大河に新楽府なる書物が出てきた、唐代以後の新しい楽府。 特に、白居易が、楽府は民衆の声を代弁し、為政者の参考となるべきであるとの主張のもとに五〇首の新楽府を作ったのに基づき、人民の喜怒をうたい、時弊を諷刺する漢魏の漢詩の一形式で、古体詩の一種。南朝斉の武帝の命を受けて撰した南朝宋の正史である『宋書』の「楽志」に記載されたため、現存する貴重な文学作品である楽府がでてくる。
元和三年、三十七歳の白居易は、その年の四月、天子側近の諫官である左拾遺に任じられ、その翌年に「新楽府」五十首を作った。このことは「新楽府」の序に、「元和四年、左拾遺たりし時の作」とあることから知ることが出来る。紫式部が上東門院彰子に教授した(『紫式部日記』より)という事実のほか、当時の文学作品においても、清少納言は『枕草子』にて「文は文集[18]、文選、はかせの申文」と述べ、紫式部は『源氏物語』「桐壺」のほとんど全般にわたり、白居易の「長恨歌」から材を仰いでいることから作ったエピソードだろう
まひろ=紫式部の弟で、これを借りてきた藤原惟規は少内記として詔勅などの起草はじめ朝廷の記録官として活躍し能文・能筆の者が任じられ兵部丞や六位蔵人、式部丞を歴任するなど出世し頭の悪い人間ではない。惟規は和歌に優れていた人で自由気ままに振る舞うおおらかな性格で「惟規集」という歌集を残し、勅撰和歌集にも9首収められている。
夭折したため、残せるものが少なかっただけで決して姉に卑下するほど駄目な人間ではなかった。大石静は早く死んだ人は資料がないから滅茶苦茶に書く癖がある脚本家な様だ
今朝も虎に翼を
優三と婚約した寅子に直言とはるは驚くが、「いや その手があったか」のはるの言葉は笑えた、その手も何も現実の三渕女史は他に方法がなく両親が下宿人とであった。
よねは「逃げ道を手に入れると人間 弱くなるもんだぞ」というが寅子の初弁護で法廷服を着て法廷に
矛盾は感じる女性は多いだろうが日本は終戦79年で驚くほど価値観の変わった国が本当であるらしい〈終戦後59年頃、祖母が言っていた)
日記はもうとじよう
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