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2024年04月28日08:21

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心の教育❓

記事の評価(↓画像)を見れば分かります。
 
できればURLを開いて全部読んでくださいな、先生達。
【発達障害児を苦しめる「心の教育」 寛容な社会ほど権利意識は強い 日経ビジネス】
https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00087/041100387/ 抜粋
工藤:日本の教育の大きな問題点の一つとして、「心の教育」があります。

ーー「心の教育」が問題、ですか。むしろ「よいこと」のように感じてしまいますが……。

◇心に働きかけて、行動は変わるのか?◇
工藤:「心を一つに」「心を大事に」「心を合わせて」などと、よく言いますよね。昭和の教育を受けてきた私たちには非常になじみがあるものですし、今の学校でも当然のように称揚されています。

 心というのは、よいことを行うための手段であり、「心を鍛えれば、よい行いができる」と考えられています。「心=行動」であると。このような考えのもと、学校でも心を鍛える指導が行われているわけです。それは一見、とても美しいことのように見えるのですが、本当にそうなのかと一度疑ってみる必要があります。

ーーどういうことでしょうか。

工藤:心を鍛える努力が、「よい行い」につながるでしょうか。
 結論から言えば、非常に難しい。あの孔子ですら、「七十にして心の欲するところに従えども矩(のり)を踰(こ)えず」と言っています。70歳になってようやく、「心のままに行動しても、人の道を外れないようになった」ということです。心に働きかけて行動を変えるのは、それだけ難しい。

 ではどうすればいいのか。答えは明確です。心ではなく、行動に着目すればいいのです。頭で考えて行動するということです。そのために知識を学び、スキルを身に付ける。

 知識によって「よきこと」は何かを考え、スキルによって「よきこと」を実践する。心にこだわりすぎると、ボランティア活動をしている人を見て「売名行為だ」「偽善だ」と批判するような、おかしなことが起きてしまいます。売名行為であろうがなかろうが、ボランティア活動が「よき行い」だと考えるなら、迷うことなくすべきです。私は子どもたちに、よいと判断したことは躊躇(ちゅうちょ)なく行動に移せる人になってほしいと願っています。

「みんな違っていい」なら、対立を覚悟せよ

工藤:教育が心に働きかけるものではないとしたら、私たち教育者は何を目標にすればいいのでしょうか。大切なことは2つあります。

 1つは、子どもたちが持って生まれた「主体性」をそのまま伸ばすことです。

 これは、子どもの「主体性を失わせない」ことと言い換えたほうがいいかもしれません。もともとある主体性を持ち続け、伸ばすことができれば、社会に出たとき、自分の可能性を十分に発揮できるようになります。子どもを個体として、個人として見たときに大切なのは、この主体性です。

 それに対して、多様な個人から構成される社会を見たときに大切なのが、当事者意識です。

 多様な人々が生きていれば、必ず対立が生じます。子どもたちも必ず、自分とは違う誰かとの対立を経験します。「みんな違っていい」というのは、きれい事ではありません。対立を覚悟するということです。対立はあって当然で、その中でどんな解決策を見つけるかが問題です。

 日本の先生たちは大抵、心の教育で折り合いを付けさせようとします。「人の気持ちを考えなさい」などといって、対立しているどちらかに、あるいは双方に妥協を迫ります。でも、相手の気持ちを考えたところで、お互いに「大嫌いだ」と思っているわけです。向こうもそう思っていると考えれば、なおさら頭にきて、気持ちは収まりません。相手の気持ちを考えれば考えるほど、対立の解消から遠のいてしまいます。

工藤:子どもの主体性と当事者意識を育てる。これが教育の二大目標であると私は考えます。それはつまり、子どもたちが自分の意思で学び、将来、自分の力で学べるようになる、あるいは自分の力で生きていける人間になることです。

 知識やスキルの獲得は、これら二大目標の下位目標です。決して教育の一番の目標ではないのです。知識とスキルを上位目標に置いてしまうと、「与える教育」になりがちです。実際、多くの学校が与える教育をしています。

 例えば、中学の英語の授業は、学年の垣根を取り払って、次の4つの教室から、生徒が好きな部屋を選んで、学びにいきます。

 1) 教師が教える教室
 2) 対話して学ぶ教室
 3) 個で学ぶ教室
 4) 企業から学ぶ教室

 実はこのほかに「学ばない教室」というのもあります。ちょっとのぞいてみると「今日は心に潤いがほしいので休みます」などという生徒が3人いて、みんなでぐたっとしている。けれど、数十分後にその教室の前を通りかかると、なぜか先生と一緒に3人が勉強しています。後で聞いてみたところ、様子を見にきた先生に1人が質問したようで、つられて他の2人も一緒になって授業を受けたといいます。学ばない部屋で学んでいたわけです。

−自分のペースで学んでいたのですね。

主体性をそのまま伸ばし、多様性を認めれば、必然的に対立が生まれます。

 学び方も自由ですから、スマホを使う子もいれば、タブレットを使う子もいます。中には、紛れてゲームをする子も出てきます。最初のうちは「◯◯君がゲームをしているんですけど」と告げ口に来る子がいます。しかし、あっという間にそういう子はいなくなります。なぜなら周りの子がゲームをしていても「自分の学びには関係ない」ということがわかるからです。自分の学ぶ権利に悪影響がないから、放っておくようになるのです。そのうちに邪魔だとも思わなくなるようです。寛容性もどんどん高まっていきます。

◇ 権利意識が強いほうが、寛容になれる◇
発達障害の子の場合、勉強に集中するのが難しかったり、自分の好きなことだけに没頭したりして、怒られることがよくあります。

工藤:それらを心の問題として扱っていたら、「不真面目な子」として、教室から排除されてしまうでしょう。そのような子を邪魔だと感じ、告げ口をする子も減らないはずです。心ではなく、権利の問題として捉えれば、寛容になれます。

 多様性を受け入れることができないのは、権利意識の持ち方に問題があるのかもしれません。
ー・ー・ー
 そういった意味でいえば、横浜創英のカリキュラムは、障害のある子もない子も同じ場で学ぶ「インクルーシブ教育」を志向しているのかもしれません。ただ、インクルーシブであるかどうかという以上に、障害に対する支援が「与える支援」であってはいけないと思います。

「与える教育」は、子どもたちから当事者意識を失わせてしまうという指摘がありました。支援も同じであると。

 直面している困難が大きく、支援を必要とする子どもたちにこそ、自己選択と自己決定が欠かせません。

 自由に学んでいる子どもたちを見ていると、我々は少数派に属する子どもたちを勝手に障害者であるとラベリングしているのではないかと感じます。マジョリティーが健常者、マイノリティーが障害者という感覚を、子どもたちが毎日を過ごす学校の中でなくしていければ、多様性が増す社会を生きていく上で大いにプラスになるはずです。
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