mixiユーザー(id:733908)

2006年01月19日12:29

84 view

【独話】 人生の転機

僕は子供を決して子ども扱いしない。どんなに小さな子供でも、その中には一人の人間がいることを知っているからだ。



僕が小学校2年生のときだった。僕の通っていた小学校の図書館には 「梶原文庫」 という一角があった。(多分梶原だったと思うが、違ったかな?) 梶原さんという女の子が亡くなって、その子の持っていたたくさんの本が寄贈されたものだった。

僕はその頃、本好きで、よく図書館で一人で本を読んでいた。休み時間に外でみんながゴム跳びとかしている時に、図書館で西遊記とか読んでいたのだから、その頃からまあ偏屈だったのだ。

ある時、その梶原文庫にテレビの取材が入った。どういう番組だったのかは知らない。とにかく、そこでその梶原文庫を利用している子供にインタビューをしようという話になった。らしい。

で、僕に話が来た。担任の先生に呼ばれて言われた。「よく図書館を使っているわよね。今度テレビが来るのだけれど、梶原文庫について質問されることに答えてくれない? テレビに出られるわよ。」
「えー、ちょっと考えさせてください。」

さてどうするか。そのとき多分生まれて初めて僕は自分の人生について考えたのだ。

テレビに出ること自体はまあいい。が、その映像はきっと残ってしまうだろう。僕が将来何かをしたとき、もしかしたらそれが出てきてしまうかもしれない。それはプラスかマイナスか…。

自分が将来何になるのか、どういう人生を歩むのか、その中で自分の映像が残ることがどう影響するか。小さな頭で必死に考えた。

たとえば自分が芸能人になるのだったら、子供の頃の映像が残るのはプラスだろう。
あるいはすぐに死ぬようだったら、その映像は使えるかもしれない。
しかし、たとえば泥棒になるなら、写真はなるべく撮られないほうがいい。
自分がまともなコメントを喋ることができるとは一瞬たりとも思わなかったので、将来、偉くなるつもりならそんな映像は残ってほしくない。 (もし素晴らしいコメントを言える自信があったなら、偉くなったとき、それが出るのはいいことだが。)

自分の可能性、将来について、これでもかっていうくらい考えたのだ。

さらに、馬鹿に見られることのメリットについても考えた。テレビに出て、いいことが言えたなら褒められるかもしれない。だが、それで馬鹿に見られなくなってしまったら、めんどくさい事になってしまう。期待されるのはなんにつけ大変なものだ。
かといってわざと阿呆なことを言うだけの度胸もないし、そんな恥をかくメリットこそない。
馬鹿に見られることはいい事だが、そのためには余計なことはしないほうがいいのだ。

多分1時間くらい悩んだだろう。で、先生に返事をした。「やめときます。」

今思ってもなかなかたいした子供だった。多分今の自分よりは頭がよかったと思う。いや、間違いなくそうだった。



たまに子供たちの相手をする。あほそうな顔をしている。あほなことばかりする。何も考えていないように見える。
しかし、考えているのだ。絶対に。意外なほど人生を把握している。馬鹿にしていると馬鹿にされるのだ。

子供の頃の僕が、今の自分を見たら、なんと言うだろう。きっとこう言うな。

「やれやれ」

まったく、やれやれ。
0 2

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する