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2007年11月24日11:27

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脳死は死である

医療従事の4割強「脳死は死」
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=346741&media_id=4

<医療従事者の4割強が脳死を「人の死」ととらえていることが23日、中部大生命健康科学部の三浦清世美准教授らが行った調査で分かった。仙台市で開かれた日本移植学会総会のシンポジウムで発表された。>

そりゃそうだろうと思う。
人工呼吸器に繋がっていて、科学の力で生かされた状態であったとしても、脳死してしまったら、「動物」としての人間はオシマイであろう。呼吸はしているかも知れないが、文字通りの「植物」状態である。否、植物は自発的に呼吸をしているが、人工呼吸器で強制的あるいは受動的に呼吸している状態は自然とは言えない。医療従事者は現場でそういう実例を数多く見ているからこそ、「脳死は死」だと認識しているのだと思う。

「理屈ではそうかも知れないが、愛する人がそういう状態になったとして、人工呼吸器を外すことができるか」と問われるかも知れない。
僕は「外せる」と自信を持って言える。植物状態で物理的に「生きて」いても、それは人間として尊厳ある生き方とは言えないだろう。したがって自分の家族や、自分自身がもし脳死状態になったら、さっさと死なせてもらいたいと思う。

同様に末期癌など治癒する見込みの立たない病気に罹った場合の単なる延命治療もやめたほうが良い。それは単なる問題の先送りであり、多くの場合は医療コストの社会的な無駄遣いである。
治る見込みがないのならば、痛みを抑えつつ、静かに人間としての最期の時間を過ごさせるための看護(ターミナルケア)に切り替えるべきであろう。
人間が生きるということは、単に医学的な見地から「死んだ状態ではない」ということだけではなくて、「人間らしく」生きているという前提条件付きであるべきだと思う。
病院のベッドで管に繋がれて自由に身動きもできない状態で生きていて、その状態から快復する見込みもないのでは、生きていても仕方がないだろう。
医療従事者の体力や医療コストも考慮されるべきだ。治る見込みがあってこそ、それらは投入されるべきなのに、治る見込みがないのならば、それは社会的には捨てているのと同じである。それらは治る見込みのある患者に投入されるべきものであろう。
また介護に取られる家族の体力的・経済的な負担も無視できない。治る見込みがないのであれば、早く解放される方が幸せであろう。

前にも書いたが、僕の会社の同僚で末期癌で闘病中の人がいる。プライバシーの問題もあり、病状について詳細に述べることは差し控えるが、もう根治する可能性は100%ない。副作用のある抗癌剤治療を行なっているのだが、僕が彼の立場ならば、もうそんな意味のないことで時間を費やすのはやめてくれと言うだろうと思う。
実は彼自身も、病気がわかった段階で、同様の考えを持っていたのであるが、家族が彼を、なだめたり説得したりして、現在の治療を行なっている。彼の家族とすれば、見込みがないからといって、一切延命治療を行なわないとまで腹を括る覚悟がないのであろうが、これは厳しい言い方をあえてするならば、家族のエゴであろう。
本当は、現実を冷静に見つめ直して、何が彼にとって残された時間を最も有意義に過ごせる方法なのかを本人の考えを尊重しつつ決断する勇気が必要だったのだろうと思う。

何回も言うが、根治する見込みのない延命治療は人間としての尊厳を損なうだけでなく、社会的にも意味のない行為である。
同様に脳死状態の患者を単に生かしておくことも本人や家族にとっても、社会的にも意味のない行為である。

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