山中鹿介「願わくは我に七難八苦を与えたまえ」は史実か? 戦前に作られた英雄伝説の真相
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/f964bdba30e892f70b09ef721e7032dc66b8733d
大門先生のコラム。七難八苦のエピソードは一次資料には見られず、初出が甫庵太閤記であることから、ほぼほぼフィクションだという話。最近の大門先生らしからぬ、タイトルに対して過不足ない記事内容。
>「尼子三傑」あるいは「尼子三勇」の一人として名を馳せた
鹿介が尼子十勇士のメンバーでもあることはスルーされている件。まぁ一次資料では確認できないフィクション上のユニットで、鹿介以外は知名度皆無なのだから仕方ないといえば仕方ない。信長の野望でも十勇士フル実装はなかったはず。
鹿介死後に尼子残党の受け皿になった亀井茲矩。元々は湯氏だったのだけれども、鹿介の養女(亀井氏の娘)と結婚することで、亀井氏を名乗るようになった。亀井は尼子の庶流。その名跡を継いだというのは、尼子残党内での求心力にプラスだったのではないかなと。
そもそも鹿介自身も一時は亀井家に養子で入っていたらしい。亀井鹿介、何とも言えないキメラ感のある名前だなと。いや、鹿介は通称でしかないのだけれども。
秀吉に同行して出陣していたため、上月城落城に巻き込まれることなく、後に大名となって現代にまで家名を残した亀井茲矩(※亀井久興・亜紀子は亀井氏の末裔)。鹿介にもそういうルートはありえたのだろうか。…いや、鹿介の融通の利かない立ち回りっぷりを鑑みると、豊臣大名にまではなれたとしても、関ケ原でやらかしそうな気がするのだよなと。
鴻池家は鹿介の後裔を名乗っているけれど、財閥を形成するにまで至った立ち回りの上手さが 鹿介のイメージと被らない。
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