「音楽がその場所の名前」という言葉がダンスミュージックを知るようになってからずっと頭にあります。箱の名前、パーティーの名前、DJの名前、という記号に先行する形で(もちろんそれらの名前も非常に重要で、なくてはならないものなのですが)、状況や渦中としてのビートの圧倒がダンスミュージックをダンスミュージックたらしめているように思えるのです。もちろんその状況と渦中はハコがなければ成り立たないものだし、その場を切り盛りするスタッフやオーガナイザーが実務的に帳尻を合わせていかなければならないし、個性的なDJの選曲や時にスリリングなミックスがそのビートの圧倒を継続させているわけですが、そういったテクニカルな部分だけではなく、ある夜にある店の入り口の重たい扉を開けて一番始めに聞くループの音圧の鮮烈さのなかに脚を踏み入れるときの、「ああまたこの場所に来てしまった」という言わば白紙の懐かしい感慨の、ほの暗い蒸気の微かな色味を皮膚や鼓膜で感じる高揚感、記号を持たない純粋な移行の感覚は自分にとっては時を経ても変わらないダンスミュージックの醍醐味としてあります。「この場所」とは音の鳴りのなか以外のどこでもなく、それは現実がそうであるように個人的な体験が集まる場所であり、地名から切り離され、時間帯・タイムテーブルとは辛うじて接点を持ったnowhereです。手垢のついた言葉遊びですが、状況と渦中、今ここ、ということに意識的になるのだったらnow hereと言い換えても良いかもしれません。パーティー名と被せるのだったら"different now here"。文化というよりも態度。様々な違った視点からのnowhereにおけるnow hereで唯一共有されうる音や音楽を指して、「ハウスミュージックとは状況である」という意味の言葉をどこかで読んだことがあります。見事な要約だと思いました。