ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

江利チエミコミュのEri Chiemi. Gomen-nasai. 江利チエミ米本国レコーディングレコードの存在をキングレコード公に初めて認める

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
<江利チエミ>幻のレコード 没後30年、米で発見
   (毎日新聞 - 08月08日 03:25) http://mixi.at/ad2QUBk

◆江利チエミ 昭和28年アメリカ本国での発売「ゴメンナサイ」
昭和27年1月23日...いち・に--・の---・さん!っていうゴロのいい日にテネシーワルツ/家へおいでよ が発売されました。
それから続々とヒットを飛ばします。
そして翌年の昭和28年3月、招待をうけ江利チエミは初渡米を果たします。
3/26 ロスアンゼルス/日本劇場の4日間公演を皮切りに、4/1にはハリウッド「パレディアム」での白人対象のステージでの公演も勤めます。木琴の平岡養一さん以外には入会が認められていなかったミュージシャン・ユニオンにも入会を許可され7000人の聴衆を前に見事ステージを果たします。伴奏も超一流の「ハリー・ジェームス楽団」で、歌った楽曲は「サイドバイサイド」「カモンナマイハウス」「上海」...全て本場の英語の曲を選曲しています!!(カッコイイ)

そしてなにより1番の功績は...
当時アメリカでも流行していた、進駐軍のGIさんと日本人娘とのラブ・ソング「ゴメンナサイ」と「プリティアイドベイビー」をキャピタルレコードで録音...ラジオのヒットチャートに入るという偉業をなしとげたことです。
この渡米からの帰国語のインタビューが、昭和28年8月のキング誌に掲載されています。
そこから興味深い部分を抜粋します。

レコーディングの事...
>練習は非常に厳格で五・六十回も練習しましたでしょうか...本当にくたくたになるまで只一生懸命歌いぬいたという気持ちでした。吹き込みはテープレコーディングでした。

このとき江利チエミは16歳になったばかり。
彼女の「ともかく一生懸命」は生涯変わることのないスタンスでした。


さてこの「ゴメンナサイ」...リチャード・パワーズ盤が日本では発売されていましたが、チエミ盤は晩年30周年の記念の「NICE TO MEET YOU」に収録されるまでキングレコードから江利チエミ盤は発売されませんでした。
猫なで声でニッポン娘に媚を売る白人GIの曲...独立を果たした日本での発売には「躊躇」があったのかと推察されます。B面の「プリティ・アイド・ベイビー」のみ発売されました。

しかし、このチエミのゴメンナサイ...は、同い年のライバルに大きな影響を与えました。
美空ひばりが「ソバソング」として進駐軍キャンプ内で流行っていた歌を「チャルメラそば屋」と改題してリリースします。
 ♪みなさん オソバはいかが?? お馴染みチャルメラ娘...という曲調はC&Wのものです。
余談ですが、チエミデビューの頃まで(伴奏の影響もあるのですが)ひばりのリズムの取り方は「表打ち」です。ところがジャズブーム・はじめてのライバル江利チエミの登場で俄然リズムの取り方を勉強したのだと...裏打ち の ジャズのり が出来るように進歩します。
※ゆえに流行歌に ウラウチ というリズムの取り方をもってきた日本人のパイオニアも江利チエミといえると思うのです。 笠置さんもジャズを歌いました。池真理子さん、暁テル子さん...この方々もオモテウチに聴こえます。(もちろん本格ジャズのナンシー梅木・笈田敏夫さんはいましたが、ニッポン語ちゃんぽんを前面に押し出して歌ったりはしなかった...ですしレコード的なヒットは果たしていません。)

また、この28年デビューの雪村いづみさんもGIの軍人さんとのデュエット「ママさん」をリリースしていますが、この楽曲も彼女のディスコグラフィーには掲載されていません。

ヤンキーゴーホーム...微妙な時代背景が見え隠れします。

さて、話はチエミ最初の渡米にもどります。
彼女は大ファンだったケイ・スター(チエミのカモンナマイハウスの手本はローズマリー・クルーニーではなくケイ盤です。)、エラ・フィッツジェラルド...数々のスターと対面しています。
キング誌にも 照れ隠し か、はっきりと記載はありませんが、おそらく通訳ナシで会話をされたとおぼしき記述があるのです。
トテモ親切で素敵な人だったと感想を語っています。同じパレディアムのステージにたったフランキー・レインの会場とのやり取りや、会話...克明にレポートをしています。
16歳の少女...恐るべし です。
ケイ・スターと随行した父君の通訳をしている場面もスナップで掲載されています。

そして、西海岸でのスケジュールをこなした後、チエミさんはハワイに1ケ月滞在します...
インターナショナル・シアターなどに出演します。また、ホノルル国際劇場にも出演。松竹オーケストラの伴奏でショーも大好評...先に25年渡布した美空ひばり公演よりも興行成績はよかったとか...
その後チエミさんは、翌29年「ハワイ珍道中」ロケで再渡布。昭和36年、第9回桜まつりの「EAST SHOW」に出演。37年には「咲子さんちょっと」のテレビロケもありました。

そのハワイでは「デルタ・リズムボーイズ」との出会いが待っていました。
なかでもテナーのカール・ジョーンズ氏が彼女を妹のように可愛がり、数々のレッスンを施してくれたとか...生涯「センセー」「Yes,デシチャン」と呼び合う間柄となります。
帰国後の凱旋コンサートはデルタも共演という企画になっていました。
大阪では「オープンカー」でのパレードも行なわれた...ということです。
※この出会いには、日本ではまだ無名に近いデルタを日本で売る...といった興行的な意味合いもあったようです。

この帰朝後...チエミさんはぐんとスキルアップをしています。

この時羽田に迎えたのは、ペギー葉山・松島トモ子 そして想い出のワルツを吹き込んだ、今度はチエミにとってのライバル...雪村いづみが待ち受けていました。
チエミは長兄で付き人的存在だったトオルさんからの電話をハワイでうけます!
「チーちゃん 思い出のワルツをビクターから出す新人が居る...ってよ!」と。
「雪村いづみってどんな娘?」と、内心は穏やかではなかったはず。

裕福な家庭に育ったものの戦後父の自殺(事件に巻き込まれた...米人による他殺説もある)、母の事業の失敗・病気で生活が困窮。名門・駒場高校に合格するも定期券も買えない...将校さんの家のハウスメイドの面接にも「こんなヤセッポチの少女は使えない」と断られ...失意の中「私には1曲英語の歌が歌える」と思いつき、母の友人が支配人をしていたダンスホールを振り出しに、チエミメジャーデビュー後のキャンプ・日劇・・・と短期間にキャリアを重ね、ビクターに入社...といった経歴を持つのが雪村いづみ。
母と弟(のちのロカビリー歌手で転じてボクサー)と妹(のちに歌手)を抱えて一生懸命だった...
羽田出迎えの時にワンピースからシミーズがはみ出ていた...シミチョロ事件がチエミの敵意を消失させたといったことがエピソードとして語られていますが、もっともっと根底のこういった「家族を支えている」部分、そしてなにより「同じジャンルの音楽を愛していた」ことが、生涯の親友として二人を結びつけたのだと思います。
チエミさん・ひばりさん...そしていづみさん。この3人が同じ昭和12年生まれというのは、単なる偶然だったのか...それとも神様のなせる業だったのか...
ひばり・チエミ・いづみの3人娘誕生...は、もうすぐそこまで迫っていました。

コメント(3)

こぼれ話...

デビュー当時、江利チエミは東京・吉本興業の所属でした。
それはミュージシャンの父、レコードデビュー直前に亡くなったミュージカル女優出身の母の所属会社だったからだと思われます。

>本来、チエミの興行の権利を握っていたのは吉本興業であった。若き日の永島達司はチエミの興行を打った会場で「山口組の三代目と吉本の林さんが怖そうな人と来てるから逃げてください」と忠告された。挨拶に行くと二人は「ウチのところでもやってくれ」と切り出してきた。後に『夢のワルツ』(講談社)の中で永島は、大物二人は文句を言おうと思ってきたが会場の客層を見て(キョードー東京の連中を)使った方が便利だと考えたんだろう、と笑っている。

>メジャーデビューの翌年、1953年(昭和28年)の春には、招かれてアメリカのキャピトル・レコードで「ゴメンナサイ / プリティ・アイド・ベイビー」を録音、ヒットチャートにランキングされるという日本人初の快挙を達成。ロサンゼルスなどでステージにも立ち絶賛を浴びる。帰路のハワイでも公演を成功させ、そこで合流したジャズ・ボーカル・グループ「デルタ・リズム・ボーイズ」と共に凱旋帰朝、ジョイント・コンサートを各地で開き、ジャズ・ボーカリスト・ナンバー1の地位を獲得する。

この渡米にはこの伝説の「呼び屋」...のちにビートルズ来日の仕掛け人となった永島達司さんが絡んでいた...そうです。
渡米の際はチエミさんが困らないように映画評論家であり映画会社の輸入を一手に仕切っていた淀川長治さんを同行させる... キャピタルレコードで吹き込み、ラジオのヒットチャートに入れる、テレビ番組...みな彼の手腕によるもののようですが、どうも今一歩資料がすくなく...
またこういったことがわかったら記事にいたしますので!
前年の1月にデビューしたばかりの新人歌手が、よくぞ「2ケ月」も日本を空ける勇気があった…しかし、ここにもちゃんと永島さんの手腕が発揮されていたようです。
アメリカからは絶えず、ケイ・スターやエラ・フィッツジェラルドなどの第一線歌手たちと会ったこと、人気バンド「ハリー・ジェームス・オーケストラ」で歌ったことなどを、絶えず日本へニュースを送って寄越し、それが新聞・雑誌をにぎわせるように努めていたのです。
ラジオでも「みなさんこんばんは江利チエミです!」とチエミさんの肉声と米本土で吹き込んだでヒットを果たした「ゴメンナサイ」を流したり… きちんと戦略を組んでいたのです。

なにより、帰途はハワイで日本では無名だった「デルタ・リズム・ボーイズ」を江利チエミに引き合わせ、帰国後は「ジョイント・コンサート」や、大阪御堂筋での「オープンカー・パレード」まで企画… 
また、デルタは「ビクター専属」で、凱旋帰国の際、羽田空港の出迎えには「同じビクターの新人歌手/雪村いづみ(江利チエミが録音するはずになっていた曲[Till I waltz again with you]を一足先にデビュー曲としてデビュー)をデルタへの花束贈呈の名目で出迎えに向かわせて「江利チエミに初めて引き合わせる」などなど… 当時、江利チエミさんは「吉本興業」の専属です。
このころの吉本にこのような戦略がとれ、外国で勝負するといったプロモート力があったとは思えません。
様々なところに「永島さんの影」が見え隠れするように思います。

桑港講和条約発行、独立「ニッポン」、はじめてジャズソングを歌謡曲と肩を並べてヒットさせた少女歌手/江利チエミ...
伝説のプロモーターが「本場アメリカに勝負にだした」のが昭和27年にデビューした江利チエミだったのです。
これは日本の芸能史において注目されるべき事例と思うのですが...

※ケイ・スターはケイの自発的な思いもあって、江利チエミと対面している...云々は藤原氏著の「テネシーワルツが聴こえる」にもありますが、全てがそうではなかった...というエピソードを東京キューバン・ボーイズのメンバーでらした方から伺ったことがあります。
昭和30年代に来日したエラ・フィッツジェラルド...当時はまだ黒人差別が激しく、彼女のようなVIPでも白人の滞在する「帝国ホテル」に宿泊はできず、銀座の東急か西洋ホテルに泊まっていたのだとか... 
そこをチエミさんが尋ねていったところ、エラの方はまったく覚えていない・・・
無理もありません。一緒にレコーディングしたわけでも、ジョイント・ステージをこなしたわけでもなく、宣材用の写真撮影が本来の目的だった(?)ほんのわずかな時間の「仕組まれた」謁見...であったと思います。
(エラ&江利の本当の親交は、この「エラ来日」の時から...だったそうです。のちのエラの来日の際、NHKのテレビ番組などで共演しています。)

こういった「売り方」も、永島さんのプロモート力の賜物だったのではないでしょうか?!
「ショウビジネス!...There's no Business Like Show Business」という感じがします。

※永島達司さん(1926年4/26生まれ)は1999年5/2に、73歳でお亡くなりになられてしまった。
「ビートルズを呼んだ男」としての本は出版されましたが、もっともっと多くの『証言』を残してほしかった・・・ 残念でなりません。
しかし、影の存在に徹した... これも「男の美学」であります。

永島さんはこんな言葉を残されています。
>「結局、この商売で一発当てることはできるけれど、長く続けるのは大変なんです。僕の場合、キヨードー東京が長くやっていられたのは臆病だったからですよ。度胸がなかったから、まじめにやってきたんですよ。あとは、これは僕の功績じゃなくて部下の内野たちが偉かったんじゃないかな。金のこともそうだし、企画でもね。
ベンチャーズやボール・モーリア、もう亡くなったけれどニニ・ロッソなんていう人たちは本国じゃそれほどの人気はないけれど、日本じゃコンサートを開くと満員になるんです。
地道な努力をしてそういうタレントを育てたのは彼らの功績です。
ただ、それだけじゃ会社の名前が知られるようにならないから、時々大物を連れてきて話題を作る。僕はそれをできるだけまじめにやろうとしただけです。呼び屋の仕事とはお客にとてつもない夢を見せる仕事なんです。それにはまず自分が夢を持っていなくてはならない。一円の価値しかないものを百円で売る。一ドルの値打ちしかないものを百ドル出しても惜しくはないと思わせる。それが呼び屋でありプロモーターで、いわばいかさま師とスレスレの存在とも言っていい。
僕がプロモーターと呼んでもいいと思うのは今ではたったひとりしかいない。アメリカ人のジェリー・ペレンチオだけです」

※ジェリー・ペレンチオとは??
>1971年にモハメッド・アリ対ジョー・フレイジャーの試合を、ニューヨークのマディソン・スクェア・ガーデンでプロモートし、この一戦をケーブルテレビに売り、全米の映画館やコンサート会場で入場料をとって見せるクローズド・サーキット方式を考えつき、700万$の利益を手にしたといわれている強者のプロモーター...です。

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

江利チエミ 更新情報

江利チエミのメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング