mixiで趣味の話をしよう

mixiコミュニティには270万を超える趣味コミュニティがあるよ
ログインもしくは登録をして同じ趣味の人と出会おう♪

開催終了(新生)活動案内;2013/03/31

詳細

2013年03月28日 02:05 更新

新生135回復興住宅訪問活動

3月だから忘れない、3月だから寄り添う 
「3.11」から2年「息の長い支援」は神戸に聞こう!

日時:2013年3月31日(日)午後2時〜5時

集合場所、時間:そごう神戸店前サンファーレ広場に、午後1時半にお越し下さい。
(2階山側入口前、ペデストリアンデッキの時計があるところです。阪神三宮すぐ、歩道橋でJR三ノ宮等と接続)
集合後、電車または徒歩で移動、復興住宅(神戸市営筒井住宅:中央区)をお訪ねします。

ご参加の際は、メール、メッセージ(Facebook・Mixi及びTwitter - welove_kobeから)、にて、
予めご連絡下されば幸いです。  
 
神戸・週末ボランティアは、2013年、
サイト&コミュ管理人が主宰する新たな活動主体「神戸・週末ボランティア 新生」のもと、
不定期ながらも毎回ニーズや課題に即したテーマを設定する新たな活動形態で、
阪神淡路大震災の被災者に寄り添い、共に歩んでいきたいと思います。


3月は東日本大震災から2年になります。

東日本大震災を機に盛んに言われるようになった「息の長い支援」ですが,阪神淡路大震災の被災地・被災者が,18年以上を経過した中で,何より切実に経験していることにほかなりません。でもその前に想起すべきことがあります。

震災後10年,13年を経たあたりから忘却の彼方におかれることが多くなった,阪神淡路大震災の被災地・被災者ですが,こうした忘却の最初の発端は,震災発生の1995年の3月20日に起こった地下鉄サリン事件でした。

それまで昼夜を問わず全国レベルで報道されていた震災が,一気に関西ローカルになり,それもやがて減っていきました。この時期の報道の落差は,関西と関東とで別の国かと思うほどで,それが被災地とそれ以外とでの「温度差」を生み出していきました。

3月に忘れず寄り添うこと自体に,大きな意義があると思います。

大切なことをもうひとつ。「心のケア」についてです。

阪神淡路大震災から,盛んにその必要性が認識されるようになった「心のケア」ですが,爾来十数年,その後に起こった災害や事件への対応を経る中で,それに求められる方法も大きく変化してきました。

震災後間もない頃は,ただ寄り添いさえすればそれだけで「心のケア」になるとか,悲惨な体験をいち早く吐き出させるべきだといったような,稚拙なものや粗暴なものが横行していました。しかしその後,大きな変化を経て今日に至っています。東日本大震災後は,その変化はもはや決定的と言わねばならないでしょう。

もちろん寄り添うことがその出発点であることは言うまでもありません。そこからいかになすべきか,改めて現場から,ともに考えてみましょう。

3月2日・9日・10日・23日・24日に続いて,23日・24日を追加しました。

新聞でも紹介されています! 産経新聞 神戸版 2010.11.28
若者にも被災者支援の輪 神戸市民グループ「週末ボランティア」

コメント(2)

  • [1] mixiユーザー

    2013年04月02日 19:52

    ・80代男性,90代女性と同居して30年以上。早朝4時半に起きて2人で散歩するのが日課だったが,震災の日は行く気がせず家にいた。今まで声を荒げたり汚い言葉をかけたことがなかった男性が,地震が発生したとき「こら,オカン!立つな!危ないぞ!」と言ったおかげで,2人とも負傷せずにすんだ。近くの学校に避難したが,人の足を踏んではいけないと,室内には行かず,廊下で寝た。中央区内の仮設住宅を経て,中央区内の復興住宅へ入居したが,借り上げ復興住宅だったため神戸市から移転を求められ,この復興住宅に移ってきて,この5月で2年になる。ここはラジオの電波が入りにくい。男性は目が不自由だが,色々なことに興味を持ち,音声認識を利用してパソコンも自由に操る。昔の人間だからインスタント食品は嫌いで,女性がつくる理が美味しい。男性は少年時代に失明したが,それまでも色々なものを見て覚えている分,生まれつき見えない人よりは恵まれていると思う。外出時は女性が杖代わりだが,博識で器用な男性が色々なことを教えて食えるなど,助け合って,支え合って暮らしている。<お部屋に上げていただいて1時間余りにわたってお話し伺い>

    ・40〜50代男性。長田区で半壊。ライフラインは全てシャットアウト。山の上の方だったので,最後の最後まで復旧しなかった。震災で火の手が上がり燃え上がるさまを眼下に見た。中央区で被災した両親のもとへ駆けつけたが,向かう途中「もうあかんわ」と思ったが,近くまで来ると倒壊せずに残っている家屋もあって,望みをつなぐことが出来た。1週間後には仕事に。もっと休んで親の世話をしたかった。また,当時1歳の子どもを抱えての避難生活であった。同じ被災地であっても,地域性や人間性の違いを痛感した。電気や水道が復旧すると(まだニーズがあっても)ボランティアが来なくなった。もっと上手く回せば良かった。

    ・30〜40代男性。長田区で全壊。住んでいた家は基礎と上屋がずれて,家としての用をなさない状態になった。近くの学校の避難所に行こうとしたが,近所の人から,病気が流行っていて酷いからやめた方がいいと言われ,そのまま家にとどまった。食糧などの支援物資は近所の人がもってきてくれた。身内の知人がもってきてくれたガスボンベなどを使って,ライフラインが全く使えない家で調理していた。北区の仮設住宅から大阪まで仕事に行っていた。この復興住宅には竣工当初から入居したので15年目に。隣接地から異臭が発生したとき,ここまで臭わなかったので大丈夫だった。病院から帰ってきて間もないところでお話し伺いに。

    ・70代?女性。中央区で被災。建物の被害もほとんどなく,自身も負傷しなかったが,ものが落ちてきたり家具が倒れてきたりして怖かった。水屋(食器棚)はメチャクチャに。近くの学校で避難生活を送った。今は友人がいない。長田区で全焼した家で亡くなるなど,被災時に犠牲になったほか,多くの友人が市営住宅である復興住宅で亡くなった。東日本大震災の被災者も大変だと思う。近くで火災が発生したとき,消防士が連れてくれたので,無事避難できた。週2回,ヘルパーに掃除などの家事補助をしてもらっている。

    ・40代男性。中央区で全壊。近くの学校に避難したが,子どもを連れての避難生活は大変だった。灘区の仮設住宅へ。復興住宅になかなか当たらず,やっとのことでこの復興住宅へ。上の子ども2人は成人しているが,末っ子はまだ小学生で,震災を経験していない。人と防災未来センターに連れて行ったら怖がっていた。学校では避難訓練はしょっちゅうしているようだが,防災教育はしっかりしていないのでは? 隣接地から異臭が発生したときは大丈夫だった。お話し伺いの終わり近くには奥さんも顔を出した。

    ・70代女性。中央区で全壊。近くの小学校に避難したが,震災の日は,近くの公園で,倒壊家屋の柱などを燃やして暖をとって一夜を明かした。北区の仮設住宅を経てこの復興住宅へ。自らも被災しながらも駆けつけてくれた息子夫婦は,今も休日ごとに来てくれている。少女時代,故郷で遭遇した大水が忘れられない。水量が少ないときなら5mもない川幅が100mにもなり,恐ろしく,まさに生き地獄だった。<お部屋に上げていただいて1時間余りにわたってお話し伺い>
  • [2] mixiユーザー

    2013年04月02日 19:52

    ・40代男性。中央区で被災。一時近くの学校に避難した。被災した家や近くの民間マンションを経てこの復興住宅へ入居して10年。被災後3回の引越をした。隣接地で異臭が発生したとき大丈夫だった。

    ・50〜60代男性。(「今,お困りのことは?」という質問に対して)「それは今のところ大丈夫でございます。」<インターホン越しに応答>

    ・50代女性。北区で全壊。親類宅などを転々とした後,この復興住宅に入居して10年。<来客中のため短時間で切り上げ>

    ・70〜80代男性。「今困っていることはない。(震災のことは)勘弁して。」<ドアを開けて応答>

    ・男性。(訪問の趣旨を説明したところ)「大丈夫です。」<インターホン越しに応答>

    ・70代?女性。「今,昼ご飯なんですけど…。」<インターホン越しに応答>

    ・女性。「今,ちょっと介護してます…。」<室内から応答>

    ・50代?女性。「結構です。」<インターホン越しに応答>

    ・男性。「結構です。」<インターホン越しに応答>(2件)

    ・少年。「今,親がいないので…。」
mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!
  • 2013年03月31日 (日) 午後2時〜[1時半ご集合
  • 兵庫県 神戸市中央区
  • 2013年03月31日 (日) 締切
  • イベントに参加する
  • 気になる!
参加者
1人