民族の定義が単純に遺伝子だけで決まるものではなく、言語や歴史、文化、共同体意識などによって成り立つという考えには私も理解できます。
ただ、私がお伝えしたいのは別の点です。
アイヌを一つの民族として捉えることと、アイヌ社会の内部に多様性が存在したことは矛盾しないのではないでしょうか。
実際にアイヌ語には地域ごとの方言があり、コタンごとに文化や伝承、儀礼にも違いがありました。また近代以降の同化政策によって、その多様性の一部が失われたり見えにくくなった歴史もあります。
「コタン=酋長を中心にした部族共同体。」です。
私は25年間暮らした平取町で、二風谷アイヌコタンの「ユカラと語りべ」の集いに参加し、木幡サチ子さんからユカラやアイヌの語りに触れる機会がありました。その経験から感じたのは、アイヌ文化は一枚岩ではなく、それぞれの地域や語り手によって豊かな違いがあるということでした。
更に、アイヌモシリ一万年祭主催者のアシリレラさんに私が「アイヌは多民族国家的でネイテブアメリカンと同じ民族集合体で州が多民族のコタンですね」と私が語ると。
レラさんから「アイヌが一つの民族一つの集合体だったらとっくにシャモ 日本政府に滅ぼされていた」と私に語ってくれました。
ですから私は、「アイヌ民族ではない」と言いたいのではありません。むしろアイヌ民族としての共通性を認めた上で、その内部に存在していた多様な言葉や文化、世界観にも目を向けるべきではないかと考えています。
同化政策の影響を語るのも、アイヌの主体性を否定するためではありません。失われたものや見えにくくなったものに光を当て、その歴史を理解したいからです。
添付は、多次元泡宇宙のデホルメの図です。
アイヌの衣装の文様とシンクロニスティ現象する事を私は感じます。
添付した図は、多次元泡宇宙をイメージとして表現したデフォルメ図です。
私はこの図を見ていると、アイヌ文様に見られる渦や連なりの模様を連想します。
もちろん、両者に直接的な関係があると証明されているわけではありません。しかし、人類が古くから自然を観察する中で見出してきた「つながり」や「循環」の感覚が、異なる時代や文化の中で似た形として表現されることはあるのではないでしょうか。
アイヌの世界観では、人も動物も植物も、そして道具でさえもカムイとの関係の中に存在します。私は、この泡宇宙のイメージにもまた、互いに独立しながら関係し合う存在の姿を重ねて見ています。
それは科学的な証明というよりも、自然を観察し続けてきた人間の直感や想像力が生み出すシンクロニシティの一つなのかもしれません。
こうした前提が有る故、アイヌ民族を表現として「単一民族」という表現は誤解を生みやすい用語だと考えています。
一般的には均質で画一的な集団を連想させるからです。
しかし実際のアイヌ社会には、地域ごとのコタンがあり、方言があり、伝承や儀礼にも違いがありました。
だからこそ私は、「単一民族」という表現よりも、「多様性を内包した民族共同体」あるいは「多元的に形成された民族社会」と表現した方が実態に近いのではないかと思います。
少なくとも、私が二風谷コタンや札幌コタンや旭川コタンや静内コタン更に阿寒コタン若しくは釧路コタン・白老コタンとコロトコタンで見聞きしてきたアイヌ文化は、一つの中心から広がった均質な社会というより、それぞれのコタンや語り部が独自性を保ちながらネットワークのように結びつく姿でした。
その印象は、先に私が提示した多次元泡宇宙のイメージにも重なります。
【一つでありながら多様であり、多様でありながら関係し合う。そのような世界観】の方が、私には実態に近く感じられます。
それは、現在失われた人間関係そのものに通じることでもあり国家間との関係にも言える事です。
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