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2024年05月15日03:30

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道長と隆家にも抗争があった、寅子、弁護士にはなったけど

大河でもは描かれなかったが道長と伊周の弟、隆家とは従者同士の抗争があった。詮子の一条天皇への母の涙の道長推しで長徳元(九九五)年六月五日、従二位権大納言藤原道長に内覧の宣旨が下る。

藤原道兼が亡くなったことでもう一度チャンスが巡ってきたと考えた藤原伊周にとって、藤原道長への内覧の宣旨は大きな心痛となり、更に母親違いだが伊周にとっては頼れる兄であった正三位権大納言藤原道頼が、長徳元(九九五)年六月一一日、二五歳という若さで命を落とす。二ヶ月の間に、尊敬する父と頼れる兄の二人を失い落胆していた伊周には衝撃的な人事だった。

長徳元(995)年六月一九日、従二位藤原道長が右大臣に就任、同時に藤氏長者に就任すると発表された。道長にとって、摂政も、関白も、太政大臣も、自らの政務遂行に支障を生じさせる地位でしかなく道長が右大臣になったことで、藤原伊周は人臣のナンバー2に位置づけられた。

伊周は、議政官で浮く存在になり。話しかける者もおらず、議政官で何を発言しても何の反応も返らず、ついには内大臣藤原伊周不在という状況に気づかない者もでる状況だった。長徳元(995)年七月二四日、右大臣藤原道長と内大臣藤原伊周が論争し殴り合いに発展するかわからない状態になった。「宛も闘乱の如し」と藤原実資が「小右記」にしるしている。

長徳元(995)年七月二七日、平安京の七条大路で、右大臣道長の従者たちが伊周の実の弟の権中納言藤原隆家の従者たちと乱闘を繰り広げ駆けつけた検非違使たちが逮捕したのは、先制攻撃を食らった側の藤原隆家の従者たちだけ。道長の従者たちは無罪放免となる

道長は容疑者引き渡しを藤原隆家に命じ、引き渡さない場合は藤原隆家を謹慎処分に処すと発表した。藤原道長は徹底抗戦ではなく懐柔策を提示し長徳元(995)年八月二八日、正三位内大臣藤原伊周が皇太子居貞親王の東宮傅に就任させた。寛容は敵視以上にプライドをズタズタに引き裂いて長徳の変に至る事になった。

今朝も虎に翼を

昭和15年(1640)10月、ついに、寅子が弁護士の肩書の名刺を手にする太平洋戦争の前年だ。

ところがドラマでは司法修習後の試験に合格した花岡が、どうしても早く伝えたいと寅子に電話をし、みんなでお祝いをしようと提案した寅子に、花岡は二人が良いと、聞いていた母・はると親友で兄嫁の花江は、大はしゃぎ、戦争の影も見えない。

一握りの殿方は気付くものだと言われた寅子は珍しくワンピースで出勤したが雲野先生た先輩弁護士は気づかない。事務員のオバサンだけが気づく

法曹会館のレストランで花岡と合った寅子に花岡は気づいた一握りの男なんだけど残念ながら三淵先生の人生にはいなかった架空の人物で佐賀の裁判官になると最後の食事になった。

甥の直明は岡山で寄宿生活をすることに六高だな、爺さんが行ってたからピンときた、とは言ってもがり勉と植物、動物の世話しかしない、超勤勉人間で優秀でなく私とは気が合わず、しかも途中で休学、留年している。兄が書けない不祥事で死んで夢だった商船学校から商船に乗る道が経たれ、燃え尽き症候群になったらしい。らしいというのは本人はノイローゼとしか認識してないからだが

よねが雲野法律事務所を手伝う事になり寅子と再会、この人、賢いんだけど面接で口の利き方が、戦後かな弁護士は。雲野は貧しい困っている人間を無料にする、良い人過ぎるんだな、こういうの裁判官が良かった気が。

依頼人は女性である寅子が担当するのを断わられ続け、よねに「女が嫌だと言え。お前も甘い。このままじゃいつまでも法廷に立てない」と、確かにそうだけど、よねさんも検察向きだな

日記はもうとじよう
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