信長でも秀吉でも光秀でもない…金なし、兵なし、やる気なし、元僧・足利義昭を"その気にさせた"戦国武将の名前
https://news.yahoo.co.jp/articles/c0205f8ff6edf6a30ea6d689509bcb61c67bf153?page=1
>そのライフプランは兄・義輝が殺されたことで完全に狂う。
>お坊さんである。完全に無関係のはずだった。
殺害されるにまで至るのは稀としても、追放されるくらいは足利将軍家ではよくある話。義輝が追放されたら、後釜候補の一人として、義輝の実弟である覚慶の名前が上がるのは当然。一乗院にいたころの覚慶が、自分の還俗の可能性を全く意識してなかったかというと、そんなことはないだろうと。
>10代・義稙は細川氏と対立して将軍の座を二度追われ、最後は阿波で客死
義稙は先日に日記に書いた「越中公方」義材の最後の名前。「二度追われた」と書くと無能感あるけれど、当時の細川家相手に一度は将軍位を取り返しているのだから、普通にスゴイ
ちなみに越中で面倒を見てくれていた神保は兵を出してくれず、代わりに駆けつけてくれたのが大内義興。それによって大内の威信は大いに高まったが、代わりに本国の体制には歪みが生じたという見方もあって、その見方によれば後継である義隆の代に起きた陶氏の反乱も義興の京都出兵が遠因ということになる。
義興の京都出兵に関しては、毛利元就が一族に「天下を狙うな」と言い残したのは、義興の京都出兵の実りが少なかったことを見てしまった結果によるものではないかという話もある。毛利のこの家訓に関しては、秀吉の大返しを毛利が見逃したことにも繋がってくるわけで、越中公方が後世に残した影響は割と大きいように思える。
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