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2007年11月09日01:15

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どこもかしこも世襲ラッシュ

「三平中傷」に怒る…林家いっ平の本心は?
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=335117&media_id=43

前に国会議員は世襲ラッシュだという話を書いたことがあるが、同じようなことが芸能界でも起きている。どちらの業界もよほど「美味しい」んだろう。

それにしても、林家いっ平はオヤジに「芸がない」と言われて逆切れしたようであるが、でもこれはある程度当たっていることだから仕方がない。
少なくとも林家三平というのは落語家としては一代限りの亜流というか変種のようなもんである。もっとはっきり言えば、あれは落語とは呼べない、ただの漫談である。
息子は漫談家としての親父の跡を継ぐつもりなのか、単に売名として知名度の高い親父の名前を利用したかったのか、どっちなんだろうか。

およそ落語家と呼ばれたければ、古典落語くらいはできるもんだろう。
古典落語もできない落語家は落語家と名乗らないでもらいたい。新作落語家だってあっても良いが、レパートリーとして古典が全く無い落語家は僕は落語家と呼ぶのに抵抗を覚える。
したがって、当然の事乍ら、笑福亭鶴瓶や明石家さんまなども落語家とは呼べない。漫談家あるいはテレビタレントと呼ぶべきだろう。

もちろん彼らは個人として芸達者な人たちだと思うし、話術は大したもんだろう。でもそれは落語家の話芸とは別のものである。
同様に故三平も漫談家として大した話芸の持ち主だったんだろうが、それは落語家の芸とは別ものであろう。

以上のようなことを踏まえると、林家いっ平が故三平を落語家だと思って亡父を崇拝しているのだとすれば、単なる勘違いであろう。
また漫談家、コメディアンとしての父親の跡を継ぎたいと考えているのならば、批判は批判として受け入れて、自分自身の独自の話芸を磨くしかない。古典と違って、型が決まっている訳でもなく、亡父の物真似をしたところで現代で受け入れられる保証もない。そもそも襲名自体何の担保にもならない。

それにしても東西ともに落語界は人材が枯渇しつつあるように思われてならない。
古典をしっかりと勉強し、自家薬籠中のものにした上で、更に自分なりの独自の型や境地を獲得するところまで到達している噺家が何人いることやら。

僕は既に故人となっているが桂枝雀の大ファンだった。
桂枝雀はそれこそオーソドックスな古典落語を若い頃から徹底的に身につけた上で、独自のオーバーアクションで型にとらわれない他人には模倣できない独自の境地に到達した天才であった。また古典の名人であると同時に、新作や英語落語といった領域もカバーしていた。
ちょっと例えが悪いかも知れないが、音楽の世界で言えば、クラシックが本業だが、ジャズや作曲までこなした故フリードリッヒ・グルダに少し似ているような気がする。

桂枝雀と林家三平の芸の違いは、古典という基本となる拠り所を持っているかどうかの違いだろう。
基本を持たない後者の芸は、しょせんは薄っぺらであり、時代の変遷の中で朽ち果てるしかない。

林家いっ平も親父のことを「芸がない」と言われて悔しければ、自分はきっちりと後世に残るような芸を磨くしかない。
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