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2025年09月15日01:02

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蔦屋次郎兵衛・考

蔦屋重三郎が開業当初に軒先を借りたという「蔦屋次郎兵衛」について。
かれを取り上げて追及するものをいまだ見ないが、和本収集家・研究家の向井信夫の「蔦屋重三郎出自考」(初出『浮世絵聚花』小学館、1981年。以下「本論」)で、わずかに触れられていたので、ここに記録しておく。
なお、本論の論調は必ずしも学術的手法に基づいたものではなくい点が散見されることは、あらかじめ注意しておきたい(そもそも本論は学術論文ではない)

■五十間道の蔦屋次郎兵衛
大門前五十間道の茶屋「蔦屋次郎兵衛」が初めて登場するのは、安永3年(1774年)春の吉原細見である。
この春は鱗形屋版『嗚呼御江戸』と小泉忠五郎版『松のしらべ』の二種が出ているが、双方ともに次郎兵衛の記載は見られる。
ちなみに鱗形屋版の方には「細見仕売参 つたや十三郎」が併記されている。鱗形屋版に蔦重が携わったためだろう。

年次を少し遡ってみる。
明和8年(1771年)の鱗形屋版『黒仕立』で、蔦屋次郎兵衛の居所が「あぶらや長四郎」の名義となっていることが確認できる。
翌明和9年(1772年)春には鱗形屋版『新嬉楼』と小泉忠五郎版『若ゑびす』が確認できるが、小泉版では引き続き「あぶらや長四郎」なのに対し、鱗形屋版では名義が「あぶらや次郎兵衛」に代わっている。
この油屋次郎兵衛について、本論では蔦屋次郎兵衛と同人と見なしている。従うべきだろう。

安永2年(1773年)春の鱗形屋版『寿黛色』でも引き続き「あぶらや次郎兵衛」とあるが、同年秋の鱗形屋版『這嬋観玉盤』では名義が「蔦屋治郎吉」に代わっている。
その翌春には前述のとおり蔦屋次郎兵衛に代わるので、蔦屋次郎吉という人物が登場するのはわずか半年ほどとなる。
本論では次郎兵衛と次郎吉の関係を明らかにしていないが、名乗りから察するにこの時に世代交代があったのかもしれない。

油屋長四郎については、明和6年(1769年)鱗形屋版『遊女あはせ』が初見であり、先年明和5年(1768年)『美名の川』に記載のある「あふみや安兵衛」から代わっていることがわかる。
この交替については少し気になる点があるので、後述することとする。

その後、蔦屋次郎兵衛は寛政6年(1794年)の細見まで見られ、翌寛政7年(1795年)からは名義が「つたや次郎吉」に代わっている。
そしてその次郎吉も寛政8年(1796年)が終見となり、翌寛政9年(1797年)には「大和屋又七」に代わっており、五十間道蔦屋の20余年の歴史に幕が下りている。

■裏茶屋を営む蔦屋次郎兵衛
本論で重要な指摘のひとつが、明和以前に蔦屋次郎兵衛が仲之町で裏茶屋を営んでいるということである。
元文3年(1768年)春の鱗形屋版『三改大夫』には、揚屋町と京町の間の区画のうち、本通りに面さない「裏店」に「つたや二郎兵衛」の名が現れる。
この蔦屋次郎兵衛は延享元年(1744年)に「つたや六郎兵衛」に名義が代わるが、翌延享2年(1745年)には再び「つたや二郎兵衛」に戻っている。
六郎兵衛は山本久左衛門版『飛鳥川』の誤記の可能性もあるが、周辺記載の人物に紛らわしい名前や誤記載がない点、前年の山本版『恋の湊』では「二郎兵衛」となっている点から、本当に六郎兵衛に代わっている可能性も十分ある。あるいはこのころ、代替わりと襲名があったのかもしれない。

延享2年(1745年)以降は次郎兵衛で通り、終見は明和5年(1768年)『美名の川』である。
この年、吉原では江戸町二丁目を火元とする火災があったが、翌年以降の細見に該当の区画の裏店は見られなくなる。本論ではこの火災が原因で裏茶屋を廃業したものと見ている。
ところで明和5年(1768年)といえば、五十間道の油屋長四郎が登場する前年である。
仲之町で蔦屋次郎兵衛が消えた年に、五十間道に油屋長四郎が現れるということになるのだが、これは偶然なのだろうか。

■三味線芸者の蔦屋次郎兵衛
明和6年(1769年)秋の鱗形屋版『登まり婦寝』の吉原芸者一覧に、「野沢次郎吉」という芸者の名が見られる。
この人物は、翌明和7年(1770年)『黒仕立』では竹本岩太夫ら3名とともに芸者世話役の一人となっており、以降安永6年(1777年)蔦重版『人来鳥』まで名が見られるが、翌安永7年(1778年)蔦重版『扇の的』からは名義が「蔦屋次郎吉」と改まっているのがわかる。
蔦屋次郎吉といえば、先述のとおり蔦屋次郎兵衛の前名と思しい名称である。
本論ではこの野沢=蔦屋次郎吉こそ、五十間道の蔦屋次郎兵衛と同人だと見なしている。
なお「野沢」とは義太夫節三味線方野沢流の門人であることを指すのだろう。同姓の芸者が細見にも見られる。

享保13年(1728年)秋の相模屋版細見の芸者の部を見てみると、「さみせん 次郎吉」の記載がみられる。
この人物は「中万字屋寮之罷有」だったらしく、また「岩太夫」という人物と併記されている。岩太夫は、先述の「竹本岩太夫」のことだろう。
また享保18年(1733年)三文字屋版『浮舟草』で、仲之町の裏店として「三ミせん引 次郎兵衛」の記載があり、こちらは本論でも蔦屋次郎兵衛の前身と指摘がある。
「三味線芸者」「次郎兵衛と次郎吉」という共通項は見逃す事が難しく、野沢次郎吉と(代数は確定できないが)蔦屋次郎兵衛が同一人物である可能性は高いと見なせるだろう。

芸者世話役としての蔦屋次郎吉は、天明2年(1782年)『人松島』が終見で、翌天明3年(1783年)『五葉松』ではその名が見えなくなっている。
この事について本論では、身内である喜多川歌麿が遊女駆け落ち事件を起こした責任を取ったものと推測しているが、歌麿駆け落ち事件が事実であったかは確定できないため、ここでは追求はしない。

なお本論では、宝暦年間に裏茶屋の蔦屋次郎兵衛と連名で「富沢利香(りかう)」という三味線引きが、当代次郎兵衛の後継者の前歴であると唱えている。
宝暦5年(1755年)から翌年にかけての山本久左衛門版細見にも名が見えるが、確かに蔦屋次郎兵衛の隣に併記されているとはいえ、特別に同居であるような記述とは判断できない。
宝暦8年(1758年)『大宿梅』での記載が論拠にされているが、この細見については確認ができておらず、本件については否定よりの保留としておきたい。

■むすび
蔦屋次郎兵衛を年表にすると以下の通りになる(史料に現れる年代なので、実働はその前年となる)
 享保13年(1728年):仲之町裏店「三味線 次郎吉」
 享保18年(1733年):仲之町裏店「三味線 次郎兵衛」
 元文3年(1768年):仲之町裏店「蔦屋次郎兵衛」→
 寛保4年(1744年):仲之町裏店「蔦屋次郎兵衛」→「蔦屋六郎兵衛」
 延享2年(1745年):仲之町裏店「蔦屋六郎兵衛」→「蔦屋次郎兵衛」
 明和6年(1769年):仲之町裏店「蔦屋次郎兵衛」→なし
          五十間道「近江屋安兵衛」→「油屋長四郎」
          芸者「野沢次郎吉」
 明和7年(1770年):芸者世話役「野沢次郎吉」→
 明和9年(1772年):五十間道「油屋長四郎」→「油屋次郎兵衛」
 安永2年(1773年):五十間道「油屋次郎兵衛」→「蔦屋次郎吉」
 安永3年(1774年):五十間道「蔦屋次郎吉」→「蔦屋次郎兵衛」
 安永7年(1770年):芸者世話役「野沢次郎吉」→「蔦屋次郎吉」
 天明3年(1783年):芸者世話役「蔦屋次郎吉」→なし
 寛政6年(1794年):五十間道「蔦屋次郎兵衛」→「蔦屋次郎吉」
 寛政9年(1797年):五十間道「蔦屋次郎吉」→「大和屋又七」

現時点で肯定できる説は以下の通り。
・野沢次郎吉は蔦屋次郎吉と同一人物、ないし血縁である
・仲之町裏店の蔦屋次郎兵衛と、五十間道の蔦屋次郎兵衛は同一人物、ないし血縁である(親子とする本論を否定しない)
・蔦屋(野沢)次郎吉と、五十間道の蔦屋次郎兵衛・次郎吉のいずれかが同一人物である

また、保留される説は以下の通り
・蔦屋六郎兵衛の実在性
・油屋長四郎と蔦屋次郎兵衛の関係性(赤の他人か、次郎兵衛の前名か)


江戸時代の商号の使い分けについての知識を持たないため、誰と誰が同一人物の可能性があるかを推定できない。
だが、あえて公家武家的な発想で組み立てるとすると、以下のようになるだろうか。
・初代 蔦屋次郎兵衛(〜1743頃)
 初名は次郎吉。裏茶屋と三味線芸者を兼ねる。

・二代 蔦屋次郎兵衛(〜1772頃)
 初名は六郎兵衛。名乗りからして初代の弟か。
 明和6年の火災で裏茶屋を失った後、ちょうど五十間道に出店していた油屋長四郎の跡を襲う(あるいは油屋長四郎として当初出店する)

・三代 蔦屋次郎兵衛(〜1793頃)
 初名は次郎吉。野沢次郎吉の名で芸者世話役を兼ねる。
 『べらぼう』に登場する次郎兵衛は当代だろう。

・四代 蔦屋次郎吉(〜1796以降)
 先代から芸者世話役を引き継ぐ。
 家督継承後ほどなく五十間道の蔦屋は廃業。

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