江戸時代から、明治へと時代が移り、庶民の暮らし向きも大きく変化がありました。
藩が廃止されて県が置かれてそれまで米を修めていたものが貨幣に変わり、税金は
殿様でなくて県というお役所に収めることになります。従来はコメを使う酒造りは
お殿様が管理していましたが。今度は新政府が管理をとなって、領主が発行した「
酒造株」は使えなくなり、政府の物に書き換えねばなりません。「株は持っていても
役に立たない」と思った家から和平は安く買い入れました。一方で嘉登屋の島博三は
昔は少量ながら清酒を醸造してたようですが、幕末によその家に酒造株を貸していま
した。その株が博三の手元に戻ってきました。和平は博三に言いました。これからは
庶民が酒を飲む時代になる一緒に清酒作りをやりましょうと。江戸時代までは清酒は
武士や商人たちが飲むにごりのない高級なお酒でした。一般庶民は「どぶろく」とか
「濁り酒」を飲んでいました。しかし、酒を醸造するとなると蔵や酒樽。杜氏を雇い
入れと莫大な投資が必要です。博三は和平に打ち明けました。「うちには酒造株を書き
変えるお金も、蔵や設備を整えるお金も必要です。」すると和平が居ました。「お金ならわしが貸してあげるけえ一緒に旨い酒を造ろうよ」こうして二軒の酒蔵が並んででき
ました。
また、JRあきつ駅のある町は昔は三津という港町でした。この三津という町には、
清水屋という商家がありその主人は三浦仙三郎という主でした。この仙三郎は和平より
9歳年下で、明治9年に新たに清酒造りに参入します。三津は幕末頃から清酒造りを始
める家が増え、明治になってからは隣の竹原ぼ町から安浦にかけての沿岸部に酒造りを
する家が立ち並び「西の灘」とも呼ばれてきました。が、しかしその多くは質の良い酒
を作れなかっらようで、仙三郎も何度も酒を腐らせて大変な苦労をしていました。
和平は酒造の後継者を育てておくことをめぐらし、自分の息子は病弱で醸造には不向き
であることから、娘に婿を取って婿にバトンを譲るようにしました。豊田静彦を呉市から迎えて、灘の酒屋に勉強にいかせました。当時の灘の酒は他の土地で作られている酒
とは、雲泥の差高品質な酒です。そんな話が次第に広まって、三津の仙三郎の耳に入り仙三郎も灘へ修行にでかくて、良い酒作りに邁進します。
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