンド、多重積分に興味なんか示さなかったかもしれない。それどころか謹慎や停学もあり得たかも。
私の書くあの詩にどんな曲を付け、どんな演奏をしているのか、興味を持たせたのが成功だったかも。

https://twitter.com/vendangeuse/status/1040060211803783168
それにワイルドバンチのメンバーが私の詩を評価してくれたのも幸いした。この詩にはどんな演奏がよいのか、高校生バンドのレベルながら、皆で考えたものだ。もっと表現を広げたくて、理論書や技術書を買ってきては皆で考えたり、試したり、疑問点を音楽教師に尋ねたり。
こうした事も高三で終わりに。

多重積分に関する書き込みが多いのでこちらにもリンクさせます。

ハヤト君の写真 https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1558243&id=97136500
14に書かれた元ネタは全てハヤト君のfacebookです。
(我がfacebookから転載する)

十代の後半に私は奇妙なアメリカ人を紹介された。キャプテン・ビーフハート好きの彼は「ハーヴァードでポーを研究していた」と称していた。
お互いポー好きなので意気投合。

その彼から私はエドガー・アラン・ポーの「The Lighthouse」なる小説を教えられ、そのコピーをもらった。「ポーの未発表作品」だと言われ、読んでみたが、「え?これで終わり?」というのがその時の感想だ。
これは未発表なんかじゃなく、未完成作品なんだ。
 
「The Lighthouse」の全文はこのサイトで読める↓。
https://www.eapoe.org/works/tales/lightha.htm
日本語訳は新潮文庫から「灯台」の題で出ている(←画像参照)。
 
この「灯台」の続きやオマージュを書く者が続出。
その代表格はブラッドベリ「霧笛」だろう。
私も多重積分で「深淵より」という歌を作った。

あの「ハーヴァード大学」を称したアメリカ人がポー研究で有名なマボット教授に教わったのかは今でも不明のままだ。

もう40年も昔のお話さ。
https://www.facebook.com/100010339176505/posts/962349300786367/

ハイサイの川野さんのtwitterより。

80年頃の小倉のアベベ…マッシュルームっぽい髪型の黒い革ジャン、革パンの少年が客席にいたら高校生の頃の私です。
17関連

https://twitter.com/vendangeuse/status/1181913472998621186?s=19
80年頃の小倉のアベベ…マッシュルームっぽい黒い革ジャン、革パンの少年が客席にいたら高校生の頃の私ですw。過去の悪行が…((( ;゚Д゚)))…。


https://twitter.com/lbPBXjeHHqj2gH4/status/1179038328051519493?s=19
偶然、フルノイズの80年前後の80sfactoryとアべべのDVDを家で発見して観賞してたら、マサルから電話が入る。
ピースでのライヴ話や思いを聞く。
所で、フルノイズで検索するとあの芽瑠璃堂の書き込みが中々ツボをついてて感心する。

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