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2005年12月22日08:23

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日本の援助は時間をかけた大虐殺?

貧困を悪化させる先進国の援助の続きです。

こちらも、世界から貧しさをなくす30の方法 から引用させていただきましたわーい(嬉しい顔)


★ダムに追い立てられた住民

 「日本の援助は、時間をかけた大虐殺だ」。

これは赤道直下インドネシア・スマトラ島中部のダム建設によって
立退きを迫られた住民たちから聞いた言葉です。

発電、洪水防止、かんがいなどを目的したコトパンジャン・ダムは

日本から貸し付けられた約312億円をもとに1997年2月に完成し、貯水がはじまりました。

水没した面積は大阪の半分以上にもなり

少なくとも10カ村1万7000人が、村を立ち退かされたのです。
 

移転の条件として、1世帯あたり宅地0.1ヘクタール、畑地0.4ヘクタール
収穫可能なゴムの木が植えられたゴム園2ヘクタールが約束されていましたが

大半のゴム園には、苗すら植えられていない状態でした。

これまで自分のゴム園で生計を立てていた人びとは
移転先で他人の畑で働いたり
砕いた石を売ったりして生活することを余儀なくされました。

この地域では「重いものは一緒に担ぎ、軽いものは一緒に手に提げる」
のことわざ通り、お互い助け合ってきましたが

その暮らしぶりはすっかり壊されてしまいました。

移転から約2年後、クタルネヒさんの長女(当時15歳くらい)は
家を出て行ってしまいました。

あるとき、となり村の住民が、娘さんから預かったとお金を届けに来て

「娘さんは町で売春して稼いでいる」と告げました。

しばらくして、娘がおカネをもって、家に帰ってきました。

クタルネヒさんには、娘がどんな方法でおカネを稼いだのか聞くことはできませんでした。

ただ「お前が送ってきてくれたおカネで、コメを買った」と言うだけでした。

「わたしは泣いてしまいました。
娘がそのようにして稼いだおカネでコメを買ったのですから。
でも、どうしようもありませんでした」
(『ODAで沈んだ村―インドネシア・ダムに翻弄される人びと』コモンズ、久保康之編、2003年)。

村の強制立ち退きの様子をザキルマンさんが語っています。

「1992年8月に移転がはじまりました。
(中略)軍人たちはだいたい1〜3メートルの間にひとりが
銃をかまえて威嚇する姿勢をとっていました。
軍隊に囲まれた道路を村人たちはトラックで移動していきました。
(中略)まるで強制連行されるような様子で、悲しく、恐ろしい光景でした」
(コトパンジャン・ダム被害者住民を支援する会 http://www.kotopan.jp

土地や家屋を取り上げる代償として水力発電所側から
住人に支払われた補償金も低額で

なかには補償金さえもらえなかった人もいました。

補償金の交渉に疲れ果てた青年が農薬を飲んで自殺するという悲劇もありました。

2002年9月と03年3月、ダム建設による被害を受けた人びと8396人が
日本政府などを相手取り、原状回復(ダムの撤去)と損害賠償を求めて
東京地方裁判所に提訴しました。

日本の援助を受けた国の住民が、日本政府を訴えたのは
日本のODA(政府開発援助)史上はじめてのことです。

相手の役に立っていないばかりか

その生活を破壊し、より貧しい状態に追い込む援助。

軍隊の監視のもとでの強制的な移転という人権侵害を引き起こす援助。

これが「生かすための援助」なのでしょうか。


★紛争につながった日本の天然ガス開発援助

もっと直接的に「殺すための援助」になってしまうこともあります。

04年末のスマトラ沖地震・津波で最悪の被害を受けた
インドネシア・アチェ* は、インドネシアからの独立をめざす闘いが起き
70年代半ばから内戦状態になっていました。

インドネシア政府は武装ゲリラを掃討するという理由で
数万人の民間人を虐殺、誘拐、拷問してきました。

この内戦の影に、残念ながら、日本の援助がありました。

日本は1974年、アチェでとれる天然ガスを開発するため
318億円をインドネシアに貸し付けました。

当時、世界は石油危機に直面していましたから
エネルギー資源のない日本は、石油に替わるエネルギー源として
アチェの天然ガスに目を付けたのです。

さきほど紹介したスマトラ島でのダム建設とおなじように
天然ガス開発は人びとに移転を迫りました。

天然ガスの採掘現場や精製工場から出る廃水や排気ガスで
人びとの暮らしを支えてきた海や川、水田や養殖池が汚染されました。

一方で、工場で働く従業員のためには
囲い込まれた地区に立派な住宅が用意され
人びとの間の格差が広がりました。

自分たちの土地にいながら
隅へ追いやられていくことに疑問をもった人びとが
インドネシアからの独立を訴えるようになったのです。

日本がODAを供与した2年後、1976年のことでした。
インドネシア政府は、日本の援助や資本を守るため、アチェに軍隊を派遣します。

天然ガス精製工場にも、軍隊が駐屯し、独立運動に参加したり
支持したりしていると疑われた人びとは
工場のなかに建てられたキャンプに連行されていきました。

住民たちは、キャンプの様子をつぎのように語っています。

「1990年ごろ、イスラームの先生がぼくたちの目の前で連行されて
キャンプに連れて行かれてしまった。
独立運動とはなんの関係もなかったのに。
3ヶ月後、先生の遺体が発見されて
みんなで引き取りに行ったんだ。

口から撃たれ、弾丸は後頭部に貫通していた。

手首から上の部分の肉が削げ落ちて骨が見えていたし
爪はすべてはがされ
腕は縛られたままだった」
「人が殴られる音や叫び声を聞いたり、人が燃やされるのを見たりしたわ」
(『アチェの声』佐伯奈津子著、コモンズ、2005年)。

 天然ガス精製工場は、軍隊に莫大な警備料を支払い
兵舎や寮、無線などの施設や設備を用意し
さらに殺害した遺体を埋めるため、重機も貸し出していました。

日本の国益のための援助が、内戦を引き起こすことにつながっただけでなく
人びとを殺害するためにも用いられていたのです。

今でも、アチェの天然ガスのほとんどは、日本に輸出されています。

納税者としても、消費者としても、
わたしたちは知らず知らずのうちに人権侵害に荷担させられていました。



★武器を援助する日本?
 カンボジアでは、日本が無償資金協力をおこなっている
国道一号線改修事業をめぐって、
06年7月、大規模な立退きが強行されています。

ライフルや電気棒、催涙ガスで武装した数百人規模の警備隊が

家屋を破壊して住民を立ち退かせ

抵抗する住民を足で蹴ったり、電気棒で感電させるといった
惨劇が繰り広げられていると言われています
(メコンウォッチ http://www.mekongwatch.org/)。

 日本政府は、ODA大網で
環境と開発の両立

軍事的用途への使用の回避

途上国の民主化の促進

基本的人権・自由の保障状況への注意

など援助の原則を打ち立てています。

しかし、この原則は守られているのでしょうか。

 2006年6月、中東からの石油タンカーの通り道で
「日本の生命線」とも呼ばれるマラッカ海峡を
海賊や海上テロから護るためという口実で
インドネシア政府へ巡視艇3隻が供与されることが決まりました。

日本のODAではじめて武器供与となるこの援助は
ODA大網だけでなく、外国への武器輸出を
事実上禁じている武器輸出3原則をも無実化するものです。

このままでいくと、日本の援助は
ますます「殺すため」のものになってしまうかもしれません。

わたしたちは「援助」と聞くと
現地の人びとの生活が改善されて「いいこと」だと思ってしまいがちですが
真実はどうなのか、情報を探し、自分で考える必要がありそうです。
(佐伯奈津子)













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