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2024年03月13日02:32

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寛和の変の裏に栓子の疑いと、スズ子と愛子の孤独の悩み

大河の花山天皇出家の寛和の変だが私が藤原兼家の陰の首謀者は藤原栓子ではないかと思っている。

僧の厳久という人が兼家が子ども達を集めた計画に同席していて平安時代の歴史書「扶桑略記」には道兼と厳久が花山天皇を大内裏から退出させ、同時に道綱が神璽と宝剣を東宮(懐仁親王)に渡し、兼家が参内して諸門を固めさせて践祚(皇位につくこと)を強行している

慈円の「愚管抄」では道兼と厳久が縫殿寮から花山天皇を退出させ、急な事にためらう花山天皇に神璽と宝剣が東宮へ渡っていることを告げ、道隆と道綱が神璽と宝剣を東宮の擬花舎に運び、兼家が参内して諸門を固めさせ、五男道長を関白藤原頼忠のもとに遣わして政変の成就を伝えた。

証拠はないが誰が一番、得をしたかの引き算で現代の推理小説を読む気で考えると陰に栓子がいたのではないかと思う。厳久は、寵愛する藤原忯子を亡くして悲嘆にくれる花山天皇に出家を勧めた僧で詮子に従属し、詮子が創建した慈徳寺の最初の阿闍梨で藤原実資の「小右記」によると、同年、兼家の法華八講の講師になり991年(正暦2年)9月には、詮子の出家に奉仕し、藤原行成の「権記」によると、995年(長徳元年)、詮子の推薦で権律師となり、1001年(長保4年)8月、詮子の慈徳寺行啓に伴なって座主となっている

1004年(寛弘元年)5月に道長が催した詮子のための法華八講の講師も勤めている。強引な論法だけど誰が得したか考えると関白に、その後、わずかな兼家より国母となり長く実権を握ったのは栓子である事からだが、私は平安時代は女性が動かした気がする。

今朝もブギウギを

仲のいいご近所さんを広いお庭に招待して、愛子の誕生パーティーを開いたスズ子だけど当の愛子は孤立気味で友だちと遊ぶのを嫌がる。

愛子を心配しスズ子は、大野さんや、羽鳥先生の奥さんに相談したら大野さんは愛子には愛子のペースがあるから急がないで、あまり構わず黙って見て信用してあげたらと

近所の子どもたちに、変な大阪弁をしゃべってるなどと言われていたのが原因かも、意外にあり得る。小学校の頃に標準語で巨人ファンの転校生は、ハブいてるわけでなく話しにくく接点を見つけにくかった記憶がある、芸能人の子どもは知らないから何とも言えないけど、あるかもしれない

それにスズ子の娘であるけど愛助の娘で、子どもの頃に山下さんに演劇を一緒に見せて貰い育ったと言ってたのを思い出すとスズ子より愛助よりの性格かもしれない

家に変な愛子を浚う的、新聞の切り抜きをはったものを愛子がすて、しばらくして愛子をさらったとの電話が、事件かな

日記はもうとじよう
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