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開催終了「サイパンといわれた男」を歌おう会

詳細

2010年06月03日 22:48 更新

ともかく「サイパンといわれた男」を歌う

主賓は村松俊秀
歌い手はもちろんあなた


参加費は1500円
飲み物食べ物付き


少し長いが、五郎さんのブログを載せる


2009年03月02日 (月曜日)
小さなリヤカーが立ち向かう。
 2月6日は横須賀に行った。古くからの知り合いで、去年の夏に
亡くなった村松俊秀さんを偲ぶ集まりが、Younger Than Yesterday
というライブハウスであり、それに参加するために出かけていった
のだ。
 詳しい情報を確かめないまま、ぼくは自分のホーム・ページのラ
イブ・スケジュールの告知で、その日の集まりを「横須賀フォーク
ソング研究会」主催と書いてしまっていたが、実際の主催は「村松
俊秀さんを偲ぶ集い実行委員会」だった。横須賀フォークソング研
究会だけでなく、村松さんが関わっていた横須賀の市民運動の人た
ち、市民運動での音楽仲間、演劇関係の人たち、それにバイク好き
だった村松さんのライダー仲間たちなど、いろんな人たちが集まっ
て、実行委員会を作っていたのだ。間違った告知をしてしまって申
しわけありませんでした。

 そのことをぼくが知ったのは会場のYounger Than Yesterdayに
到着した時で、入口のガラス扉に貼られたその日の集いのちらしに、
「主催・村松俊秀さんを偲ぶ集い実行委員会」と書かれていた。そ
して受付では、表紙に大きく村松さんのカラー写真が使われ、そこ
に『帰ってきたフォークシンガー村松俊秀追悼ライブ あのやかま
しい歌をもう一度』と書かれた、全40ページのパンフレットが無
料で配られていて、それを読めば、村松さんのこと、彼の歩み、彼
の行動がとてもよくわかる。
 村松さんが書いた文章の数々、彼の歌の数々、写真、それに村松
さんが高校生の頃に書いた手書きの文章までもが、熱い思いが込め
られた編集で、丁寧に収められている。パンフレットの編集は、「非
核市民宣言運動・ヨコスカ」の人たちが行なっている。
 
 ぼくが自分よりも10歳ほど年下の(正確には9歳か)村松俊秀さん
と知り合ったのは、1970年代の半ばのことで、まだ高校生だった
はずの彼が横須賀で「Folk Union Country Kids」という集まりを作
って、「FUCKヨコスカ」という名前でコンサートを始め、そこに歌
いに行ったことによってだった。
 その頃ぼくは神戸の片桐ユズルさんや小林隆二郎さん、トラさん
たちと一緒に「かわら版キャラバン」として日本のあちこちを回っ
ていて、その時は神戸や東京からぼくらが横須賀に駆けつけ、横須
賀からは村松さんだけでなく確か紅龍さんなどいろんな人も参加し
て、みんながそれぞれの歌を歌ったのではないかと記憶する。そし
てコンサートの後、横須賀の誰かの家でみんなで雑魚寝したことも
よく憶えている。

 それをきっかけにして村松さんとぼくとの交流が始まったのだが、
しばらくすると彼は横須賀のフォーク・シーンにも市民運動の場に
も姿を見せなくなってしまったようだ。前述のパンフレットの中の
村松さんが2003年の秋に書いた文章によると、「アメリカがイラク
攻撃をはじめようとする今年2月、僕はギターをもって横須賀の町
で歌った。22年ぶりに」とあるので、80年代になるかならない頃
に、彼は横須賀の町で歌わなくなってしまったらしい(パンフレット
の冒頭の新倉さんという実行委員会のメンバーの一人と思える方の
「さよなら村松さん」という文章によると、「イラク戦争が始まる直
前の03年2月、村松さんは25年ぶりに月例デモに復帰した」と
なっている)。
 いずれにしても四半世紀近くの歳月を経て、村松さんはまたまた
熱心に平和運動や音楽活動を行うようになり、その理由について村
松さんはやはりパンフレットに収められた自らの文章の中で、「『定
例デモ』に復帰するということは、私にとって人間の命の事をもう
一度自分自身に問い直すという行為です。自分自身のこの町に対す
る思いや戦争や人権問題といったことを、『詩にする』『曲をつける』
『うたってみる』ことでもあります」と、書いている。

 復帰してからの村松さんは、横須賀の非核市民宣言運動、原子力
空母母港化反対運動、世界の平和を求める運動に熱心に参加し、バ
ンジョーを抱えて、首で支えるマイクを顔の前につけ、デモや駅前
や路上で歌い続けたし、横須賀の町でまたまたコンサートも開くよ
うになった。
 25年ぶりに村松さんが再開した自主コンサートの記念すべき一回
目、2004年4月のコンサートには、嬉しいことにゲストとしてぼ
くが呼んでもらえることになり、村松さん、横須賀の運動の中での
音楽仲間のよろずピースバンド、そしてぼくとの三組で、市民会館
かどこかの大きな会議室で(すみません。正確な場所は失念してしま
いました)、それぞれ自分たちの歌を思いきり歌い合った。しかも嬉
しいことに村松さんやよろずピースバンドとのセッションも実現し
たのだ(確か事前にどこかの楽器店のスタジオできちんとリハーサル
までした)。

 それをきっかけにまた村松さんとぼくの交流が始まり、いろいろ
と連絡し合ったり、彼の重要なレパートリー「FTN TODAY」の英
語の歌詞を作るのを手伝ったり、2006年10月に大阪で開かれた
ホン・ヨン・ウンさんの追悼コンサートに一緒に出て歌ったり、同
じ年の11月にはまたまた横須賀に呼んでもらい、Younger Than
Yesterdayで村松さんやよろずピースバンド、横須賀フォークソン
グ研究会の人たちと一緒にライブをやったりもした。

 2006年10月のホン・ヨン・ウンさん(彼は村松さんやぼくの古
くから親しいフォーク・シンガーで、村松さんはよくホンさんと一
緒に歌っていた)の追悼コンサートで村松さんと会った時、ぼくはす
でに彼から病気のことを聞かされていた。ホンさんととても親しく、
強い影響も受けていた村松さんは、ホンさんの追悼コンサートでぜ
ひ歌いたいと強く願い、ぼくがスタッフと連絡をとったりして、当
日彼は紅龍さんと一緒に「ホン・ヨン・ウンのバラード」を歌った
のだ。

 2007年の春あたりから、ぼくは村松さんと直接連絡を取り合う
ことがなくなってしまった。そして2008年の夏、北海道に歌いに
行っている時、横須賀で一緒にコンサートをやった方から、村松さ
んがお茶の水の病院に入院していることを知らされ、戻ってすぐ、7
月のはじめにお見舞いに駆けつけた。村松さんはほとんど喋れなく、
とてもきつそうだったが、しばらくの時間一緒にいて、2006年10
月のホン・ヨン・ウンさんの追悼コンサートのDVDを手渡すことも
できた。
 そして2008年7月25日、村松俊秀さんは50歳でこの世を去
ってしまった。その日はぼくの59歳の誕生日だった。

 2月6日の追悼ライブで、ぼくは憲法9条を育て、守ることを訴
える「理想と現実」、「イマジン」、そしてピート・シーガーの「丸々
赤ちゃん」の3曲を歌わせてもらった。
 村松さんとはいろんな話をしたり、メールや手紙のやりとりをし
たが、その中で自分の息子と政治的な問題をめぐって論争をしたと
彼が言っていたことがとても印象に残っていた。激しい親子の対立
があったのかもしれない。
 でもパンフレットを見ると、「お父さんはこの戦争に反対です。」
という村松さんの文章があって、それを読むと、二人の息子さんた
ちも運動に一緒に参加していることが報告されていた。父と二人の
息子の三人で「PEACE NOT WAR」、「DON’T ATTACK IRAQ
PEOPLE」と書かれた大きなプラカードを持って横須賀基地のゲー
ト前に立って抗議運動している写真も載っている。村松さんは息子
たちがそれぞれ高校二年生と中学二年生だった2004年のゴールデ
ン・ウィークに、四人の家族全員でヒロシマへの旅も行なっている。

 2月6日の集まりには、村松さんの奥さんも二人の息子さんも参
加していた。下の息子さんは、その顔はもちろんのこと、雰囲気や
たたずまいもあまりにも村松さんとそっくりなのでびっくりしてし
まった。でも何だか妙にぼくは気後れしてしまい、奥さんにも二人
の息子さんにも話しかけることができなかった。息子さんたちと村
松さんのことを喋る絶好の機会だったのに…。
 その夜、ぼくが三曲目に歌った「丸々赤ちゃん」は、村松さんの
こと、村松さんと息子さんたちとのことをいっぱい思いながら歌っ
た。歌っているうちに、感無量になってしまった。

 日本のフォーク・ソングの世界の中で、村松俊秀さんの名前はあ
まり知られていないし、日本の平和運動の中でも、彼の名前が大き
く出てくることはほとんどないのかもしれない。派手に反戦や平和
の歌を歌ったり、大がかりな運動を展開して、世界中にその名前が
知られる人もいるだろう。もちろんそうした動きの大切さもぼくに
はわかる。
 でも歌であれ、運動であれ、ぼくは村松俊秀さんのような、いち
ばん地道なところで、いちばん誠実に、いちばん正直に、いちばん
情熱的に、そしてもしかするといちばん不器用に動く人こそがいち
ばん大切で、そういう人なくして何も始まらないし、変わらないと
強く信じている。何かが動き、何かが変わり、何かが始まるのは、
村松俊秀さんのような人が存在するからこそなのだ。
 その彼がこんなにも早く、たった50年でいなくなってしまった
ことが、あまりにも悲しく、あまりにも残念でならない。

 村松俊秀さんの歌を聞いたことがない人も多いと思うので、最後
に彼の代表曲のひとつ「空母とリヤカー」の歌詞を紹介させていた
だく。彼の歌は録音や映像で多く残っているので、いつか聞きたい
と思う人が、何らかのかたちでその歌に実際に接することができる
ようになると思う。

空母とリヤカー
作詞・村松俊秀  原曲「世界中の子供達が」 2005・8・14

あの大きな空母や軍艦が この町から出撃し
飛び立つジェット機ミサイルが 攻撃を繰り返す
もうやめてくださいと 手を大きく広げて
この思い届けよう ふるさとの町から
小さなリヤカーが立ち向かう 空母や軍艦に
小さなリヤカーが立ち向かう 戦争を許すなと

海の向こうの戦場で 子供たちは傷ついて
母は小さな子を抱いて 石を持ち投げるだろう
ぼくらの歌よひびけ 傷ついた心に
ぼくらの思いよとどけ 生き延びておくれよと
小さなリヤカーに愛を乗せ 世界中に届けよう
小さなリヤカーに愛を乗せ 君の胸に届けよう

どこまでも続く道 リヤカー引き歩いていこう
基地の空 空母の海 僕たちのふるさとを
兵士たちの心に語ろう 引き金を引かないで
倒れたものに届け 私たちのこの思い
小さなリヤカーが立ち向かう 空母や軍艦に
小さなリヤカーが立ち向かう 戦争を許すなと

君の心に届けよう 愛や希望をのせて
君の心に届けたい 歌に乗せこの思い
基地も空母もない 平和な世の中を
子供たちに見せてあげよう この生き様の彼方に
小さなリヤカーが立ち向かう 空母や軍艦に
小さなリヤカーが立ち向かう 戦争を許すなと

世界中の子供たちが 一度に笑ったら
空も笑うだろう ラララ 海も笑うだろう
世界中の子供たちが 一度に歌ったら
空も歌うだろう ラララ 海も歌うだろう
ラララ 海も歌うだろう


(ぼくのホームページの2月9日の「徒然」の文章を転載しました)



そして今年、村松さんの歌ができた



■ 晴天続きの今年の春一番 真っ黒に焼けました 3 2010年05月15日(土)


 5月4日は午前6時前に起き、7時頃実家の隣にある姉の家で朝食をごちそうになり、9時過ぎにギターとギター・バンジョーと赤ワインの匂いがまだかなりする機材バッグとかなり売れ残っているCD、そして一週間分の着替えやいろんな本、パソコンなどが入ったキャリー・バッグ、すなわち今回の旅の荷物全部を持って服部緑地野外音楽堂へ向かう。10時頃に到着すると、スタッフがたくさんいるだけで、一緒に演奏するair plantsのメンバーはまだ到着していなかった。
 ほどなく江坂のホテルに泊まっていたair plantsのメンバーが現われ、10時半頃からのサウンド・チェックが終ってすぐ、開場時間の11時ちょうどにair plantsの演奏が始まる。
 去年の春一番でのぼくがそうで、開演時間の11時と同時にエンジェル・スカイ・オーケストラと一緒に演奏を始めたのだが、ぼくらが最初に出す音と同時に会場のゲートが開くので、厳密には演奏を始めた時は、お客さんは客席にまだ一人もいないということになる。今年のair plantsも、演奏と同時にゲートが開いてお客さんがなだれ込み、二曲目が始まる頃には客席はだいたい落ち着いた感じになる。晴れた午前の空気の中で聴く、チェロとバイオリンとギターのair plantsのインストゥルメンタル・ミュージックは爽やかできれいでほんとうに気持ちがいい。

 ぼくは客席前方の端の席に座って、air plantsの演奏に酔っていたが(楽屋ですでに焼酎ロックを飲んでしまっていたこともある)、すぐにもair plantsのラスト曲になってしまい、ぼくは舞台の袖に移動する。
 今回春一番のためにぼくが用意して来た曲は全部で5曲。そのうちの一曲は、リクオさんとair plantsのアレンジによる「生活の柄」で、この曲は予備曲というか、高田渡さんの曲をみんなでやるような流れになったらやろうということで準備しておいたものだ。
 今年の春一番のステージで、ぼくはギター・バンジョーを弾きながら、air plantsと一緒に「だびよんの鳥」、「一台のリヤカーが立ち向かう」、「お手並み拝見」、そしてair plantsの演奏だけで「イマジン」の4曲を歌うことにしていた。air plantsとのリハーサルは、ギタリストの嘉多山信さんの部屋で一回だけ、演奏曲を一回だけ軽く合わせ、その後は近所の居酒屋でみんなで重く飲みまくった。今回の春一番でぼくに与えられた持ち時間は、20分から25分だ。

 一曲目の「だびよんの鳥」は、大好きな青森のフォーク・シンガー、高坂一潮さんの代表曲。一潮さんとは一緒にツアーもして、いろんなところで一緒に歌って、青森に行った時はいつも一潮さんのところに泊めてもらい、おいしい食事を食べさせてもらっている。
 その一潮さんは2006年8月に東京方面に歌いに来ていた時に脳出血で倒れ、それからずっと入院したままで、病気と闘っている。一潮さんは今歌が歌えないので、ぼくが代わりにと言ってはあまりにもおこがましいが、一潮さんがまた歌えるようになるまで、また一緒にツアーができるようになるまで、一潮さんの歌を自分のライブで歌おうとぼくは決め、ほとんどのライブでぼくは一潮さんの「だびよんの鳥」を歌っている。
 一潮さんは4月27日に亡くなった同じ青森の沢田としきさんともとても仲が良く、今年の春一番では一潮さんの回復を願ってだけでなく、沢田さんへの思いも込めて、「だびよんの鳥」をair plantsの美しいチェロやバイオリン、ギターと一緒に歌った。
 一潮さんはこれまでに四枚のアルバムを自主制作で出しているが、そのうちの三枚、『だびよんの鳥』、『祭りの夜』、『口笛の道』のアルバム・ジャケットやCD盤は、沢田としきさんがとてもとても素敵な絵を描いたり、版画を彫っている。

 二曲目は、この四月の中頃に作ったばかりの「一台のリヤカーが立ち向かう」。この曲は横須賀の村松俊秀さんの闘いのことを歌いたくて歌にしたものだ。村松さんは小さなリヤカーにアンプとスピーカーを積んで、横須賀の町で平和の歌を歌い続けた素晴らしいフォーク・シンガーで、1970年代中頃、確か村松さんがまだ高校生だった頃にぼくを初めて横須賀に呼んでくれ、自主コンサートをやってくれた人でもある。もちろんその時も彼は横須賀の市民運動に積極的に参加していた。

 しかし村松さんは70年代の終わりに市民運動に参加することからも歌うことからも身を引いてしまい、ほとんどの人との接触を断ってしまっていたが、イラク戦争が始まる直前の2003年2月、25年ぶりに横須賀の市民運動の定例デモに参加し、またその歌声を聞かせてくれるようになった。そして村松さんは自主コンサートも再開し、2004年の春にはぼくをまた横須賀に呼んでくれた。
 市民運動に再び参加し、歌い始めたことについて、村松さんは2004年4月に市民運動の「たより」に次のような文章を寄せている。
「私は昨年米英軍のイラクに対する開戦に抗議し、楽器を持って『非核市民宣言運動ヨコスカ』のよびかける『定例デモ』に復帰した、横須賀市民村松俊秀です。『定例デモ』に復帰するということは、私にとって人間の命の事をもう一度自分自身に問い直すという行為です。自分自身のこの町に対する思いや戦争や人権問題といったことを、『詩にする』『曲をつける』『うたってみる』ことでもあります。しかしすべてのうたを定例デモや街頭宣伝の場で行うことはできません。この一年で20から30の唄をつくり、デモの前に公園で歌ったりしてきました。いろんなご意見をいただき、そのやり取りの中で新しい唄が生まれたりしました」
 そして村松さんは、人前でむりやり歌うだけでなく、ゆっくりと手頃な会場で歌を聴いてもらうのも必要なことだとその文章で続けて書き、自主コンサートを再開したことについて、こんなふうに書いている。
「空母ミッドウェーの横須賀母港化反対運動の中でギターを抱えて歌っていたのは30年前。高校一年生の時でした。それはやがてミニコンサートという形で高校生を中心にした活動へと発展していきました」
「25年前ミニコンサートをはじめた時に最初にお招きしたのは、かわら版キャラバンの一行でした。詩人の片桐ユズルさんを中心にフォークソングの中川五郎さん、小林りゅうじろうさん、そしてばとこいあ神戸のとらさんという一行でした。ミニコンサートの再開は中川五郎さんとの再会でもありました」

 しかし運動に復帰して3年目、村松さんは病気におかされていることがわかり、病気と闘ったが、2008年7月25日に50歳の若さでこの世を去ってしまった。ぼくの誕生日に彼はこの世を去ってしまったのだ。
 2009年2月には村松さんの横須賀の市民運動の仲間やフォーク・ソング仲間が集まって実行委員会が作られ、「村松俊秀を偲ぶ」集まり、『あのやかましい歌をもう一度』が、横須賀のライブハウス、ヤンガー・ザン・イエスタデイで開かれ、その集まりにはぼくも参加して歌わせてもらった。
 そしてその年の6月には、村松さんの仲間が多く集う追浜の居酒屋、どんすうぃんくとぅわいすに呼ばれて初めてライブをし、嬉しいことにこの4月10日にもそこで二度目のライブをすることができた。

 二度目のどんすぃんくとぅわいすのライブでは、ぼくはどうしても村松さんの歌を作って歌いたいと思っていた。しかし当日までに完成させることができず、それでもどうしても歌いたいからと、ほぼ纏まっていたものをもとにして、その日は即興で歌ってしまった。その後、即興で歌ったものに手を加え、メロディを変えたり、歌詞を付け加えたりして、ようやく完成したのが「一台のリヤカーが立ち向かう」という曲だった。この曲は運動復帰後の村松さんの代表的な曲「空母とリヤカー」にインスパイアされ、敬意を表する歌でもある。

「空母とリヤカー」で村松さんは、「あの大きな空母や軍艦がこの町から出撃し/飛び立つジェット機ミサイルが攻撃を繰り返す/もうやめてくださいと手を大きく広げて/この思い届けよう/ふるさとの町から/小さなリヤカーが立ち向かう/空母や軍艦に/小さなリヤカーが立ち向かう/戦争を許すなと」と歌っている。
 そしてぼくの作った「一台のリヤカーが立ち向かう」の村松さんのことを歌った一番の歌詞はこんなものだ。
「一台のリヤカーが立ち向かう/アンプやスピーカー積んだリヤカーが立ち向かう/横須賀の町に核を持ち込むな/横須賀の海に戦争の船を許すな/一台のリヤカーと歌い続けた男/大きな世界を変えるのは/一人の小さな動きから」
 ぼくの曲「一台のリヤカーが立ち向かう」は、それから山口県の上関の原発建設にシーカヤックで抗議する若者、パレスチナのインティファーダで闘う子供たちと、無名の人たちの「大きな」闘いを歌っていく。それから公民権運動を誕生させることに繋がったアメリカのローザ・パークスの闘い、ギターを持って大きな世界に挑んだウディ・ガスリーやヴィクトル・ハラのことを歌い、60年代によく歌われた有名なフォーク・ソング「一人の手/One Man’s Hands」をぼくが日本語に訳したものを挟んで、最後はまた村松俊秀さんのことを歌って終る。
 できあがったばかりのこの歌を、ぼくは今年の春一番で、やはりair plantsの美しいチェロやバイオリン、ギターと一緒に歌うことができた。

 ぼくが二曲目の「一台のリヤカーが立ち向かう」を歌い終えると、春一番のプロデューサーの福岡風太さんが恐い顔をしてぼくのもとに近づいて来て、「五郎、えらい時間かかってるで」と言う。
 一曲が長いのか、歌う前にいろいろと喋りすぎたのか、最初の二曲だけでかなりの時間が過ぎてしまったようだ。やむなく一曲減らしてぼくの最後の歌にする。
 三曲目に歌うことにしていた「お手並み拝見」は、air plantsの橋本歩さんのチェロ、阿部美緒さんのバイオリン、嘉多山信さんのギターのソロもたっぷり聞かせることになっていたのだが、残念ながらそれは今回では幻となってしまった。ぼくの今年の春一番の最後の曲は「イマジン」。air plantsの橋本歩さんがアレンジしてくれた、チェロとバイオリンとギターだけの演奏をバックに、ぼくは楽器を何も弾かずその曲を歌った。そして持ち時間をちょっとだけオーバーして、ステージを後にした。
 ぼくの出番は二番目。終ってもまだ12時前だ。今日の春一番は、これから終演の7時まで存分に楽しむことができる。ぼくは楽器を片付け、「さあ、聴くぞ! さあ、見るぞ! さあ、飲むぞ! さあ、楽しむぞ!」と、勇んで客席に飛び出して行った。(つづく)


 五右衛門風呂グの「徒然」には、シールズ・レコードの秋山光雄さんが撮影してくださった今年の春一番のぼくとair plantsの写真を載せていますので、ぜひ見てください。
http://web.mac.com/gorogoronyan/iWeb/811327D6-EED2-4DF2-A4B2-0A11BAB7C72A/Welcome.html


コメント(3)

  • [1] mixiユーザー

    2010年06月03日 22:53

    アキラさんの好意により、スクラムの演じた(村松さんも出演)「サイパンと呼ばれた男を知っていますか」(題名間違えてたら御免なさい)上映します
  • [2] mixiユーザー

    2010年07月16日 08:43

    村松さんを通してわたしもいろんな人と出会いました。

    大きな力となっています。

    そしてつながりは広がっていきます。

    よいイベントにしましょう!
  • [3] mixiユーザー

    2010年07月21日 03:26

    もうあと5日
mixiユーザー
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  • 2010年07月25日 (日) 日曜日
  • 神奈川県 どんすぃんく とぅわいす
  • 2010年07月25日 (日) 締切
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