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2024年05月16日02:49

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若狭に宋人70人来航で藤原為時国司に。寅子の先輩、久保田が法廷に

大河にもあったが、995年(長徳元年)8月頃、北宋の商人、朱仁聡が林庭幹・羌世昌(周世昌)ら70余人とともに若狭国(福井県)に来航した。9月4日、藤原道長が唐人来着文を一条天皇に奏上し、その対応が審議され、9月23日には唐人を越前国へ移すことが決まった。

朱仁聡らは約5年間にわたって越前国に滞在し1000年(長保2年)に大宰府に移り、1002年(長保4年)に帰国したと考えられる。

紫式部の父、藤原為時は、朱仁聡が来航した翌996年(長徳2年)正月、越前守に任命された。初、越前守に任命されたのは源国盛で、為時は淡路守だったが、藤原道長と一条天皇の意向により交替となる、勿論、紫式部の意向など全く関係なく漢詩に堪能だった為時を越前守にすることで、唐人との交渉を円滑に進めようとしたのだといわれる。

為時は、朱仁聡とともに来航していた羌世昌(周世昌)と詩をやりとりしていたと伝えられ越前守となった為時は、夏には越前国へ下向し、紫式部も同行。朱仁聡らの滞在先は、越前国府があった武生ではなく敦賀津と考えられ敦賀には渤海の使節団(渤海使)を迎えるために建てられた施設「松原客館」があった。

朱仁聡が来日すると、源信(恵心僧都)が弟子の寛印とともに敦賀を訪れている。源信が朱仁聡に会うのはこれが初めてではなく、987年(永延元年)に朱仁聡が来日した時にも会っていた。比叡山の横川にある恵心堂(恵心院)は、藤原兼家が建立し、宇治の恵心院は、恵心僧都源信が再興し、琵琶湖に浮かぶ浮御堂は、恵心僧都源信が創建した満月寺の堂になる。

今朝も虎に翼を

弁護士になったが、女性であることを理由になかなか依頼をしてもらえない寅子に寅子と同時に合格した久保田先輩が婦人弁護士として初めて法廷に立つと聞き、轟とよねと見学に向かった寅子だが久保田先輩が結婚し妊娠していることを知り驚く。

更に花岡の婚約に寅子に衝撃で、家に帰った寅子は、母はるに見合いを頼む。明日、辞表をだしてという父・直言に私は弁護士やめまない。わかったんです。結婚しているのとしてないことで信頼の物差しにしている人が多いことをと、手段としての結婚を…

母・はるは親として、寅子に最大限いい方を探す。理由はどうあれ、結婚を決意したことは親として嬉しく思うと。はて、大戦突入時の日本のはずだが戦争の影を少しも感じなかった。

日記はもうとじよう
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