よく、色んな事件をニュースでみたりするが、その起こった出来事だけでは何も見えない。
たとえば、「泥酔の25歳の男が45歳の男を殴り逮捕」というニュースを見た場合、あきらかに25歳の男は酒癖が悪く、しかも暴力が好きな男性であるかのようにうつるが、現場にいた人間に聞いてみると、25歳の男は泥酔というほどの酒を飲んでいた訳でなく、むしろ45歳の殴られた人間の方が酔っ払っていて、1時間以上に渡り、25歳の男にイヤがらせをしていた。逆に25歳の男はよくガマンしていたのだが、ついには後で迎えに来た彼女の体を45歳の男性が触った為に、その時に殴った。というのが事実だとする。
さらに、この45歳の男性は警察や弁護士、新聞社に知り合いも多く、自分が悪くない事を裁判されても証明する自身がある人間だったりするかもしれない。
こんな背景があるからこそ、「泥酔の25歳の男が45歳の男を殴り逮捕」という報道のみになったのかな?
私は、常に、色んな出来事を、ついついそんな風に考えてしまう。
暴力というのは確かによくない。しかし常に「暴力をふるった=一番最悪」とは限らないという事だ。
いかなる状況でも暴力はダメだという時代だから、教師は本当に愛の心から生徒を殴ってもすぐ問題になるが、私は愛があれば、多少殴るくらいなんだ!って思う。
骨に異常が残る程でなければ、ちょっと切れたとか、ちょっと腫れたとか、それが何だ?
私は女性に対して暴力を振るう人間は最悪だと思う。しかし、たとえば運転中に口喧嘩になって、彼女に腕に噛み付かれて、車がコントロールを失い、中央分離帯に乗り上げそうになったりした場合に、噛み付いた状態のままでは危ないから、振りほどく為に、とっさに殴ってしまったようなケースでも、男性は最悪な暴力男と言えるのだろうか?
他のケースでも、強い人間が、弱い人間を強く殴る事は絶対に良い事ではないが、それなりの事をした人間には、殴られる経験が必要なケースだって必ずあると思う。
すべての話には、裏がある。人間は自分の都合の良いように他人に話しをする。だから一方向の話ではなく、多方向からの話を聞かないと、本当のところは見えてこない。
都合のいいように話をすると書くと語弊があるかも知れない。知らず知らずのうちに自分の中でそうなってしまっていて、それが本人にとっての真実になってしまっているケースがほとんどだろうから、それを悪い事だとは一概に言えないのではあるが、いわゆる色眼鏡で自分をよくみてしまう事はありがちだろう。
自分の仲間だけの話を聞かず、相反するグループや反対意見を持ってそうな人間に話を聞いてみるというのは真実を知る為の第一歩になる。
本当の意味で真実が好きで、仲介をする事が好きな人間はこの微妙なバランスを肌で知っている。だから変な噂話を信じたり流されたりする事はない。
人間は自分の好きな事をしたり、言ったりしたいように出来ている。それは法律ですら縛り切れない。それを縛る事ができるのは自分自身の道徳心でしかないのではないだろうか。
だから人は勉強し修行し、自分を磨くのではないだろうか。
それを理解しない人の方が多いという現実は、私の中ではかなりの恐怖だ。偉い人間になれと言っているのではない。真実を見抜く力を磨く努力をしない人間は、好きな事をする資格がないとまで思う。
とにかく何でも権利、権利が普通になって、人間は腐ってきつつある。
自分の命を自分で必死に守るという心がないと、人間は堕落する。
殴られないのが普通とか、自分が被害を受けないのが普通とか、それは普通ではない。
先人の努力の結果、今の日本はそうなっているだけである。
平和なのはすごくいい事なのに、安全が安くなる事は全然いい事じゃない。
その矛盾を解消するいい方法はないだろうか?
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