「てらごこ、ふやとみ」で知られる京の南北通りですが1つ置きに平安京から由来のある路と秀吉が天正年間に新たに作った路が並んでいるのは良くご存知のことでしょう。
で、今回の妄想はこの御幸町・富小路・堺町・間之町…と続く道はどこまで作られたのだろうか? というハナシ
現在では「てらごこ」を暗謡するまでもなく黒門か大宮あたりで途切れています。でも創設時は西の端は西の御土居堀…西土居通りこれは西堀川大路の位置ですからなにか道路があったのなら痕跡があるはずです。
西ノ京中学の前の道(名称は太平通り)が下の森(西櫛笥小路)と七本松(皇嘉門小路)の丁度真ん中で案外直線なのに気づき疑問が出てきたのです。
天正の地割(秀吉の新たな通りの建設をこう呼ぶ)の時はこの新道は野原を通して町衆の集居していた鉾町は町割りを免れています。とするなら黒門通でおわらず最後の御土居堀まで敷設された…というのが今回の妄想です。
そう思って地図を眺めると御前通りと天神通りの間や天神通りと西土居通りの間にも西ノ京と呼ばれる地域には道があります。名称はググったが判らなかったのですが後者は朱雀第四校の門から始まり両洋高校まで一直線の道です。
西ノ京という土地は今では京都市中京区に入り京都市の中央部のように見えますが大正年間に京都市に編入された郊外地域でしたが早くから都市化され「京のすぐ西にある町」との意味から名づけられた名称だそうです。今の京都市右京区京北と100年の差はありますが似た経緯の土地名称です。
そんな早くから都市化した土地ゆえに道路も残っていたのではないかな?ということで今回の妄想を締めたいが狩野文庫画像データベースの「京大繪圖」の該当個所
http://www2.library.tohoku.ac.jp/kano/ezu/kyo/kyo_frm_02.html
では空白なんですよね(^^)ゞ自説補強どころか否定されてしまうな(笑)
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