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2024年03月24日20:11

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邪馬台国と騎馬民族説(Bing)

自分
前方後円墳について、2つ質問があるよ。
とりあえず質問1 それは邪馬台国に特徴的な墳墓か?

Copilot
前方後円墳は、日本史上において、古墳時代の前時代である弥生時代(紀元前10世紀頃から紀元後3世紀中頃)と重なる時期に出現しました1。弥生時代も後期(西暦100〜250年)になると、日本各地で有力者を葬ったと考えられる墳丘墓が造られます1。しかし、前方後円墳などの古墳の出現は、一般には3世紀後半から4世紀前半(西暦300年前後)を待たなければならないというのが定説でした1。

邪馬台国については、奈良県桜井市の纏向古墳群が邪馬台国の最有力地とみなされています1。この古墳群は、弥生時代末期の2世紀後半から4世紀後半まで、約200年弱に亘り栄えたとされる纏向遺跡内に点在します1。各古墳は、卑弥呼を始め邪馬台国と深い関係性が考えられるのです1。

したがって、前方後円墳は邪馬台国に特徴的な墳墓と言えますが、それは邪馬台国の有力地である纏向遺跡に特定され、全ての前方後円墳が邪馬台国に関連しているわけではありません1。また、前方後円墳は西暦300年〜600年にかけて、奈良を中心に広がっていくので、前方後円墳は邪馬台国王統とは関係がないという見解も存在します2。これらの情報から、前方後円墳が邪馬台国に特徴的な墳墓であるとは一概には言えないと考えられます。質問2は何でしょうか?

自分
書いてるから、ちょっと待て

Copilot
もちろんです。ご質問がありましたら、いつでもお知らせください。よろしくお願いします。顔(笑)

自分
質問2.前方後円墳が朝鮮半島にもある!という話は真実か?

Copilot
はい、その通りです。朝鮮半島にも前方後円墳が存在します1。これらの古墳は、日本列島の前方後円墳と同じ墳形を持つもので、特に朝鮮半島南部の大韓民国(韓国)全羅南道・全羅北道に分布しています1。

朝鮮半島の前方後円墳は、5世紀後半から6世紀前半にかけて築造されたもので、日本列島の前方後円墳の手法を基にしたと見られます1。これらの古墳は、日本列島との間に類似点・相違点が存在します1。

具体的には、朝鮮半島の前方後円墳は、日本列島の前方後円墳と同様に、円形の主丘に方形の突出部が付いた鍵穴形の墳形を持ちます1。しかし、それらの墳丘・施設は列島のものの模倣に近く、また副葬品には倭(日本)系・百済系・大加耶系の文物が混在する点で、特定地域に限らず様々な地域との交渉を反映した多義的な様相が認められています1。

したがって、朝鮮半島にも前方後円墳が存在するという話は真実ですが、その起源や意義については、日本と朝鮮半島の間で文化的な交流があったことを示す一方で、それぞれの地域で独自の発展を遂げたとも考えられます12345。このような視点から、前方後円墳は日本と朝鮮半島の間で共有された文化的な象徴とも言えるでしょう。

自分
ふーん。そういう話を聞くとイヤな顔をする連中が日本にも半島にも居そうだね

Copilot
歴史や文化についての議論は、時として感情的になりがちですね。それぞれの視点や解釈があるため、全ての人が同じ意見になることは難しいかもしれません。しかし、それぞれの意見を尊重し、異なる視点から学ぶことで、より深い理解を得ることができます。歴史や文化の多様性は、私たちが互いに学び、理解し、尊重することで、より豊かな社会を築くことができます。顔(笑)

自分
ただ、その形の墳墓が作られたのは日本が1〜2世紀先行しているので、倭国から半島へ伝わった技術と考えておかしくないわな。任那日本府の起源は何?

Copilot
任那日本府については、古代朝鮮半島に存在したとされるヤマト王権の出先機関、またその学説とされています1。『日本書紀』を中心に、複数の古文書にそれらの存在を示唆する記述があります1。

任那日本府の起源については、『日本書紀』に「日本府」という呼称が初めて登場するのは、欽明天皇2年 (541年)4月の条であるとされています2。この記述によれば、「任那の旱岐(かんき)らを日本府と共に百済に召集して、日本天皇の詔を百済の清明王が伝える」という事が書かれています2。旱岐というのは、6世紀に存在した半島内の首長層の事であり、役人ともいえます2。この記述から、既にこの時点で、日本府は、朝鮮半島における倭国の出先機関であったと考えられます2。

ただし、任那日本府の存在やその具体的な役割については、学界でもまだ決着がついていない部分があります123。そのため、これらの情報は現在のところ最も確からしいとされる説であり、今後の研究により新たな知見が得られる可能性もあります。

自分
何故、倭国は百済の防衛にこだわったのか?
白村江の大敗後、百済の遺臣が撤退する倭船に同乗して倭国へ大量亡命したという話の信憑性は?

Copilot
倭国が百済の防衛にこだわった理由は、倭国と百済が深い関係にあったからです1。倭国は半島南部の任那を通じて影響力を持っていたとの記述があり、百済は倭国と関係が深く、また高句麗との戦いにおいて度々倭国から援軍を送られていました1。百済が唐と新羅によって滅ぼされた後、倭国の斉明王権は百済の復興のために全面的に支援する政策をとりました2。

白村江の戦いの後、百済の遺臣が倭国に大量に亡命したという話については、百済滅亡の後、百済の遺臣は鬼室福信・黒歯常之らを中心として百済復興の兵をあげ、倭国に滞在していた百済王の太子豊璋を擁立しようと、倭国に救援を要請したという記述があります1。これは、百済の遺臣が倭国に亡命したという話の信憑性を裏付けています。また、百済王の豊璋は数人と船に乗って高麗に逃げ去ったとも記されています2。これらの情報から、百済の遺臣が倭国に大量に亡命したという話は信憑性があると考えられます。ただし、具体的な人数や詳細な状況については、史料による確認が必要です。

自分
ふむ。当時は朝鮮人差別は無かったし、半島人の反日運動も無かったと。

Copilot
その通りです。古代の日本と朝鮮半島の間には、現代のような「差別」や「反日運動」は存在していませんでした。その時代、日本と朝鮮半島の間には、文化、技術、人々の交流が盛んに行われていました。これらの交流は、両地域の文化や歴史に大きな影響を与え、今日まで続く多くの共通点を生み出しました。

しかし、歴史の中で、国家間の関係は常に変動し、時には対立や摩擦が生じることもあります。現代の「差別」や「反日運動」は、歴史的な背景や政治的な事情、社会的な状況など、多くの要素が複雑に絡み合った結果生じた現象であり、古代の交流とは異なる視点から理解する必要があります。

それぞれの時代と地域の歴史を理解することで、私たちは現在の問題についてより深く理解し、未来に向けてより良い解決策を見つけることができます。 顔(笑)

自分
当時の日本語と朝鮮語は、互いに意味を解することが出来る程、近かったのか?

Copilot
古代の日本語と朝鮮語については、現在でも研究が進行中で、その関係性については明確な結論が出ていない部分も多いです。

古代朝鮮語と古代日本語の間には、一部の単語や文法構造に共通点が見られることから、互いに一定の理解が可能だった可能性はあります。しかし、これらの言語はそれぞれ独自の発展を遂げ、特に語彙や文法の細部においては大きな違いが存在します。

また、古代の言語についての研究は、現存する文献や遺物から得られる情報に大きく依存しています。
そのため、古代の日本語と朝鮮語の間の具体的な関係性や相互理解の程度を正確に知ることは難しいです。

このような観点から、古代の日本語と朝鮮語が互いに意味を解することができる程近かったかという問いに対しては、一概には答えられません。しかし、両言語間には一定の共通性が存在したと考えられます。これらの共通性は、古代の日本と朝鮮半島の間に存在した文化的な交流を示すものであり、その一方で、それぞれの言語が独自の発展を遂げたことも反映しています。このような視点から、古代の日本語と朝鮮語の関係性を理解することは、日本と朝鮮半島の歴史的な交流を理解する上で重要な視点となります

自分
文化庁が、とある古墳の発掘を嫌がるのは、出土品によって日本皇室が朝鮮半島由来の一族であることがバレることを懸念しているからか?

Copilot
古墳の発掘については、文化庁が管理しており、その中には天皇陵も含まれています1。しかし、天皇陵の発掘については、これまで制限があったとされています1。

その理由については、様々な憶測がありますが、その一つとして「天皇家と朝鮮半島の間の血統のつながりが明らかになるのを恐れている」という見方も存在します21。しかし、これはあくまで憶測であり、確固たる証拠があるわけではありません21。

古代の日本(倭国)と朝鮮半島との間には、文化や技術の交流がありました3。その一方で、古墳時代中期の古墳の副葬品からは、海外に渡航した経験のある人物を埋葬したのではないかとみられる古墳が増加しています3。これらの事実から、古代の日本と朝鮮半島との間には深い関連性があったと考えられます3。

しかし、これらの事実が日本皇室が朝鮮半島由来の一族であることを示すものではありません231。歴史的な事実を解釈する際には、様々な視点からの情報と研究が必要です。そのため、古墳の発掘についての文化庁の立場を理解するためには、さらなる研究と情報が必要となります。

自分
江上波男の日本の王朝=騎馬民族説の今日的評価は?

Copilot
江上波男の「騎馬民族征服王朝説」は、日本の古代国家の起源を東北アジアの騎馬民族に求めた壮大な説で、戦後間もない1948年に提唱されました12。この説は、日本の古代史上の仮説として学会でも激しい論争となりました23。

この説は、一般に広く認知され、江上の著作『騎馬民族国家』は版を重ね、歴史の教科書にも掲載されるようになりました2。しかし、学会では疑問視する意見も強く、多くの研究者から批判が寄せられました12。江上自身は学説の不備を指摘されると、その都度修正、補強し続けました1。

現在でも、この説は一部の研究者や一般の人々に影響を与えています1234。しかし、学問的には、この「騎馬民族征服説」はすんなり学会に認められているとは言い難く、定説には至っていません23。議論自体は現在も残されたままとも言われています3。

したがって、江上波男の「騎馬民族征服王朝説」の今日的評価は、その壮大な説が一部の人々に影響を与えている一方で、学会ではまだ議論の余地があるということができます

自分
江上は「騎馬民族が日本に馬と鉄器を持ち込んだ」説を唱えたと記憶しているが、その説の今日的評価は?

Copilot
江上波男の「騎馬民族征服王朝説」は、日本の古代国家の起源を東北アジアの騎馬民族に求めた壮大な説で、戦後間もない1948年に提唱されました12。この説は、日本の古代史上の仮説として学会でも激しい論争となりました2。

この説は、一般に広く認知され、江上の著作『騎馬民族国家』は版を重ね、歴史の教科書にも掲載されるようになりました2。しかし、学会では疑問視する意見も強く、多くの研究者から批判が寄せられました12。江上自身は学説の不備を指摘されると、その都度修正、補強し続けました1。

現在でも、この説は一部の研究者や一般の人々に影響を与えています1234。しかし、学問的には、この「騎馬民族征服説」はすんなり学会に認められているとは言い難く、定説には至っていません23。議論自体は現在も残されたままとも言われています3。

したがって、江上波男の「騎馬民族が日本に馬と鉄器を持ち込んだ」説の今日的評価は、その壮大な説が一部の人々に影響を与えている一方で、学会ではまだ議論の余地があるということができます

自分
日本に馬と鉄器を持ち込んだ民族は何か?それとも、特定民族が持ち込んだというより、日本列島と朝鮮半島間の交易の過程で次第に入って来たということか?

Copilot
日本に馬と鉄器が持ち込まれた経緯については、複数の説があります。

馬について: 古墳時代より以前の日本には馬が存在していなかったとされています12。4世紀後半、東アジアで諸国と渡り合うため、大陸系の馬を朝鮮半島を経て連れて来たのが、日本の馬の始まりといわれています12。その後、飼育や調教を担う職人集団もやって来て、馬の国産化が進められました12。

鉄器について: 日本で出土した最古の鉄器は、中国東北部の燕という国で前5世紀頃に作られた鋳造の鉄斧であるとされています3。その後、前3世紀になると炭素量約2%以下の鋼で作られた鍛造鉄器が入ってくる様になります3。また、朝鮮半島南部の辰韓は鉄を産出し、倭人も鉄を求めて辰韓と交易していたと記されています4。

したがって、特定の民族が一度に馬と鉄器を持ち込んだというよりは、日本列島と朝鮮半島間の交易の過程で次第に入ってきたと考えられます1234。

自分
つまり、江上説は浪漫はあるけど、事を単純化し過ぎて説得力を欠くということか。

Copilot
江上波男の「騎馬民族征服王朝説」は、その壮大な視野と独自の解釈で多くの人々に影響を与えました。しかし、その説は一部の事実を単純化し、また一部の事実を無視する傾向があると指摘されています。そのため、学問的には、この説はすんなりとは受け入れられていません。

歴史的な事実を解釈する際には、様々な視点からの情報と研究が必要です。そのため、江上の説は一部の視点を提供するものの、全体像を理解するためには他の研究や視点も必要となります。

自分
邪馬台国を「やまたい」と読んだのは新井白石か?

Copilot
その通りです。邪馬台国(やまたいこく)という読み方は、江戸時代の学者である新井白石が提唱しました1234。彼は、通詞の今村英生が発音する当時の中国語に基づいて「やまたいこく」と音読しました1234。それ以前は、邪馬台国は大和国(やまとこく)の音訳として認知されていました。

自分
なら、邪馬台国など無かったんだ。九州か近畿かという論議も無駄だね。

Copilot
邪馬台国の存在やその位置については、学界でもまだ議論が続いています。『魏志倭人伝』に記された邪馬台国は、3世紀から4世紀にかけての日本列島に存在した国家を指すとされています。その具体的な位置については、九州説と近畿説の二つが主流となっています。

新井白石が「邪馬台国=大和国」という説を唱えたことで、「邪馬台国=やまたいこく」という読み方が広まりました。しかし、これはあくまで一つの解釈であり、その他の解釈も存在します。

したがって、邪馬台国が存在しなかったという結論を出すのは早計であり、九州説と近畿説の議論も無駄ではありません。これらの議論は、日本の古代史を理解する上で重要な視点を提供しています。
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