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2024年05月16日22:04

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四天王寺と古代王権

大阪府立近つ飛鳥博物館で開催されている「四天王寺と古代王権」という企画展を見てきました。
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https://chikatsu-asuka.jp/

四天王寺は、大阪市のど真ん中にある古いお寺です。今現在の建物は鉄筋コンクリート製ですが、7世紀前半に創建され、現在にいたるまで法灯を守り伝えられている、重要な歴史遺産とも言えます。

常設展で展示されている四天王寺の模型
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しかし、創建以来、その時々の政治体制などに応じ、整備、改修が行われてきたことは、意外と知られていません。四天王寺の伽藍造営の歴史は、わが国の政治体制の変遷を物語ってくれるのです。
今回の展示では、出土瓦の最新研究から分かってきた、飛鳥時代から平安時代初めまでの四天王寺の歴史を見ていきます。

あまり整理できていませんが、何枚か写真を撮ったので、掲載します。


【四天王寺と上宮王家】
四天王寺は、聖徳太子が創建した若草伽藍(現法隆寺の前身寺院で、現在は遺跡のみ)と深いかかわりを持って建てられました。太子は、外交を重視していましたが、難波の玄関口に位置する四天王寺は、わが国の仏教文化を対外的に示す、モニュメント的な役割を果たしていました。

四天王寺の瓦
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樟葉・平野山瓦窯群跡の瓦
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7世紀初めから中頃まで操業し、四天王寺に瓦を供給していたと考えられます。


【四天王寺と難波政権】
孝徳天皇の難波長柄豊碕宮(前期難波宮)遷都にともない、難波の大寺としての寺格を確立します。わが国初の官寺とされる飛鳥地区の吉備池廃寺と同笵の瓦が出土し、国家仏教を象徴する大寺として整備されていていくことが見えてきます。

四天王寺の瓦
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吉備池廃寺の瓦
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【四天王寺と律令国家形成期の政権】
孝徳天皇の崩御にともない、都は飛鳥に戻ります。その後の四天王寺の整備は斉明天皇に引き継がれます。660年に滅亡した百済への救援軍派遣の準備のため、難波に滞在しますが、その際納められた仏像に、斉明と中大兄皇子の足跡が認められます。その後、白村江での大敗をきっかけに渡来してきた氏族の百済王氏などが、8世紀初め頃の、講堂、中門、回廊などの整備を支援したと考えられます。

四天王寺の瓦
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細工谷遺跡の土器類
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四天王寺近くの遺跡です。当時の難波の地の様子の一端が窺えます。


【四天王寺と聖武天皇】
聖武天皇によって、再び難波が首都となります(後期難波宮)。この頃の整備に使われた瓦は、難波宮の瓦当文様を模した軒瓦も使用されます。また、聖武天皇が何度も巡礼し、大仏造立の契機となった柏原市の智識寺と同笵の軒丸瓦も出土しています。

四天王寺の瓦
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後期難波宮の瓦
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【四天王寺と称徳天皇・道鏡政権】
奈良時代後期は、寺格の高さを保ち続け、他寺院への瓦の大量供給に応えられるほどの専用の造瓦所を有していました。称徳天皇と道鏡は、理想の仏都「西京」を構想していました。2016年に発見された由義寺跡からは、官寺である西大寺の瓦とともに、四天王寺と同笵の摂津の瓦、河内国分寺などの河内の瓦といった、多種多様の瓦が出土しています。

由義寺跡の瓦
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由義寺跡の瓦
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【四天王寺と平安の新都造営】
奈良時代末から平安時代初頭の四天王寺は、中門、回廊基壇の改築や暴風被害に遭った講堂の改修など、大規模な工事を行っています。この頃の軒瓦は平安宮の国家的饗宴施設である豊楽殿にも供給されました。

四天王寺の瓦
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豊楽殿の瓦
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【四天王寺と橘氏】
836年、落雷によって塔と太子廟が破壊されますが、その改修のために国が特別の計らいをしていることから、この頃も国家の寺としての寺格を保っていました。2021年に発見された橘諸兄創建の井手寺とみられる塔基壇跡から、平安時代の四天王寺と同笵の軒瓦が出土しています。

四天王寺の瓦
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井手寺の瓦
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今回の企画展は、パネルやパンフレットに書いてある文章を読んでいくと、四天王寺と国の関係などは、なんとなく分かりますが、展示物のほとんどが瓦ばかりなので、展示物から、そういう四天王寺の歴史の流れを感じるのは、難しかったです。
レベルの高さを感じた企画展でした・・・まあ、いつものことですが(^^ゞ
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