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舞踏−吉本大輔・天空揺籃コミュの公演写真 高橋理通子舞踏公演  「 百 年 時 計 」

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6/10から12にかけて開催された高橋理通子舞踏公演  「 百 年 時 計 」より6/11と6/12の公演写真を掲載します。

高橋理通子舞踏公演  「 百 年 時 計 」20110611
https://picasaweb.google.com/ArsPaforma/20110611?feat=directlink


高橋理通子舞踏公演  「 百 年 時 計 」20110612
https://picasaweb.google.com/ArsPaforma/20110612?feat=directlink

写真:志んやさん  
初日
https://picasaweb.google.com/shinya.chosokabe/20110610
楽日
https://picasaweb.google.com/shinya.chosokabe/20110612

齊藤哲也さん楽日撮影

http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000026424544&owner_id=319884

コメント(14)

このスピード感すばらしいです。
有難うおございます。

ノーカット版のDVDよろしければ送ってください。
今回の作品は高橋理通子にとって大きな成果を現し示した作品でアルガ故に
まさに検証せねばならない問題作だと共犯者として、天空揺籃日本支部代表者として御願いいたします。

よろしく御願いいたします。
吉本様

明日、慶さんが下北のLaCamera加藤公和写真映画展オープニングパフォーマンスに来るようなのでそのときに二日分3セットお渡ししようと思っております。
眞一さんの日記より

『次の公演のタイトルは・・・『百年時計』」その瞬間、絶対見ようと念じていた。高橋理通子さんは、公演にさきだつ『花狂ひ』で、エロスの巨塊をそびやかす桜を妖艶にねじふせる舞踏で、俺の神経を束ごとふきとばし、うごかない柱時計を両腕に抱きしめていたのだ。
柱時計に、吸いこまれてあのなかにはいりたい、なかにもぐりこんで、うごかないはずのじかんの、無垢なまでの淫蕩さをとけいごとうごかしてやりたいと猛念をかきたてた。

開演すると"Bercear d'space(天空揺籃)城 "、東生田の館は、漆黒に凍りついた時間の波でおおいつくされ、入りこんだものを惑わす心地にみちた、時計のなかだった。
俺は今、オルフェよりもスフィンクスよりも会うことを願い続けた時計のなかにいる、いるんだ! 深淵な緊張にもみほぐされてとまらない。

舞踏空間が、漆黒ごと鳴動する。ひびきわたる時限針のおとは、舞踏の呼吸として反響するのだ。今回俺はこの呼吸に、身を浸し過ぎて舞踏に囚われた。何度となく、りょうあしが立ち上がって一緒に踊りだそうとするのを両腕でとめてみせた。トンマな姿としか言いようがない! まるで、放射能の微量におびえるあまり軍隊用の防毒面を何重にもかぶった愚か者が、熟れた時間の城に充ちた毒の花を、失神手前まで近寄って、肉厚な襞の一枚いちまいに恍惚となっているようだった。
舞踏は流麗なすがたなど一片もない、きれいにつくりすぎる卑しさをかたっぱしから砕く、さながら巌・・・岩の塊まりが館の天井を喰いやぶって、ステージに落ちてくるのをみるようではないか。音楽はレコードの針の音にしかきこえない位ほどで、からだじゅう、心臓の下にひろがるはらわた、両腕の中のはらわた、両眼、両鼻、両ひざ、両キンタマ、両手両足の総ての爪の底のすべてのはらわたに、何百倍の大きさの岩石が、見る者を死に至らしめるほど美しい女像をレリーフ(脳の皺がすさまじい浮き彫りを踊る)をうかべて、時計の針だけが冷厳に轟く、タナトス・・・石の表面が宇宙の匂いに覆われた荘厳な石墓地を、死都の城塞、陶酔のピラミッドをつみあげた。


そして今回の公演において、もうひとつ大事な事を書いておく。宣伝美術:高淳嘉さんがデザインした公演のチラシのイラストとともに公演の当日を指折り数え、当日はイラストにも身を浸しながら、舞踏と一体になることができたのだ。


舞踏空間の最中だが、「幽霊時計」と、つぶやく声がきこえた。客席のだれかが云ったのか、俺の体内のはらわたのいずれかから昇ってきた声なのか。
ステージの中心にむかって織りあげた舞像は
館が建って、百年たつとすみつくという幽霊なのだろうか。
館の少女は、
時計造りで爵財を成した家庭に育ち時計を知り尽くした絵師の手で、
時計じかけ人形のかおをえがく面相筆の滴りに吸いとられる。
あざわらうような、悦ぶような喚声。
時計の泡たまごでできた額縁に嵌められた肉体と、
キャンバスに乱舞する絵筆との交錯するにらみあい、からみあい。
肉体じゅうの神経と、
筆の毛ひとすじひとすじの先端に、
脂粉の甘き縹渺が灯る、
時限爆発の火薬のかがやきとともに。


「今度こそ本当に死ぬと思いました」公演が終わり、俺の言葉にみんな、呆れて笑っている。

ラストでステージ(客席と同じ高さの地面で水平につながっている)、
ステージの奥で鎖につながれた
まるで荘厳な時計の畸形獣であるような自転車を、
ステージまんなかに連れてきて、
ストッパーをかけると騎り、すごい目で・・・・
百年後の爆発をセットした時限爆弾のメーターを顔面にふたつ輝かせて、漕ぎはじめた!
十年、二十年、三十、六十、八十・・・百年目がけて疾走するふたつの車輪が
分針と秒針を猛回転し、
からくりの鐘の王女ごと総てをのみつくす不吉な円周をひろげ、
自転車の目の前の客席には、俺が座っていた!!!
いちばん危険そうな場所を独り占めしたら、
ほんとうに一番の危険が待っていた!
ストッパーが吹き飛んだら、お客がみんな逃げるあいだに
(お客さんの中に、岡本太郎美術館の館長さんがいた)
俺は時間を永久停止していたはずだ。 



真っ暗闇の中で始まった

余りの暗闇に気が遠のきそうになるのをこらえていると、すこしずつ彼女の姿が明るみに出る。

いや彼女ではなく彼女の脚部がといったほうがいいかもしれない。

口を閉ざしながらもその口だけで微笑を浮かべて男を幻惑する幻女(まぼろしおんな)のように観客を誘惑する。

彼女の妖艶さを思い知るには二本の脚だけで十分であった。

以前天空揺籃の稽古現場に居合わせた時、吉本大輔さんが『太ももで踊れ』と言っているのを聞いたことがあった。

太ももで踊る。その時はわかったようなわからないような、そんな気分であった。

しかし今日まざまざと見せ付けられたのだ。

太ももの色目使いというやつを。

高橋理通子というひとは男を誘惑するすべをいくつか心得ていてその一つが太ももで踊るということなのかもしれない。

しかし、幕間から袖に消える瞬間ふっと最後に一瞬残った右手の美しかったこと。

夢の残り香とは高橋理通子の右手にこそふさわしい。



〜赤い傘の思い出〜

赤い傘はいつもかならず捨てられているという記憶がある

捨てられている傘には赤い血液がしっとりとながれている

赤い傘布はもちろん膣を連想させる

そこにはりついた骨は男のものか女のものか

しかし赤を愛撫する

そのつややかなる愛撫

時に膣の中にみずから潜り込む

これ以上美しい自慰行為は世界的にみても稀である。

そして時には傘の骨を自身の肉にそして赤い襞にぶつけていく

傘の骨は現代では堕胎の道具を象徴してしまうが、だとしたら赤い傘は赤い雨でなおよりいっそう赤く染まることになる。

堕胎という行為に愛撫があるというのは逆説的にもあってはならないことだが、高橋理通子の恍惚とした姿を見ているとそんな社会道義的なことはすっかりと頭からこぼれおちてしまった。



そしてフォンテーヌ 『ラジオのように』が流れる

正直な話、私は2度ほど気を失いそうになった。いや正確にはほんの短い時間の気絶があった。しかし断絶はしていない。

2度目の気絶のとき『ラジオのように』が流れてきた。

気絶した私にとっては目の前で行われている衝撃は、やはりラジオのように流れてきたのだ。





百年時計、このタイトルの謎がすべて解決したわけではない。いやむしろ何も解決できなかった。

赤い傘の骨がぐちゃぐちゃになってそれぞれがアッチの方向を向いていればすべての磁場が共犯者となりすべての時計は狂ってしまうだろう。

そして、狂ったままとはいえ、彼女がこぎ続けた自転車のあの勢いをもってすればあと百年時計の針は止まることがないのではないだろうか。

しかしメトロノーム同様こぎ手を失った車輪というのはいつか止まる日がくるのも事実である。メトロノームは赤い雨音と同期しきれないかもしれない。

それでも、100年を超えても語り継がれるであろう舞踏を体験することができたこと、吉本大輔さん、石川慶さん、その他関わったスタッフの方々、そしてもちろん高橋理通子という若くしてすでに成熟した一人の舞踏家に感謝したい。

ありがとうございます。
高橋理通子舞踏公演  「 百 年 時 計 」ミクシー記載
http://mixi.jp/search_diary.pl?keyword=%B9%E2%B6%B6%CD%FD%C4%CC%BB%D2&submit=search&type=dia&x=40&y=4

K−ONEさんの日記から


向ヶ丘遊園に戻り、東生田会館に。少し時間があるので枡形山に登る。ホトトギスがないている。受付でイゲちゃんさんとばったり。高橋理通子さんの舞踏公演だ。冒頭の足をクローズアップした動き、まるで苦行。見る側からすると、こんなに足の筋肉の動きを凝視することはないだろうと思う。音楽がほとんどなく息遣いが聞こえそう。突然、「ラジオのように」が流れる。おお、ここでラジオのようにかあ・・・。アルバムには「短歌」も入っていたなあ。20代のなかば、「サウンドブレイク」という音楽番組で「ラジオのように」を使って羽田空港の光の映像とあわせたビデオを制作したのを思い出した。ブリジット・フォンテーヌもサラバーレーベルだった。そのピエール・バルーも今は東京在住だ。ラジオのようにが終わる頃から苦行からの脱皮。のびやかにそして時に走る。イメージフルな舞台だった。いつもと違うセンサーを刺激された気がした。
199年の夏休みさんからのmixiメッセージより


「赤い魔物」

東生田会館は、梅雨が見せる柔らかい緑に囲まれた場所にひっそりと
大げさではない様子で建っていた。

舞踏関係ではよくあるつっけんどんな雰囲気、
排他的な感じが私は結構好きだ。

中に入ると、舞台中央にメトロノームがカチカチと
可愛らしく客入れ芝居をしている。

時間を知らせる時計はもう始まっていた。

時間になると真っ暗な中、
うっすらと人影があり
マネキンのような足が奇妙な立ち方で立っていた。

舞台後方に自転車が一台置いてあるだけの
シンプルな演出。

赤い照明が足元だけに当たり、
ここから時間で言うと30分くらいだろうか。
筋肉の動きだけがクローズアップされた状態で
ゆっくりとその動きを見せる。
これは相当な勇気がいると思うのだが。

一旦、下がってこちらを振り向いた時、
壊れた赤い傘とピエロの前掛けと
マントのような奇妙な衣装に包まれた人になり
子供なのか大人なのか醜悪なのか淫美なのか
考えさせられる顔つきがあった。

段々と女郎蜘蛛のような動きに変化していく。
いつぞや観たオディロン.ルドンの蜘蛛の絵を
思い出す。

さっきまでの明快な音楽から一転、
ピアノの複雑な雨音のような音と彼女の息遣いだけが部屋を満たす。

そして無音の中、様々な形態へと姿を変え
舞踏家としてのこの部屋の女主人となり、
あらゆる動きで観客を魅了していく。

とにかく彼女の特筆すべき点は女性とは
思えぬ体力と筋肉のつき方。

普段はほっそりとした美しい女性だけど
怪物のように太ももを太らせる。
これが全て筋肉によって行われている。

音楽の使い方も素晴らしい。

決して飽きることなくこちらも集中した。

赤いロープを床から手繰って
天井へと手を伸ばす瞬間に、
当たった光に照らされた彼女の顔の美しさに息を飲む。
これさえ見られれば、本当に満足と言えるほど美しい。


動きについてあれこれ書いても
見ないと想像つかないだろうから
略するけれど、ラストに近づいて
突然後方に置いてあった自転車に倒れ
リズムよくそれを担いで、舞台へと持って行く。

これには驚いた。

そしてそれに跨ってゆっくり漕ぎ始める。
それから全速力で漕いで、
暗くなって主人がいなくなってもなお自転車のペダルは動き続ける。
時間が早く経過してそして戻ってくるように
段々と動きが遅くなり止まった瞬間に、ダウンライト。
緩やかに再び地明かりがついて自転車のクローズアップ。

この発想は素晴らしい。

最後のアンコールで
ヴィクトルエリセのエルスールの中の
アコーディオンの曲が使われていて、そのセンスにも脱帽。

花束を受け取って、それを身にまとって
ダンスをする姿で段々と時間が日常に戻る気がした。

最後は自転車に乗って颯爽と舞台を走って
そしていなくなった。


今までも壊れたランドセルとか、
赤い着ものとか普段使われてる小物は、
郷愁を誘いそして汚される。
今度は私の中の赤い傘に自転車が壊された。
いつか私の赤いアコーディオンも壊されてみたい。

高橋理通子の舞踏の模索はこれからも続く。
今度は私の何を壊してくれるのか楽しみである。
これからも見続けたい。

ちなみに、私の初舞台の時
30分の客入れの時に、舞台袖から中央にある天球に、
30分かけてお客にわからないようにゆっくりと進んで中央に立って、
天球の穴を開けて星座を天井に映す、
というのをやったことがある。(コメットイケヤ)

あの時の楽しさは未だに忘れられないです。

きっと、彼女の仮面の中は
苦行なんかではなく、楽しさでいっぱいだっただろうな、
と無責任に感想を述べてみました。


一番の感想は、構成にも動きにも無駄がないように感じたし、
何よりどこを切り取っても「絵」になるので写真家さんにしたら、
こんなに楽しい被写体はいないのではないだろうか、
と思えるほど美しい魔物でした。



星野 光さんmixiメッセージより

産道は始めの脚しか見えない時間。
少女期1は赤い傘の時間。傘は少女を守ってくれるもの。
少女期2は傘を捨ててからの時間。守ってくれるものから脱皮した少女の時代。
そして最後の自転車は、自転車に乗ることを処女喪失と受け止めました。それは即ち少女としての死。

少女の性の目覚めはどの段階からだったのだろう。少女期2は間違いなく性の覚醒。では少女期1? それとも産道ですでに?
人間は生まれた時から不完全に死んでいて、一生かかって完全に死ぬ、というのは「さらば箱舟」の中のセリフでしたでしょうか。
産道ですでに性に目覚めていたのであれば、(エロス=タナトスであるゆえ、)まさに舞台全編を通して完全な死に向かっていく様の表現だったのですね。

産道は生を受ける前段階であるゆえ身体は部品でしかなく、死によってまた身体は単なる部品に還る。
それでは生ある人間にとって身体とは何なのか。
高橋さんの舞踏は、この命題に対する答えをずっと探求しているもののように感じました。

踊りの中で、異形のように、人形のように、見える身体。身体とは結局パーツでしかないのか。踊りによって身体に魂がこめられ、エロティシズムが溢れるほど、それは死のイメージにつながり、一層異形や人形のパーツとしての身体に陥ってしまう。

身体に加えて、強い力を放っていたものが二つあります。
一つは眼です。なぜ眼にそこまでの表現力があるのか。眼の怖さ。バタイユの眼球譚。合田佐和子の目玉のハーレム。神聖であるゆえ不可侵であるべき眼球。レーシックに対する人々の拒否的な反応。
そしてもう一つは汗。汗にあのような魅力があるとは。産道から抜け出て、初めて高橋さんの顔が露わになった時のその顔に流れる汗。少女期2で背中を露出した時、その背中をぬめるように光らせていた汗。高橋さんのせいで汗フェチになってしまったかもしれません。(笑)

ブリジット・フォンテーヌの音楽、その狂気を孕んだ音楽も、舞台にとてもマッチしていました。

バタイユの「イギリス人」に「黒いエロス」という言葉がありましたが、この意味での黒い芸術、黒い音楽、を私はこよなく愛します。そして黒い舞踏。
今回の舞踏のテーマ色は赤でしたね。黒い赤。
凛吾@靉靆2011年06月19日 14:25 より

いろいろなイメージが頭をよぎりました。


・夏目漱石
この世のすべては喜劇
生か死かそれだけが悲劇

・天井桟敷の人々
悲しいラストシーンに謝肉祭の浮かれた音楽

・一青窈
「百年続きますように」

・哀愁の男の背中というのはよくあるが、女の背中にあれほど哀愁を感じたことはない

・ラストの自転車全力疾走、あれほどの名シーンはどんな有名な演出家にも決して描けない

・赤い糸

・黒澤明の酔いどれ天使の中で笠置シヅ子が唄う
「わたしは女豹だ」

・人の人生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし
(水戸光圀)

・欲を言えばメトロノームがもっと活躍してほしかった気もしますが。

一週間経った今も印象は色褪せていません。素晴らしかったと思います。

断片的ですみません。
お疲れ様でした。
初日
https://picasaweb.google.com/shinya.chosokabe/20110610
楽日
https://picasaweb.google.com/shinya.chosokabe/20110612

とりあえず志ん弥分のみです。
天空揺籃スタッフの方には連絡済みですが、
齊藤哲也分、こちらにも載せておきます。
楽日撮影です。
http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000026424544&owner_id=319884

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