mixiで趣味の話をしよう

mixiコミュニティには270万を超える趣味コミュニティがあるよ
ログインもしくは登録をして同じ趣味の人と出会おう♪

開催終了任那日本府

詳細

2015年10月12日 08:06 更新

★任那日本府

ネットで見つけた、日本府に関するまとめを転載します。

宋書倭国伝・・・・・・・・・・・・朝鮮半島は倭の支配が及んでるとも書いてる

満州にある広開土王碑・・・倭国が海を渡って百済と新羅を臣下にしたと書いてある。

三国史記「新羅本記」・・・・慶州を倭兵に包囲されたと言う記録がある。 新羅は何回も王子を人質に差し出している。百済の武寧王は人質の子として日本で生まれた。

日本書紀・・・・・・・・・・「391年に神宮皇后が百済と新羅を征服したと書いてある。」

宋書・・・・・・・・・・・・倭国が朝鮮半島南部を支配した記録がある。


随書・・・・・・・・・・・・倭国は産物も豊かで鉄の鏃で武装した軍隊を持つ。

百済と新羅は倭国を大国として敬ったと書いてある。

中国の史書に「任那」の地名が記されている。
倭国王が百済、新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓等を支配していると名乗り、宋王朝が認めている。

438年、倭王珍が宋に朝献し、自ら
「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」と称し、正式任命を求めた。(『宋書』夷蛮伝)

451年、倭王済が宋朝・文帝から
「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」を加号された。安東将軍はもとのまま。(『宋書』倭国伝)

477年、倭王武は自ら
「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王」と称した。(『宋書』夷蛮伝)




 捨てざり難い説

   任那と対馬

  これは、愛知県津島神社に伝わる縁起ですが、このことから津島神社は、日本の総社の称号を得ています。いずれ、詳しく記す機会もあるでしょうから、ここではこれ以上触れませんが、スサノオこそ「倭国」建国の太祖です。津島神社は別名天王社といい、全国に三千の分社を持つ総本社ですが、津島神社の「津島」は、無論「対馬」のことです。というより、「対馬」が「津島」の当て字であると思われます。「対馬」は海を隔て「馬韓」に対していたため、「対馬」と記されたものと考えられ、本来は寄港の島である「津島」であったと思われます。

  さて、その津島神社にスサノオが祀られることとなった経緯が、神社の縁起として残っております。


  
  「須佐之男命韓国に渡りましける時、その荒御魂(あらみたま)は尚出雲國に鎮まりまして日御崎の神となり給ひ、又和御魂(にぎみたま)は孝霊天皇の四十五年乙卯(前二四五)に一旦西海の對馬州に鎮まりまし、欽明天皇の元年庚申(五四○)この地藤浪の里馬津港居森の地神島の南(南
 参道居森社の地)に移らせ給ひ、聖武天皇の天平元年己巳(七五七)神託によりて北方柏森(境内栢森社の地)に移し奉り、嵯峨天皇の弘仁九年庚寅(八一〇)今の地に移り給ふたとある。」


  本地を津島神社を称するのは、スサノオの和魂が「対馬」から渡ってきたからであり、皇国の本主・スサノオの故地が「任那」、すなわち君主の国ならば、「対馬」やその前の「韓国」(『日本書紀』では「新羅」)が、「任那」とされることは、もっともなことだと思います。
http://www2.plala.or.jp/cygnus/st7.htm
(記事抜粋)



対馬の名石館
自然が織り成す神秘的な紋様・造形美

 こういった日本の歴史家の任那諸国の朝鮮半島比定に対し、韓国釜山大学の李炳銑名誉教授は、国語学者として、古代国名、地名研究を通じて1986年8月、対馬に来島し当時対馬郷土史家の藤井勝男氏、高雄武保氏、現観光物産推進本部の本石部長らが同行し一ヶ月半にもおよぶ「任那諸国の対馬比定」の踏査を終えて、奈良県の「日本地名学研究所」でこの論稿をまとめ上げ、朝鮮半島南部の任那日本府説をひっくり返した任那対馬説の根拠を、著書『任那は対馬にあった』で詳しく紹介しています。

(中略)

★562年(欽明天皇13年春正月の条)………「新羅打滅任那官家。」「一本云、廿一年、任那滅焉。總言任那、別言加羅國・安羅國・斯二岐国・多羅国・卒麻國・子他國・散半下國・乞喰國・稔禮國、合十國。」とあるが、これは、「任那の官家が新羅に滅ぼされる」。そして、この総体を任那と呼び、個々には、加羅国・安羅国(厳原)・斯二岐国(豆酘)・多羅国(綱)・卒麻国(佐須)・古嵯國(加志)・子他国(志多浦)・散半下國(曽)・乞喰國(久須)・稔禮國、合わせて十国のことである。()内は、釜山大学の李名誉教授が、任那十国を古代朝鮮語から言語学的に解明して比定した対馬の地名。

(中略)

★日本書紀、中国史料、朝鮮史料をもとに、20世紀に編纂された『桓壇古記』では、『日本書紀』がいう三韓とは朝鮮半島にはなかった新羅・高麗・百済のことで弁韓・辰韓・弁辰のことではないということで、「任那は分かれて三加羅となった。加羅とは主邑の名前であり、佐護加羅(上県町佐護地区)は新羅に属し、仁位加羅(豊玉町仁位地区)は高句麗に属し、鶏知加羅(美津島町鶏知地区)は百済に属した。これより三韓は長く争った 」「三つの加羅とは対馬にある新羅、高麗、百済の中心(首都)で、任那から分かれて三加羅(佐護加羅、仁位加羅、鶏知加羅)となった」とあり、これは任那地域をめぐって新羅、高句麗、百済が抗争する『日本書紀』の任那の状況そのものである。

(後略)
         
http://mitsusima.jugem.jp/?eid=392
(記事抜粋)

コメント(14)

  • [2] mixiユーザー

    2016年03月08日 15:08

    対馬の名石館

    海のシルクロード

    添付写真
    シルクロード世界遺産  文化で隣国とつながろう

    編集委員 中村俊介(2014年朝日新聞記事より)

    東西文化交流の道「シルクロード」が、今年、中国、カザフスタン、キルギス3カ国の共同申請で世界文化遺産になった。喜ばしいが、そこに日本が含まれないことに複雑な思いを抱く人も多いのではないか。日本もその一端に連なるべきだ、との声が出ている。

    シルクロードとは、邦訳すれば「絹の道」。東洋の絹が西方へ伝えられた道で、ドイツの地理学者リヒトホーフェンが名付け親だ。このロマンチックな響きは、オアシスをたどって東西文明を行き交うラクダの隊商をほうふつさせ、現代人のあこがれを誘う。

    シルクロードは1980年代のNHk番組が反響を呼んで以来、日本人にはなじみが深い。天平の舶来品を納めた正倉院のある奈良は、その終着駅への登録も、日本画家の故・平山郁夫氏らが2002年にあった中国での国際会議で提案した経緯がある。

    一般にその両端は、漢や唐の都だった長安や洛陽からローマまでのイメージが強いが、時代ごとに伸び縮みもするし、沿線には中央アジアや中東の国々も多く含まれる。絹だけでなく、技術や思想、宗教なども行き交った。文化は無数の地域と相互につながり、伝播の道はいくつもある。貿易船の海路をたどる「海のシルクロード」もすっかり定着した。

    そんな漠然とした概念だから、日本にとってシルクロードもあっていい。文化遺産国際協力コンソーシアム副会長の前田耕作・和光大名誉教授は「日本文化はシルクロードの多様性を引き入れてできている。だから、日本文化の原点だ」という。

    今回、ウズベキスタンやタジキスタンも共同で、中国などとは別に世界遺産に挑戦したが、及ばなかった。だが今後も、いろんな国々が連携して登録をめざすだろう。ユネスコも共同申請の動きを歓迎していると聞く。ならば日本も、たとえば韓国と一緒に、中国から東に伸びる「東方回廊」などを考えていいのではないか。

    ただ、文化遺産の推薦は一カ国から毎年一件。国内推薦の物件は現在、自治体への暫定リストには推薦を待つ10候補が控える。だからこれらを差し置き、日本が他国に共同申請を持ちかけるには、従来の公募システムとは別の仕組みを模索する必要があるだろう。

    シルクロードの東端に位置する日本は歴史的に韓国や中国とつながる。いま隣国関係は厳しいが、文化の提携と協力こそ解決に有効ではないか。人の心の中に平和のとりでを築くという、ユネスコ憲章の趣旨にも合致するはずだ。

    (次のコメントへ)
  • [3] mixiユーザー

    2016年03月08日 15:17

    (前のコメントから)

    2月28日、対馬市長選挙が行われました。前回の市長選挙では新病院建設問題が争点となりました。今回の市長選挙では、四十数億円かけて建設しようとしている博物館が争点にならないといけないのに、立候補した三者ともに一言も博物館建設についてのビジョンを描くことができていません。これから博物館のオープンにむけて、財部市長が建設した観光施設゛ふれあい処゛や゛よりあい処゛を博物館集客のための拠点にしなければならないはずですが、いったい何を考えているのでしょうか。

    中国史書や広開土王碑や日本書紀に記されている『任那』は、2世紀から7世紀頃まで対馬を中心に朝鮮半島南部から福岡県の筑紫を占有していた豪族(君主)です。中国や朝鮮と文化交流の中で大和を築き上げていく東西文化交流の道が『シルクロード』でした。4世紀に任那の中心都市だったのが、その当時の対馬最大の出居塚古墳(前方後方墳・対馬市美津島町鶏知甲)がある辺りだと考えられます。私どもはそうした事実を、対馬市や長崎県、文部科学省に何度も訴えてますが、都合の悪いことは知らないふりをして一向に進めようとしません。現在、沖ノ島の8万点の財宝は全て、宗像の豪族が大陸へ向けての航海の安全祈願のために祭祀の際に神様に奉納した物だということで、世界遺産の登録を目指しています。日本書紀というのは、ほとんどが作り話しと言われている中で、そうしたことを元に作り上げた史実をユネスコが認めるでしょうか。

    対馬博物館計画は当初、仮称『対馬歴史街道博物館』ということでスタートしました。対馬市は博物館オープンにむけて、中国、韓国、日本の世界文化遺産『シルクロード計画』の中心となって、マスコミなどに宣伝していただきながら、組織作りを進めていくべきではないでしょうか。
    http://mitsusima.jugem.jp/?eid=1459
  • [4] mixiユーザー

    2016年09月16日 23:41

    朝鮮日報からです。


    【寄稿】日本書紀にのみ登場する任那日本府、その実像は
    2016/09/15 06:04

    添付写真

     「任那日本府」は、古代日本の大和政権が西暦720年に編さんした『日本書紀』にのみ登場する用語だ。しかし、ここから派生した「任那日本府説」は、近代日本の歴史学界が作り出した、歴史を装った虚像だった。任那日本府説とは、日本が4世紀から6世紀まで実に200年間にわたり、百済・新羅・伽耶を含む韓半島(朝鮮半島)南部地域を近代の植民地のごとく経営し、その統治の中心として伽耶地域に任那日本府を設置・運営したという主張だ。しかし植民地時代に、伽耶の古墳群をはじめとする慶尚道地方の遺跡を、植民支配者に許された無限の権利で掘り返してみたが、任那日本府を証明できる証拠は一つも発見できなかった。一方で光復(日本の植民地支配からの解放)後、韓国の考古学界もまた、伽耶の遺跡を発掘して関連遺物が出土するたびに「これで任那日本府説は否定された」という発表を繰り返してきたが、任那日本府の存在自体を否定できる直接証拠が出たことはなかった。任那日本府の問題は、日本書紀の編さん者の特別な歴史意識と記述方式にすぎないからだ。

     任那日本府はなかったが、韓国と日本ではさまざまな任那日本府説が横行した。古代日本が伽耶に置いた出張機関という説。韓半島ではなく現在の岡山県付近にあった伽耶系の分国・任那をめぐり、畿内の大和政権が九州の百済系分国(北西部)および新羅系分国(北東部)との争奪戦に勝利して設置した機関だという説。大和政権とは関係のない、伽耶の倭人の自治的な行政機関だったという説。主体を日本から百済に変えて「任那百済府」と見なし、伽耶に設置された百済軍司令部だったと解釈する説。統治機関や行政機関ではなく、外交使節だったという説。さまざまな説が展開された。しかし、複雑な史料批判を抜きに日本書紀をじっと眺めるだけでも、外交使節説を除き、全て虚像だということを簡単に明らかにできる。

     まず任那日本府の起源を、4世紀中盤〜後半にかけて神功皇后が新羅・伽耶7カ国を平定したという説話に求めているが、肝心の任那日本府の記録は5世紀後半(1回)と6世紀前半(22回)に限られている。

    (次のコメントへ)

  • [5] mixiユーザー

    2016年09月16日 23:44

    (前のコメントから)

    4世紀後半に新羅と伽耶を平定した倭や百済が、100〜150年もたってから統治、もしくは軍政機関を設置したというのは理解できない。何より、23回も登場する日本府の記録の中に、倭や百済が伽耶で租税徴収をしたとか、力役・軍士を動員したとか、政治的強制力を示したといった記述は見られない。日本府という用語が見られる記録は全て、倭の使臣が、現在の慶尚南道咸安に位置していた阿羅国王の保護の下、百済と新羅を相手に展開していた外交活動に関するものだ。つまり任那日本府の実体は、倭王が伽耶に派遣していた外交使節であって、日本書紀の編さん者が自らの歴史解釈に基づき、統治機関を意味する「府」という漢字を当てて記録したというだけのことだ。

    こうして任那日本府の虚像と実体が明らかにされても、なお日本書紀の関連記録に注目すべき理由は、伽耶史の復元のためだ。この記録には、『三国史記』や『三国遺事』にはない、伽耶史復元のための資料が毛細血管のように絡み付いている。任那日本府説の克服を通して、日本府と表記された倭使の活動が、親百済・反新羅から親新羅・反百済へと変わっていく特徴が新たに指摘され、こうした事実は新羅と百済の侵略に対応してきた伽耶の外交戦略の抽出を可能にした。

    伽耶に対する植民支配という仮説が、伽耶の独立維持努力という歴史へ変わることになったわけだ。
     韓国における伽耶史研究の不振が、植民史学の任那日本府説を呼び込んだ。韓国の過去を振り返るもう一つの鏡たる、日本書紀の関連記事の研究を通した伽耶史の復元が必要だ。

    李永植(イ・ヨンシク)仁済大学歴史考古学科教授

    朝鮮日報/朝鮮日報日本語版
    http://www.chosunonline.com/m/svc/article.html?contid=2016091201830
  • [6] mixiユーザー

    2016年09月17日 22:53

    コメント4に続いて朝鮮日報からです。

    どうしても日本を下に見たい感情がミエミエです。

    韓国人の精神
    http://mixi.jp/view_event.pl?comm_id=1965449&id=75321829

    @@@@

    【寄稿】住民の往来・移住が活発だった古代韓日関係
    2016/09/16 06:03

     植民史学の歪曲(わいきょく)は韓国史の多方面にわたっているが、古代韓日関係史もその一つだ。韓半島(朝鮮半島)南部を日本の大和政権が直接(伽耶)、もしくは間接(百済・新羅)支配し、韓半島の覇権をめぐって高句麗と勝負を繰り広げた−という、いわゆる「南鮮経営論」は、任那日本府説と対を成している。光復(日本の植民地支配からの解放)後、韓国と北朝鮮の歴史学界は、植民史学のこうした主張を克服するため努力した。

     北朝鮮学界の努力は、金錫亨(キム・ソクヒョン)の「分国説」で整理された。高句麗・百済・新羅・伽耶の住民らが日本列島に集団移住して分国を建設し、これらの分国と大和政権の関係が『日本書紀』に記録されたのだという。従って、日本の大和政権が韓半島南部を支配したのではなく、逆に韓半島の住民が日本列島の各地に定着して国家を経営した、という主張だ。

     韓国の学界は、歴史書や広開土王碑・七支刀など金石文資料に対する新たな解釈を通して、任那日本府説を克服しようとした。

    この過程で大きな力を発揮したのが、考古学的研究だ。1970年代以降、高霊・釜山・陜川・咸安にある王陵の調査が進み、伽耶の政治的・文化的発展水準が、大和政権はもちろんのこと百済や新羅と比べても遜色ないという事実が明らかになった。大和政権が伽耶を支配したという物質的な証拠は発見されず、逆に伽耶の甲冑(かっちゅう)や馬具、最高級の堅い土器(陶質土器)が伝えられ、日本の古代文化の発展に大きく寄与したことも分かった。日本人研究者も任那日本府の虚構性を認めるようになり、南鮮経営論も消滅した。
     ところが、問題は別のところから持ち上がった。栄山江流域には「長鼓型墓」と呼ばれる特異な形の墓が10基ほど分布しているが、90年代以降、これらの発掘調査が進み、構造・葬法・副葬品などの点で日本の前方後円墳と共通性を有していることが明らかになった。その後、栄山江流域の前方後円墳は韓日学界の熱い争点に浮上した。日本の前方後円墳の起源が栄山江流域だという学説も、韓国国内の研究者によって提起された。

    (次のコメントへ)
  • [7] mixiユーザー

    2016年09月18日 03:48

    (前のコメントから)


    しかし日本で前方後円墳が登場した時期は3世紀後半なのに対し、韓半島では最も早いものでも5世紀末という点から見て、これは無理な解釈だ。日本列島で発見された前方後円墳が4800基もある点を考慮すると、前方後円墳は日本的な墓制と見るのが妥当だ。
     こうした墓が韓半島の栄山江流域に登場した背景や埋葬されている人物についての両国学界の解釈は、「鉄資源を求めて韓半島で活動した倭の武将」「日本で生まれたが百済のために活動した倭系百済官僚」「栄山江流域の支配層が墓制だけ導入したにすぎない」など、さまざまだ。加えて、前方後円墳のほかにも石室の構造や葬法・遺物などの点で日本的な香りを漂わせる遺跡や遺物が、韓半島南岸の各地に分布しているという事実が明らかになり、問題を一層複雑にしている。

     しかしこれは、日本列島の各地で発見される百済・伽耶・新羅系文物の量と比べると極めて少ない。古代日本が先進文物を輸入する際の窓口だった北部九州や、大和政権の心臓部だった畿内一帯では、韓半島の住民が移住・定着した痕跡が多く見つかっている。
    日本では、彼らを「渡来人」と呼ぶ。5世紀以降、日本列島の政治的状況が大きく変わるきっかけになったのが、彼らの移住だと認めている。なんと、大阪の高井田山古墳には百済の王族夫婦が埋葬されていると認める程だ。

    当時の歴史的実像は、韓半島の諸国家と日本列島の複数の政治勢力間で多者間交渉が行われたというものだった。韓半島南部住民の大規模な日本列島への移住と定着が大きな流れであって、日本列島住民の韓半島往来と移住も一部に存在した。これが、古代韓日関係史の実像だ。

    クォン・オヨン教授(ソウル大学国史学科)
    朝鮮日報/朝鮮日報日本語版
    http://www.chosunonline.com/m/svc/article.html?contid=2016091301527
  • [8] mixiユーザー

    2018年04月12日 11:44



    韓国南部の日本式墓、主は5世紀に日本から百済に渡った傭兵
    Posted April. 11, 2018 08:05
    Updated April. 11, 2018 08:05

    写真
    「韓半島南部で発掘された日本式の墓の主は果たして誰か」

    光州光山区月渓洞(クァンジュ・クァンサンク・ウォルゲドン)の古墳群などで発見された前方後円墳は、韓半島の伝統の古墳の様式とは全く異なる。名前のとおり前面は台形、後方は円形で作られた鍵形の墓だ。日本の古墳時代(3〜7世紀)の墓の典型的な様式だ。

    韓半島に存在する倭系古墳の主が、5世紀に日本から百済に渡ってきた「倭人傭兵」の可能性が最近提起された。慶北(キョンブク)大学考古人類学科の朴天秀(パク・チョンス)教授は、最近発表した論文「倭系の古墳から見た百済と倭」で、「出土遺物や三国史記、日本書紀など各種文献を分析した結果、墓の主は日本の支配層ではなく中下級の傭兵と見るのが妥当」とし、「日本の学界の一部が主張する任那日本府説が説得力がないことを示す証拠」と強調した。

    文献によると、日本の傭兵が韓半島に来た初の記録は405年頃。三国史記と日本書紀には、「日本に滞在した百済の太子、腆支王が父親の阿莘王が逝去すると、倭兵100人の護衛を受けて帰国した」という内容がある。その後、日本の護衛兵に関する記録は残っていない。ただ広開土大王陵碑に「倭が船で攻撃した」という記録があり、彼らが百済・高句麗戦争に参加した可能性が高い。

    朴教授は、「5世紀前半の全羅南道高興郡(チョンラナムド・コフングン)の雁洞(アンドン)古墳と野幕(ヤマク)古墳は、墳丘の表面に石を敷く葺石施設で、日本式の大刀や鎧などの遺物が出て、墓の主が日本人であることを物語る」とし、「海洋軍事の要衝地に位置し、王室から下賜したと見える金銅冠が出土したことから、百済の傭兵として活躍した可能性が高い」と説明した。

    479年、百済の東城王も腆支王と同様、日本の傭兵500人を同行させて三斤王の逝去後、帰国した。彼ら500人が埋葬されたと推定される6世紀前半の墓は、主に栄山江(ヨンサンガン)流域で発見されている。日本の九州地域の横穴墓と似ている。百済の王室の用品である金箔ガラスなどが出土した。

    日本の数人の学者はこの古墳を根拠に「任那日本府説」を主張した。しかし朴教授は、「墓の形態が一定の系統なく5〜6世紀に集中的に現れて消えた」とし、「倭系古墳の主は韓半島で支配的な勢力ではなく、一時的に活動した傭兵階級と見るほかはない理由だ」と明らかにした。

    柳原模 onemore@donga.com

    http://japanese.donga.com/List/3/08/27/1282299/1
  • [9] mixiユーザー

    2018年07月23日 12:04


    記事抜粋
    任那日本府、倭が阿羅伽耶に派遣した使節

    記事抜粋
     韓国と日本の歴史学界の長年の論争の種である「任那日本府」について研究叢書は、倭の王権が伽耶に派遣した外交使節と定義した。任那日本府は、咸安の阿羅国に長期滞留し伽耶王らと歩調を合わせて百済と新羅に対する外交活動に参加した。阿羅国の王は彼らを通じて倭を背後勢力として確保し、百済と新羅に対抗した。




    伽耶、6カ国でなく12カ国以上で構成」
    登録:2018-07-17 21:51 修正:2018-07-18 09:30
    페이스북
    트위터
    구글
    프린트
    글씨크기 크게
    글씨크기 작게

    伽耶(カヤ)古墳群世界遺産登載推進団「研究叢書」発刊 
    紀元前1世紀から562年まで約600年間繁栄 
    利害関係からまり伽耶内部で戦争も 
    任那日本府、倭が阿羅伽耶に派遣した使節

    画像1
    古代国家 伽耶の歴史は、西暦400年高句麗広開土大王が朝鮮半島南部の伽耶と倭の兵を攻略したことを基点に、洛東江下流地域を中心に繁栄した前期伽耶(左図)と内陸地域を中心に繁栄した後期伽耶(右図)に区分される=慶尚南道提供//ハンギョレ新聞社

     「今日の慶尚南道地域を中心に繁栄した古代国家伽耶は、首露王など六兄弟が建国した六つの小さな国々で構成され、互いに連盟を結び仲が良かったが、新羅に征服された」
     これが伽耶に関する一般的常識だ。しかし、各種の研究成果を総合してみる時、これは歴史的事実とは全く距離が遠い。六つの国が兄弟のように仲良くしていたというのは『三国遺事』の記録のために作られた虚構に過ぎないというのが、伽耶関連研究成果の総合結論だ。

     「慶尚南道伽耶古墳群世界遺産登載推進団」は16日、『伽耶史総論』『伽耶古墳群1』『伽耶古墳群2』の三巻で構成された『伽耶古墳群研究叢書』を出した。研究叢書は「伽耶史の時期区分と空間的範囲」「伽耶古墳群の形成過程と景観の特徴」「文献で見た伽耶の対外交流」など計25章で構成され、大学・博物館・研究院など20の機関の専門家25人が一章ずつ分けて執筆した。

    画像2
    慶尚南道伽耶古墳群世界遺産登載推進団が出した『伽耶古墳群研究叢書』//ハンギョレ新聞社

     研究叢書は「『三国志』『三国史記』『日本書紀』などを総合的に分析する時、政治体制としての伽耶は2世紀から存在するが、文化成立時期を含めれば伽耶の歴史は紀元前1世紀から大伽耶が滅亡する562年までの600年余りに達する。また伽耶は、12個以上の小さい国々で構成され、高句麗・百済・新羅の三国とは区分される独自の歴史を持っている」と結論付けた。

    (次のコメントへ)
  • [10] mixiユーザー

    2018年07月23日 12:05

    (次のコメントへ)

     全盛期の伽耶の領域は、東は釜山と慶尚南道梁山(ヤンサン)・密陽(ミリャン)まで、西は全羅北道南原(ナムウォン)・長水(チャンス)と全羅南道谷城(コクソン)・求礼(クレ)・光陽(クァンヤン)・順天(スンチョン)など湖南(ホナム)東部地域まで達した。したがって伽耶を除く高句麗・百済・新羅の三国だけが朝鮮半島に存在した期間は、伽耶の滅亡以後、660年に百済が滅亡するまでの100年にもならなかった。
     研究叢書は、西暦400年を基点に前期伽耶と後期伽耶に伽耶の歴史を区分した。高句麗広開土大王は、伽耶と日本(倭)の侵略を受けた新羅の救援要請を受け入れ、400年に5万人規模の歩兵と騎兵を派遣して、倭兵と伽耶を攻略した。この時、洛東江(ナクトンガン)下流地域が主戦場になり、洛東江の水路と海を利用して発展した南部伽耶が大きな打撃を受けた。このため南部海岸地域にあった伽耶の中心が高句麗の攻撃を受けて以後、慶尚北道高霊(コリョン)の加羅国と慶尚南道咸安(ハマン)の阿羅国など北部内陸地域に移動した。
     伽耶は利害関係にしたがって隣の伽耶を侵略したりもし、新羅を背に負って他の伽耶国と戦争もした。史勿国(サムルグク)など金海(キムヘ)西部地域の国々が起こした戦争である浦上八国戦争が代表的だ。したがって、伽耶連盟体論は虚像に過ぎないわけだ。
     韓国と日本の歴史学界の長年の論争の種である「任那日本府」について研究叢書は、倭の王権が伽耶に派遣した外交使節と定義した。任那日本府は、咸安の阿羅国に長期滞留し伽耶王らと歩調を合わせて百済と新羅に対する外交活動に参加した。阿羅国の王は彼らを通じて倭を背後勢力として確保し、百済と新羅に対抗した。

    画像1
    慶尚南道咸安郡の伽耶邑で発見された阿羅伽耶王宮跡地と推定される遺跡。阿羅伽耶は後期伽耶の中心地であった=慶尚南道提供//ハンギョレ新聞社

     伽耶古墳発掘の結果、伽耶は死んだ権力者のために従属関係にあった人を強制的に殺して一緒に埋葬する殉葬を3世紀末から6世紀中葉までしていたことが確認された。古代朝鮮半島南部の殉葬は、3世紀末に造成された金官伽耶の古墳である慶尚南道金海市大成洞(テソンドン)古墳で初めて確認された。新羅で殉葬が施行されたより早い時点だ。6世紀に造成された大伽耶古墳の慶尚北道高霊郡芝山洞(チサンドン)44号墳では、40人余りの殉葬者が確認された。これは古代朝鮮半島で確認された最大規模の殉葬事例だ。
     慶尚南道伽耶古墳群世界遺産登載推進団は「今回出した研究叢書は、伽耶古墳群世界遺産登載のための基礎資料として活用するために、最近の研究成果を集約し専門性を備えつつ一般教養書水準で整理したものだ。伽耶に関連した多くの研究成果を、初めて一堂に集め整理したという点に研究叢書の価値があると見る」と明らかにした。だが、急いで出版したために、研究叢書は所々誤字が残り、筆者どうしが使う用語も一部統一できなかった。またそれぞれ異なる研究結果を提示するなどの問題点も抱えている。850ページを超える膨大な分量の学術書籍であるのに、索引が付いていないなど、物足りなさも残る。
    チェ・サンウォン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
    http://www.hani.co.kr/arti/society/area/853447.html
    韓国語原文入力:2018-07-16 15:14
    訳J.S

    http://japan.hani.co.kr/arti/culture/31136.html
  • [11] mixiユーザー

    2018年08月28日 00:01


    【韓国】 「任那は伽耶ではなく対馬にあった」〜任那日本府説の虚構をコンピュータで実証[01/29]

    1蚯蚓φ ★2018/01/31(水) 00:45:57.54ID:CAP_USER>>45>>49>>55>>61>>65>>71>>77>>91>>123>>171>>182>>187>>206>>218>>225>>228>>250>>258>>278>>290>>291>>325>>335>>351>>360>>386>>413>>438>>446>>473>>512>>524>>538>>539
    仁荷(インハ)大は「朝鮮総督府の官営学者らが主張した任那日本府説が虚構であることを実証した」と29日、明らかにした。

    日帝強制占領期の日本学者らは「日本書紀」神功皇后の記録を引用、「新羅を征伐した365年から200年間、植民統治機関の任那日本府が韓半島南部に存在した」という植民史観を主張した。

    しかし、仁荷大融合考古学科、ナム・チャンヒ教授研究チームは任那日本府説の根拠になった日本書紀仲哀天皇条の記録を分析した結果、論理的矛盾を多数発見した。

    まず日本書紀の記録によれば海水が国中に入ってきておじけづいた新羅王が降参したという一節が出てくるが、東海は本来、潮の干満の差があまりない地域であり、新羅の首都・慶州は上げ潮が入ることはない場所だと主張した。

    これについて研究チームは過去3年間、「高句麗、百済、新羅が各々勢力圏を対馬に分けて持っていた」という釜山(プサン)大イ・ビョンソン教授の主張に注目した。韓半島の他に遠征艦隊が福岡から上陸作戦をしなければならない場所は対馬と壱岐の二つの地域しかないからだ。

    研究チームが「日本書紀」に出てくる記録で己亥月辛丑日の潮を干満コンピュータプログラムで計算してみると、その日から3日間、満潮であり、当時、福岡で船で三日かかる対馬西側にサリ現象(大潮?)があったことが分かった。

    これを土台に研究チームは神功皇后が征伐したという新羅は韓半島の新羅ではなく、対馬の西側沿岸にあった新羅系勢力である可能性が最も高い、という結論を導き出した。

    ナム教授は「ムン・ジェイン大統領が正しい伽耶の歴史復元を学界に注文したにもかかわらず、国内の一部学者が伽耶こそ任那という日本の右翼学説に同調する動きがあり、これに釘を刺す成果」と意味づけた。

    /ユン・ヨンヘ記者

    ソース:京畿日報(韓国語) コンピュータで計算…「任那は伽耶でなく対馬だ」
    https://www.kgnews.co.kr/news/articleView.html?idxno=505409

    https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1517327157/
  • [12] mixiユーザー

    2018年08月30日 18:18

    【「卑弥呼の墓」9月出版】

    記事抜粋
    「対馬=唾」「一大国(壱岐)=息」「末盧(松浦)=目面」

    @@@@

    「卑弥呼の墓」9月出版 豊永会の豊永名誉理事長 独自の視点で読み解く
    2018年08月28日 16時08分

    豊永武盛さんが出版する「卑弥呼の墓 『あいうえおの考古学』2」
    拡大する
     飯塚市で飯塚記念病院や診療所「心のクリニック・飯塚」などを運営する豊永会の名誉理事長、豊永武盛さん(79)が9月15日、邪馬台国や卑弥呼について論じた「卑弥呼の墓 『あいうえおの考古学』2」を出版する。

     豊永さんは本文で「魏志倭人伝の郡使が帯方郡から入り、倭に入って邪馬台国に至るまでの国々−そこに私は不思議なものを感じ取っていた。それは、『地名』に『身体名的』な言葉が多いということである」と指摘。「対馬=唾」「一大国(壱岐)=息」「末盧(松浦)=目面」など多くの例を挙げ、九州北部などの当時の状況を独自の視点から読み解こうと試みた。

     1500円(税別)、文芸社=03(5369)2299。

    =2018/08/28付 西日本新聞朝刊=
    https://www.nishinippon.co.jp/nlp/book_news/article/444932
  • [13] mixiユーザー

    2019年01月18日 02:05


    【日本の人物埴輪が出土】

    日韓関係史に新たな1ページ?韓国で初めて日本の人物埴輪が出土、韓国ネットも注目
    2018年12月28日 06時00分 Record China

    日韓関係史に新たな1ページ?韓国で初めて日本の人物埴輪が出土、韓国ネットも注目

    写真省略
    26日、韓国の東亜日報は、朝鮮半島の遺跡で初めて、日本の古墳時代を代表する遺物、人物埴輪が出土したと報じた。写真は咸平郡。

    2018年12月26日、韓国の東亜日報は、朝鮮半島の遺跡で初めて、日本の古墳時代(3世紀中頃〜7世紀頃)を代表する遺物、人物埴輪(はにわ)が出土したと報じた。

    記事によると、出土したのは全羅南道(チョルラナムド)咸平(ハムピョン)郡にある金山里(クムサンリ)方台形古墳(5世紀末〜6世紀中頃。馬韓の支配層の墓と推定される)で、馬形埴輪1点も同時に見つかった。同古墳では2014年にも、鶏などをかたどった形象埴輪が出土している。

    人物埴輪の形は鳥取県で出土したものに類似しているといい、発掘調査を行っている全羅南道文化観光財団の全羅南道文化財研究所は「古代日韓関係史の研究における新たな契機になる」と評している。今回の出土の背景については「6世紀まで百済の勢力圏に吸収されることなく、朝鮮半島南部で独自の影響力を行使した馬韓の勢力が、活発に国際交流を行っていたことを示す痕跡だ」と説明している。

    また同研究所の所長は、古代朝鮮半島南部の「任那(みまな)」に日本の統治機関があったとする「任那日本府」説を日本の一部学界が主張していることにも触れた上で、「統治権力を示す遺物や古墳群などが見つかっておらず、考古学的証拠は皆無だ」とコメントしている。


    この他、今回は扁瓶や動物の形の土器も同時に出土しており、主に日本の4〜5世紀の古墳で出土している土器「須恵器」の系列と確認されたという。朝鮮半島の土器とは明らかに形状が異なるといい、韓国伝統文化大学のソ・ヒョンジュ教授は「日本人が朝鮮半島に渡ってきて焼いたのか、日本で焼いた土器が持ち込まれたのかについては、さらなる究明が必要だ」と話している。

    この記事に、韓国のネットユーザーからは「朝鮮半島から日本に渡ったものが、日本で先に発掘されたのかもしれないのに、記事の書き方がちょっと問題では?」「こっちから文化が渡ったんだ」「古代の日韓交流が、朝鮮半島から日本へという一方向だけだったはずがない。当然、日本の文化も朝鮮半島に入ってきていただろう。朝鮮半島から日本へ行った渡来人がいたように、日本から来て定着した人々もいると思う」「その時代の朝鮮半島南部が、日本と密接な関係があったというのは、事実みたいだな」などの意見が寄せられている。また、「任那日本府は本当にあったということか?」というコメントも多く見られた。(翻訳・編集/麻江)
    https://news.nifty.com/article/world/rcdc/12181-674700/
  • [14] mixiユーザー

    2019年10月13日 18:19




    はるか古代にさかのぼる…朝鮮半島との“複雑怪奇”な関係史 日本書紀が問いかける「歴史の記憶」
    2019.10.2
    産経新聞

    朝鮮半島には古代から文大統領のような人物がいたのか(韓国大統領府提供・共同)1/1枚  【国難を乗り越える 日本書紀】

     来年、令和2(2020)年は、現存するわが国最古の正史『日本書紀』が編纂(へんさん)された養老4(720)年から、ちょうど1300年にあたる。この神代から第41代持統天皇の御代まで全30巻にわたる『日本書紀』を、単なる太古の昔、別世界の物語のように捉えてはいけない。

    << 下に続く >>

     建国以来、現在まで一度の王朝交代もなく皇位が継承されてきた正統性を示す重要な根拠の一部であるとともに、往時の先人たちが、幾多の国難を乗り越えてきたことを伝える「歴史の記憶」である。

     戦後最悪とされる昨今の日韓関係、そして、いまだ解決せぬ北朝鮮による日本人拉致問題や核問題…。これを、《日本と朝鮮半島との関係》と捉えれば、その複雑な関係史は、はるか古代にさかのぼる。

     『日本書紀』によると、第14代仲哀天皇は、即位から8年目(199年)、九州で反乱を起こした熊襲(=ヤマト王権に抵抗した勢力)鎮圧のために遠征を決意した。この時、神功皇后は神懸かりして神託を授かり、熊襲鎮圧のためには、海を越えて新羅(しらぎ=朝鮮半島南東部にあった国家)を平定すべきだと示唆した。

     仲哀天皇は、神託を受け入れられず熊襲を攻めたが、突然崩御した。遺志を継いだ神功皇后は翌年、朝鮮半島に遠征して、新羅だけでなく、高句麗(こうくり=同北部を支配した国家)や、百済(くだら=同南西部にあった国家)をも戦わずして服属させた。熊襲には新羅のバックアップがあったとみえて、その後、反乱は鳴りを潜めた。

     時は下って、第26代継体天皇の御代には、百済が日本に朝貢してきた一方、即位から21年目(527年)、百済と抗争中だった新羅から賄賂を贈られた筑紫国造磐井(つくしのくにのみやつこいわい)が反乱を起こしたと『日本書紀』にある。

     高句麗に国土の北半分を侵略された百済は、日本の勢力圏であった朝鮮半島南端、任那(みまな)のうち西半分の4県割譲を求めてきた。新羅も任那に度々侵攻するなど、半島情勢は“複雑怪奇”を極めた。

     第33代推古天皇が即位して8年目(600年)、新羅と交戦する任那を救援するため出兵して新羅を屈服させたが、軍勢を引き上げるとすぐまた新羅は任那に侵攻した。翌年には、新羅の「間諜=スパイ」が対馬(=現・長崎県)に潜入したことまで『日本書紀』には記されている。

     言うまでもなく、工作員が入り乱れての謀略戦は戦後だけの話ではないのだ。

     大東亜戦争に敗れたわが国において、戦後の学者たちは口をそろえて「歴史にif(イフ)はない」と唱えてきた。

     では果たして、先人たちが実際に遭遇した「if」ですらない歴史上の経験と、本当に真摯(しんし)に向き合ってきたであろうか。

     『日本書紀』の記述は、そのことを令和の世のわれわれにも問いかけているように思う。

    ■久野潤(くの・じゅん) 歴史学者、大阪観光大学専任講師。1980年、大阪府生まれ。慶應義塾大学卒、京都大学大学院修了。これまで、複数の大学で、歴史や政治、外交関係の授業を担当するほか、戦争経験者や神社の取材・調査を行う。著書・共著に『新島八重』(晋遊舎新書)、『帝国海軍の航跡』(青林堂)、『決定版 日本書紀入門−2000年以上続いてきた国家の秘密に迫る』(ビジネス社)など多数。

    https://www.iza.ne.jp/smp/kiji/life/news/191002/lif19100220300032-s1.html?obtp_src=www.iza.ne.jp
mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!
  • 2016年12月31日 (土)
  • 長崎県
  • 2016年12月30日 (金) 締切
  • イベントに参加する
  • 気になる!
参加者
1人