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ウィリアム・フリードキンコミュのディレクターズ・カンパニーの3人

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 キネマ旬報社から1974年に発刊された「世界の映画作家23 ディレクターズ・カンパニーの3人 ピーター・ボグダノヴィッチ ウィリアム・フリードキン フランシス・フォード・コッポラ」というマニア必見の雑誌がある。
 たまに気のきいた古本屋で見かけることがあるが,フリードキンの一面を当時の批評家がさまざまな形で論評していて興味深い。参考までに,石上三登志氏の「栄光のマイナーAIP」の一節を引用してみたい。
 
 ところで,このアライド・アーチスツの,モノグラム時代の1933年からいたプロデューサーにスティーヴ・ブロイディがいる。この人が1965年にモーション・ピクチャー・インターナショナルなるプロダクション(なんとなくアメリカン・インターナショナル・ピクチャーズの名称に似ているではないか!)を作った際,彼の前に現れたのがウィリアム・フリードキンなる若い映画作家である。このテレビ界のドキュメンタリー作家として出発したフリードキンは,すでに62年の「民衆対ポール・クランプ」なる1時間もののテレビ・フィルムで才能を発揮し,おくらにはなったが,同年のサンフランシスコ・フィルム・フェスティバルでゴールデン・ゲイト賞を受賞。これを見た制作者デヴィッド・L・ウォルパーが,ABC-TVのドキュメント番組中,三本を彼に作らせた。このウォルパー,「コマンド戦略」(67年),「レマゲン鉄橋」(68年),「第三帝国の興亡」(68年),「大自然の闘争」(71年),「時よとまれ 君は美しい」(73年)といった異色のドキュメント=フィクションを後に発表した男である。
 とにかく,そんなドキュメンタリーに才能を示すフリードキンに,スティーヴ・ブロイディが眼をつけた。そして,そのころ主として英国で次々に作られた,人気ポップ・シンガーをドキュメンタルにとらえながら劇映画にするという趣向,これのアメリカ版に起用しようと考えた。この当時の英国産ポップス・ドキュメンタル映画,次のようなヒット作がある。
「若さでぶつかれ!」(61年)クリフ・リチャード主演。シドニー・J・フューリー監督。「太陽と遊ぼう!」(63年)クリフ・リチャード主演。ピーター・イェーツ監督。「ヤア!ヤア!ヤア!」(64年)ザ・ビートルズ主演。リチャード・レスター監督。「HELP!」(65年)ザ・ビートルズ主演。リチャード・レスター監督。「5人の週末」(65年)ディヴ・クラーク・ファイブ主演。ジョン・ブアマン監督。
 いうまでもなく,後の大型監督英国出身版の,ことごとく処女作もしくは出世作なのである。
 この手のヤング向け商品が,アメリカに飛び火しないはずはなく,そこに眼をつけたのがブロイディ。ポップス・シンガーの「ソニー&チアー(シェールのことか)」を主役に,アメリカ版のポップス・ドキュメンタリル劇映画を作ろうと,その演出に選んだのがフリードキンだったのである。この「グッド・タイムス」(67年,本邦未公開)なるフィルムの内容はソニーが映画スターになりたくて,それを妄想するたびに画面が奇妙な「映画」になって展開するという,まさしく「たとえばレスター調」だった。これは,当時のブームにのって見事に成功し,フリードキンは翌68年にすでに,大作「ミンスキー劇場ガサいれの夜」(68年,本邦未公開)を,ジェースン・ロバーツ,ノーマン・ウィズダム,フォレスト・タッカー,エリオット・グールド,バート・ラーといういたってくさいキャストで制作。これは,本格的ノスタルジア映画として決定的に評価された。この時フリードキン29歳,確実にその才能を認められた彼は,周知のようにハロルド・ピンターの原作による「バースディ・パーティ」(69年,本邦未公開),「真夜中のパーティー」(70年)を続けて演出,力作「フレンチ・コネクション」(71年)になだれこんでいったのである。
 このウィリアム・フリードキンも,ロジャー・コーマンとは直接関係はないが,同様な映画的土壌からこそ出発できた事だけはたしかで,それは英国産ポップス物もまた同様のユース・マーケットが狙いであった事実からも想像できる。事実コーマンのAIP,ニコルソンのAIPにしても,すでにこの種の作品は何本も作っているのである。
 
 

コメント(15)

再び,前掲の著作からの引用。
 
 同じ年(1939年)に生まれ,同じような映画的軌跡を描いてきた,コッポラ,フリードキン,ボクダノヴィッチには,だから当然ながらさまざまな共通点を見いだせる。
 たとえば,彼ら三人に共通したマニアックなフィルム志向である。この,いわば彼らの偏執性は,ヌード・フィルムをそのキャリアの出発点としたコッポラ,おくら入りのテレビ・ドキュメンタリーをそのキャリアの出発時にもったフリードキン,そして映画研究批評をそのキャリアの出発原点としたボグダノヴィッチによって,容易に理解されるであろう。これらは,たとえマイナー・プロのマイナー作品でもいいといった,強烈きわまりない映画製作願望に当然発展するわけで,ここにコーマン他の秀れたマイナー・プロ・スタッフとのジョイントが生ずるわけである。
 次に,彼ら三人に共通した「映画の再確認」的姿勢があげられる。この,いわば彼らの自省性は,彼らの処女作がことごとく妄想,幻想,とりわけそれが具体的な「映画」の姿をとったものであることで実証される。たとえばコッポラの処女作「グラマー西部を荒らす」は,西部劇世界と成人向きポルノ趣向との,妄想的な混乱を描いたコメディだった。たとえばフリードキンの処女作「グッド・タイムズ」も,主人公の映画主演願望から生じた,奇妙な映画風幻想が描き出されるコメディだった。そしてたとえばボクダノヴィッチの処女作「ターゲッツ」も,映画と現実の見わけがつかなくなったガン・マニアと,引退した映画スター(ボリス・カーロフ)の両方のドラマが交錯する,奇妙なサスペンス・スリラーだった。これらは,いわば彼ら自身と「映画」との明確な距離感を示し,つまりその程度に彼らは出発点から「さめて」はいたのである。そして,この具体的な自省性は,それ以前の映画作品の中にはそれほど見出せるものではなく,だから彼らは当初,ある違和感をもって受けとめられたのである。
 そして,最後に,彼ら三人に共通したコマーシャリズムがあげられる。この彼らの商業性は,ことさら触れるまでもないだろう。最も具体的にいえば,映画なら何でもいいといった偏執性の「弱さ」と,「映画」自体を懐疑的にみつめる自省性の「強さ」が,ここで見事に合体しているわけで,これこそが彼らの後の商業映画的成功へと誘ったわけである。別ないい方をすれば,彼らは多数の観客の欲求を彼ら自身のそれと一致させ,時代に忠実たることにたけているといってもいいだろう。彼ら三人が,現代アメリカの典型的な映画監督である,これは最大の理由である。
 ところで,彼ら三人の共通性を,別な点からみつめてみると,事はいささか変わってくる。これは,彼ら三人のいわば気分,感情的な好みの問題なのであるが,ここに懐古性,即ちノスタルジアが登場してくるのである。
 たとえばフリードキン。彼の第二作目「ミンスキー劇場ガサいれの夜」は,アメリカのミンスキー劇場において,いかなる原因ではじめてストリップ・ティーズが誕生したかを描いた,ノスタルジア映画の力作だった。ここに描かれた素朴なエロティシズムは,なんとも楽しく,微笑ましく,そして間違いなく健康だった。このノスタルジア=エロティシズムは,いうまでもなく,この映画が公開された68年ごろすでに,アメリカ全土をおおい出した,「性の解放」という名の「性の混乱」状態,あれとかさねあわせてこそ,はじめて理解されるだろう。つまり,68年の性よりも,この懐古的な性の方が正しいという意味なのである。
 
 
 (続き)これを,さらに延長すると,たとえばボグダノヴィッチ。彼の第二作目「ラスト・ショー」は,アメリカの50年代の田舎町で,いかにして少年たちは「映画館」を離れ,つらい現実の中にうもれていったかを描いた,ノスタルジア映画の力作だった。ここに描かれた映画館の,とりわけそこで上映される映画「赤い河」の画面は,なんとも楽しく,ダイナミズムにあふれ,そして間違いなく健康だった。このノスタルジア=ダイナミズムは,いうまでもなく,この映画が公開された52年ごろすでに,アメリカ映画界をおおい出した「アンチ・ヒーロー讃美」という名の「ヒーロー不在」状態,あれと重ねあわせてこそ,はじめて理解されるだろう。つまり,71年のヒーローよりも,この「赤い河」(48年)のヒーローの方が力強いという意味なのである。
 これを,またさらに延長すると,たとえばコッポラ。彼の第六作「ゴッドファーザー」は,60年代のアメリカの犯罪世界で,いかにして一大家父長たるゴッドファーザーは,男らしい男であったかを描いた,父親映画の力作だった。ここに描かれた単純明快な父親のヒロイズムは,なんとも豪快であり,強烈であり,そして間違いなく健康だった。ただ一つ,彼が犯罪界の大立て物であったことをのぞいては,である。このヒロイズムは,いうまでもなく,この映画が公開された72年ごろすでに,アメリカ家庭をおおい出した,「妻の自立」という名の「夫の崩壊」状態,あれと重ねあわせてこそ,はじめて理解されるだろう。つまり,72年の若い父親たちよりも,この古い「しきたり」の世界に忠実な,ゴッドファーザーの方が偉大であるという意味なのである。そして,父親世界の,つまり過去世界の,いいかえればこちらを「子」と考えた場合にのみ成立する「父の支配していた過去」世界を,現在よりも良き時代と思う心理を,人々はノスタルジアと呼ぶ。
 この,混乱したアメリカで,彼ら三人が映像対象としてとらえようとする素材は,ことごとくこの過去の父親世界に結びつく。「真夜中のパーティ」の同性愛は,自らが父親たる努力をすることなしに,父親的男性を他に求める男の心理である。「雨の中の女」の妊娠恐怖は,精神的に弱すぎる現在の夫の子など生みたくないと逃れる女の心理である。「フレンチ・コネクション」の偏執性は,攻撃本能を理性的に昇華できない,小児的な男の心理である。「おかしなおかしな大追跡」の過去志向は,子どものころに戻りたいと願う,父性欠如の男の心理である。これらがまとめてノスタルジア気分になだれ込み,現代アメリカの大弱点を期せずして指摘しているのである。
 この本はキネマ旬報社から昭和49年4月15日に発行された特集で、実に全40巻という全集的な資料的価値の高い雑誌であるが、当時、ボグダノビッチ、コッポラと共にディレクターズ・カンパニーを立ち上げたばかりで、「エクソシスト」の日本公開を控えた頃に刊行されたものである。フリードキンの特集を担当したのは、新進気鋭の映画評論家河野基比古氏である。この人は、ピーター・ハイアムズ、マイクル・クライトン(映画作家としての)、ジェリー・ゴールドスミスなど、ことごとく私のお気に入りの映画人を取材しており、もとより親近感があったところ、フリードキンも取材していたと知り、なんという因果かとあきれてしまった。これだけ好みが符合する人も珍しい。ちなみに、前記のピーター・ハイアムズは、「カプリコン・1」公開時に河野氏が取材したインタヴューで、自身の尊敬する映画人として、フリードキンとスピルバーグを挙げている。当時ハイアムズに熱を上げていた私としては、この人の口からフリードキンの名が語られたことによって、改めてフリードキンを強く意識したことを記憶している。
「フレンチ・コネクション」への道

 ウィリアム・フリードキンの「フレンチ・コネクション」での成功を、フロックとみていたひとはすくなくない。1972年のショッキングな登場ぶりに、ちょっと呆然としてしまった観客の前に、これみよがしに「真夜中のパーティー」をさしだし、「フレンチ・コネクション」を投げつけてきたフリードキン。
 刻々と夜の更けゆくニューヨークの高層アパートの一室で、人間の深層を凝視しようとする作品と、白昼の高架線下の街路をドラスティックなエネルギーと、爬虫類的な執念で追跡をみせた刑事ものとでは、いったいどこが連接するというのだろう。その、異様なまでに新鮮度の高い画面の感触。……といってしまっていいものでもない。彼の才能をヴァーサタイル(多芸)と評したひともいるが、それも逃げ口上ともとれる。
 そして72年アカデミー監督賞など五つの賞がこの「フレンチ・コネクション」に集中することになる。ところが、同年、日本のキネマ旬報ベスト・テンを評価の基準とみるならば、「真夜中のパーティー」は6位にあり、「フレンチ・コネクション」の10位にくらべて、はるかに高い評価であった。ちなみに読者ベスト・テンは「フレンチ・コネクション」が6位をとり、「真夜中のパーティー」は12位と逆位置にある。
 「『グッド・タイムズ』『ミンスキー劇場ガサいれの夜』『真夜中のパーティー』はぼくのキャリアにとってプラスにならなかった。またぼく自身すきじゃないし、価値もみとめていない……」
 そうフリードキンは言う。(『フィルム・クォータリー』誌所属のマイケル・シェドリンのインタヴュー)そして、こういうものはすべて「フレンチ・コネクション」のための習作だったとさえ言っているのである。
 だが、疑い深いのは評論家の特質である。「真夜中のパーティー」に関しては製作・原作・脚色を通じて才能をふるったマート・クローリーがいる。あの作品の宝石の光源のようなあざやかなひらめきは、マート・クローリーの才能がぼくらに見せていたものではないか。そして、「フレンチ・コネクション」に関しては、「ブリット」という追跡シーンのエポック・メーキングな創造者であるフィリップ・ダントニというプロデューサーに負うところが多いのではないかと、疑いつづける。
 その証言のように、彼は自分で「真夜中のパーティー」の、絶対といってもいいあの価値をみとめようとしない。
 フリードキンはことし「エクソシスト」の発表とともにアメリカ全土を話題で沸きかえらせた。アカデミー賞ノミネーション10部門というこの反響は「フレンチ・コネクション」をはるかにしのぐものだろう。たしかにここでも原作者であり、脚色・製作者であるウィリアム・ピーター・ブラッティという存在がある。この45歳の作家はシナリオ・ライターとしてはすでに「暗闇でドッキリ」(64)、「銃口」(67)、「地下最大の脱出作戦」(66)などを書いている。しかし、こんどというこんどはフリードキンは他の才能の陰に影を薄くすることもなく、心ゆくまでこれが彼自身の作品であることを謳っていいだろう。
 いままでの作品では―――「フレンチ・コネクション」でさえ―――フリードキンはたいていの場合受け身の仕事だったようである。かつてサム・ペキンパーが『プレイボーイ』誌のインタヴューで語っていたように、監督という仕事は多くの場合「娼婦」の立場をとるのだ。そこに自分のモチーフをみつけるのはむしろそのあとの狭いレンジの中での仕事になっていく。
 「エクソシスト」はフリードキンにとってまったく悪魔的(・・・)といってもいいほど幸運な出合いだった。ボグダノヴィッチ、コッポラとの組織結成とあいまって、彼のこれからのキャリアは、アメリカではもっともお座敷のかかる第一線監督になることだろう。
ところで、いかに「エクソシスト」という素材が彼をとらえたかは、彼自身のことばによってみよう。
「あの本をはじめて読んだ夜のことは決して忘れられない。小説はぼくを完全なトリコにした。読み終わったぼくは完全な病人だった。この事象のもっている魔力は、ぼくを圧倒してしまった。本の二枚の表紙の間には言いしれぬこだまが反響しあっていた」
この稿を書いている時点で「エクソシスト」がプリント未着でみられないのは残念だが、その反響のひろがり、興業的な成功が、彼のこの一作にかけた比重の大きさをものがたっていると見ることができるだろう。
ビル・フリードキンが、見えない宿命の糸に操られるように、こうしてアメリカ第一級の監督になっていった過程を、その出生からさかのぼってのぞいてみることにしよう。
高校を出てテレビの仕事を約10年

ビルは1939年8月29日、シカゴで生まれた。彼の父親ルイス・フリードキンはシカゴに小規模なチェーン店をもっている用品小売業であった。しかしその父親はビルが高校を卒業するのを待っていたようにこの世を去っていった。
ここで運命の第一の糸が彼に力をくわえはじめたと見ていいだろう。なにしろセン高校時代の彼はスポーツ愛好青年で、バスケット・ボールのスター・プレイヤーとして全校にその名を轟かせていた。そのためか学力の方はさっぱりで、ただ落第はしなかった、という程度の“平均的”学生だった。もちろん、演劇、あるいは芸能界には爪の垢ほどの野心も、夢ももちあわせていなかった。現代アメリカを背負って立つような監督になるというような予言を、もしこのころのビルが聞いたら、きっと笑いころげたことだろう。
いくつかの大学から、バスケット選手として来てくれれば学費は免除するという話も舞い込んでいた。しかし、彼は大学へ進学するより職につきたい希望をもっていて、卒業のときは大学進学はおよそ無理という成績になっていた。
そこへ父の死である。彼はあわてた。就職を急がなければならなかった。ある朝、彼がシカゴ・トリビューン紙をひろげるとCBS系のWBBM−TVでメッセンジャーを募集中という求人広告が目にはいった。
ビルはここでとんでもない間違いをやった。そしてその間違いがまた彼を確固として映画界のキャリアへ運ぶ運命の糸になった。
WBBNはシカゴ・トリビューン・タワーとは道をへだてて向かい側のリグレー・ビルディングにあった。ところがビルの足は広告の印象のためか、シカゴ・トリビューン・タワーの方へ向いてしまったのである。幸か不幸か、そのタワー・ビルの中にもWGN−TVというテレビ局が存在していた。ビルはWGNの受付へ行くと、
「広告で見ましたが、メッセンジャーを募集中だということなんで……」
と言った。受け付け嬢は妙な表情をチラとみせたが、すぐに奥にひっこんだ。そして暫くすると中年の男が出てきてビルを頭の先から爪先までひとわたりジロッと見まわすと
「当社では別に広告を出したおぼえはないが、君がウチではたらいてくれるなら歓迎するよ。入りたまえ」と言った。
WGN−TVには特殊な人事システムがあった。つまり、昇進するごとにそのポストも変えていくというやり方である。ビルは望んでいなかったにもかかわらず、6ヶ月後には転属されて、フロアー・マネージャーをやっている自分に気がついた。さらに6ヶ月後には演出をやらされていた。そのとき彼はやっと17歳だった。彼をよく知る学校の友人たちは、ビルがとんでもない間違いをしでかしていると忠告したほどだった。メッセンジャー部の主任かなにかをやっていた方が彼のためだと思ったのだ。
だがフリードキンはだんだんテレビの仕事にのめり込んでいった。とりわけ演出が彼の心を魅了した。しかし、10年後にハリウッドにいる自分を想像もしなかった彼は、まだプールやピンポンに、そしてポーカーに興じる自分をテレビの仕事をやっている自分と同列ぐらいにしか考えなかったらしい。
ビルは学生時代から映画はよく見ていた。そして友人たちと映画の話になると、好きな監督としてスタンリー・キューブリック、アラン・レネ、クロード・ルルーシュ、ミケランジェロ・アントニオーニをもち出した。また、音楽と美術が自分の仕事の上に大きく影響しているのを感じないわけにはいかなかった。とりわけワット、モネ、ビュッフェ、キリコなどのタブローを彼は愛している。
こうしてシカゴの北側の街で成長したビル・フリードキンは1メートル83センチの長身、70キロの体重、青い眼、茶色の髪のハンサムな容姿でキャリアを歩みはじめた。
彼が最初にやらされた演出はコドモ番組の間の生(ライヴ)コマーシャルで、そしてまたコドモ番組ほど勉強になるものはなかった。そこにはドラマティックな要素もあれば、ミュージカルとしての機能もなければならなかったから。余談になるが「セサミ・ストリート」をみれば、そこにはミュージカルやドラマの、かなり突っこんだ手法が要求されていることに気がつくはずだ。
「シカゴのテレビ局は完全なローカル局だった。その当時ナマ番組が始まったばかりで誰もやり方を知らなかった。誰もが手さぐりで仕事をはじめた。ぼくを含めて。……また記録映画のときもそうだった。初めての映画では、ぼくは映画をどうやって撮ったらいいのかさえ知らずに、カメラマンとぼくで全部仕上げてしまった」
1957年、彼はシカゴのNBCへコーディネーターとして移籍した。さらに次の年には国立教育テレビへ、ライター=プロデューサーとして再度移籍。
そして1960年、WGN−TVへもう一度復帰し、ピーボディ賞受賞の「シカゴからやってきた偉大なる音楽」の脚色・製作をしている。またこの年、彼にとっては初めてのドキュメンタリー映画をとり、その1時間もののプログラムは全米で高い評価を獲得した。
この作品、つまり「谷間を通り抜けて」Walk Through The Valleyはシカゴのプロテスタント派の牧師の公共体への献身ぶりを描いたものだった。
1962年、彼はWBKB−TVへ入社、その当時の局長であったスターリング・“レッド”・クインランとの契約で特別番組のプロデューサー=ディレクターとなった。
クインランは、ピーボディ受賞プロデューサーであるフリードキンを全面的に信頼し、その「特別番組」を一任した。フリードキンはそこで自分の思うままに才能を発揮することができたのであった。
彼の製作・監督した作品のひとつに有名な「人民対ポール・クランプ」The People vs Paul Crumpがある。クック郡刑務所において殺人の罪により電気椅子の死刑を宣せられたまま10年を経過している一人の黒人を掘りさげて描き出したものだったが、これはヴェネチア映画祭、およびオーベルハウゼン(西独)映画祭で記録映画の部の1位を獲得している。
1954年から1963年の間にフリードキンは2000本以上のヴァラエティ、クイズ、クラシック音楽、野球等あらゆる種類のナマ番組、そして12本以上のテレビ用記録映画をつくっている。しかしアメリカでトップ・クラスの記録映画プロデューサー、デヴィッド・ウォルパーの認めるところとなったのは、まさに「人民対ポール・クランプ」によってであった。
 ビルとウォルパーが組んで仕事をはじめたのは1964年のことである。そして彼らは3本の作品を完成させた。この作品はみんなABC−TVのネットワークによってオン・エアされている。
 「命知らずの男たち」The Bold Man〈さまざまな理由から、その生命を危険にさらしている人たちの記録〉
 「傷だらけの日曜の午後」Mayhem On A Sunday Afternoon〈プロ・フットボールのある断面〉
 「薄い青い線」The Thin Blue Line〈合衆国における法的な圧力、その実施面などの記録・研究〉
 ―――これらの三作品はいずれも国の内外にわたるさまざまな賞を受賞し、全世界でオン・エアされている。またこの時期にフリードキンとしては、最初のドラマティックな仕事を手がけている。それは末期の「ヒッチコック劇場」のひとつで、ジョン・ギャビンが主演した作品である。(題名不詳)
 この仕事のあと、ビル・フリードキンはいよいよ映画の世界に入っていくことになる。ハリウッドのプロデューサー、スティーヴ・ブロイディが、コロムビア映画「グッド・タイムズ」を彼が監督するように手筈をととのえがからである。ビルは勇躍デヴィッド・ウォルパーに別れを告げ、未知の仕事(といっても、それは、テレビと映画という、メディアの相違にすぎないが)に挑んでいったのである。
甘さをたたき出すリアリズム演出

彼がハリウッドという映画産業機構と、その衰えたりとはいえども脈々と伝えられてきた伝統に染まる時間が、ことにその成長期である見習い期間において、非常に短かった、というよりほとんど皆無であったことは、以上のバイオグラフィからも明瞭である。また、少年期から、映画監督を志していれば、シカゴから早々とカリフォルニアの映画都市へ出てきていただろうし、そうでなくても、テレビの仕事をしながらも、映画という将来への志向へ顔を向けすぎて、アメリカ映画のハリウッド的本質をなんとなく身につけてしまったかもしれないのだ。
彼の新鮮さは、知的であることが商品価値であるニューヨーク派の監督たちの作風系列にも属さず、また同時にあきらかにハリウッド的ではない体質をみせるところにある。
そのほとんどの肥料を吸収してきた土壌がテレビであり、それもいわば教養番組ともいえるドキュメンタリー・フィルムであることは重要視していいだろう。そして2000本にも及ぶ当意即妙のスィッチングが必要とされるナマ番組。「真夜中のパーティー」はそのほとんどが、オープニングのニューヨークの街路と、パーティーへやってくる男たちの紹介的モンタージュをのぞいて室内劇であるが、限定された場所、スタジオの中のハプニングを克明におさえていくことに関しては、すこしも戸惑いがなくて当然である。
また、「フレンチ・コネクション」には、「ブリット」のピーター・イェーツの演出からあらゆる甘さをたたき出してしまったようなところがあった。甘さという意味は、たとえば「ブリット」においての主役のスティーヴ・マックィーンを立てるための仕かけ。彼が自分の部屋でタートルネックのセーターや、よく着込んで感じよくくずれたスポーツ・ジャケットをカッコよく拳銃のホールダーといっしょに身につけていくところの千両役者的な見せ場で、恋人キャシー(ジャクリーン・ビセット)の扱いなどは、かなりハリウッド製ドラマであった。ブリット刑事は後年「バード・シット」(70)などという映画でパロディー化され、お笑いのネタになるほどのカッコよさであったのだ。
ジーン・ハックマンのドイル刑事は、その点フリードキンに冷遇されたといっていい。彼はおよそ女に縁のない不潔な垢だらけの刑事で、喜劇的なポークパイ・ハットをちょこんとのっけ、ブーツ姿の女性がくるとやたら安物の犬のようにキョロキョロする。ブーツ姿とか、皮革でその身を装った女というのは、流行のSM雑誌というやつをパラパラとめくってみれば一目瞭然なのだが、これはマゾヒストの渇仰の的である。はたせるかな、このドイル刑事は自分のアパートで、女に手錠で自分の体をベッドにくくりつけてもらったりして遊んでいるのである。
また、このドイル刑事と相棒のラソー刑事がやたらに吐き散らすことばのヒドさ加減も相当なものである。呪詛、隠語、その他あらゆる言ってはならないことばが、呪われた機関銃のように彼の口から乱発された。
こうしてイェーツとフリードキンの体質の差は、その主人公に明確な落差となってあらわれる。もちろん、あのイェーツの「ブリット」でさえ、「夜の大捜査線」(67)からはその追跡描写の執念とエネルギーに関して、はるかにからくなったものであることはいうまでもない。
フリードキンは長い間テレビのプロデューサー=ディレクターとして視聴率獲得で苦労してきた。そのことが彼を優秀な時局感覚のレーダーとして鍛えあげただろう。彼は、アカデミックな人間ではない。
「私は一冊の本をはじめから終わりまで読みとおしたことはない。教育はジョークであり、なにものも意味しなかった」
テレビ局の、1回のオン・エアに視聴率を賭けたその成功との戦いは、電波と受像機というきわめて一過性のメカニズムの上になり立っている。映画のプロデューサーの仕事もその興業的成功という一点にかけて、かなり大変にはちがいないが、それでもテレビの方がはるかにシヴィアであろう。
フリードキンはアカデミックではない分だけ、ジャーナリスティックであり得た、とはいえないだろうか。彼の作品にはよく、その作品の原形となった事実が存在している。そしてまた、その事実はかならずその時代の問題点とかかわりあっているのである。
「フレンチ・コネクション」の問題点はアメリカ社会を確実に侵蝕しつづけている麻薬であり、その輸入経路であった。また、「エクソシスト」の登場は、アメリカ全土に澎湃と起こりつつあるオカルト・ブームと、キリスト教団の無力化、またその邪宗的なものとの対立が問題化しつつあるときと期を一にしているのである。
こういうみかたからすれば「真夜中のパーティー」は、まさにノン・セックス時代の問題点を衝いているとはいえないことはないが、これはあとで述べるような意味で、他の二作ほどのタイミングのよさがなく、フリードキン自身がみとめたがらない意味もよくわかるように思う。
さて、この辺で彼の作品の一作ごとについて、詳細にあたりながら、フリードキンの本質に触れる努力をしてみよう。

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