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2023年12月07日17:47

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「隠された地震」太平洋戦争の末期、三重・愛知・静岡を津波が襲い1200人超犠牲か…公表されず

昭和東南海地震から79年 大紀町で津波を想定した避難訓練
12月07日 19時13分
NHK
https://www3.nhk.or.jp/lnews/tsu/20231207/3070011866.html
東海地方を中心に1200人余りが亡くなったとされる「昭和東南海地震」から79年目となる7日、三重県大紀町で津波を想定した避難訓練が行われました。

昭和19年12月7日に起きた「昭和東南海地震」では最大震度7の揺れや津波が襲い、東海地方を中心に1200人余りが亡くなったとされています。
熊野灘に面した入江にあり、64人が犠牲となった大紀町の錦地区では例年、この日に津波を想定した避難訓練を行っていて、住民200人余りが参加しました。
訓練では、地震が起きた午後1時40分ごろに合わせサイレンが鳴り、住民たちは高台にある避難場所などに避難しました。
町の中央にある津波避難タワーには近くに住む人たちが避難し、高さ約24メートルの屋上まで階段を上がりました。
昭和東南海地震を体験した87歳の女性は「今でも当時のことを思い出します。津波でおばあちゃんは流されてしまいました」と当時を振り返っていました。
また85歳の男性は「津波ではみんな流され、食べるものも布団もない生活の中で生きのびました。もしまた津波が来たらすぐに避難したいです。」と話していました

【津波避難訓練】 昭和東南海地震から79年 地震発生時間に合わせ 三重・大紀町
2023/12/07
https://youtu.be/8xRoEwTTdU4
中京テレビNEWS

昭和東南海地震から79年 地震発生時間に合わせ津波避難訓練 三重・大紀町
2023/12/7 18:57
中京テレビNEWS
https://www.ctv.co.jp/news/article/?f7de5e05f95e4023bd90454ae943677a
死者1200人以上を出した昭和東南海地震から7日で79年です。三重県大紀町では地震発生の時間に合わせ津波避難訓練が行われました。

1944年12月7日は1200人以上の死者が出た昭和東南海地震が起きた日です。

この地震による津波で錦地区の64人が死亡した大紀町では、この日を「防災の日」と定め毎年、避難訓練を行っています。

7日の訓練は、大紀町の全町民約7400人を対象に行われました。

このうち、熊野灘に面した錦地区では、津波から避難するため、「錦タワー」と「第2錦タワー」の2つのタワーが造られていて、昭和東南海地震が発生した午後1時36分にサイレンが鳴ると、住民たちは近所で声を掛け合って、避難しました。

「隠された地震」太平洋戦争の末期、三重・愛知・静岡を津波が襲い1200人超犠牲か…公表されず
2023/12/07 14:00
読売新聞オンライン
https://www.yomiuri.co.jp/national/20231207-OYT1T50085/
1944年(昭和19年)12月に紀伊半島沖を震源に発生した「昭和東南海地震」から、7日で79年を迎える。三重、愛知、静岡県を津波が襲い、1200人以上が犠牲になったとされるが、太平洋戦争の末期で被害はほとんど公表されず、「隠された地震」と呼ばれる。当時は海軍の訓練中で、戦後に被災者から聞き取りを進めた三重県紀北町の植村明さん(94)は、被害の記録をまとめた冊子を約30年ぶりに再発行する。「二度と繰り返してはいけない」との思いを込めて――。(根岸詠子)

墨塗りのはがき

ガタガタと音が響き、部屋の裸電球が大きく揺れた。

44年12月7日、海軍飛行予科練習生だった植村さんは、山口県の防府海軍通信学校(防府市)にいた。マグニチュード7・9の地震は、約400キロ・メートル離れた山口県にも達した。

戦時の情報管制で被害はほとんど報道されず、自宅のある三重県紀北町の状況も分からなかった。

ただ、気になることがあった。植村さんの母親は筆まめで、月に2〜3度、はがきが届いていた。地震後の便りに、墨で塗りつぶされた箇所が複数あった。

45年8月、終戦。

汽車とバスを乗り継ぎ、紀北町に隣接する尾鷲市までたどり着いた時、初めて母に電話をした。そして、自宅が津波に襲われたこと、その2か月後に4歳上の姉が病死したことを聞かされた。受話器の向こうで、母は泣いた。

言葉が出なかった。同時に、墨で塗られたはがきの意味に気づいた。戦時中は、兵士への手紙が検閲された。「津波のことや、姉の死が書かれていたが、上官が塗りつぶしたのだろう。戦意をそがないようにと……」

海軍時代、熊野市出身の練習生にも、同じく墨塗りのはがきが届いていたことを思い出した。

風化させず

古里の三重県紀北町に着くと、海岸沿いに立っていた立派な旅館は姿を消していた。海岸は陥没し、近くで2人が亡くなったと聞いた。

自宅の土壁には、目の高さまで津波が押し寄せた跡が生々しく残っていた。3人で暮らしていた母、2歳上の姉、妹が、津波で潮水にぬれた畳を運び出し、日に干したのだと想像すると、「あの時、すぐにでも帰って手伝いたかった」と胸が痛んだ。

「戦争は、津波の被害も姉の死も伝えてくれなかった。それでも文句も言えない。本当に恐ろしい時代だった」と振り返る。

復員後は小学校の教員になり、退職後は郷土史研究会の一員として研究に没頭した。

地震から50年となった1994年には、地域住民ら約40人から地震・津波の体験談を聞き取り、研究会の記念誌にまとめた。「大きい波が三つぐらいきた」「海水が流れ落ちるときは滝のようだった」「引き潮になると海の底が見えた」。生々しい証言が記された。

研究会は今月7日、記念誌を再発行する。発生から79年となり、植村さんは「近いうちに再び地震が起こるのではないか」との思いが離れなくなっていたという。

「体験談を語ってくれた人たちは、みな他界した」。植村さんは、そうつぶやいた。それでも、いや、だからこそ、「多くの人に読んでもらい、自分の命を守れるよう、大災害に備えてほしい」と願っている。
     ◇
冊子は研究会の会員らに配布するほか、紀北町の海山郷土資料館で閲覧できる。問い合わせは同資料館(0597・36・1948)。

◆昭和東南海地震 =1944年12月7日午後1時36分に発生した。地震の規模を示すマグニチュードは7・9と推定される。内閣府などによると、全壊家屋は2万6130戸。津波の被害は特に三重県沿岸に集中した。南海トラフを震源域とする地震は、おおむね100〜150年間隔で発生。昭和東南海地震の前には、1854年(安政元年)に、東海地震と南海地震が発生している。

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