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2026年06月24日14:39

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踏んだり蹴ったり

ご認識の通りです!**町野主水(当時は源之助、のちに主水と改名)は斗南(現在の下北半島)へは移住せず、会津若松に残りました。**
彼は戦後、若松北小路に居を構え、「最後の会津武士」と呼ばれるにふさわしい激動の後半生を会津の地で送っています。
彼が斗南へ行かず、会津に留まった経緯と、その後の足跡にはいくつかの重要なポイントがあります。
### 1. 斗南立藩をめぐる対立
会津松平家の再興が許された際、新政府から提示された候補地は**「旧領の猪苗代盆地」**か**「最果ての下北半島(斗南)」**の2択でした。
町野主水は「何としても故郷に近い猪苗代を選ぶべきだ」と猛烈に主張しましたが、山川浩(大蔵)らが「新政府の監視の目が厳しい猪苗代よりも、遠く離れていても独立した一藩を立てられる下北の方が、お家再興の地としてふさわしい」と判断し、結果として斗南に決定しました。主水はこの決定に納得がいかず、斗南への移住を拒否して会津に残る決意をしたと言われています。
### 2. 若松民政局取締としての「戦後処理」と遺骸埋葬
開城後、主水は新政府が置いた若松民政局の取締(旧藩士側の代表・窓口)のような立場に就きました。
彼が会津に残留したことで可能になった最大の功績が、**「戊辰戦争の戦死者の遺骸埋葬」**です。新政府軍によって放置され、野ざらしになっていた仲間の遺体を見るに堪えず、主水は一命を賭して軍監らとタフな交渉を重ねました。のちに伴百悦らと共に、阿弥陀寺をはじめとする各所へ2,000体近くの遺骸を埋葬・改葬することに奔走しました。
### 3. 「鶴ヶ城」を自費で落札
明治6年(1873年)、陸軍省が廃城となった鶴ヶ城(若松城)を売りに出した際、主水は会津の象徴である城が他人の手に渡るのを防ぐため、自ら**862円**という大金を投じて落札しました。翌年、惜しくも城自体は取り壊されてしまいますが、彼の会津への執念と誇りを感じさせる有名なエピソードです。
主水は、佐川官兵衛らのように警視庁(大警視・川路利良)の誘いに乗って東京へ出ることも(一時的な御用以外は)基本的にはせず、大正12年(1923年)に85歳で亡くなるまで会津若松で暮らしました。
彼の墓所は、会津若松市内の**融通寺**にあります。
「自分だけが生き残ってしまった」という深い悔恨を抱えながら、荒廃した会津の復興と旧藩士の救済に生涯を捧げた、まさに骨の髄まで「会津武士」であり続けた人物でした。
  Gemini
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