※超々長文
父も母もいない実家で姉と二人で片付け、断捨離、遺品整理をしてて自分の生まれたであろう病院の診察券やら保育園のときの写真が大量に出てきたから、43年間の出来事を書こうと思います。
(長すぎてひとつに書き切れなかったので、前編と後編に別れます。)
出生は1980年1月6日、東京都品川区大森の病院か東五反田の病院
古ぼけた診察券が2枚出てきたんだけどどっちか分からない
自分が乳児のときに大森の病院近くの地区で暮らしてた話は、お母さんからたびたび聞いてたから、もしかしたら大森の病院かな
元ジャニーズのイノッチの自伝映画『ピカンチ』の舞台になった、当時1983か4年に入居者募集開始で売出し中だった都営住宅のいわゆるマンモス団地、八潮団地(八潮パークタウン)に家族4人で入居
https://www.muji.net/ie/mujiur/area/10_shinagawa.html
抽選だったので何度も申し込んでやっと当たったらしい
イノッチは4つ上の姉が中学のときの同級生で、おれは保育園の11年後輩に関口メンディーがいる(片付けで出てきた保育園の周年記念の冊子に載ってた)
八潮団地は大井町、大森、品川駅に出られて、一番近いのは徒歩10分弱のりんかい線品川シーサイド駅で、ここからお台場フジテレビまでは3駅
大森からは池上線、大井町からは大井町線、京浜東北線、品川駅は新幹線も止まる
青物横丁、鮫洲(鮫洲運転免許試験場も近く)の京急線、大井競馬場のモノレールも通ってる
海外旅行のときも成田、羽田、両方使ってて、成田まで約2時間、成田行リムジンバスもあり、羽田は1時間、タクシーなら4000円くらいで、帰国が長くて疲れたときはタクシー使ってた
日本全国、海外もどこへでも出られる
昔は保育園2ヶ所、小学校3ヶ所、中学校2ヶ所
自分がいた保育園はなくなり、小学校も中学校も名前は変わったけど増築、改修して建物自体は今も健在
入居してから今年で約40年経ったので、おれが3才くらいに入ったのかな
当時の八潮団地は全戸で69棟あり、東京都の運営、当時の入居条件は40年経ってるので知らないけど、今現在の八潮パークタウンは都営、CMでお馴染みのUR、分譲と区画が分かれていて、都営は高齢者、障害者などの低所得者向けで、認定収入○○円以下の○○歳以上の人が入居できるなど、入居条件は諸々厳しく、普通に働いていて収入が一定以上ある人は都営には入居できないし、昔の条件で入居できたが、改定されてから一度転出すると再び戻ってくることができない。
・父の略歴
父は昔の言葉でいう背広(スーツ)の仕立て屋
今でいうAOKIなどのスーツ販売会社からの受注を家の自室でタバコをふかしながら背広を縫う、寡黙な昔ながらの職人
いわゆるチェーンスモーカーでショートホープ一筋だった父が、認知症患ってから当時おれが吸ってたラッキーストライクを父も一時期吸い出した
自分のタバコの銘柄もわからなくなってた
趣味は写真
ゴツいカメラとか三脚とか色々あって国から何度か表彰される
裕次郎と寅さんが好きだった
クラシックとか、バート・バカラックだったっけ、そんなのも聞いてた
昔は民間の海上沿岸警備隊?とか自治会長とかやってたみたい
父の妹さんの旦那さんは警察官、奥さん(父の妹さん)は認知症で現在施設に入ってる
この家族の娘さん二人のうちの一人は何年か前までCAだった
ユナイテッドだったかデルタだったか
父の長兄は何かやらかして刑務所に入ってたらしい(殺人っていう話を昔聞いた気がする)
認知症の一因かどうかは分からないけど、結果的に当てはまってしまった項目はあったかもしれない
生真面目で几帳面、黙々と仕事をするタイプとか
仕立て屋だから細かいところまで気にするとか
父も妹さんも認知症だから遺伝とか
父の父=おじいちゃんを一時実家で面倒見てたときがあった
おれが小学生の頃だったかな
でもおじいちゃんは病気無しで老衰だった
仕立て屋を辞めたあとは、60代後半くらいで清掃のアルバイトとか色々
この頃から少しおかしくなってた
認知症予防で役割とか仕事がなくなると認知が進行するのが一般的に言われてるけど、父は当てはまってた
2018年7月、72歳で他界、2012年に認知症と診断、愛煙家だったのに内臓はどこも異常なしで頭がやられた
自分が10代の頃にCHECK CHECK 1967というコンピアルバムを父からもらった
ベン・E・キングのスタンド・バイ・ミーを筆頭に、モンキーズ、プロコル・ハルム、プレスリー、トーケンズ、ニール・セダカ、スコット・マッケンジー、ルイ・アームストロングなどの名曲集で、整理してたらスコットのサンフランシスコのレコードとか出てきた
サンフランシスコは今では大好きな一曲
自分が初めて父に買ってもらったのはチャゲ&飛鳥の僕はこの瞳で嘘をつくのカセットテープ、嘉門達夫の替え唄メドレーのカセットテープのふたつ
初めて自分のおこずかいで買ったのはチャゲ&飛鳥のRed Hillというアルバム
たぶん中学2年くらいからチャゲアスをメインで聴き始めて、ZARD、WANDS、T-BOLANなどのいわゆるBeingブーム真っ只中、それからtrf、globeなどの小室ファミリーにハマり、17か18くらいで特定の歌手じゃなく洋楽のコンピアルバムを聴くようになって、20代でB'zファンになり、同時期にREO Speedwagonのファンになったのがきっかけで本格的に洋楽に目覚めた
10代から買い集めてたCDたちは今も棚に並んでる
・母の略歴
母は近所の寿司屋でパート
趣味はマイミクの一人と一緒で、若い頃から宝塚にのめり込み、大日本印刷に勤めてたおそらく20代後半から30代前半はもらった給料をすべて宝塚に使ってたほどの筋金入り
2024年の1月のどこかの公演?に落選してがっかりしてたし、先月の細川たかしのライブを楽しみにしてた
あと美空ひばりが大好き
その他歌謡曲とか演歌とか
おれが小さい頃はバットマンやジュラシックパークとか色んな映画に連れてってもらった
劇団四季も好きだったから、特に宝塚なんだけど、ミュージカル全般、舞台、映画とかそういうものが好きだった
劇団四季のエルリック・コスモスの239時間とか連れてってもらった記憶があるし、夢工場'87ではれときどきぶたのアニメを見た覚えもある
寿司屋のパートでは、お店の中に段差があり、段差をあがりお寿司を受け取り段差を下りて配膳する
この上り下りが股関節の軟骨がすり減って人工関節手術をした最大の要因になってしまった
人工関節のボルトが20年以上も異常なしで持ってたので、2003年頃、58歳くらいで人工関節の手術をした
その後60代でもパートでホテルのルームクリーニングとか続けてた
2023年11月、78歳で他界、2010年にパーキンソンと診断、父が認知症になる2年前
父も母も、働き者でした。
・お母さん子
小さい頃から母に連れてってもらってた映画からの影響なのか、中学生のときは夜ふかしして深夜やってた映画見て、翌朝起きれないからほぼ毎朝怒られながら叩き起こされてた
あの当時は
木村奈保子の木曜洋画劇場
水野晴郎の金曜ロードショー
土曜日は高島忠夫のゴールデン洋画劇場
日曜は淀川長治の日曜洋画劇場
これが毎週の楽しみだった
今、自分の部屋には、映画のブルーレイとDVDだけで600作品以上ある
お母さん子のエピソードの一つとしては、寿司屋の入ってたダイエーと自分が通ってた保育園は歩いて2分くらいのほぼ隣にあり、その保育園の初登園時、母に連れられて保育園に入ったが、そのとき隣のダイエーにパートに行く母がどこかに行ってしまったと思い込んで、どんな方法か分からないけど保育園を抜け出してダイエーの中の寿司屋に走っていったのは40年経った今も覚えてる
4歳児に『仕事に行く』ってのは理解できない
母は昭和20年2月10日生まれ
これは前につぶやきに書いた気がするけど、昭和20年は東京大空襲の真っ只中、母の母=祖母は大空襲の中を逃げながら母を産んだらしい
おれが生まれたのは奇跡
父も母も、ともにたしか6人の兄弟姉妹
父より母のほうがいっこ上
おれが小さいころは、父の田舎の山梨にみんなで集まってたし、母の田舎の群馬にみんなで集まってた
94年あたりに放送されてた佐伯伽耶のゴールドパスポート、ていう番組をよく見てた
世界遺産も見てた
小さい頃からの映画の影響で外国そのものに漠然とした憧れがあった
ラビオリをよく食べてた
昔、湯煎でできるラビオリがスーパーに売ってて、小学生の頃は給食のソフト麺のミートソースなんかみんな大好きだったと思うけど、その頃からうちではラビオリが出ていて、特に自分はスパゲッティ全般が今でも好きで、7日間毎日スパゲッティでもいい
だからジョリビーのミートソーススパゲッティが好きってのもある
甘すぎるからもうちょっと塩とオリーブオイル足したほうがいいと思うけど
その影響とか映画の影響もあって、高校中退して近所のスパゲッティ専門店で初めてのバイト
あれは今考えるとパワハラ店長だった
半年くらいで辞めて、友人のツテで三菱の下請け会社に就職
品川駅の15番線のエスカレーターを作り、その後横浜市戸塚駅周辺の地下鉄工事のエスカレーターを作ったけど、どこの路線だったか忘れた
18歳くらい
この会社を一年くらいで辞めて、実家からバスで約20分の品川駅近くのローソンに入る
そして実家を出て一人暮らし、そこのローソンのオーナーが社宅名義で借りてた部屋
当時付き合ってた彼女のために、実家から布団を背負っていったのを覚えてる
姉が実家を出たのはいつだっけ、よく分からない
自由時間
自分だけの部屋
初めての一人暮らしあるある
近くにあったハイカラな居酒屋に18歳当時から入り浸る←だめ
その名も『ハイカラ亭』
当時はビールとかサワーなんか飲めなくて、夕飯食べながら唯一飲めるウィスキーで晩酌
ローソンから歩いて15分くらいで居酒屋に帰り、夜ご飯とウィスキーを注文して、その居酒屋から2分ほどの一人暮らしの部屋に帰る
これが仕事帰りのいつものコース
父もお酒とタバコと缶コーヒーが好きだった
今の自分がそれだ
この3つはこれからも止めないと思う
身体に悪いから、みたいな一方通行一車線の世の中に迎合するような生き方はしたくない
両親の病気を長年見てきての経験
使い方を間違えれば薬は毒になるしその逆も然り
昔、自転車のチェーンに足裏巻き込まれて裂けて血だらけ、応急処置でタバコの葉を刷り込んで翌日医者にいったら褒められた
使い方次第でタバコは薬になる
お酒もタバコも二十歳になってから
ローソンで当時お世話になった大先輩の方々が辞めて、その中の一人が仙台に行き、自分はこの頃からクロムハーツとかのシルバーアクセサリー、ドクロモチーフとか、耳に太いボディピアスとか、そういうものに傾倒してった
ちなみに初めてタトゥーを彫ったのがこの頃で、原宿の竹下通り入り口のマックの上で彫った
タトゥーを彫ったのは、例えばダイナー(アメリカのプレハブのレストラン)で瓶のBudweiserを飲むタトゥーだらけの俳優という典型的な古き良きアメリカ映画とか、ミッキー・ロークとかの影響が一番強い
ちなみにタトゥーも法律上は二十歳から
それからしばらくしてローソンを辞めて原宿の竹下通りの真ん中あたりにあったショップでしばらく働いてみたけど、そこの店のオーナーが外国人で会話通じねえわノルマがうるせえわで数ヶ月で辞めた
・古き良き時代
24年前は今ほどがんじがらめの社会じゃなかった
居酒屋入っても年齢確認なんかなかった時代
父のおつかいで小学生のおれがタバコ買えた時代
タバコも17くらいで覚えた
そんな時代が昔あった
1992年にテレビとかで取り上げられてた自転車で日本一周してる少年がいた
原宿のショップを辞めて時間が空いたので、仙台に行った大先輩に会いたいと思い立って、実家から中学生の頃の日本地図を持ち出し、親に『ちょっと仙台行ってくる』とただのママチャリで4日ほど野宿しながら旅をした
このとき8月でタンクトップ着てった
山手線を半周して上野のへんから北上して、大宮駅前のベンチで寝てたら走り屋がうるさかった
久喜、古河、栗橋あたりを過ぎる
どこかの歩道橋の下を通ったのを覚えてる
宇都宮で、坊主頭、タンクトップ、車体が異常に長い爆音を響かせる明らかに族っぽいお兄ちゃんに声をかけられ、事情を話したら飯おごってやると言われ、居酒屋でワイワイやって、そのお兄ちゃんの家にその変な車で向かい、バカでかい家に着いてハブ酒をごちそうになってお風呂に入って一晩泊めてもらった
その家にはお手伝いさんがいた
あの時どっかのガソスタで主任やってた阿久津さん、今どこでどうしてるんだろ
ごめんなさい、あのときもらった名刺捨てちゃいました
どこかのサービスエリアだったか、仮眠施設が併設されてるレストランみたいなところで、トラックの運ちゃん?に自転車で仙台まで行く話をしたら、ご飯をおごってもらったな
今みたいな何でも揃ってるようなサービスエリアじゃなかった
福島のどっかの国道脇で寝てたらトラックがうるさかった
なんかでかい湖があったし、写ルンですで撮った写真は今もアルバムにしまってある
しかしこの湖がどこかはいまだに分からない
郡山あたりで東京にはないヨークベニマルを見かけた
無人の小さい駅舎のベンチで寝てたらバカでかい蝶か蛾が羽ばたいていて恐怖した
驚かそうと思ってその大先輩には連絡せずに仙台に着いて大先輩に会えたら、ローソンから連絡いってたみたいで自分がチャリで来ること知ってた
青葉区の大先輩の部屋で数泊させてもらって仙台観光もした
東北のある程度の地理が頭に入ったこの自転車の旅が、後々の大震災でのボランティアで役立った
これも父の几帳面なところを受け継いでいるのかも
現代はGoogle Mapとか見てたら普通は迷わないと思うけど、方向音痴っていうのが理解できないことはごめんなさいと謝っとく
自分は初海外でもあまり迷わない
それは、事前に地図を繰り返し見て、ランドマークを覚えてその日の行動ルートを決めるから
逆を言うと、ルートを決めずに異国の地で迷子になるのが怖いから
迷子になって人通りのない裏道なんかに入っちゃって襲われる、なんてニュース流れるよね
特に日本人は狙われやすい
余談だけど3.11以前は特に何も考えず計画もスケジュールも立てずの行き当たりばったり(自転車の旅がまさにそれ)、3.11で死にかけてから、目的地を明確にして分刻みのスケジュールを立てるような真逆の思考になった
そうしないと被災地のボランティアなんか出来なかった
先輩に会えたという目的を果たしたからか、自転車で来た道のりを帰るのがしんどくなった
ということで、自転車をヤマトで送り、身体は鈍行列車、上に書いた母の田舎の群馬、ここには母の妹家族が住んでいて、そこに寄って数泊したっけ
東京に戻ってきて先輩たちがいた以前のローソンに出戻りした
ローソンで仲の良かったバイトの後輩の女の子とよくディズニーランドに年数回行ってた
ローソンで仲の良かったバイトの後輩の男の子と猿島行ってナンパしようとして失敗した
あいつはゆずが大好きで、二人でよくカラオケでゆずハモってた
日本国内の旅行は小さい頃は覚えてないけど、大人になってから行ったのは北海道で、今でも一番好きな漫画『うしおととら』に青函トンネルが出てくるんだけど、このトンネルを通りたいがために新幹線で行った
このときはまだ水曜どうでしょうを知らない
このときのローソンが改装工事で一週間休みになり、飛行機代だけオーナーが出してくれてローソン仲間みんなで初大阪の初USJ
鶴橋の居酒屋で初めて日本酒を飲んだら、その後水のように飲み続け歩けなくなるくらいになった
酒の失敗は若い頃によくあった
あの頃のローソン仲間はみんな腐れ縁
どっかいったり結婚して家庭持って音信不通になった人ももちろんいたり、でもその中の数人は今も連絡をとってる
その後1回引っ越し、職場のローソンから自転車で約15分くらいのところ、家賃7万円で10畳の長方形、玄関開けたら端の裏口まで丸見えの仕切り無し
ここでローソンのメンバー集めて誕生日会やってもらった
このときの写真もアルバムに入ってる
計8年在籍したローソンを卒業、送別会で号泣し、世田谷区京王線沿いの笹塚で友達とルームシェア、2006年にリニューアルしたヴィーナスフォート内のシルバーアクセサリーショップのオープニングスタッフとして働きはじめる
コンビニと違って本物の接客業
同じフロアにあるギャルショップのスタッフたちと、愚痴を言い合いながらほぼ毎日近くのファミレスでカンパイしてた
いわゆる自爆営業も連日で、おれがギャルショップのメンズを買い、むこうがおれの店でアクセサリーを買う、みたいなのもあって売上がほぼないときは支え合ってた
2007年頃だったか、ゲームの攻略掲示板で知り合った現在のマイミクたちとオフ会でお台場に集まったのが2009年の1回目のお台場合衆国
ここで働いてるよ!と職場情報を匿名掲示板で自ら暴露したことでオフ会が実現した
今考えてみると怖いね
当時も掲示板の仲間たちに
『掲示板で個人情報はやめとけ』
みたいなこと言われた
ヴィーナスフォートは再開発計画により2022年に閉業した
ここから3回くらい集まったのかな
当時のマイミクの一部と親しくて家に遊びにいったこともある
ちなみにオフ会仲間とはミクシーやる前にモバゲーで繋がってて、モバゲー内で仲の良いグループでのオフ会も池袋でやったし、特に仲良かった子と八景島シーパラダイスにも行った
シルバーアクセサリーのお店は本店が下北沢にあり、調布パルコ店、横浜中華街店、千葉県市川のニッケコルトンプラザ店、新所沢パルコ店へのヘルプで、3.11が発生した2011年まで約5年働いた
母のパーキンソンとの戦いが始まったのが東西にヘルプに行ってた頃
この頃にルームシェアを解約し、小さい頃姉の部屋だった実家の部屋に入る
転入はできないので、住民票をそのとき住んでいた京王線の笹塚から姉の住む部屋に移す、身体と家財だけ実家に戻る
当時通ってた笹塚駅前の美容院は今も通ってる
2011年2月22日、ニュージーランドのクライスト・チャーチ出カンタベリー地震が発生
ミクシーでWe are the worldの歌詞を被災地に向けてずっと書いてたら、現地の教会から連絡があってお礼を言われた
インターネットってすごい
このことがあってから、自分の中で自然災害という漠然とした大きな敵に意識を向けるようになった
正直にいうと阪神淡路大震災はまったく知りません
3月11日に大震災が発生
このとき市川店にいた
市川から東京都品川区の実家までは、徒歩で約12時間
色んなものに突き動かされて、6月に縁もゆかりもない気仙沼に初めて訪れた
東北各地の路線が被害を受けた中、どうやって行ったのか覚えてない
この2年後くらいに、自分で勝手に2011年3月11日を『二つ目の誕生日』にして、そのタトゥーを彫った
この年に買った、コロンビアのカーゴパンツ、ボディバッグ、G-SHOCKはまだ使えてる
カーゴパンツは母に縫ってもらったり、それから2016年のセドナで買ったホールフーズのエコバッグも現役、メレルの靴はアロンアルファとかでくっつけて履いてるけど、雨の日は足ぐちゃぐちゃになる
11年目に突入した30周年限定のG-SHOCKは数年前から西暦と日付がかすれてる
先日秋葉原にあるカシオに修理をしようと持ち込んだら、もう部品がなく修理できないそうで、ソーラー電池だからまだ使えそう
2011年に買ったヴィヴィアンウエストウッドのジッポーは12年もって昨年引退した
震災前までアクセサリーショップで働いてたときは、アクセサリーや服を買ってたし、両耳にピアス10個くらいつけてたし、ジョン・フォードとかイーストウッドとか西部劇映画が好きだから高いウェスタンブーツ履いたりテンガロン被ってたりしたけど、震災後は一切買わなくなった
死ぬまでに行きたい場所のひとつは、モニュメントバレーのジョン・フォードポイント
この年の夏から3年連続で初めて富士山に登った
登頂できたのは2012年の1回だけ
父の認知症との戦いが始まった年
月1回の東北ボランティア
仕事終わりに深夜バスに乗って朝仙台に着いて夕方終わって高速バスでそのまま帰る日帰りのときもあったし、仕事で連休もらって連泊もした
気仙沼、福島、仙台、盛岡、宮古、特に仙台は自転車旅の記憶が鮮明に蘇ったが、大先輩が住んでいた青葉区の家は見つけられなかった
そのうちに店の売上も落ち、各店舗を閉店し、おれはショップを辞めて古巣のところから遠くない別のローソンに戻る
色々調べたけど、このシルバーアクセサリーのお店は本店含めてすべて閉業したみたい
横浜中華街店の閉店作業で、インテリアで好きなのあったら持っていっていいということで、メキシコでオーナーが買ってきたネイティブ・アメリカンの骨董品とか、バッファローの頭蓋(スカル)とか持って帰った
2012年にワールド・ビジョンに加入してインドネシアの女の子の里親になる
ここからベトナムの男の子、バングラディッシュの男の子と現在3人目
この里親制度がきっかけで、「海外からの支援活動に頼らざるを得ない子どもはどんな生活を送っているのか」、直接現地で自分の目で見たいと思い、2年後の2013年夏に初めての海外で初めての海外ボランティアに参加、これまたマイミクたちと出会い現在に至る
掲示板に集まってオフ会した戦国の武将仲間たち
昔のローソンの仲間たち
3.11被災地ボランティアで一緒にスコップ持ってた仲間たち
日本よりも太陽の光と雨足が強く、一緒に汗だくになりながら現地に適応しようとした海外ボランティアの仲間たち
自分のマイミクは9割実際に会った人、今現在も会ったり連絡を取り合ってる人たち
自己分析すると、海外ひとり旅が好き、集団行動が苦手、なのに寂しがり屋=天邪鬼
めんどくせー奴。
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