一昨日の燭火礼拝の説教は「最初の訪問者」。キリスト=イエスの降誕に、最初に祝いを述べに来たのは賤しい羊飼いであったと、そんな話。
そして昨日のクリスマス礼拝では、イエスを産んだマリアがお題だった。
大工ヨセフの婚約者だったマリアは、まだ結婚しないうちに懐妊。ヨセフとは交わっていない。
神の御使の宣言通りであるが、これが知れると社会は許さぬ。ふしだらであるばかりか、相手がヨセフでない場合、姦淫の罪で石打ちの処刑が待っている。
ローマ皇帝の命による住民登録を機に、ヨセフとマリアは父祖の地ベツレヘムに赴く。というか、逃れる。
しかしそこには縁故の者すでになく、泊まる宿屋もない。馬小屋・飼い葉桶でイエスを出産。イエスは低い低い出自なのであった。
祝辞を述べにやってきた羊飼いたちも、下層民かつ不可触賎民。最も低いところから、受肉した神の子の活動は始まった。
とまれマリアは
「これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた」
(ルカによる福音書 2-19)
やがてイエスは少年に。過越の祭で、両親ともどもエルサレムを訪れた。
と、彼は両親とはぐれる。
心配した両親は3日の間イエスを探す。と、少年は神殿でユダヤ教の教師に混じって話を聞いたり質問したりしているではないか。
「まあ、あなたはなぜ私たちにこんなことをしたのです。見なさい、父上もわたしも、心配してあなたを探し回っていたのですよ」と、マリア。
するとイエスは「どうしてわたしをお探しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家(注:神殿の事)にいることを、ご存知なかったのですか」。
「母はこれらのことを、みな心に留めておいた」(ルカ 2-51)
運命に翻弄されるマリア。いずれも自分の意志じゃない。
それでも彼女は黙って受け止め、すべて心に納めて、思いを巡らすのだ。
大人だよなぁ。母ちゃん、どんと来い!
常に心にスペースを。余裕をもって、ゆったりと。
聖霊なる神は、この「スペース」に働き、私やあなたを幸福感で満たす。ないし度胸をつけさす。
聖書に出てくる女性はみな、趣深い。そして思いはみことばに。
昨日はそんな説教でした。
◆ルーサー・ヴァンドロス ー Every Year Every Christmas
https://youtu.be/iHzBZwaIF1A?si=1eeas1FMchf658M6
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