ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

月夜見 [ツクヨミ]コミュの月待ちの風習について 〜日待・月待・庚申待信仰

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
十五夜の満月を過ぎると月の出が夜遅くなっていきます。
もういいのかなとためらい(ためらう=いざよう)ながら出てくる十六夜(いざよい)、立って待っていると出てくる立待月(たちまちづき)、座って待っている(居待ち)と出てくる居待月(いまちづき)、夜遅くなり寝て待っていないと出てこない寝待月(ねまちづき)あるいは臥待月(ふしまちづき)、夜更けに昇る更待月(ふけまちづき)、
とこんな風に月が出るのを待っている文化がありました。

今回は、この十五夜のお月見行事より前からあったといわれる、月の出を待つ「月待ち」の行事についてです。


◆月待(つきまち)とは

月待ちとは、その地域の人々(女性のみが多い)が集まり、供物を備えて月の出るのを待ち、月を拝んで飲食を共にするという行事でした。
月待ちの「待ち」は現在では月の出るのを待つ意味に解釈されていますが、もともとは月を「祀る」と言う意味だったと言われています。
また月待ちと似た行事として、ある特定の日に近隣に住む人たちが集まって飲食しながら日の出を待って夜明かしする「日待ち」という行事もありました。
日待、月待、庚申待の三つで一組とされる宵越し行事が江戸時代までは盛んでした。

何月に行われるかは地域地域によって様々で、各地に「月待ち塔」と呼ばれる石塔が残っています。
待つ月の月齢も様々で、三日月、十三夜、十六夜、十七夜、十九夜、二十二夜、二十三夜、二十六夜などの月を待ちました。
静岡県西部地方のように三日月を祀る所もあります。
宮沢賢治の童話にもある二十六夜は俗に「六夜待ち」といって、江戸時代には盛んで海を望む高台に上り徹夜したようです。
二十六夜月は三日月を逆にした形で、なかでも七月二十六日の二十六夜待が人気でした。

全国的にもっとも一般的だったのが「二十三夜の月」でした。
この日は阿弥陀如来の智恵を表す勢至菩薩の縁日で、智恵の光明は普く一切の衆生を照らし救済すると信じられ、信仰を集めていました。
子の刻(深夜12時)頃に顔を出すため「真夜中の月」とも呼ばれ、真夜中の月に願いをかけると叶うといわれて盛んでした。
毎月行われることは少なく、正月と十一月だけとか、正月、五月、九月の三回だけに行うといった地方が多かったようです。

月待は組とか小字(こあざ)を単位とすることが多く、「年齢」によるもの、「性別」によるもの、あるいは「特定の職業の信仰者」によるものなど様々です。
二十三夜のことを「三夜待ち」、「三夜様」、「産夜(さんや)」とも呼び、月齢周期と女性の月経周期を関連づけられたため、子宝や子育ての平安を願う女性の集まりであることが多い。
また、日を一日ずらして男子の二十三夜に対し、女子だけ二十二夜に集まり安産祈願を行う所もある。
長野県では七月二十二日を「ニヤマチ」といい、七人ずつそろってするものだといいます。
とにかく月待には安産祈願、病気平癒祈願など人にかかわるものが多く、月の満ち欠けが生命力に深い関係があったと信じられていました。


◆熊野に伝わる二十三夜待ち

熊野の周辺では、旧暦11月23日に昇る月が三体に見えるという「三体月」という伝承があります。
現在でも毎年旧暦の11月23日には、中辺路町と本宮町で月待行事行われています。
熊野権現が切部や神倉に降臨したのは、ともに旧暦3月23日。
狩猟民の信仰が始まりといわれる熊野権現も、「二十三夜待ち」に何か関係があるのかも知れません...

▽熊野に伝わる伝説の「三体月」
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=11525988&comm_id=1110372


コメント(5)

> 蒼鷺さん

ありがとうございます!
今回このタイミングで、トピのタイトルもよりわかりやすいように変更してみました。

江戸時代に盛況を極めた「日待・月待・庚申待」の信仰。
私もこのような塔をあちこちで見るのですがよくわかりません。
明治時代に俗習として徹底的に切り捨てられてしまったのでしょうか。
蒼鷺さんのように、興味を持っておられる方から少しずつでも情報をいただけたらうれしいです...


参考となりそうなサイト「日月星の行事」より、以下抜粋です
http://www.aa.alpha-net.ne.jp/starlore/bunka/kgyouji.html

月待に関する史料は少なく、その実態についてはよくわかっていません。
中世の月待に関する重要な資料としては、15世紀の中ごろに出現する「月待板碑」があります。
これらの板碑からは、当時すでに月天子すなわち勢至菩薩が月待の本地仏として信仰されていた状況を窺うことができます。
勢至菩薩は二十三夜待の主尊とされますが、中世の月待板碑には「二十三夜待」の文字は表れていません。
近世に入ると、月待信仰は各地で隆盛期を迎えます。
月待板碑に代って、さまざまな形態の月待供養塔が造立されるようになり、月待自体も目的に応じて講が組織され、多様化が進展しました。
地域によっては、ある特定の信仰日に集中して行事が営まれるようになりました。
このうち、十九夜待と二十二夜待では女人講による如意輪観音を主尊とした安産祈願の行事が主流をなし、二十三夜待の信仰とは一線を画した展開がみられます。
二十六夜待の信仰も、近世になって顕在化してきたものとみられ、江戸では都市文化の一端に組み入れられた近世後半に大流行をみせた時代がありました。
月待というのは、一般にある特定の月の出を待ってこれを拝する行事とされています。
月齢によって、十五夜から二十六夜までさまざまな月待が知られていますが、もっとも多く行われたのが二十三夜待です。
ほぼ全国的にみられるもので、月待といえば二十三夜待をさすといってもよいほどです。
多くは地域ごとに「講」が組織され、神道や仏教などの影響を受けながら継承されてきました。
月待講と称される行事は、現在も各地で細々と行われていますが、その実態は産泰講や庚申講、念仏講などとの習合が顕著で、内容も地域の社交的な寄り合いに終始しています。
したがって、本来の月の出を待つという形態はほとんどみられなくなりました。
ちなみに明日が二十三夜待ちの下弦です!

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

月夜見 [ツクヨミ] 更新情報

月夜見 [ツクヨミ]のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。