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開催終了『対馬藩』について語ろう、研究しよう。

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2011年11月11日 07:13 更新

対馬藩

●●●宗家

対馬藩史
http://roadsite.road.jp/history/chishi/hanshi/tsushima-tsushima.html
歴史の勉強・宗氏
http://roadsite.road.jp/history/muromachibuke/so/so-tousyu2.html

●●●石高
対馬府中藩って10万石格だったと思いますが実際の石高ってどれくらいだったのでし...
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1257160477



●●●歴史
歴史
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=39078970&comm_id=3877715&page=all



●●●領地

一方の対馬藩では、同盟国長州藩の雪辱を果たすため、脱藩してまで長州勢に加わる藩士も続出し、田代領*からも応援の藩士を送ったりしています。その頃、田代役であった平田大江は、福岡藩を仲介にしつつ、長州藩と薩摩藩が同盟を組むことが攘夷のため最良の道と考えるようになり(薩長対福同盟?)、対馬藩内でも平田の考えを受け入れ、朝廷から列藩まで各々の確執を越えて団結攘夷することが主張されるようになりました(雄藩連合論)。・・・このへんは坂本龍馬も影響を受けたかも?

*対馬藩には、九州・田代(現在の佐賀県東部の鳥栖市・基山町)に領地がありました。また、江戸藩邸(上屋敷、中屋敷、下屋敷)のほか、京都、大坂、博多、長崎、壱岐勝本にも蔵屋敷がありました。
http://sympathy.blog.ocn.ne.jp/tsushima/2006/09/post_941c.html


 対馬藩の城下町は対馬国府中、現在の長崎県対馬市厳原におかれ、金石屋形(かねいしやかた)と桟原屋形(さじきばるやかた)の居城があった。


領地は
 対馬国無高、
 肥前基肄・養父郡1万石(佐賀県、田代領)、
 文化14(1817)年に肥前松浦郡(佐賀県)、
 筑前怡土郡(福岡県)、
下野安蘇・都賀(栃木県)の2万石

を加増された。

対馬国は「無高」とあるように、江戸幕府から表向きは米がとれないという形で認められていた。江戸時代の大名の格式をあらわす際に使われる石高で表すと、宗家は10万石以上格となる。
http://www.kyuhaku-db.jp/souke/about/02.html

 対馬藩の城下町は対馬国府中、現在の長崎県対馬市厳原におかれ、金石屋形(かねいしやかた)と桟原屋形(さじきばらやかた)の居城があった。領地は対馬国無高、肥前基肄・養父郡1万石(佐賀県、田代領)、文化14(1817)年に肥前松浦郡(佐賀県)、筑前怡土郡(福岡県)、下野安蘇・都賀(栃木県)の2万石を加増された。対馬国は「無高」とあるように、江戸幕府から表向きは米がとれないという形で認められていた。
http://www.kyuhaku.jp/roji/roji_hg-02.html
 

対馬藩は、

 (1)対馬島(現長崎県対馬市)
 (2)肥前田代(現佐賀県鳥栖市・三養基郡)
 (3)筑前怡土郡(現福岡県二丈町)から肥前松浦郡(現佐賀県唐津市浜玉町)にかけて
下野国(現栃木県)
 (4)安蘇郡と
 (5)都賀郡

の4県5ヶ所に分かれて領地を持っていました。


午後は佐賀県。 旧街道の風情がよく残っている白坂〜木山口〜今町の道筋を、江戸時代の気分に浸りながら気分よく歩き、「配置売薬」で有名な対馬藩「田代宿」の代官屋敷や本陣跡などを散策。
JR田代駅で解散。 本日の歩行距離12Km。
http://arukoukai.syokyu.com/HP2209.htm

対馬藩は肥前の田代領がデカかったんだよ 狭い
所で米も大して穫れないけど薬屋が集まってて上納金がスゴかった
http://logsoku.com/thread/academy6.2ch.net/history/1235393450/



対馬藩の飛び地である「田代領」は肥前国基肄郡と養父構成され、現在の佐賀県鳥栖市の東部域と基山町にあたります。慶長4年(1599)に薩摩国出水郡(現・鹿児島県)内1万石の代替地て初代藩主・宗義智に与えられたことに始まり、るまで、そこは対馬藩の領地でした。

 この奇妙な“飛び地”は、豊臣秀吉の朝鮮出兵の折、対馬領主の宗家が大いに働き、その功が認められて、猫の額のようなこの一角が下賜されたことに由来する。田代売薬の起こりと、田代が対馬領であったこととは無関係ではなさそうだ。

 まず素人ながら思いつくのは、田代=対馬=朝鮮という文化交流のルート。江戸時代の医薬品の代表といえば、いわゆる朝鮮人参だ。これを朝鮮と関係の深い対馬経由で入手し、医薬品に加工したことが田代売薬の始まりではないか、という考えだ。

 江戸時代、将軍の代替わりに朝鮮から「通信使」と呼ばれる使者が来日し、将軍襲職を祝賀するというのが通例になっていた。(→地図を参考)この使者の来日を打診し、迎えるのが対馬藩の役目だった。
http://dasoku.s6.xrea.com/x/diary/cgi-bin/se2_diary_u.cgi?txtnumber=7&mynum=332


●●●文書

宗家記録 正徳4年から弘化4年
(旧対馬藩)
近世期の対馬藩関係史料。年代は正徳4年から弘化4年まで。史料は、朝鮮貿易(御用人参、渡り銅、渡り銀など)関係が中心であり、その他「分類記事大綱」などがある。
(資料 32冊)


原家文書  江戸中期から明治期
対馬藩飛地一万石田代領(旧肥前国基肄郡養父郡、現在鳥栖市、佐賀県基山町の一部に属する)の古賀村庄屋役などや別当役を代々勤めた有力な家。
(資料数約8,000点以上

大浦家文書 江戸期
対馬藩宗家の家臣。長崎県。対馬藩士史料。史料は、対馬藩に関わる文書が中心であり、享保年間の御判物や家系図が含まれている。目録なし。
(資料数46点)
http://www.adm.fukuoka-u.ac.jp/fu844/gaku/komon/index.html

●●●藩邸


対馬府中藩

藩邸及び江戸での菩提寺 [編集]江戸藩邸は向柳原に上屋敷、水道橋外に中屋敷、三ノ輪に下屋敷があった。また京都藩邸は河原町三条上る丁にあり、大阪藩邸は天満11丁目に、長崎藩邸は紺屋町にあった。肥前領を差配するための肥前屋敷は基肄郡田代領にあった。また、江戸における菩提寺は下谷の天台宗養王院であった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BE%E9%A6%AC%E5%BA%9C%E4%B8%AD%E8%97%A9

●京都

 対馬藩の京都藩邸は「河原町三条上ル」、京都の繁華街四条河原町の北である。江戸時代物資輸送の大動脈であった高瀬川沿いにあり。高瀬川は江戸時代初期、角倉了以(すみのくらりょうい)によって開削された運河で、京都、伏見をへて宇治川、淀川を通り、大坂から瀬戸内海へと続く。対馬藩は高瀬川を使って日朝貿易の輸出入品などを運び込んだ。
http://www.kyuhaku-db.jp/souke/yukari/04_01.html

池田屋事変
1864年に会津藩お預かり新選組が襲撃した池田屋事件では、対馬藩内の派閥抗争の解決のため対馬藩邸に赴いており、奇跡的に難を逃れる。が、桂小五郎は危険を顧みず京都に潜伏し続け、他藩の志士たちには正藩合一思想の種を植え続け、長州および長州派公卿たちの復権のため、久坂玄瑞らとともになおも活動をし続ける。
http://www.sengoku.cn/bbs/article-128660.html


●●●蔵屋敷

●福岡県
 対馬小路は上対馬小路・中対馬小路・下対馬小路からなり、博多でもっとも長い縦町筋でした。対馬小路の大下(おおしも)の浜に、宗対馬守義智が豊臣秀吉から拝領した対馬藩の蔵屋敷があったことから対馬小路と呼ばれたといいます。
http://www.ishimura.co.jp/saijiki/51_60/vol_51.html

福岡市博多区に「対馬小路(つましょうじ)」という地区があります。(博多港、博多リバレインからわりと近く)。お休みの日に、阿比留(あびる)が行ってきました。

地図を手に対馬小路をうろうろしましたが、なかなかお目当ての「旧対馬小路」と書かれた石碑を見つけることができず、近くの和菓子屋のおばちゃんに尋ねたところ、「ここに住んどらんけん、分からんっちゃんね」と。この界隈の方々もそういったものがあることをご存知ではない様子。改めて資料に目を通してみると、その石碑は、現在の対馬小路にあるのではなく、お隣の古門戸町(こもんどちょう)3丁目にあると書かれているではありませんか。

というわけで、古門戸町3丁目をうろうろ。すると、ありました、ありましたー!ビルの谷間にひっそりと。「オッペケペー節」で有名な川上音次郎の生家跡でもある、「沖濱稲荷」の敷地内に、小さな石碑が建っていました。
http://tsjfuk.exblog.jp/10945138/


●長崎県
対馬藩蔵屋敷跡  銅座町1番(現在の十八銀行本店)
http://www.lib.pref.nagasaki.jp/service/exsample.html

※十八銀行は対馬藩蔵屋敷(俵物役所)跡地
http://tsukimachi.sblo.jp/archives/201010-1.html

対馬藩(本紺屋町→築町)、
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/nagasakiezu/22nagasaki424.html

2. 長崎蔵屋敷
各藩の蔵屋敷が設置されたのは、

樺島町 - 秋月藩
本五島町 - 長州藩
浦五島町 - 柳川藩
新町 - 小倉藩
西浜町 - 薩摩藩・五島藩・久留米藩
本紺屋町 - 対馬藩
恵比寿町 - 大村藩・島原藩
大黒町 - 佐賀藩・熊本藩・平戸藩
西中町 - 大村藩
東中町 - 唐津藩
東上町 - 唐津藩
http://wapedia.mobi/ja/%E9%95%B7%E5%B4%8E%E8%81%9E%E5%BD%B9


●大阪府
「大阪再発見」−中ノ島界隈蔵屋敷跡

カウンターにこんな本が置かれ、手に取ると、蔵屋敷の第一番目が対馬藩だったので、買うことにして、その本に記載された場所を歩いた。
http://coppoumon.exblog.jp/11011139/


●●その他
<対馬における砂糖について>(甘いすもも)
http://blog.goo.ne.jp/east-eurasia/m/200706

コメント(19)

  • [1] mixiユーザー

    2011年10月12日 21:00

    データベース 2012年12月31日 の意味がわかりませんが、
    また開催地対馬市も気になりますが紙上では参加したいです。
  • [3] mixiユーザー

    2011年11月11日 06:23

    >Bicky さん

    イベントではなく、対馬藩の情報を書き込んだだけのデータベースなんです。
    普通のトピにしてもよかったんですが、ここに置くとすぐ見えるので・・

    イベントトピなので、消す事ができなくてなにかいれるしかなかったんです。



    対馬藩ゆかりの地の地図を添付しています。

    トピの説明以外に
     対長同盟
    と言うのがあります。


    幕末の対馬〜対長同盟、日新館派の悲劇〜 The Last Samurai in Tsushima Island
    http://sympathy.blog.ocn.ne.jp/tsushima/2006/09/post_941c.html

    日露戦争の国家戦略(6)幕府の「対馬」政策を急転換させた「対長同盟」(対馬藩と長州藩の同盟)
    http://ci.nii.ac.jp/naid/40016668969
  • [4] mixiユーザー

    2012年02月05日 22:55

    トピの説明にこんなのがあります。

    池田屋事変
    1864年に会津藩お預かり新選組が襲撃した池田屋事件では、対馬藩内の派閥抗争の解決のため対馬藩邸に赴いており、奇跡的に難を逃れる。が、桂小五郎は危険を顧みず京都に潜伏し続け、他藩の志士たちには正藩合一思想の種を植え続け、長州および長州派公卿たちの復権のため、久坂玄瑞らとともになおも活動をし続ける。
    http://www.sengoku.cn/bbs/article-128660.html


    他にも

    "池田屋" "対馬"  で検索するとたくさんヒットします
    http://www.google.co.jp/#hl=ja&q=%22%E6%B1%A0%E7%94%B0%E5%B1%8B%22%E3%80%80%22%E5%AF%BE%E9%A6%AC%22&pbx=1&oq=%22%E6%B1%A0%E7%94%B0%E5%B1%8B%22%E3%80%80%22%E5%AF%BE%E9%A6%AC%22&aq=f&aqi=&aql=&gs_sm=e&gs_upl=5337l14901l0l16063l8l8l0l0l0l4l1292l6619l5-2.2.3l7l0&bav=on.2,or.r_gc.r_pw.,cf.osb&fp=6573151abae26232&biw=904&bih=531

    こんなのも

    池田屋事件 - Wikipedia
    池田屋事件(いけだやじけん)は、幕末の元治元年6月5日(1864年7月8日)に、京都三条木屋町(三条小橋)の旅館・池田屋(北緯35度0分32.2秒 東経135度46分11.6秒 / 北緯35.008944度 東経135.769889度 / 35.008944; 135.769889座標: 北緯35度0分32.2秒 東経135度46分11.6秒 / 北緯35.008944度 東経135.769889度 / 35.008944; 135.769889)に潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士を、京都守護職配下の治安維持組織である新選組が襲撃した事件。池田屋騒動ともいわれている。近藤勇は書面で洛陽動乱と名づけている。


    桂小五郎(後の木戸孝允)は、会合への到着が早すぎたので、一旦池田屋を出て対馬藩邸で大島友之允と談話していたため、難を逃れた。談話中に外の騒ぎで異変に気付いた小五郎は、現場に駆けつけようとしたが大島友之允に制止されたため思い留まったと小五郎の回想録『桂小五郎京都変動ノ際動静』には記されている。本人の回想とは別に、京都留守居役であった乃美織江は手記に「桂小五郎議は池田屋より屋根を伝い逃れ、対馬屋敷へ帰り候由…」と書き残している
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E5%B1%8B%E4%BA%8B%E4%BB%B6

    そうですね、桂小五郎はその時池田屋にはいなかったようですね。維新後に書いた自叙伝によると、定刻の五つ時に池田屋へ顔を出したが、まだ同志が集まっていなかったので近くの対馬藩別邸に赴いた。すると間もなく新選組が池田屋を狙撃したため命拾いしたことになっているが、これはなんとなく状況的に不自然であり、当夜の行動を取り繕った自己弁護に思えますね。長州藩のもう一人の京都留守居役乃美織江は、手記で「桂小五郎は池田屋より屋根を伝い逃れ、対馬屋敷に帰り候由」と書き残しています。なんとなくこちらの方が信憑性があるような気がしますね。桂は、新選組の狙撃を受けるといち早く池田屋から脱出した。それが同志達を見捨てて行為とみなされることを恐れ、後になって自己を正当化する手記を残したのではないだろうか。手記が書かれた明治初年は真相を知る池田屋事件の関係者はそのほとんどがこの世を去っていましたしね。
    http://www7b.biglobe.ne.jp/~sansen/pg13.html

    ところで、対馬で1964年に何があったかというと、

    勝井騒動 - Wikipedia
    元治元年10月13日 (1864年11月)、平田の支援で兵を集めた勝井は対馬の藩主邸を占拠した勝井は家老に任じられて政権を掌握、藩主の周防移転の中止を宣言した。10月25日には幽閉されて抗議の絶食をしていた大浦が死去すると、勝井は日新館関係者など尊攘派を処刑あるいは自害させた。その数は大浦を含めて107名に達した。ところが、田代に残っていた平田は突如、長州藩や福岡藩など尊攘派諸藩に対して対馬藩の危機を訴えて勝井打倒を訴える一方で田代に亡命してきた日新館関係者ら尊攘派や勝井による粛清策に失望して離れた人々などを受け入れて尽義隊を結成して反勝井を宣言した。長州藩や三条実美などから派遣された詰問の使者や藩内に広がる反勝井の動きに動揺した藩主義達は翌慶応元年5月3日 (1865年5月) になって勝井を討った。これを見た平田は6日に尽義隊を率いて対馬に帰還したが、大浦と勝井の共倒れが平田の策動であったと知られると引退を余儀なくされ、慶応元年11月11日 (1865年12月)[要検証] には斬罪となった
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E4%BA%95%E9%A8%92%E5%8B%95

    時系列では池田屋事件が先に起こっていますが、
    この2つはは全く無関係なのかな?

  • [5] mixiユーザー

    2012年03月03日 19:13

    トピの説明にこんなのがあります。

    池田屋事変
    1864年に会津藩お預かり新選組が襲撃した池田屋事件では、対馬藩内の派閥抗争の解決のため対馬藩邸に赴いており、奇跡的に難を逃れる。が、桂小五郎は危険を顧みず京都に潜伏し続け、他藩の志士たちには正藩合一思想の種を植え続け、長州および長州派公卿たちの復権のため、久坂玄瑞らとともになおも活動をし続ける。
    http://www.sengoku.cn/bbs/article-128660.html


    他にも

    "池田屋" "対馬"  で検索するとたくさんヒットします
    http://www.google.co.jp/#hl=ja&q=%22%E6%B1%A0%E7%94%B0%E5%B1%8B%22%E3%80%80%22%E5%AF%BE%E9%A6%AC%22&pbx=1&oq=%22%E6%B1%A0%E7%94%B0%E5%B1%8B%22%E3%80%80%22%E5%AF%BE%E9%A6%AC%22&aq=f&aqi=&aql=&gs_sm=e&gs_upl=5337l14901l0l16063l8l8l0l0l0l4l1292l6619l5-2.2.3l7l0&bav=on.2,or.r_gc.r_pw.,cf.osb&fp=6573151abae26232&biw=904&bih=531

    こんなのも

    池田屋事件 - Wikipedia
    池田屋事件(いけだやじけん)は、幕末の元治元年6月5日(1864年7月8日)に、京都三条木屋町(三条小橋)の旅館・池田屋(北緯35度0分32.2秒 東経135度46分11.6秒 / 北緯35.008944度 東経135.769889度 / 35.008944; 135.769889座標: 北緯35度0分32.2秒 東経135度46分11.6秒 / 北緯35.008944度 東経135.769889度 / 35.008944; 135.769889)に潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士を、京都守護職配下の治安維持組織である新選組が襲撃した事件。池田屋騒動ともいわれている。近藤勇は書面で洛陽動乱と名づけている。


    桂小五郎(後の木戸孝允)は、会合への到着が早すぎたので、一旦池田屋を出て対馬藩邸で大島友之允と談話していたため、難を逃れた。談話中に外の騒ぎで異変に気付いた小五郎は、現場に駆けつけようとしたが大島友之允に制止されたため思い留まったと小五郎の回想録『桂小五郎京都変動ノ際動静』には記されている。本人の回想とは別に、京都留守居役であった乃美織江は手記に「桂小五郎議は池田屋より屋根を伝い逃れ、対馬屋敷へ帰り候由…」と書き残している
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E5%B1%8B%E4%BA%8B%E4%BB%B6

    そうですね、桂小五郎はその時池田屋にはいなかったようですね。維新後に書いた自叙伝によると、定刻の五つ時に池田屋へ顔を出したが、まだ同志が集まっていなかったので近くの対馬藩別邸に赴いた。すると間もなく新選組が池田屋を狙撃したため命拾いしたことになっているが、これはなんとなく状況的に不自然であり、当夜の行動を取り繕った自己弁護に思えますね。長州藩のもう一人の京都留守居役乃美織江は、手記で「桂小五郎は池田屋より屋根を伝い逃れ、対馬屋敷に帰り候由」と書き残しています。なんとなくこちらの方が信憑性があるような気がしますね。桂は、新選組の狙撃を受けるといち早く池田屋から脱出した。それが同志達を見捨てて行為とみなされることを恐れ、後になって自己を正当化する手記を残したのではないだろうか。手記が書かれた明治初年は真相を知る池田屋事件の関係者はそのほとんどがこの世を去っていましたしね。
    http://www7b.biglobe.ne.jp/~sansen/pg13.html

    ところで、対馬で1864年に何があったかというと、

    勝井騒動 - Wikipedia
    元治元年10月13日 (1864年11月)、平田の支援で兵を集めた勝井は対馬の藩主邸を占拠した勝井は家老に任じられて政権を掌握、藩主の周防移転の中止を宣言した。10月25日には幽閉されて抗議の絶食をしていた大浦が死去すると、勝井は日新館関係者など尊攘派を処刑あるいは自害させた。その数は大浦を含めて107名に達した。ところが、田代に残っていた平田は突如、長州藩や福岡藩など尊攘派諸藩に対して対馬藩の危機を訴えて勝井打倒を訴える一方で田代に亡命してきた日新館関係者ら尊攘派や勝井による粛清策に失望して離れた人々などを受け入れて尽義隊を結成して反勝井を宣言した。長州藩や三条実美などから派遣された詰問の使者や藩内に広がる反勝井の動きに動揺した藩主義達は翌慶応元年5月3日 (1865年5月) になって勝井を討った。これを見た平田は6日に尽義隊を率いて対馬に帰還したが、大浦と勝井の共倒れが平田の策動であったと知られると引退を余儀なくされ、慶応元年11月11日 (1865年12月)[要検証] には斬罪となった
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E4%BA%95%E9%A8%92%E5%8B%95

    時系列では池田屋事件が先に起こっていますが、
    この2つはは全く無関係なのかな?

  • [6] mixiユーザー

    2012年03月03日 19:56

    【宗家と宗兄弟の関係】


    上のが対馬藩の一つ目の疑問です。

    二つ目の疑問があります。

    宗と言う苗字についてです。


    対馬市のサイトにこう書いています。

    1196 惟宗氏の入国
     対馬島主・藩主となる宗家の祖と言われる惟宗(これむね)氏の名前が、対馬の在庁官人の中にはじめて見られる。

    1246 惟宗氏と阿比留氏の戦い
     大宰府の命により惟宗重尚(これむねしげひさ)が、鶏知(美津島町)を中心に強い勢力を持っていた阿比留在庁(平太郎)を征討したと伝えられる。内山(厳原)の木武古婆神社には重尚が祀られている。また、小浦(厳原)には在庁田、在庁落としの地名が残されている。

    1546 宗姓が嫡流のみになる
     宗家の傍系諸家が宗姓を名乗ることが禁じられ、宗姓は島主・藩主のみとなる。

    http://www.tsushima-net.org/history/chronicle.php



    宗と言う苗字は、惟宗(これむね)氏の改名となって

     1546 宗姓が嫡流のみになる

    となります。宗と言う苗字は対馬の宗家しか無いような気がします。
    では

     マラソンの宗兄弟は対馬の出身でしょうか?



    対馬の領主

    対馬藩主の宗氏はなぜまた苗字が「宗」なのですか?なにか由緒ある苗字なのでしょうか。

    補足マラソンの宗兄弟は末裔ですか?
    http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1410623094



    宗兄弟
    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E5%85%84%E5%BC%9F



    調べてみるとこんなのがあります。


    私と年齢が近いか上の方には、マラソンの宗兄弟と言えば通じたんですが、最近はちょっとです。話が脱線ついでに、私は長崎生まれなんですが、マラソンの宗兄弟も九州なんですね。この宗という名前はもともと対馬の出らしく、たしかに祖父の時代までは対馬に居たと聞いています。この対馬のお話は長くなるので、また別の機会に譲るとして。
    http://www.cyx.co.jp/motokochira/2006/06/06061201.html


    もともと、宗という苗字は
    対馬の殿様の名前です。

    もうだいぶん前、彗星のごとくと登場した
    マラソンの宗兄弟のお陰で全国区になりました。

    対馬の殿様は平家の平知盛の孫に当る重尚が
    初代にあたります。ちなみに知盛は平清盛の
    四男です。

    宗家の本家は現在、千葉にお住まいの
    宗 中正さんです。お父様の武志さん
    は大学教授で詩人でした。
    http://plaza.rakuten.co.jp/soken/diary/200506190000/


    宗家=宗兄弟関係ないと思います!
    http://shop.plaza.rakuten.co.jp/bijoduka/diary/detail/201110260000/


    さて、何が正解なのでしょうか?

  • [7] mixiユーザー

    2012年09月20日 21:01

    【ニュース】対馬宗家文書を展示
    1 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2012/09/20(木) 19:20:36.67 ID:r2A+UhhPP ?2BP(1000)

    江戸時代に日朝外交の窓口だった旧対馬藩の藩政史料「宗家文書」などを紹介する企画展

    「日朝交流の軌跡〜対馬宗家文書8万点の調査を終えて〜」

    が10月2日から、対馬市厳原町の県立対馬歴史民俗資料館で開かれる。
    11月25日まで。

    宗家文書は1630年代から幕末・明治初期までの約250年にわたる記録で、
    総数は10万点を超えるといわれている。

    同資料館はこのうち約8万点を所蔵、他に国立国会図書館や東京大史料編纂(へんさん)所、
    韓国の国史編纂委員会などでも保管されている。

    企画展は、同資料館での35年に及ぶ調査が終了し、
    その一部が国重要文化財に決まったのを記念して開催。

    福岡県太宰府市の九州国立博物館に続いて開くことになった。

    会場には2009年6月の調査で見つかった朝鮮国王が対馬藩主に発給した
    銅印「図書(としょ)」や絵図類をはじめ、朝鮮通信使絵巻や国重文に指定された冊子類、
    日々の業務内容を記した「毎日記」など約70点を展示する。

    10月14日には、慶応義塾大の田代和生名誉教授の講演会もある。


    対馬宗家文庫史料絵図類で倭館を描いた「草梁倭館絵図」
    http://www.nishinippon.co.jp/nnp/local/nagasaki/20120920/201209200001_000.jpg

    http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/324907


    3 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2012/09/20(木) 19:26:14.48 ID:r2A+UhhPP ?2BP(1000)

    対馬宗家文書は、江戸時代の対馬藩(現長崎県対馬市)の藩主宗家に伝わった文書である。
    宗家は、室町時代から江戸時代にかけて、日本と朝鮮との間で外交の実務と貿易を独占し、
    日朝関係史上、大変重要な役割を果たした。対馬藩は対馬藩庁、江戸藩邸、釜山倭館(わかん)の
    各地に拠点を置き、広範囲に活動していた。

    九州国立博物館(以下、九博)が所蔵している対馬宗家文書の大部分14078点が、
    平成17年6月に国の重要文化財に指定された。指定の際の名称は「対馬宗家関連資料」、
    宗家の文書が対馬にあったという事実と、対馬と宗家との密接な関係を表すべくつけられた。

    その内訳は以下5分類されている。

    1.朝鮮国から宗家他日本の通交者に与えられた図書や、宗家が外交文書に捺した朝鮮国王、足利将軍の偽造印を含む「印章(図書・木印)」37点
    2.朝鮮国からの外交文書である「朝鮮国書契・書簡」16点
    3.江戸幕府の将軍や老中から対馬藩主宗家にだされた御内書や老中奉書などの「文書・記録類」13780点
    4.藩主の絵や絵画、絵の具など「書画・器物類」200点
    5.文書や巻子が収められた「文書箱」45点
     明治以降の文書など指定されなかった663点を含めると、九博には合計14741点にものぼる膨大な資料、文書が所蔵されている。九博では、指定外の文書をも含めた形で「対馬宗家文書」と呼ぶこととする。
    http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/poverty/1348136436/1-100
  • [8] mixiユーザー

    2012年12月04日 21:38

    歴史研究所日本史レポート
    第6回 対馬を支配した宗氏
    担当:裏辺金好

    http://www.uraken.net/rekishi/reki-nihon006.html
  • [9] mixiユーザー

    2013年03月11日 07:02

    【池田屋事件】

    コメント5の
    詳細が手に入りました。


    @@@


    新選組の池田屋襲撃は、逮捕した古高俊太郎から得た情報や、山崎烝など監察部の探索の結果だといわれていた。隊を二つに分け、近藤勇がわずか5人で池田屋に、副長土方歳三が残りを率いて四国屋に向かったとも映像化されていた。

    新選組は尊攘激派浪士の京都市中焼討ちというテロ計画の情報を得て、急いでパトロールを始めたら浪士たちの池田屋における集会を発見し、闘争におよんだというのが定説になっている。

    浪士たちが池田屋に集ったのは、古高俊太郎が逮捕されたのを知って、その善後策を練るためで、古高俊太郎がそれを知るはずがなかったのが真相らしい。

    当日の出動隊士が近藤・土方を含めて、わずか34人だったのは、夏の暑い季節のため病人が多かったからとされていたが、実際は脱走があいついで、隊士が減少していたのが本当の理由らしい。

    元治元年(1864)4月以来、多数の長州人が京都に潜入しているとの情報を得た新選組は、監察部を動員して、さらなる探索を強化。6月5日早朝、新選組は四条小橋西入ルの薪炭商・桝屋喜右衛門を逮捕連行した。屋内を捜索した結果、多数の武器弾薬の他に「烈風を期とすべし」などと書かれた密書を発見。

    桝屋喜右衛門の正体は輪王寺宮家臣・古高俊太郎と判明した。厳しい拷問により、「御所への放火と反長州派の大名襲撃後、長州勢を京都に引き入れる」という計画実行のために、四条・三条あたりの町家や旅籠に多数の長州人が潜伏していることをつきとめる。

    局長近藤勇は黒谷の会津本陣に急報し、出動を要請した。京都守護職松平容保は藩兵の出動を決断し、一橋(禁裏守護総督)、桑名(所司代)、町奉行所とも打ち合わせ、新選組には、この日夜五ツ(不定時法だから夜9時頃)をもって祇園町会所に集結する事を決めた。
     
    一方、古高俊太郎が逮捕されたことを知った尊攘激派浪士たちは、三条小橋西の旅籠・池田屋で集会を開き、善後策を協議する。

    (次のコメントへ)
  • [10] mixiユーザー

    2013年03月11日 07:03

    (前のコメントから)

    午後、祇園町会所に集合した新選組は武装を整え、所司代や奉行所の出動をじりじりして待つが、ついに単独で1時間早く捜索を開始することを決断。

    32名の隊士を二手に分け、近藤勇が9名、副長土方歳三が23名を率い夜8時頃から、三条あたりの茶屋・旅籠など、しらみつぶしの捜索を開始。近藤隊は河原町通を北上。三条小橋まで出て池田屋に注目したのは四ツ(夜10時半頃)ごろ。

    近藤は隊士たちに裏表を固めさせると、沖田総司、永倉新八、藤堂平助のわずか3人を率いて表口から進入し、御用改めである旨を告げ亭主は驚き、2階に知らせようとするが、階段を駆け上がった近藤は、そこに抜刀して待ち受ける20人あまりの浪士たちを発見。斬りかかる浪士を一刀のもとに斬り捨てる。こうして「池田屋事件」として有名な2時間余の激闘が始まった。鎖を着て、籠手脛当てで完全武装の新選組だが、多勢に無勢。近藤隊は苦戦を強いられるが、四条縄手通を捜索していた土方隊が駆けつけることにより、攻勢になる。

    新選組は激派浪士を7人(宮部鼎蔵、吉田稔麿、広岡波秀、福岡祐次郎、大高又次郎、望月亀弥太、石川潤次郎)討取り、23人を捕縛(松田重助、山田虎之助など)するという大手柄をたて、浪士たちの陰謀を阻止した。

    近年、会津・桑名・彦根や町奉行所も探索に加わっていたとされ、池田屋襲撃も新選組の単独行動だったのか疑問が出されている。長州藩士桂小五郎は当夜8時頃に、いったん池田屋を訪れましたが、まだ同志が集まっていなくて、出直すつもりで近くの対馬藩邸に行っていたので、難をまぬがれた。
  • [11] mixiユーザー

    2013年04月03日 23:48

    【池田屋事件で対馬藩邸に逃げ込んだ桂小五郎】

    コメント5、9、10の続報です。


    桂小五郎は対 長同盟もあって対馬藩となかが良かったようです。

    逃げ回っている最中に池田屋事件がおこったようです。


    @@@@

    宗義和 - Wikipedia
    宗義和これにより勢いを得た義党は藩政の主導権を握り、文久2年(1862年)には長州藩と対 長同盟を結んだ。
    http://www.google.co.jp/url?sa=t&source=web&cd=1&ved=0CDEQFjAA&url=http%3A%2F%2Fja.m.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E5%25AE%2597%25E7%25BE%25A9%25E5%2592%258C&ei=az9cUe70EMWmkgWy5oCwDw&usg=AFQjCNFMRqcGYsobfqjCEhIf5r536rHm9g



    元治元年(1864年)6月。
    蛤御門の変で、長州の軍が潰滅し、京の町が戦火につつまれる中を、
    桂小五郎は、一人、京を脱出しました。

    その後、数日して、再び京に潜入。
    小五郎は、鴨川の橋の近くで、乞食のような身なりをして隠れ住みます。

    しかし、小五郎は、今でいえば指名手配の要注意人物。
    新撰組などから、執拗な探索を受け続けました。
    そんな中で、小五郎を支えたのが、
    京・三本木遊郭の芸妓、幾松でした。

    幾松は、命を狙われていた桂小五郎を庇護し、
    新選組に追われる小五郎を、機転を働かせて、度々かくまったといいます。
    小五郎の食事についても、商家の女になりすました幾松が、
    橋の上から握り飯の入った包みを、そっと投げ落として渡していました。

    しかし、小五郎も、いつまでも、京に留まっていることは危険であると感じていて、
    何とか、関所を超え、京から抜け出すことを考えていました。
    そこで、小五郎は、懇意にしていた対馬藩士に相談し、
    その下僕をしていた広江甚助という町人に、協力を依頼します。

    甚助は、小五郎が自分の援助を必要としている事を聞き、
    小五郎を、京から脱出させて、かくまうことを決意しました。

    甚助は、小五郎を、甚助の郷里出石に逃れさせる段取りを進めていきます。


    小五郎を船頭に化けさせて、京を脱出、関所もうまく通り抜けて、
    小五郎を、無事、出石に連れて行く事に成功しました。

    この後も、甚助は献身的に小五郎をかくまい続けます。

    出石では、最初、知人の家に小五郎を住まわせ、
    次いで、会津、桑名の藩士が小五郎の探索にきたという噂を聞くと、
    出石から城崎の湯治宿に小五郎を移動させました。

    時には、広江家ゆかりの寺に預けたり、
    又、ある時は、「広江屋」という荒物屋を小五郎に開かせたりしました。
    小五郎も、この時期には、甚助の妹の婿と称し、広江屋孝助と名乗っていたといいます。

    そうした、ある日。
    小五郎は、高杉晋作が藩内でクーデターを起し、俗論党政府を打倒したとの噂を聞きつけます。
    小五郎は、長州の状況を確認したいと考え、甚助に下関に行くよう頼みました。
    さらに、この時、自分の居場所を、村田蔵六にだけ伝えるよう指示しました。
    蔵六は、下級藩士ではありましたが、小五郎は彼に全幅の信頼を置いていたのです。

    甚助は、下関へと向かい、京から逃れてきていた幾松と面会。
    又、村田蔵六に会って、小五郎が但馬に潜んでいることを伝えました。

    やがて、小五郎が無事でいることを知った長州藩は、
    一日も早く、小五郎を藩に呼び戻そうとしました。
    成立ほどない長州新政権は、
    藩を背負って立てる、首相のような役割が果たせる政治家を切望していたのです。
    結局、甚助と幾松の2人が、出石まで小五郎を迎えに行くことになりました。

    慶応元年(1865年)2月。
    桂小五郎が、長州に戻ってきます。
    http://plaza.rakuten.co.jp/gundayuu/diary/200711230000/
  • [12] mixiユーザー

    2013年04月04日 00:22

    【池田屋事件で対馬藩邸に逃げ込んだ桂小五郎】

    コメント5、9〜11の続報です。

    小五郎は対馬藩のお家騒動の為に対馬藩邸に出向いた、とあります。


    @@@@


    当時桂は長州藩の外交官であり、対馬藩の内紛騒ぎに係わっていて非常に多忙でした。元々藩内では慎重派だったのも相まって、池田屋での会合にも始めから乗り気ではありませんでした。

    現在の視点から見ると池田屋の会合は非常に大きな出来事と思いがちですが、これは新撰組襲撃事件が起こったからであって、襲撃される前の当時の感覚としてはよく行われている志士の集まりです。
    なので桂の中の優先順位としては当然、池田屋よりも一つの藩に起こっているお家騒動の方が重要であり、対馬藩邸におもむく方が高かった。

    これで「(池田屋に)誰も来ていなかったから、近くの対馬藩邸に行った」という桂の発言が、不自然ではないと了解されるものと思います。
    http://m.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/q1241152262
  • [13] mixiユーザー

    2013年04月05日 20:53

    【池田屋事件で対馬藩邸に逃げ込んだ桂小五郎】

    コメント5、9〜12の続報です。

    コメント11 禁門の変

    @@@@

    禁門の変

    前年の八月十八日の政変により京都を追放されていた長州藩勢力が、会津藩主・京都守護職松平容保らの排除を目指して挙兵し、京都市中において市街戦を繰り広げた事件である。畿内における大名勢力同士の交戦は大坂夏の陣(1615年)以来であり、京都市中も戦火により約3万戸が焼失するなど、太平の世を揺るがす大事件であった。

    大砲も投入された激しい戦闘の結果、長州藩勢は敗北し、尊王攘夷派は真木保臣ら急進的指導者の大半を失ったことで、その勢力を大きく後退させることとなった。一方、長州掃討の主力を担った徳川慶喜・会津藩・桑名藩の協調により、その後の京都政局は主導されることとなる(一会桑政権も参照)。

    禁門の変後、長州藩は「朝敵」となり、第一次長州征討が行われるが、その後も長州藩の政治的復権をねらって薩長同盟(1866年)が結ばれ、四侯会議(1867年)においても長州藩処分問題が主要な議題とされるなど、幕末の政争における中心的な問題となった。

    「禁門の変」あるいは「蛤御門の変」の名称は、激戦地が京都御所の御門周辺であったことによる。蛤御門は現在の京都御苑の西側に位置し、今も門の梁には弾痕が残る。
    http://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%81%E9%96%80%E3%81%AE%E5%A4%89
  • [14] mixiユーザー

    2013年04月05日 21:02

    みのる
    【池田屋事件で対馬藩邸に逃げ込んだ桂小五郎】

    コメント5、9〜13の続報です。


    コメント12
    お家騒動の方が重要であり、対馬藩邸におもむく方が高かった。

    対馬藩の御家騒動はこれだ。

    記事抜粋
    元治元年(1864年)の第1次長州征伐で長州藩が敗北すると、義達の母方の伯父にあたる勝井員周が保守俗論党(佐幕派)と共にクーデターを起こし、藩の主導権を握っていた義党(尊王攘夷派)の家老・大浦教之助ら100余名を処刑した。


    第1次長州征伐は前のコメントに書いています。



    @@@@

    宗義達


    弘化4年(1847年)11月6日、第15代藩主・宗義和の三男として生まれる。はじめ父から世子に指名されていたが、父が側室の碧とその間に生まれた息子(義達の異母兄)の勝千代を寵愛して世子にしたため、義達は廃嫡された。しかし勝千代が安政6年(1859年)に死去し、万延元年(1860年)に碧も追放されると、世子に復帰した。そして文久2年(1862年)12月25日(異説として文久3年(1863年)1月5日)に父が隠居したため、家督を継いで第16代藩主となった。

    しかし元治元年(1864年)の第1次長州征伐で長州藩が敗北すると、義達の母方の伯父にあたる勝井員周が保守俗論党(佐幕派)と共にクーデターを起こし、藩の主導権を握っていた義党(尊王攘夷派)の家老・大浦教之助ら100余名を処刑した。しかし慶応元年(1865年)に勝井ら保守俗論党も義党の残党によって暗殺されるなど、若年の藩主の下で混乱は続いた。また政治面でも、生産方を設置して貿易品販売を行なったが失敗し、さらに海防費の膨張や計画性のない借金の連続で藩財政は破綻した。
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E7%BE%A9%E9%81%94
  • [15] mixiユーザー

    2013年08月05日 04:21

    【養玉院】

    かつて上野(台東区)にあった養玉院と芝高輪(港区)にあった如来寺の2寺が1926年に合併して成立した。前身2寺院の名称をとって「帰命山養玉院如来寺(きみょうざんようぎょくいんにょらいじ)」と号する。宗教法人としての登録名は「養玉院」であるが、「養玉院如来寺」、「如来寺」とも呼ばれる[1]。

    五智如来堂の瑞應殿(ずいおうでん)には五智如来像(大日如来、薬師如来、宝生如来、阿弥陀如来、釈迦如来)が安置されている。五智如来とは密教の主尊である大日如来の有する5種の智恵を象徴したものである[2]。5体とも像高約3メートルで、「大井の大佛(おおいのおおぼとけ)」として親しまれている。ただし、薬師如来像以外は享保10年(1725年)と延享2年(1745年)の火災で焼失、その後再興された。

    対馬藩・宗氏、大和高取藩・植村氏の歴代の墓がある。
    http://yomi.mobi/wgate/%E9%A4%8A%E7%8E%89%E9%99%A2/
  • [16] mixiユーザー

    2014年02月18日 13:22

    ある宇和島市議会議員のトレーニング - Gooブログ

    【対馬の姓】難波先生より
    2014/02/18 12:43難波紘二先生

    【対馬の姓】雨森芳洲は近江の国雨森郷の出身で、21歳で対馬藩に仕え、88歳で没するまで対馬を離れなかった。
     白石が20歳の頃、主家の土屋家から解雇されて浪々の身となり、木下順庵の塾に学んでいた間に、対馬藩の塾生「阿比留順泰」と友人になった。対馬藩は朝鮮との外交にあたる人材を養成しようとしたらしい。
     白石は26歳の年、大老堀田正俊の堀田家十三万石に仕官したが、正俊が白昼斬殺される事件が起き、堀田家が出羽山形に移奉されている。この頃、白石は漢詩や紀行文を書いたようだ。書きためた詩約百篇を阿比留順泰の仲介で、折から来日した朝鮮通信使に見せたところ、通信使が「白石に会いたい」と言いだし、阿比留の同道で会った。すると製述官(通訳官)の成琬が詩集に序文を書いてくれた。(「折りたく柴の記」、岩波文庫、p.71-72)
     ところが阿比留(西山順泰)は元禄1(1688)年、病を得て江戸に29歳で客死した。芳洲が対馬藩のお抱えになるのは、その翌年である。
     その「阿比留」だが、「産経」に「極言御免」という、ちょうど「毎日」の「木語」に相当するコラムがあり、そこに「阿比留瑠比」という人がいつも書いている。
     http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140212/plc14021212470007-n1.htm
     名が「瑠比」とあるから一見女の名前かと思うが、似顔絵をみると立派な男性だ。この阿比留と白石の友人阿比留はどういう関係にあるのだろうか?と思った。

    (次のコメントへ)
  • [17] mixiユーザー

    2014年02月18日 13:27

    (前のコメントから)

      そこで「日本名字家系大事典」(東京堂出版)を調べてみた。阿比留は対馬の姓だが、その元は上総の国畔蒜(あびる)の庄(現千葉県袖ヶ浦市)が発祥の地で、813年、新羅国内の内乱に伴い対馬、壱岐に漂着・侵入する新羅船が増えたので、関東から対馬に武官を配置したという。1019年には対馬・壱岐へ「刀伊(とい=女真族)」の海賊船が来寇し、北九州沿岸をも略奪している。この時、阿比留氏は刀伊の将・龍羽を討ち、その功により代々対馬の代官となったとある。
     朝鮮との貿易に利があり、そこを狙われて1246年、太宰府の官人宗重尚により反乱を企てたとして征討された。以後、対馬の島主は宗氏となり阿比留氏は支配される側になったが、対馬ではいまでも最多姓という。つまり13世紀半ばまでは支配者階級であった阿比留氏は、以後、宗氏に仕える立場になったが、室町・戦国の時代から江戸時代をとおして、幕藩体制に服従しながら、たくましく生きたからいまでも最多姓なのであろう。
     「産経」の阿比留氏も本は対馬に繋がっているのであろう。

     これで対馬藩主宗氏と阿比留氏の関係、それと白石のつながりがわかった。
     では、その白石は朝鮮側からどう評価されていたのであろうか?
     白石がからんだ通信使は三度ある。
     第一は、綱吉の将軍就任の慶賀に来た、天和2(1682)年の通信使。この時は阿比留順泰の仲介で通信使たちに自作詩集を見てもらい、序を書いてもらっている。
     第二は、白石自身が接待を担当した六代将軍家宣を慶賀に来た正徳1(1711)年の使節。
     第三は八代将軍吉宗を慶賀に来た享保4(1719)年の通信使。この時、白石は吉宗から罷免され自宅で執筆に専念していた。芳洲が対馬藩を代表して表に出たのはこの時である。
     この享保4年の通信使製述官(通訳官)に選ばれた申維翰がソウルに行き、大学者崔昌大に製述官に選ばれたことの挨拶をすると、崔は書架から一冊の詩集「白石詩草」を取り出して開いて、申維翰に見せてこういった。
     「これは去る年(1711)日本に使いした使節、趙泰億が得てきた(新井)白石源與が作った詩である。君はいま、この人と相対すれば、その援助をうけるべく対等の礼をもってすべきである。
     日本の国は広く、山水は爽麗と聞く。必ず才高く、眼識の広い者がいる。(この白石の如く)我に信服しない一、二の者こそ、すなわちこれ畏るべきである。」(「海游録」p.7)
     白石の強烈な朝鮮との対等外交方針は、朝鮮の朝野に鳴り響いていたが、それでも彼の文は学者から深い畏敬の念をもって扱われていた。

    (次のコメントへ)
  • [18] mixiユーザー

    2014年02月18日 13:29

    (前のコメントから)

     さて、通信使の一行に加わって出発した申維翰は対馬滞在中には芳洲とのみ話したが、壱岐まで来ると対馬藩の随員にいた、芳洲と同じく順庵門下の松浦沼霞と会話している。
     「白石公にはつつがありませんか」
     「どうして貴方はあの方をご存知なのですか」
     「辛卯年(1711)の使臣趙泰億が白石公の詩集を持って帰りました。彼はそれを私に示し、常にその華のような才能を讃えてやみません」(「海游録」p.63)
     これは冒頭の崔昌大の話の受け売りである。彼は崔に会うまでは新井白石を知らなかった。申維翰は前回の製述官趙泰億と自分が知りあいであると、松浦に告げ、何年も前から白石詩集とその評価を知っていたと知らせようとしている。こういうウソを平然とつくところに、この通訳官の品性が表れている。

     白石は武士の子で、学問はほとんど独学である。17歳の時に中江藤樹「翁問答」を読んで、聖賢の道というものがあることを知り、学問に志したと述べている。漢詩も漢文も漢字辞書、音引き辞書を脇において自学自習したようだ。
    但し四書五経に関しては、京都出身の医師江馬益庵に素読の稽古をつけてもらっている。(「折りたく柴の記」, p.64-71)木下順庵との関係は、白石が30歳の時に阿比留が順庵に紹介して始まったもので、正式の子弟の関係というよりも、「順庵の弟分」というような関係だったらしい。「束脩(そくしゅう)の礼を執るにも及ばで、親しき師弟とはなりたる也」(「同」p.72-73)と書いている。「束脩」は婚儀における結納のようなもので、入門に際して弟子が師匠に渡す贈り物のことである。江戸期の塾は授業料を取らず、束脩が教師の重要な収入源になっていた。これをしないで、木下順庵のような大学者の弟子になった人はまれであろう。ちなみに月払いの授業料制度を始めたのは、福沢諭吉の「慶應義塾」が最初である。
    http://blog.goo.ne.jp/motosuke_t/e/414e0d50d70dbede390886afa35b77dd
  • [19] mixiユーザー

    2016年10月24日 18:41



     県内トピックス (2016年10月23日更新)
    長崎新聞

    対馬と佐賀400年の歴史

    写真
    市内の文化財について学ぶ大船越小と田代小の児童=2015年10月29日、佐賀県鳥栖市(対馬市福岡事務所提供)

     対馬と佐賀。海を隔てた二つの地域の関係は約400年前にさかのぼる。現在の佐賀県鳥栖市の東部と基山町一帯にあった「田代(たじろ)領」は、当時の対馬藩の「飛び地」。年貢を納めるなど藩の財政を支えていた。対馬市と鳥栖市では今、互いの地域の歴史を知り、再び交流を深めようとする動きが広がりつつある。

    ■武士を派遣

     「鳥栖市史」などによると、対馬藩は豊臣秀吉の朝鮮出兵で途絶えた朝鮮貿易に代わる収入源として出水領(現在の鹿児島県出水市の一部)を与えられた。しかし朝鮮出兵の論功行賞とみられる措置で出水領が薩摩(鹿児島)の島津氏に渡ったため、その代替地として田代領が1599年に対馬藩領となった。代官所を置いた地名から田代領と呼ばれるようになり、耕作に適した土地が少ない対馬藩に年貢米などを送った。

     江戸時代は対馬から派遣された武士を中心に統治。江戸後期には、藩校「東明館」を開いて学問にも力を入れた。幕末には、警備強化のために領民が対馬に渡った記録もある。対馬藩の動向の影響を大きく受ける関係にあった。

     中でも領民に慕われたのが1675年から約10年間、田代代官所副代官だった賀島兵介(かしまひょうすけ)。鳥栖市発行の「とすに貢献した人びと」によると、困窮した領民に米を支給したり、生活を改めさせて借金や借米を減らしたという。

     没後約100年がたった1794年、領民が安生(あんしょう)寺(鳥栖市)に石碑を建立。現在も命日の4月9日には、対馬市、鳥栖市、基山町の行政関係者が集い、遺徳をしのんでいる。

    ■「外の対馬」

     対馬市立大船越小は2011年から、田代代官所跡に立つ鳥栖市立田代小と交流を続けている。同年に大船越小校長に着任した山口徳男さん(現・対馬市立鶏鳴小校長)が、児童が佐賀県との歴史的な関係を学ぶ機会がないことを知り、「地域を見つめ直すきっかけになれば」との思いから、修学旅行の行程に組み入れた。その後は毎年、鳥栖市内にある対馬藩ゆかりの文化財などを両校児童が巡って関係を深めている。

     今年は鶏鳴小の6年生が、修学旅行で初めて鳥栖市を訪れる。鳥栖小の児童と一緒に市民ガイドの話を聞いたり、町を歩く予定。山口さんは「子どもたちは『対馬の外の対馬』に驚き、賀島兵介という偉人を知ることで歴史を身近に感じ、対馬の良さを見直すようだ。鶏鳴小の子どもたちも何らかの刺激を受けるだろう」と期待を寄せる。

     鳥栖市側もこれに呼応した。小中学生を公募して、夏休みに各地で体験学習をしている民間団体「鳥栖やまびこ研修団」が12年度から対馬市を研修地に指定。13年度から鳥栖市の委託事業として毎年8月8〜10日、約30人の児童、生徒が大船越小、中学校を訪問し、9日の平和集会にも参加している。

     鳥栖市教育委員会生涯学習課の島孝寿さんは「鳥栖市民の半分は新しい住民。地元の歴史を知らない人は多いが、対馬を通して歴史に興味を持ち、自分たちが暮らす街に愛着を持ってほしい」と願う。

     約400年前、治める側と治められる側として始まった関係は、時を超え、郷土愛を育む豊かなつながりに姿を変えている。

    http://www.nagasaki-np.co.jp/news/kennaitopix/2016/10/23093824049435.shtml
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  • 長崎県 対馬市
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