むかし 聞いたことのある この映像 自動的現象で 聞いてみた
なんかね
英語がわからないから 救いなんだけど 僕を いやしてくれる感じ
ひとり親家庭の グッドなんとかごはん だったか? ときどき CMが
こどもたちに 海に つれていってあげたい って 考えてた
レンタカーを借りて こどもたちを 何十人も乗せて あの秘密の海岸に
たのしい 夏の思い出を つくってあげたいって
今の僕の問題は すごく ださい んだけれど
最近 ある方の 結婚相談を聞いてあげてたら その女性が
はやく結婚しないと 1りになっちゃう!
って さけんだ
そのあと 何日かして
ぼくじしんが そおいうかんじになっちゃって
ゆきこさんをまた 家の近くの公園で 待つことを 再開したが
なんか むなしい かんじが つきまとい
以前は 何十年間も 約40年間 きみを 鷺宮で待っていたけど
今考えてみたら 頭がおかしかった男 に 思えてきた
もともと あたまがおかしいから 40年間も 待っていたんだと思う
ぼくには 君以外 僕をコントロールできる人はいないのを知っている
ぼくは きみの 指示や命令には 機械のように従えるのを 自覚していた
20さいころ きみと 鷺宮の道路で であってから 180度% ぼくは
変わったんだよ
もし きみと 出会っていなかったら いまごろ どうなっていたかわからない
きみが 沖縄から戻ってから ウィアザワールドのレコードを買ってきたから
飢餓と貧困を終わらせる 活動が いまだに出来ている
昔の僕を知る人たちは 完全に狂ってると 僕のことを 思うだろう
まさか ぼくが 世界の苦難にある子供や人々を救うことをしているなんて
きみが 目覚めさせてくれた
だから ぼくは A の 餌食になったままの君や弟夫婦たちを
助けなければならない
そして 不思議と言われる 方々の 鼓舞 が いまだに続いているから
でもね
なんか 疲れてきているんだ
ぼく
だれかと 結婚したいって
でも
無理だと思う
君以外
ぼくわ 君の 指示や命令にしか 反応できないから
A は ぼくを 2回も 事業や会社をつぶし バカ状態に
した挙句に ホームレスにしたんだよ
いまもなを A は ぼくが 働こうとすると 妨害を繰り返す
ぼくの イメージは あたまのおかしい ホームレス男 のままに
A は しておきたいんだよ
でも
それを すべて 終わらせる方法は 君と結婚することって 40年前から
判っていた
だから A は 僕らの結婚を 妨害し続けているんだよ
・・・・・・・・・・・・・
http://141.txt-nifty.com/141/2008/04/post_bac5.html より
1度目に光の方が僕と由紀子さんに現れてくれた後に沖縄から戻った
由紀子さんは1枚のレコードを買ってきました そのレコードを買うと
何パーセントかがアフリカの飢餓で苦しむ子供たちを助けるための
支援になると言うもので [ We are the World ] でした
由紀子さんのその優しい気持ちは僕にも伝わりました
そして2人で利益の33%を寄付・支援に回すためのDAPという
会社を作りました
当時バイクの革ツナギは売りっぱなしに近い現状で修理やサイズ
調整は何ヶ月も後回しにされていたので1週間で出来るバイクウェア
のリフォームからはじめました
すると不思議な事が続きました
ワッペンの取り付けの仕事が入りそのワッペンを買いに上野の
光輪モータースに行ったら逆にツナギやバイクウェアの仕事が
山ほどもらえる事になったり それらを直したり修理してくれる所も
すぐに見つかったり 日本で1番の皮革問屋のストック小島(浅草)
さんから世界に通じるレザーウェアの開発に関わる事になったりして
新しい商品のデザインも誰かに書かされているかのように何枚も出来
それを小島さんにより優先的に特許申請してもらい まったく新しい
バイクウェアやグローブなどが出来上がりました
福生のアメリカンハウスを借りて日米&世界のバイク仲間のための
ライダーズハウスもできました
赤線のお店[シスターバー]と16号のベース前のお店を経営している
ヤギさんから1冊の本をもらいました[進駐軍モーターサイクル・クラブ]
というベースの軍人さんたちのバイククラブ[AJMC](オール・ジャパン
・モーターサイクル・クラブ)の写真記事の本でした
http://www.hakuraido.com/hakuraido_01/ajmc/newpage1.html
著者の蔦森 樹さんを紹介していただき吉祥寺でお会いしました
するとAJMCは1945年終戦から続いた日本最古のバイククラブなの
に解散するかもしれない事
毎年クリスマスには当時から横浜の孤児院[エリザベス・サンダース
ホーム]
https://www.google.co.jp/search?hl=ja&tbo=d&rls=com.microsoft:ja:IE-ContextMenu&rlz=1I7ACAW_jaJP394JP394&tbm=isch&source=univ&sa=X&ei=Jxi_UL_wMs71mAXE94DoDA&ved=0CEwQsAQ&biw=1017&bih=499&q=%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%82%B6%E3%83%99%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A0
に子供たちのプレゼントを持ってバイクで16号を走り会いに行って
いたことなどが判りました 16号ゲート前のバイクショップ[ケイショウ]
の会長さんの紹介でAJMCのプレジデント[チャールス・カーソン]さん
と会うことになり ストック小島・国際部の若林さんの通訳でチャールス
さんと話しました そして私がAJMCの後継者となりクラブの発展を
まかされることになり誓約書にサインをして任命されました
そしてAJMCブランドを作ってクラブ予算・活動費・孤児や恵まれない
子供たちへバイクを通じて貢献・寄付が出来るようにと考えました
仕事の量もどんどん増えて自社工場を小島さんのビルの1階に作る
計画や新宿・西口の小島さんの弟さんの不動産屋さんの店舗も
借りる計画も立ちました
当時の計画にはアパレル・ファッション・デザイン学校の生徒さん
たちのデザイン・アイデアを商品化する計画やニューヨーク・パリ海外
の生徒さんたちにも同じチャンスを与える事ができる計画
僕の希望でアメリカの[ヘルス・エンジェルス]の看板ジャケットや
グッズ開発計画 アメリカ・ストリート・グループのチーム・ジャケット
開発と写真集ビデオ類の開発などいろいろとやる事ができました
(19歳の時に見た映画[ウォリアーズ]とヘルス・エンジェルスの
昔の義理と人情を重んじているところなどがAJMCと通じていて)
これらの事が由紀子さんとたった7千円ではじめてから とんとん
拍子にスムーズに まるで誰かにお膳立てされているかのように
運ばれていきました そしていよいよユニセフや現地への直接の
支援も出来るようになった時に 当時は判らなかったのですが
Aによってすべてを奪われてしまいました・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
これ以外にも ホームレス状態にされていた時に 記憶と思考がない状態でも ソビエトがロシアに代わるころ とんとん拍子に 事業が発展しました
http://141.txt-nifty.com/141/2008/04/post_6d87.html より
3度目の光の方が現れてくださった後に 私は由紀子さんとの思い出
の場所の中の1つで ソビエト船とソビエト人を始めてみた晴海埠頭
にバイクで行きました すると なんと!その時もロシア船が停泊して
いました 昔に由紀子さんと見たときは船から出てきたソビエトの人た
ちは2列に行列して無言で静かに歩いて街の方の見学に出ていました
まるで何かの捕虜みたいなふいんきでした 私はその時もアメリカ人
だと思っていたのですが 2列に静かに無表情で歩く外人たちが普通
じゃないと感じ 船の煙突のマークを見たらアルファベットが逆のもあり
どこの国だろう?って由紀子さんに聞いたら「ソビエトかも・・・・」といい
表情が硬くなりました 私と由紀子さんをソビエトの2列の行列の人た
ちはチラッと見るのですが すぐに前を向きなおして まるで先生に見
つかると怒られるような感じでした 僕は好奇心が出てきて船に近づこ
うとして由紀子さんも誘おうと思い振り返ったらいませんでした 由紀子
さんは倉庫の方まで下がってて
船から離れていました 「ねー行って見ようよ」 と言うと 「わたし
やだ・・・怖いから・・・」と言って座り込んでいました 僕と由紀子さんは
いつも人のいない気分のいい場所を探して行ってたので回りには僕た
ちと表情の硬い会話がまったくないソビエトの人たちだけだったので
僕もなんか怖くなっちゃって船に近づけませんでした
そんな思い出にふけりたいと行ったらロシア船が止まっていました
むかし(20才ころ)とちがいロシアの人たちは笑っていたり雑談したり
服装もむかしはとても地味で同じような服装だったのにジーパンや
明るい色の僕たちとあまり変わらない服の人も少しいましたが それ
でも少しむかし見たふいんきは残っていました 作業をしていて船に
中古の車やバイクを積んでいました 日本人の人がいたので聞いて
みると車は5万円バイクは5千円くらいで売っているそうでした 僕の
バイクにロシアの人が恐る恐る近づいてきて見ていました
「モーキック! モーキック!」と判らない言葉を言ってきました
たぶんバイクの事だろうと思い私は笑顔でゼスチャーで答えました
かれらは英語の単語 イエスやノー サンキュウも判りませんでした
わたしはゼスチャーだけで船に乗りたいと伝えて乗る事ができました
船の中は異国のふいんきで一杯でした トイレや通路 壁に書かれた
文字や ペンキの色や質までもが日本と違って見えました 彼らは
日本人がめずらしくいろんな部屋を案内してくれて そのたびに僕を
紹介していました 何人も行列が出来て船の中を見て歩きました
ゼスチャーでドリンクを飲もうと誘われて 女性の船室で飲む事に
なりました その部屋の女性2人は20歳前半の若くてかわいい女性
でした 2人ともとても喜んでくれて 部屋を2つに仕切る手作りの
カーテンを引くとラジカセで英語じゃないロックをかけ出して2人は
いっちょうらのドレスに踊りながら着替えていました 男性の方が
カーテンの間から覗こうと言うしぐさをしたり それを女性達が怒る
しぐさをしたりと 和気あいあいのふいんきです 木の古い小学校
で使っていたような感じの小さな机にグラスが並べられました
どれもちぐはぐで かけているものがほとんどでした 中国のや
どこかの国の拾ってきたような ばらばらでほとんどかけているグラ
スが並べられて1本のとても古そうな 紙のラベルが茶色がかってい
て破れてるビンが持ち込まれた時 着替えた女性達は歓喜の声を
あげて喜んで音楽のリズムに合わせていました 男性達も楽しそう
でした 僕も楽しくなっちゃって言葉がわからない分 ずーっと笑った
り笑顔で接しました 彼らも日本人は初めてで僕もロシア人が初め
てなので互いに好奇心に満たされ続けていました ビンはウォッカ
みたいで 彼らから飲み方を教えてもらいました 息を吸ってから
一気に飲み込み 「フッーーーー!!」と息を吐き出します つまみ
はありませんでした
が 扉の回りや船室の外まで僕を見ようとたくさんの人が来ていま
した すると太った キッチンで仕事をしている女性が食べるものを
調達してくる(盗んでくるみたいなゼスチャーで)と言いました
すると部屋のみんなは大喜びで声を上げました 英語じゃない早い
ロックとウォッカとみんなのパッションとで僕もエキサイトしていました
ふいんきは家族や親戚といる感じでした 素朴で気心はガラス張り
のようです 疲れを知らない子どものように僕もなっていました
太った女性が持ってきたのは赤ちゃんの握りこぶしくらいの小さな
ハンバーグ3つだけが乗ったお皿でした・・・・・ それをみんなで分け
て喜びながら食べました
わたしは彼らが食料や物資がとても不足していることが判りました
彼らの着ているものや履いているものはとても古く部屋はとても質素
でした わたしのタバコやライター ボールペンまで珍しそうに見てい
たのでプレゼントしました とても喜んでくれたのでバッグにあるもの
のほとんどをプレゼントしました かけたコップやグラスを見て家にある
ものをプレゼントすることにしました 翌日に母の家にある不要なお皿
やコップ フォークやナイフ おたまや調理器具 ノートやボールペン
文具類や音楽テープなど あらゆる物を持ってバイクでまた行きました
船の入り口にいた公安警察の方は顔パスで入れてくれました
それらをみんなにプレゼントしました みんな喜んでくれました
船は2日後にロシアに戻るので それまでにもっといろいろなものを
あげようと思いました かれらがほしいものは大体判ったので翌日
勤めていたバイク便会社QQ便で給料を前借していろいろなものを
買いました ドライバーセットやライターのガス オイル 文具類や
調理道具 女性の化粧品は高かったのでライダーの女性たちにも
協力してもらいました 母も使わない化粧道具も提供してくれました
他のライダーも何かを持ち合わせて翌日の出航までに来てくれる
ことになりました みんないいやつばかりです!
それらをもって船に行き お別れパーティをしました
日本のビールやお酒 つまみや食べ物もたくさん持っていきました
みんなでわいわい楽しんでいるうちに夜になり 最初に僕のバイクを
見て「モーキック!」と言って近づいてきたスラブと言う男性が自分の
子供にバイクをプレゼントしたいと何回も言っていたので僕は日本に
いて働けばまたバイクは買えると思い決意してプレゼントすることにし
ました ナンバーをはずす前に走り納めをしようと船の前の港を走りま
した 走っているうちにパトカーが赤灯とサイレンをならして近づいて来
た時に Aの声が突然飛び込んできました「チャーリー逃げるのよ!」
私は何か逆らえない何かの力があって 港の外に出てしまいました
すると待ち構えていたかのようにパトカーが数台待機していて一斉に
赤灯とサイレンを鳴らして走ってきました Aはとにかく逃げろと言い
私は警官の方々に事情を説明しようと思ったのですが出来なくされま
した 晴海埠頭は銀座方面か豊洲方面の2つの道しかなく橋を渡らな
ければ都内に戻れません どの橋のたもとにもパトカーが2台位ずつ
いました ぐるぐる逃げるうちに 勝どき橋のパトカーが振り切れました
パトカーは何台も僕を追ってきましたが僕は幡ヶ谷1−1の自分のアパ
ートに戻っていました そしてAにこれからどうすればいいのかと聞きま
したが返事はありませんでした 僕の中に入っていないと思いAの家に
電話をしましたが出ませんでした 僕は大変なことになってしまった!
と怖くなりました 船にいる仲間たちのことも心配になりました
2時間ほどして仲間の1人が部屋に来ました 彼は私に警察に出頭
したほうがいいと言い 警察は2日間だけ待ってくれる事になっている
がそれ以降は逮捕状を取ることになると言われました 警察は私達を
何かの密輸に関係しているのではないかと張り込んでいたとの事でし
た パトカーは20台以上出動していたこともわかりました 私は彼に
「ある女性(A)にあって相談するから」と言いました そして翌日の夜
Aに呼び出されて西大井のほうのAの部屋に行きました そしてAは
「私が何とかしてあげるから明日出頭しなさい 私を信じて・・・・でも
まさか逃げ切れるとは思わなかった・・・・予定が狂った・・・・」と言い
僕を帰らせました 翌日QQ便のライダー数名も付き合ってくれて港湾
警察に出頭した僕は取調室で警官の方に事情を説明しました すると
何もかも知っていると言う感じで怒ったりはしなく とても事務的に始末
書のようなものが出来上がりそれにサインをするようにと言われました
サインをすると警官の方はロシア大使館の方が取調べをここですると
いい出て行きました 取調室に入ってきた大使館の方は日本語が上
手で僕に何しに船に乗ったかやプレゼントしたものは何かなどを聞きま
した 私は最後に歯ブラシの本数が何本か忘れたので10本くらいだ
ったかな?と言うと大使館の人は手帳を見て15本デスネと言いました
そして「イシイサンハ ショウジキニハナシテクレマシタ ワタシハワガ
ロシアノタメニ アナタノシタコンカイノコトニ オレイヲイイマス アリガト
ウゴザイマス アナタハコンゴ コノヨウナカツドウヲ ツヅケマスカ?」
と言われたので なんかこのまま免許を取り上げられたり法律で裁か
れたり怒られたりしないじゃないかな?と感じて うれしくなり さらに
自分のしたことは良い事だったんだと判り 「はい!続けたいです!」
と元気よく言いました すると 「モシツヅケルノナラバ 高輪ニアル
ロシア通商代表部ノ ビクトリー・フジューニン トイウ タントウカンニ
ゼヒアッテクダサイ カレガチカラニナッテクレマスカラ」と言われました
そして話が終わると警官の方から その夜に築地警察と月島警察も
パトカーを緊急配備して3つの警察から23台のパトカーが僕を追って
いたとの事を聞かされました そしてそのまま帰らしてくれました
わたしは心から反省をしました そして2度とこのようなことが無い様に
しますと 誓ったのでした
その後言われたようにロシア通商代表部に行きました そして担当官
のフジューニンさんに会いロシアの現状や人々の生活状態などを聞き
ました 飢えと寒さで凍死する子供たちや老人の方々 物不足など・・
私は当時燃えないごみの日に出されるまだ新品とも思える電気器具や
家具 調理器具や道具 文具や衣類などさまざまなものを調べ研究
したことがあり それらがただ廃棄されるのではなくて何かに役立てな
いか?を考えていました 銭湯に行っても まだ残っているシャンプー
や石鹸も 行きつけの銭湯のおばさんの協力を得て集めて取って置い
てくれたもので再生の実験などもしました どのような形でロシアの為
に貢献できるか?を考えていました Aはロシアの件は非協力的で話
しすらもするなと言いました この頃からAはひんぱんに私を呼び出し
たりして 今は判るのですが暗示を強めてロシアの活動が出来ない
ように妨害していました
それはAが計画していたある事の妨げになるからです
しかしある日 不思議なことが続きました
わたしは早朝の甲州街道で [ けんせつちょう ] と ひらがなで
書かれたトラックが 放置しているバイクを撤去しているのを見ました
そのバイクはどこに行くのだろう?と思い建設庁に聞こうと考えました
104で電話番号を調べて国道管理1課のイワムロさんに行き着き
撤去後の放置バイクのことを聞きました すると 建設庁が管理する
国道に放置してあるバイクは警告書をバイクに取り付けた後に期間が
過ぎたものは都内4つの出張所にバイクは集められて撤去した後
6ヶ月過ぎても連絡の無いバイクは処分する事が判りました その
処分方法は決まっていない事が判りました 事情を説明してそれら
のバイクをロシア船で運んで寄付・経済協力をしたいと言うとスムー
ズにまるで誰かにお膳立てされているかのように話がまとまりました
無料で手に入る事になったバイクの事をフジューニンさんに話しました
常に撤去されるバイクの期限が切れて処分されるバイクはコンスタント
に都内4つの出張所に集められていて そこから直接ロシアに送れて
金額に加算すれば膨大な金額がコンスタントに入ってきますと話すと
喜んでくれました 計画もウラジオストック港に整備工場も設けたり等
とんとん拍子に進みました そしてフジューニンさんからはロシア政府
から私にロシアの現状を視察する目的も含めて 飛行機代やホテル
などの滞在費すべて持つ正式な招待状を送られることになったと知ら
されパスポート番号をロシア領事館に知らせてくださいと言われました
私はうれしくなり母も喜んでくれました 母は当時Aによる強い暗示で
苦しめられていたにもかかわらず この活動の唯一の協力者でした
その後フジューニンさんが任期を終えて帰国するときに母は自分は
もう着ないからと言い 大切にしまっていた着物や帯などをフジュー
ニンさんにプレゼントしました 帰国されたフジューニンさんからは
ロシアから電話でパスポート番号を領事館に知らせてくださいと何度
も連絡がありました・・・・
しかしフジューニンさんが帰国後 次の担当官マースル・ニコフさんを
紹介された後 Aは 「もうロシアとは手を切りなさい!」と怒りました
そして 暗示を強めてフジューニンさんから何度も連絡があったのに
すぐに忘れさせるなどの妨害を続けて さらには住んでいたアパート
や母のアパートと弟のアパートまで暗示によって引越しさせて鳩ヶ谷
市桜町のAが手配した借家に住まわせてフジューニンさんとの連絡
を取れないようにまでしました・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
なんか
昔のこれらの記事を見ていて なんか また POWER が でてきました
へこたれてたまるか! みたいな 森先生の言葉を思い出し へこたれられない
自分を また 見れました
でもね
由紀子さん
君がいて ぼくは 何でもできるんだよ
このころだって 君のことが 40年間 あったから 出来たんだよ
僕と君が結婚すると ぼく 1人でも すべては良くなる現象が M方々により 誘導されるけど 2人になると 手に負えないくらいに 沖縄行きのフェリーでの宇宙艦隊のように A は なることを知っているから ぜったいに僕らを近づけさせないように あらゆる人間を ぼくらのまわりに 常に 配備させてるんだよ
それを 信じてほしい
明日到着する 手紙に書いたように
金曜日は9:45分に 待っています
そして 土曜日と日曜日 天候次第で その時間に 待っています
最初の この間は むかしからのように A の 配備された女性が
ベンチにいました
そのあとの日の時も ある男性が ぼくを ずーっと 見ていましたが
むかしからのように ポーカーフェイスで 無視しました
だから 時間と場所は 手紙で知らせます
愛しています 結婚してください 大切にします
待っています
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