1957年、彼はシカゴのNBCへコーディネーターとして移籍した。さらに次の年には国立教育テレビへ、ライター=プロデューサーとして再度移籍。
そして1960年、WGN−TVへもう一度復帰し、ピーボディ賞受賞の「シカゴからやってきた偉大なる音楽」の脚色・製作をしている。またこの年、彼にとっては初めてのドキュメンタリー映画をとり、その1時間もののプログラムは全米で高い評価を獲得した。
この作品、つまり「谷間を通り抜けて」Walk Through The Valleyはシカゴのプロテスタント派の牧師の公共体への献身ぶりを描いたものだった。
1962年、彼はWBKB−TVへ入社、その当時の局長であったスターリング・“レッド”・クインランとの契約で特別番組のプロデューサー=ディレクターとなった。
クインランは、ピーボディ受賞プロデューサーであるフリードキンを全面的に信頼し、その「特別番組」を一任した。フリードキンはそこで自分の思うままに才能を発揮することができたのであった。
彼の製作・監督した作品のひとつに有名な「人民対ポール・クランプ」The People vs Paul Crumpがある。クック郡刑務所において殺人の罪により電気椅子の死刑を宣せられたまま10年を経過している一人の黒人を掘りさげて描き出したものだったが、これはヴェネチア映画祭、およびオーベルハウゼン(西独)映画祭で記録映画の部の1位を獲得している。
1954年から1963年の間にフリードキンは2000本以上のヴァラエティ、クイズ、クラシック音楽、野球等あらゆる種類のナマ番組、そして12本以上のテレビ用記録映画をつくっている。しかしアメリカでトップ・クラスの記録映画プロデューサー、デヴィッド・ウォルパーの認めるところとなったのは、まさに「人民対ポール・クランプ」によってであった。
ビルとウォルパーが組んで仕事をはじめたのは1964年のことである。そして彼らは3本の作品を完成させた。この作品はみんなABC−TVのネットワークによってオン・エアされている。
「命知らずの男たち」The Bold Man〈さまざまな理由から、その生命を危険にさらしている人たちの記録〉
「傷だらけの日曜の午後」Mayhem On A Sunday Afternoon〈プロ・フットボールのある断面〉
「薄い青い線」The Thin Blue Line〈合衆国における法的な圧力、その実施面などの記録・研究〉
―――これらの三作品はいずれも国の内外にわたるさまざまな賞を受賞し、全世界でオン・エアされている。またこの時期にフリードキンとしては、最初のドラマティックな仕事を手がけている。それは末期の「ヒッチコック劇場」のひとつで、ジョン・ギャビンが主演した作品である。(題名不詳)
この仕事のあと、ビル・フリードキンはいよいよ映画の世界に入っていくことになる。ハリウッドのプロデューサー、スティーヴ・ブロイディが、コロムビア映画「グッド・タイムズ」を彼が監督するように手筈をととのえがからである。ビルは勇躍デヴィッド・ウォルパーに別れを告げ、未知の仕事(といっても、それは、テレビと映画という、メディアの相違にすぎないが)に挑んでいったのである。