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2026年08月11日10:55

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共学化や募集停止が続出…「女子大学」存続のカギは大規模改革の中身を伝える情報発信にあり

キャリア・教育#本当に強い大学2026

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共学化や募集停止が続出…「女子大学」存続のカギは大規模改革の中身を伝える情報発信にあり

5分で読める公開日時:2026/08/01 07:00 有料会員限定 東洋経済オンライン 配信より

共学化や募集停止が続出…「女子大学」存続のカギは大規模改革の中身を伝える情報発信にあり | キャリア・教育 | 東洋経済オンライン 配信より

https://toyokeizai.net/articles/-/951577?display=b

日本女子大学の目白キャンパス。2025年5月時点の学部在籍者数は6194名。

在学生だけでなく卒業生へのキャリア支援にも定評(撮影:今井康一)

松崎 泰弘大正大学 教授

INDEX

風雲急を告げているのか。厳しい経営状況に直面する女子大で、さまざまな動きが表面化してきた。

学生募集停止などが相次ぐ一方、大規模な組織再編や共学化を選択して生き残りを図ろうとする取り組みも活発化する。

『大学特集 本当に強い大学2026 (週刊東洋経済臨時増刊)』(東洋経済新報社)書影をクリックするとAmazonのサイトにジャンプします。

日本女子大学が、120年以上続いた「フラッグシップ」ともいうべき学部の歴史に終止符を打つことを決めた。

「家政学部」の学科を2028年度までにすべて学部として独立させる構想をぶち上げたのだ。

これに伴い、1901年の開学以来、4万人以上の卒業生を輩出した同学部の名称が消える。

決断を下した背景には、「家政学」という学問の領域が従来から広がってきたことがある。

現在カバーするのは「衣」「食」「住」にとどまらず、生活経済や化学、生物、工学など社会科学や自然科学の分野にも及ぶ。

だが、「家政学といえば、女性の学問領域」という固定観念も残る。このため、学部の看板を変えることで、学びの特徴を正確に伝えようとの思いがあった。

篠原聡子学長は「文理融合を推進するために、(学部間などの)垣根を低くする狙いもある」と話す。

29年4月には理工学部の開設を計画。

家政学部からの「株分け」(同学長)で誕生した理学部が理工学部に生まれ変わる。

伝統ある家政学部の改組は大規模な学部再編のプロローグだ。

篠原聡子(しのはら・さとこ)/日本女子大学学長。1983年日本女子大学大学院家政学研究科修了。86年に空間研究所設立。97年から日本女子大で教壇に立ち、2020年学長就任。21年に東京・目白キャンパスに全学部学科を統合。専門は建築設計・住居計画(撮影:今井康一)

外国語学習の意味が変化

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原爆投下から81年 “長崎を最後の被爆地に”

2026年8月9日 5:13

(2026年8月9日 11:59更新)

原爆

原爆投下から81年 “長崎を最後の被爆地に” | NHKニュース | 原爆、長崎県、戦争と平和 配信より

https://news.web.nhk/newsweb/na/nd-20260809de42887

長崎に原爆が投下されて9日で81年です。

「被爆者なき時代」が近づき、核兵器をめぐる国際情勢が厳しさを増すなか、長崎市で行われた平和祈念式典の「平和宣言」で、鈴木史朗市長は「人類と核兵器は決して共存できない。『長崎を最後の被爆地に』。この誓いを永遠の事実とするために、決してあきらめず歩み続けていく」と決意を表明しました。

長崎市の平和公園で行われた平和祈念式典には、被爆者や遺族の代表、高市総理大臣に加え、アメリカやロシアなどの核保有国を含む98か国の代表などおよそ2600人が参列しました。

式典では、この1年間に亡くなった被爆者などあわせて2773人の名前が書き加えられた20万4708人の原爆死没者名簿が「奉安箱」に納められました。

そして、原爆がさく裂した時刻の午前11時2分に黙とうをささげ、犠牲者を追悼しました。

長崎市の鈴木市長は平和祈念式典の「平和宣言」で、体と心に残った傷をさらけ出しながら平和活動に尽力し、2010年に亡くなった長崎の被爆者、吉田勝二さんの体験を紹介した上で、「人類と核兵器は決して共存できない」と述べ、核をめぐる現状への強い危機感を示しました。

そして、吉田さんが被爆体験を語るときにいつも伝えていた「平和の原点は、人間の痛みがわかる心を持つこと」ということばを引用し、「相手の立場や苦しみに心を寄せ、分かり合おうと努力することは、対立や衝突を避けるための大事な一歩となる」と呼びかけました。

最後に、「『長崎を最後の被爆地に』。この誓いを永遠の事実とするために、長崎は世界中の平和を求める人々と連帯し、核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に向けて、決してあきらめず歩み続けていくことをここに宣言します」と結びました。

このあと、被爆者を代表して本村チヨ子さん(87)が、「平和への誓い」を述べました。

6歳のときに爆心地からおよそ4.5キロの自宅で被爆した本村さんは去年、訪米してアメリカの人々と面会したみずからの経験に触れ、「私は『どうか核を兵器として使わないでください』と伝えるのが精一杯でしたが、人と人とが分かり合うためには対話しかないことを実感しました」と語りました。

そして、「平和とは命を守ること、命とは何よりも優先されるべきものです」と力強く訴えました。

被爆者の平均年齢は87歳に迫り、「被爆者なき時代」が近づくなか、核兵器をめぐる国際情勢は厳しさを増しています。

きょう、被爆地・長崎は「長崎を最後の被爆地に」という願いを国内外に発信する1日となります。

被爆者や遺族などが各地で祈りささげる

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「裸はいけない」「女神像にしろ」平和祈念像作者を襲った誹謗中傷、アトリエに投石も それでも貫いた情熱

8/9(日) 7:00配信

「裸はいけない」「女神像にしろ」平和祈念像作者を襲った誹謗中傷、アトリエに投石も それでも貫いた情熱(withnews by 朝日新聞) - Yahoo!ニュース 配信より

https://news.yahoo.co.jp/articles/c3032455caa67e2c9f7d426485f2e6e1d428933f?page=2

誹謗中傷でアトリエに投石
井の頭自然文化園が配布している「北村西望と井の頭自然文化園の彫刻」という小冊子によると、当初持ち込まれたのは「記念碑」の制作でしたが、北村さんが「像でなければ説得力がない」と強く主張した結果、平和祈念像を作ることになったそうです。

制作する像の大きさは32尺(約9メートル70)。実寸大の原型像は大きすぎて北区のアトリエでは制作が不可能だったため、東京都に相談し、井の頭公園に隣接する井の頭自然文化園の土地を使うことを許可されました。 北村さんはそこに当時の木造建築では限界に近い高さのアトリエを建て、そこで実寸大の原型作りに取り掛かったのです。

北村さんは「たくましく、力感あふれる男性像」を得意としていました。 雨宮さんによると「細部までリアルにこだわって作るというよりも、デフォルメも効かせ、大胆に形を捉えて力強さを表現しました。平和祈念像はそうした作風がよく表れています」。

北村さんは1年半かけて何十回もひな型を試作し、最終的な像の構想を固めました。しかし、「女神像のほうが良かった」「裸はいけない」などと誹謗(ひぼう)中傷を受け、アトリエに石を投げつけられたことさえあったそうです。

しかし、北村さんは思いを貫き、「孫子の代までかけてでも完成させたい」とまでこだわり、像を完成させました。

完成した原型は104個のブロックに分割され、東京都板橋区に建てた工房に送られて鋳造されました。

「作者がこめた情熱」感じて
北村さんはなぜこの像の完成にこだわったのでしょうか。

雨宮さんは「平和祈念像は北村西望にとって最大の仕事だったはず。だからこそ自分の最も得意とする男性の肉体の像を作ろうと思ったのではないでしょうか」と推察します。

北村さんが実際に原型を作ったアトリエが現在も残されていると聞き、訪ねました。

アトリエは原型がある彫刻館A館の隣にあります。 当時、像の上部を作るために使っていた昇降機も残っていました。

10メートル以上ある天井のアトリエには冷房がなく、熱気がこもっていました。 一歩足を踏み入れた瞬間、汗が噴き出すほどでした。 汗だくになりながら一心不乱に像を作っていた北村さんの姿が目に浮かびました。

雨宮さんによると、戦後の北村さんの彫刻作りには大きな特徴があったそうです。

戦前の北村さんは、まず木材で芯を作ってその上に粘土像を作り、粘土像をもとに石膏(せっこう)像を作り、さらにその石膏像を使ってブロンズ像を鋳造する方法をとっていました。

石膏のパートは専門の職人が担っていましたが、戦時中に北村さんが東京から埼玉県に疎開。

職人を呼ぶことも難しくなったことから、粘土像を作る工程を省略し、木や竹でこしらえた芯に自分で石膏を塗りつける「石膏直付け法」という手法を編み出しました。

平和祈念像にもこの手法が使われています。 原型に近づいてみると、表面はなめらかではありません。雨宮さんによると、北村さんが固まった石膏をノミで彫ったあとや、あとから石膏を盛り足したあとがよく見えるといいます。

雨宮さんは「作った人の手を感じることができるはず。その熱意や息づかいまで感じ取ることができるかもしれません」と話します。

「原型を間近で見て、北村西望という芸術家がどんな思いでこの像を作ったのか、モニュメントとして見慣れた像が、人間が情熱をこめて作ったものなのだと実感してもらえたら」

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まとめて知る原爆 被爆80年、被爆者の思いは?世界の核兵器は?
モニュメントは「ある」だけではだめ そこに歴史が立ち現れる瞬間は

最終更新:8/9(日) 9:26
withnews by 朝日新聞

私のコメント : 令和8年8月9日、井の頭自然文化園が配布している「北村西望と井の頭自然文化園の彫刻」という小冊子によると、当初持ち込まれたのは「記念碑」の制作でしたが、北村さんが「像でなければ説得力がない」と強く主張した結果、平和祈念像を作ることになったそうです。

戦前の北村西望さんは、まず木材で芯を作ってその上に粘土像を作り、粘土像をもとに石膏像を作り、さらにその石膏像を使ってブロンズ像を鋳造する方法をとっていました。石膏のパートは専門の職人が担っていましたが、戦時中に北村さんが東京から埼玉県に疎開。職人を呼ぶことも難しくなったことから、粘土像を作る工程を省略し、木や竹でこしらえた芯に自分で石膏を塗りつける「石膏直付け法」という手法を編み出しました。


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