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前の日記に小山ゴンさんからコメントいただいて、その返信を書いていたら、2000字を超えてエラーになってしまいました。
なので新しく日記を建てましたよ。
小山さん、コメントありがとうございます。なんか久しぶりに長いコメントを見た気がしますよ。嬉しい。
僕はね、基本的に、他人の考えというのは、理解することができない、と思っているのです。
だから、まず第一に自分の考えを明らかにしておこう、と思うのです。それは、自分に対して。
別にそれを他人に示そう、とは思わないけれど、他人の考えを理解しようと努める前には、まず自分の考えを自分で理解しておかないといけない。
そういう意味で、僕はすごく利己的だし、自分中心な考え方をしています。
「いくら言っても無駄」
そんな書き方したかな、と思って読み返したけど、さいわい、そうは書いていませんでした。
「言っても通じない」 までは書いてたけど。
いくら言っても無駄、とは僕も思いませんです。
でも、自分の考えを、他人に伝えようと努力しても、必ずしも伝わらない、むしろ伝わらないことのほうが多い、と思います。他人の考えを理解することは基本的にできない、と僕は思うので、当然僕の考えを他人に理解されるとも思っていないのです。
でも、だからって、伝えようとしていないかというと、そうでもない。
伝えようと努力することは、たぶん必要だ、けれど、それがいずれは必ず伝わる、と期待するのは間違っている、と思うのです。
たぶん伝わらない、でも、伝えたいから、言葉にする。
届くことを期待していない言葉を発しているのです。
届けば嬉しい。
ただ、何度も言うけど、言葉は届かない、ことのほうが多い。
自分の考えを他人に理解してもらうのは至難の業。
特に、伝えたい相手と、考え方に違い、対立がある場合にはそうです。
だから、例えば誰かのせいで困っているときに、「僕は困っている、あんたのせいで」 という言葉は、たぶん相手には届かないと思うのです。
それよりは、「こうして欲しい、してくれたらこうなる、してくれなかったらこうなる」 と伝えるほうが、うまく相手を動かすことができると思うのです。
そういうことを言いたかったのでした。
それから 「自分で判断してやればいい」 についてですが。
実際にみんながみんな全ての行動を、自分で決めて、判断して行なっているとは、僕も思いません。僕だって全然そうじゃない。
でもね、たとえ自分で判断して行動していなかったとしても、自分の行動には自分で責任を取らなくてはなりません。
責任を取るというと抽象的ですが、自分の行動の結果は、自分で受けるしかない、ということです。
だからこそ、ルールと見れば闇雲に、盲目的に従う、というのは間違っていると思うのです。従うかどうかは自分で決めなくてはならない。
例えば、宗教の決めたルールがあるとします。それにしたがって生きている人がいる。
でもじゃあ、そのルールに従ってした行動に対しての、結果を受けるのは誰か、といえば、その個人です。宗教それ自体が結果まで受け止めてくれるわけじゃない。
輸血を禁じる宗教にしたがって輸血をせず、死んでいく人がいたら、死ぬのはその個人であって、宗教が代わりに死んでくれるわけじゃない。
詐欺や政策もそうで、つまり自分でしなくてはならない判断を、他人に委ねると、結果がどうなっても、その結果を自分で受け取るしかない、ということです。
だから、人は、ルールにただ従うのではなくて、、従うかどうかの判断を自分で下さなくてはならない、と思うわけなのでした。
ぼくもね、人間は理屈じゃないものを持っていると思います。
本当はもっと可能性があるし、もっとすばらしいものなのだ、と思うのです。
じゃあ、その魅力、人間のすばらしさってのはどこにあるのか、といえば、理屈を超えたところにあるのです。
それを探すために、理屈を捏ね回しているのです。
僕の中には大地があります。
実に混沌とした、何が混じっているのか分からない、なかなか肥沃な大地です。
そこに僕は木を植えようと思います。立派な果実ができることを期待しているのです。
まず土を耕さなくてはなりません。
僕という大地を、理屈という鋤で掘り返すのです。
そうして大きな石を取り除きます。石は、もしかしたら宝石かもしれません。
自分の中を掘り返し、言葉にできるものをどんどん言葉にして、石を取り除いてゆきます。石自体に価値があるかもしれませんが、それは本来の目的じゃないのです。
石を取り除いてできた、なお混沌とした大地、理屈では計り知れない、それでもなお魅力的な大地に、木を植えたいのです。
だから僕はこうして、自分の中の、言葉になる部分を取り出しているのです。
言葉自体は目的じゃない。それは取り除かれるべきものです。
それでもなお、それでもなお自分の中に残るもの。
僕の中の言葉にならない部分、
それこそが僕にとって宝なのです。
mixi は僕にとって、石置き場ですね。
言葉に価値があれば、使ってもらえばいい。
他人に見せられるのは言葉だけ。
でも、僕は、ぼくそのものは、ここにはないのです。
言葉にできない僕自身、その核となるものは、常に僕の中にあるし、僕の中にしかないものなのです。
それを見てみたい。
そう思って、僕は今日も言葉を投げ続けているのです。
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