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開催終了第31回北京日本人学術交流会

詳細

2011年01月12日 18:26 更新



みなさん

いつもお世話になっています。
山口直樹@北京日本人学術交流会です。
今回は、日本の思想に造詣の深い中国社会科学院文学研究所教授の趙京華氏に
東京大学の哲学教授として知られる高橋哲哉氏の思想について報告していただくことになりました。

高橋哲哉氏は、もともとフランスのジャック・デリダなどの現代哲学研究から出発し、次第に現代日本のアクチュアルな問題にも哲学研究の観点から取り組むようになった哲学者として知られています。高橋哲哉氏の『靖国問題』(ちくま新書)は、近年の日本で異例の売れ行きをみせ、中国語に訳されている著作も少なくありません。
日本の戦後責任、植民地支配責任論などに関してもデリダの影響の下で精力的に展開していることが、知られています。
日本においては、こうした高橋氏の仕事が、「倫理主義」「息苦しい」といった反応を引き起こすことも少なくありませんが、中国の研究者は、どのように高橋氏の仕事を見ているのでしょうか。
竹内好『近代の超克』の中国語の訳者でもある中国社会科学院文学研究所教授の趙京華氏に高橋氏の仕事について報告していただき、共同討論を行います。
貴重な機会となるとおもいますのでお時間やご関心のある方は、ご参加いただけると幸いです。参加希望の方は、18日(火曜日)の深夜までに連絡係の坂本(green.forest1023   @gmail.com)までお申し込みください。(今回も席に限りがあるため、満席になり次第、締め切りにさせていただきます。どうかご了承ください。またお早めにお申し込みください。)
ではどうぞよろしくお願いします。

第31回北京日本人学術交流会
日時:2011年1月22日(土曜日)午後4時から約90分から120分その後、30分質疑応答のあと懇親会。
場所:北京大学近くの広東料理店何賢記(申し込んでいただいた方に詳しい情報を送ります)
題目:戦後責任論・靖国問題のゆくえ――高橋哲哉氏の現在
報告者: 趙京華氏(中国社会科学院文学研究所教授)
言語:日本語
参加費:10元(資料代、運営費ふくむ)
報告要旨
はじめに:
私は2007年に日本のポストモダンー思想と知識界の批判勢力に関する著作をまとめて出版した。その中の一章は高橋哲哉氏における1990年代以来の素晴らしい哲学的、論争的な仕事を論じた。2009年12月、私が東京で高橋さんと三年ぶりで再会し、ご本人から今現在のお仕事や関心事を聞かせることができた。本稿は、それを90年代以来高橋哲哉の哲学的、状況的な発言を合わせて報告し、氏のこれまでの活躍を思想史や現実にかかわる抗争においてどう評価したらいいか、また現在の日本や東アジアのまさに危機的な政治情勢において批判勢力の直面する困難をどう乗り越えて本来の力を発揮できるか、などを考えていきたいと思う。
高橋さんのお話によると、彼が今現在取り込んでいる課題は以前とそれほど変わりなく、考えの重点が少し変わっただけで、ひとつは追悼・顕彰という国家制度の問題をより哲学的に追及し、同時に靖国問題にかかわる遺族の合祀取り消し訴訟へ協力する実践を試みること。もう一つは戦争暴力にかかわる社会的な記憶、それにかかわる戦後責任問題から植民地支配の清算・責任問題へ発展していくこと、という。

1、 靖国問題の延長線:靖国神社の本質を論ずることから憲法違反への実践的戦いへ:田中伸尚編『これに増す悲しきことのなにかあらん――靖国合祀拒否・大阪判決の射程』、七つ森書館、2009年7月。高橋哲哉のインタビューと証言を掲載。
2、 戦後責任論から植民地支配の責任を問い議論へ:『思想』2010年1月号の特集「韓国併合100年:現代への問い」に高橋哲哉のインタビュー「二〇一〇年の戦後責任論」を掲載。

一、現代哲学、政治学に基づいて現実への戦いを挑む姿勢
――高橋哲哉における論理の「明晰さ」の由来

1、『記憶のエチカ――戦争・哲学・アウシュヴィッツ』(1995)あとがき:
「本書で論じたアーレント、レヴィナス、ヘーゲル、高山岩男といった人たちの思考は、むしろ歴史的な現実そのものを積極的に主題化し、論理や政治を哲学の中心問題として引き受けた思考だろう。出来事の衝撃にさらされることなしに、歴史一般を論じることは空しい。出来事から出発し、出来事をめぐって哲学することをわたしは夢見ている。」(281P)
 これは高橋哲哉の哲学研究における基本的な立場であると同時に、現実の政治問題にコミットする批判的な姿勢でもある。
2、現代欧州の哲学を批判的に受け入れ、それを現実批判の武器にすること。
デリダ:ロゴス中心主義批判、現象学が思考の根拠を見なす「同一性」を覆すこと、法の脱構築できること、正義の脱構築ができないこと。法はその起源においてすでに暴力が含まれているので、不断の脱構築(批判、改善)が必要であるが、正義はその核心は単独性の他者との関係にあり、それは脱構築することができない。
高橋哲哉はデリダのこのような脱構築の思想に影響され、正義のため、法が維持している国家制度ないしそのイテオロギーを持続的に脱構築(批判)する必要があることを認識し、現実の政治問題を積極的に取り込む姿勢を形成したのではないか、と。
レヴィナス:『全体性と無限』にある「他者の顔」という責任意識の論理:
たとえば、エマニュエル・レヴィナスは歴史の悲惨の只中から正義を呼び求める「他者」の顔、「異邦人、寡婦、孤児」たちの顔を見、その眼によって見つめられたときの「恥辱」の意思のうちに、ホロコーストの時代の「倫理」のぎりぎりの可能性を見出している。おのれの無辜を無邪気にも確信する主体は、「他者」の顔と眼によってその思いなしを根底から審問され、自分が無辜であるところかむしろ簒奪者であり、殺人者でさえあることを初めて発見して自分自身を恥じる。その恥の意識が、倫理的責任への覚醒の第一歩だというのだ。(『戦後責任論』209−210P)
高橋哲哉はまさにこのよう難しい哲学・倫理学から戦後責任論の論理を獲得し、1990年代以来の歴史修正主義への批判、または戦後責任論を展開されたわけである。
アーレント:『全体主義の起源』第3巻第3章にある「忘却の穴」説:
「秘密」警察の管轄下の牢獄や収容所は単に不法と犯罪の行なわれるところではなかった。それらは、だれもがいつなんどき落ちこむかもしれず、落ちこんだらかつてこの世に存在したことがなかったかのように消滅してしまう忘却の穴に仕立てられていたのである。殺害が行なわれた、もしくはだれか死んだことを教える死体も墓もなかった。この最新の〈粛清〉方法にくらべれば、ほかの国々の、またほかの時代の政治的殺人や犯罪的殺人などは、愚にもつかぬ手段で行なわれたまことに原始的な試みとしか見えない。死体を後に残し、ただ自分がだれかを知らせる手がかりを消すことだけに気を配っている殺人者などは、犯行の痕を残さず、犠牲者を生きている人間たちの記憶のなかから抹消するに足る大きな政治的に組織された権力をもっている現代の大量虐殺者の足もとにも寄れない。一人の人間がかつてこの世に生きていることがなかったかのように生者の世界から抹消されたとき、初めて彼は本当に殺されたのである。
 高橋哲哉がアーレントの「忘却の穴」説をさらに発展し、正義を戻すため、記憶の忘却に抗する「記憶の政治学」を立ちあげる必要があることが認識され、戦争や大虐殺の歴史をよみがえらせ、靖国問題、慰安婦訴訟・裁判などの現実問題を積極的にコミットしていく。

二、 戦後責任論と靖国問題から国家顕彰制度や植民地支配の責任論へ展開していく
「現在の研究分野、研究領域としては主として二つございます。一つは、二〇世紀のヨーロッパ哲学、専門的な言葉になりますが、ディコンストラクション、脱構築といわれる思想を主に研究しております。もう一点は、戦争、虐殺などの暴力的な出来事、これにかかわる社会的な記憶にかかわる研究というものをいたしております。」(田中伸尚編『これに増す悲しきことのなにかあらん』179P)
 現実闘争のレベルにおいて見ると、高橋哲哉は1990年代半ばから日本社会における「歴史認識」に関する一連の論争に巻き込んで、その戦いを抜くうちに二つの思想的な課題を獲得している。一つは戦後責任論、もう一つは靖国問題である。この二つの課題の延長線にあるのは今現在に取り扱う国家追悼・顕彰制度、植民地支配の責任論という二つの問題である。

1995年以来:
歴史教科書論争――歴史修正主義や自由主義史観への批判
戦後責任論――他者に対する応答の責任、加藤典洋の敗戦後論への反論
靖国問題――感情の錬金術、国家宗教の性格。小島毅の反論。

2005年以後:
近代国家の追悼・顕彰制度と戦争――『国家と犠牲』の課題をさらに哲学的に追及していく。近代国家そのものを問わなければならない。
植民地主義の清算 高橋哲哉のインタビュー「二〇一〇年の戦後責任論」より:
a.朝鮮併合100周年という節目に植民地支配の歴史的事実を知り、その歴史的な責任を問いなおす。b.世界的に見ても植民地主義は十分に問題化されていないが、2001年秋に南アフリカのダーバンで行なわれた人種差別撤廃会議で、国連が中心となって、植民支配を受けてきた地域の人々から欧米の旧宗主国に対して、植民地支配の責任を問う議論が提起された。それは画期的な意味があるc.かつてドイツはホロコーストの責任を認めて謝罪し、補償を行った。国家主権が絶対化されていた時代にその壁を突破したのがドイツで、それは世界史的な意義がある。日本は先駆的に植民地支配の責任に向き合い、その清算を通じて信頼関係を構築していくことに取り組むべきだ。d.拉致事件の遺族はどれだけの悲しみを抱くのかそうした悲しみが想像の範囲内に置かれたことは、同時に、日本の植民支配によって朝鮮民衆が受けた被害に対する想像力にもつながっていかなければならない。100周年という節目に北朝鮮との関係という面でも、植民地支配の歴史と責任を検証しなければならない。

三、 日本や東アジア現実のコンテクストの変動と高橋哲哉の正義論の可能性と限界

1、2011年現在の日本や東アジア情勢:
日本は:
a.国民や批判勢力の期待から大きく離れた民主党政権、その政治の混迷
b.朝鮮半島の情勢に影響され、韓国併合100年を契機に植民地主義の清算という課題は深い議論ができないままに残されている。
東アジアは:
a.1990年代から2011年へ、歴史認識、靖国問題の論争から領土、資源にかかわる
争いへ。
b.冷戦構造の再浮上、アメリカの「アジア帰り」戦略、日米韓同盟への新たな試み、中国の大国化(海洋に出る戦略)。

  2、高橋哲哉の仕事をどう評価すべきか:
 日本国内の問題として、帝国主義戦争の歴史を反省する観点から見ると、高橋哲哉の歴史認識にかかわる戦後責任論、靖国問題論は家永三郎、大沼保昭などの論点を遥かに凌ぐ思想的、倫理的、哲学的なレベルに達した、と評価すべく。
 ただ、戦争とその歴史、特に帝国主義戦争の歴史は一国の問題ではなく、アジア地域全体ないし世界史的な問題であるので、戦争歴史の感情記憶をどう共有するかという難問を解決しなければ、地域内における各国民衆の真の和解は期待できない。

例1: 1939年に陸軍省情報部が中心になって作った国策映画『靖国神社』を材料に、南京師範大学で講演する高橋哲哉がぶつかる交流の壁。
例2:『靖国問題』は中国で出版する際に発生した問題。

  3、新しいインターナショナリズムの構築
東アジアにおける150年来の負的な歴史遺産を乗り越えるためにも、冷戦構造の復活を防ぐ、領土や資源の紛争を平和的に解決するためにも、新しいインターナショナリズムの構築が必要ではないか。それは各国における左翼か批判勢力が当面する課題だと思う。
新しいインターナショナリズムを構築する上に、地域内における批判勢力や市民の連帯の道を探っていく。


付録1:高橋哲哉の主な著作:
『逆光のロゴス――現代哲学のコンテクスト』、未来社、1992。
『記憶のエチカ――戦争・哲学・アウシュヴィッツ』、岩波書店、1995。
『「シュアー」の衝撃』(共編著)、未来社、1995。
『ナショナル・ヒストリーを超えて』(小森陽一と共編)、東京大学出版会、1998。
『デリダ――脱構築』、講談社、1998。
『戦後責任論』、講談社、1999。
『歴史/修正主義』、岩波書店、2001
『「歴史認識」論争』(編著)、作品社、2002。
『「心」と戦争』、晶文社、2003。
『反・哲学入門』、白澤社、2004。
『「物語」の廃墟から』(対話集)、影書房、2004。
『証言のポリティクス』、未来社、2004。
『教育と国家』、講談社、2004。
『平和と平等をあきらめない』(斎藤貴男と共著)
『靖国問題』、筑摩書房、2005。
『国家と犠牲』、NHKブックス、2005。
『「靖国」という問題』(田中伸尚と共著)、2006.
『靖国問題入門』(菱木政晴と共編)、2006。
『状況への発言――靖国そして教育』、青土社、2007。

付録2:高橋哲哉の著作の漢訳:
『デリダ』(河北教育出版社)
『靖国問題』(北京三聯書店)
『戦後責任論』(社会科学文献出版社)
『歴史/修正主義』(社会科学文献出版社)
『国家と犠牲』(社会科学文献出版社)

北京日本人学術交流会代表:山口直樹(ngodzilla21@yahoo.co.jp)
http://j.peopledaily.com.cn/96507/97399/6683162.html



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