幸村討った功労者からの転落 福井藩主・松平忠直の悲劇
https://www.sankei.com/article/20231209-F5QE5NSGZZIJBBQ2HWJCEMA7Z4/
本多富正は越前松平の家老で、本多作左衛門の甥。秀康が秀吉の人質になった際に付き人として大阪に同行し、それ以来ずっと秀康に仕え、秀康が大名になって以降は重臣となった。
本来は作左衛門の息子が付き人のはずだったが、何らかの理由(不遇をかこっていた甥に栄達の機会を与えるため、自分の息子を大阪に行かせたくなかったためなど諸説ある)で家康に無断で富正に交代。これで家康の勘気を蒙った作左衛門は失脚し、そのまま亡くなったとされている(やはり諸説あり)。
秀康は病気(たぶん梅毒)で早死して、当時十代だった忠直に代替わり。代替わりから数年後に、富正ら秀康側近グループと、忠直の叔父にあたる今村盛次らの旧結城家臣グループとの間で紛争が勃発。
紛争は幕府に持ち込まれ、家康と秀忠の採決によって結城グループに非があるとして藩から追放されることになり、その代わりの人材として越前に派遣されたのが、本多作左衛門の息子の本多成重。作左衛門を干したまま死なせてしまったことに、家康も思うところがあったのかもしれない。
秀康の息子というといかにも猛将という感じがするし、確かに夏の陣終盤での越前勢の活躍は目覚ましいものがあるのだけれども、冬の陣や夏の陣序盤でさんざんやらかした後ではあるし、そもそも前線で指揮を取っていたのは本多富正と本多成重で、忠直は本陣で報告待ちだったはず。「大阪城の戦いで活躍した松平忠直」とか言われても、なかなか微妙な感じなのだよなと。
忠直が狂って家臣や領民を殺したというのは眉唾にしても、幕府に反抗したのは概ね事実と言われている。理由は親族トラブルで、秀忠が年下の義直・頼宣・頼房たちを忠直よりも上に扱ったことが許せなかった みたいな話。
まぁいくら年下とはいえ義直たちは家康の子、つまり忠直からすればおじにあたるわけで、そんな事を言いだしてもなと。おそらく、そもそも父・秀康が年上だったのに秀忠が徳川宗家を継いだことにも、含むところがあったのだろうと。何から何まで気に入らない。
そうなってくると、作左衛門一族が藩政を執っているのも、幕府の威光を笠に着ているみたいで気に入らない。イライラして幕府の命令に逆らって、それを富正らに諌められると、さらにイライラして反発してみせて、さすがに幕府も目に余ってしまって最終的に強制隠居で遠国飛ばしになった みたいなオチ。まぁ切腹まで命じられなかったことを考えると、やはり領民らの殺害まではしてなかったのではないかなと。
忠直のやらかしで領地はだいぶ減ったけれど、越前松平の家系はその後もずっと続いた。成重の家系は去ったが、富正の家系は家老として仕え続けた結果、準大名扱いになって明治維新後に華族になったとのこと。
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