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2023年11月29日00:09

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11月29日の日記

今日の出来事:1585年−粟之巣の変、1875年−京都市に同志社英学校(同志社大学の前身)が開学、1943年−ブーゲンビル島の戦い:ナボイの戦いで日本軍が勝利、1987年−大韓航空機爆破事件

今日は、粟之巣の変です。1584年、伊達政宗は父・輝宗より家督を相続し、18歳で伊達家17代当主となりました。その頃、小浜城主・大内定綱は二本松城主・畠山義継の子・国王丸(義綱)に娘を嫁がせて手を組み、田村領の百目木城主・石川光昌を攻撃しました。田村氏と対立していた蘆名盛隆の支援を受けて、田村清顕を破って独立を果たしました。これに対し、伊達政宗の正室(愛姫)は田村清顕の娘という関係から、政宗は田村氏に加担して大内定綱を攻撃しました。伊達政宗は大内領の小手森城へ兵を進めると、城へ総攻撃をかけました。自ら最前線に立ち、鉄砲8000丁を撃たせるなどの激しい攻撃で落城させました。大内定綱は小浜城を放棄して二本松へ逃れ、ついで会津の蘆名氏を頼りました。この時、政宗は城主・菊池顕綱をはじめとする敵将や敵兵だけでなく、城内にいた女や子供もまでも殺害しました。城主・菊池顕綱や大内定綱の親類など500人を討ち取り、城内にいたものは人のみならず、犬に至るまで全て撫で斬りにし、近隣諸国への見せしめの為、城中の者を皆殺しにしました。その数、総勢1000人に及んだと言います。これが「小手森城の撫で斬り」として後世まで語り継がれる事となります。これを見た畠山義継は和議を申し出ました。政宗は畠山義継に対して苛烈な態度で臨み、所領を大幅に削減すると宣告しましたが、伊達輝宗の取りなしにより5ヶ村のみを二本松領として安堵される事になりました。畠山義継は調停に謝意を表すべく、宮森城に滞在していた伊達輝宗を訪れました。ところが畠山義継は、伊達輝宗が見送りに出た所を拉致して、二本松城に戻ろうとしました。当時、狩りに出かけていた伊達政宗は、急遽戻って畠山義継を追跡し、阿武隈川河畔の安達郡平石村高田あたりで追い着きました。この時の銃撃戦で畠山方は、畠山義継と伊達輝宗をはじめ全員が死亡しました。畠山義継の遺体は伊達政宗により斬り刻まれ、藤蔓で繋ぎ合わせて無残に吊るされました。この後、遠藤基信、内馬場七右衛門、須田親重が伊達輝宗の墓前などで殉死します。その後、伊達政宗は初七日の法要を済ますと、伊達輝宗の弔い合戦として二本松城を包囲します。そして、二本松城救援のため終結した佐竹・蘆名・岩城・石川・白河・相馬・二階堂らの南奥連合が挙兵し、政宗最大の危機となった「人取橋の戦い」へとなるのです。

次に、京都市に同志社英学校(同志社大学の前身)が開学です。同志社大学は、「明治六大教育家(大木喬任、森有礼、近藤真琴、中村正直、新島襄、福澤諭吉)」の1人である新島襄によって、1875年に創立された「同志社英学校」を前身とする大学です。「同志社」という校名は「志を同じくする者が集まって創る結社」という意味です。新島襄は建学の目的として、「良心を手腕に運用する人物」の育成を掲げました。新島襄は、江戸の神田にあった上州安中藩江戸屋敷で、安中藩士・新島民治の子として生まれました。本名を七五三太(しめた)と言いました。この名前は、祖父・弁治が女子が4人続いた後の初の男子誕生に喜び「しめた」と言った事から命名されました。後に敬幹と改名しました。元服後、友人から貰い受けたアメリカの地図書からアメリカの制度に触れ、憧れを持つようになりました。その後、幕府の軍艦操練所で洋学を学びました。ある日、アメリカ人宣教師が訳した「漢訳聖書」に出会い「福音が自由に教えられている国に行くこと」を決意、備中松山藩の洋式船「快風丸」に乗船していた事もあり、当時は禁止されていた海外渡航を思い立ちました。1864年、アメリカ合衆国への渡航を画策して「快風丸」に乗って開港地の箱館へと向かいました。箱館に潜伏中、当時ロシア領事館付の司祭だったニコライ・カサートキンと会いました。カサートキンは、坂本龍馬の従兄弟である沢辺琢磨や福士卯之吉と共に七五三太の密航に協力しました。箱館港から米船「ベルリン号」で出国し、上海で「ワイルド・ローヴァー号」に乗り換え、船中で船長ホレイス・S・テイラーに「JOE(ジョー)」と呼ばれた事からその名を使い始め、帰国後に「譲」、後に「襄」と名乗りました。1866年、アンドーヴァー神学校付属教会で洗礼を受けました。アマースト大学では、後に札幌農学校教頭となるウィリアム・スミス・クラークから化学の授業を受けました。クラークにとっては最初の日本人学生であり、この縁でクラーク博士は来日する事になります。1872年、アメリカ訪問中の岩倉使節団と会いました。新島襄の語学力に目をつけた木戸孝允は、自分付けの通訳として使節団に参加させました。1875年11月、横浜に帰着しました。1875年11月29日、かねてより親交の深かった公家華族の高松保実より屋敷(高松家別邸)の約半部を借り受けて校舎を確保し、京都府知事・槇村正直、府顧問・山本覚馬の賛同を得て官許「同志社英学校」を開校し、初代社長に就任しました。開校時の教員はに新島襄とJ.D.デイヴィスの2人、生徒は元良勇次郎、中島力造、上野栄三郎ら8人でした。また、この時の縁で1876年1月3日、山本覚馬の妹・八重と結婚しました。10月20日、「熊本バンド」と呼ばれる金森通倫、横井時雄、小崎弘道、吉田作弥、海老名弾正、徳富蘇峰、不破惟次郎ら青年達が同志社英学校に入学しました。京都御苑内の元公家屋敷(大正天皇の生母の実家の旧柳原邸)内に設立された「女子塾」を前身として、1877年に「同志社女学校(後の同志社女子大学)」を妻・八重、米国人宣教師A・J・スタークウェザーらと設立しました。1880年から大学設立の準備を始め、井上馨・大隈重信・土倉庄三郎・大倉喜八郎・岩崎弥之助・渋沢栄一・原六郎・益田孝等から寄付金の約束を取付けました。1884年4月6日、2度目の海外渡航に出発しました。ドイツでは訪問先のヨハネス・ヘッセの家で幼少の息子ヘルマン・ヘッセと会いました。8月6日にはスイスのサンゴタール峠で心臓発作を起こして倒れ、二通の遺書を記しました。1885年12月に帰国、1888年11月、「同志社大学設立ノ旨意」を全国の主要な雑誌・新聞に掲載しました。1889年11月28日、「同志社」設立運動中に心臓疾患を悪化させて群馬県の前橋で倒れ、神奈川県大磯の旅館・百足屋で静養しました。愛弟子の一人の不破惟次郎の妻で、北里柴三郎の従妹で、後の京都大学病院初代看護婦長を務めた不破ユウ(北里ユウ)の渾身の看護を受けましたが、回復せず翌1890年1月23日午後2時20分、徳富蘇峰、小崎弘道らに10か条の遺言を託して死去しました。死因は急性腹膜炎、最期の言葉は「狼狽するなかれ、グッドバイ、また会わん。」でした。1月27日13時より「同志社」前のチャペルで葬儀が営まれ、京都東山若王子山頂に葬られました。墓碑銘は勝海舟の筆です。新島襄の死から間もない1890年4月26日、新島八重は日本赤十字社の正社員となりました。1874年の「日清戦争」では、広島の陸軍予備病院で4ヵ月間「篤志看護婦」として従軍し、40人の看護婦の取締役として怪我人の看護だけでなく、看護婦の地位の向上にも努めました。1896、その時の功績が認められて「勲七等宝冠章」が授与されました。その後、「篤志看護婦人会」の看護学修業証を得て看護学校の助教を務め、1904年の「日露戦争」では大阪の陸軍予備病院で2ヶ月間「篤志看護婦」として従軍し、その功績によって「勲六等宝冠章」が授与されました。1907年11月に新島旧邸を同志社に寄付しました。多くの功績により1928年、昭和天皇の即位大礼の際に「銀杯」を下賜されました。その4年後、寺町丸太町上ルの自邸(現・新島旧邸)にて死去しました。亨年86、葬儀は「同志社社葬」として4000人もの参列者が集まりました。墓所は、京都市左京区鹿ケ谷若王子山町の京都市営若王子墓地内同志社墓地、墓碑銘は徳富蘇峰の筆です。

その次に、ブーゲンビル島の戦い:ナボイの戦いです。ナボイの戦いは、ブーゲンビル島ナボイで行われた戦闘です。1943年11月1日、アメリカ軍は日本の第17軍が守るブーゲンビル島のトロキナ岬に上陸しました。日本側は、第6師団(師団長:神田正種中将)の歩兵第23連隊による反撃で撃退を試みましたが、失敗に終わりました(第1次タロキナ作戦)。アメリカ軍の指揮官であるロイ・ガイガー将軍は、トロキナ岬周辺に築いた橋頭堡を、さらに拡大する事にしました。トロキナ川に向かって部隊を東進させ、内陸側にフォックスのコードネームを付けた防衛線を構築する意図でした。この進撃は11月26日に完了しました。さらに、ガイガー将軍は、進撃部隊全体の右翼側を奇襲から守るため、トロキナ岬からエンプレス・オーガスタ湾の海岸伝いに16kmほど南下した地点であるコイアリ(日本側呼称:ナボイ)に別動隊を送り、日本軍の反撃に対する警戒拠点とし、日本軍の集積している物資を破壊、後方連絡線を遮断しようと計画しました。襲撃部隊の主力は、11月23日にベララベラ島から到着したばかりの海兵空挺部隊の第1海兵空挺連隊第1大隊で、リチャード・フェイガン少佐が率いました。対する日本軍は、第6師団主力による2回目の総攻撃の準備を進めていました。アメリカ軍の襲撃部隊は、アメリカ海軍の機動揚陸艇(LCM)とLCVPの2種の上陸用舟艇に分乗して、11月29日午前4時にナボイの海岸へ上陸しました。日本側は舟艇が岸に近づいてから自軍のものでないと気付き、集積所の人員を武装させるとともに、たまたま付近を通過中だった歩兵第23連隊の一部に応援を要請しました。明け方には応援の歩兵が到着し始め、集積所にあった砲弾を使って砲撃を始めました。海兵隊員の周囲には日本軍の迫撃砲や機関銃・小銃による銃砲火が降り注ぎました。状況を知った日本の第6師団司令部は、岩佐支隊(支隊長:岩佐俊少将)の歩兵第23連隊に1個大隊での撃退を命じるとともに、歩兵第13連隊の1個大隊を上陸用舟艇で29日夜に付近へ逆上陸させる事を計画しました。現地の日本軍は何度も歩兵突撃を行い、アメリカ軍に相当の損害を与えました。アメリカ軍は、前線の砲兵観測班の指示の下、トロキナ岬付近に布陣しました。予想よりも激しい抵抗を見て、アメリカ軍指揮官たちは自分たちが兵力的に劣勢である事を悟りました。付近の日本軍は現状で1200人と推測され、アメリカ軍は全滅の危機に瀕しました。フェイガン少佐は、現在の戦闘状況が無益で、このままでは敵主力との決戦が避けがたいと判断し、午前8時までには無線で部隊の収容を求めました。ガイガー将軍も同意して撤退を命じましたが、その返信は通信機が故障して受信不能に陥っていたためフェイガン少佐に届きませんでした。アメリカ軍は、襲撃部隊の収容のため2回にわたって上陸用舟艇を送りましたが、日本軍砲兵の激しい射撃により失敗に終わりました。2度の救出失敗と上陸部隊の弾薬欠乏という事態を受けて、護送船団から引き抜いたフレッチャー級駆逐艦「フラム」、グリーブス級駆逐艦「ランズダウン」、同「ラードナー」と砲艇仕様の歩兵揚陸艇1隻が援護に投入されました。支援艦隊は午後6時に海岸に接近し、陸上砲兵部隊と航空隊と協同して弾幕を張りました。この制圧射撃に守られ、舟艇は海岸から襲撃部隊を収容できました。最後の舟艇が戦場を離脱したのは、日没後の午後8時40分でした。アメリカ軍は、装具類を多く失いましたが、兵器は破損したもの以外は全て持ち帰る事ができました。アメリカ軍の作戦目的はいずれも達成されず、15人が戦死・戦傷死、99人が負傷、7人が行方不明となる損害を受けました。アメリカ側の推定では、日本軍は145〜291人を失いました。こうしてアメリカ軍の作戦は失敗し、海兵隊は全く目的を達成できないまま撤退しました。日本軍は、「ナボイの戦い」を小規模であるが水際撃滅が成功した事例と評価し、上陸戦に対抗する戦術として水際作戦が効果的であるとの確信を強めました。これが、日本軍がその後の「サイパンの戦い」などで水際への機動反撃を重視する一因となりました。

最後に、大韓航空機爆破事件です。大韓航空の旅客機が北朝鮮の工作員によって飛行中に爆破されたテロ事件です。大韓航空858便はアブダビを日曜日の午前0時01分に離陸しました。858便はインドを横断し、ムンバイから始まるアンダマン海上の航空路R468を飛行して到着しました。ビルマ(現:ミャンマー)の航空管制空域に、離陸から4時間半後の午前4時31分に到達し、両国の境界である"TOLIS"ポイントからラングーン(現:ヤンゴン)の航空管制官に対し「現在37000フィートを飛行中。次の"VRDIS"には午前5時01分、"TAVOR"(ビルマ本土上陸地点)には午前5時21分に到達の予定」と報告したのが858便の最期の通信となりました。ここで858便は航空路ロメオ68を飛行しており、ほぼ定刻通りにバンコクに到着するはずでしたが、ラングーンから南約220km海上上空の地点で午前5時22分に機内で爆弾が炸裂し、機体は空中分解しました。パイロットは緊急信号や地上の管制機関に緊急事態を宣言する間もなく、爆発の衝撃で即死しました。乗客・乗員115人全員が行方不明となりました。事件直前、バグダッドで搭乗して経由地のアブダビ空港で降機した乗客は15人いましたが、その中に不審な男女各1名がいました。この2名は日本の旅券を持っており、30日午後にバーレーンにガルフ航空機で移動し、同国のマナマのホテルに宿泊していました。韓国当局はこの「日本国旅券」を持つ2人の男女が事件に関与したと疑い、当地の韓国大使館代理大使が、その日の夜に接触しました。事件直前の11月21日に東京で偽造パスポートで警察に逮捕された日本赤軍の丸岡修は、翌年に迫ったソウルオリンピックの妨害工作をするためにソウル行きを計画していた事が明らかになり、中東を本拠地とする日本赤軍の事件への関与が疑われていました。在バーレーン日本大使館が入国記録を調べたところ、航空券の英文の「姓」が抜けていました。これは日本人ならば、あり得ないことでした。女の旅券番号を日本本国に照会したところ、徳島市在住の実在する男性に交付されたパスポートと同一である事が判明、偽造であると確認しました。2名はバーレーンの空港でローマ行きの飛行機に乗り換えようとしていたため、日本大使館員がバーレーンの警察官とともに駆け付け、出国するのを押し留めました。日本大使館に身柄拘束権が無かったため、同国の入管管理局に通報し、警察官に引き渡しました。空港内で事情聴取しようとした時、男は煙草を吸うふりをして、その場であらかじめ用意していたカプセル入り薬物で服毒自殺しました。女はマルボロに隠された青酸系毒薬のアンプルを警官からひったくって自殺を図りましたが、バーレーンの警官・ハッサンがとびかかって直ちに吐き出させ、完全に噛み砕けなかったために青酸ガスで気を失って倒れました。男は死亡しましたが、同伴の女は一命を取りとめ、3日後に意識を取り戻しました。実行犯は北朝鮮工作員の金賢姫(当時25歳)と金勝一(当時59歳)でした。2人は10月7日に金正日の「ソウルオリンピックの韓国単独開催と参加申請妨害のため大韓航空機を爆破せよ」との親筆指令に従いテロ行為に及んだもので、父娘であると偽りテロ実行のために旅行していました。金賢姫は、平壌外国語大学日本語科に在籍中に北朝鮮の工作員としてスカウトされ、日本における謀略活動のための訓練をされており、北朝鮮工作員の海外拠点であったマカオに何度も滞在していました。「李恩恵」(リ・ウネ)と呼ばれる女性(日本から北朝鮮により拉致されたとされる田口八重子とみられている)に日本語や日本文化の教育を受け、「蜂谷真由美」という日本人名を使用して日本人になりすましていました。現在も北朝鮮は事件への関与を否定しており、韓国による自作自演を主張していますが、この事件の指導と総指揮は、当時既に金日成の後継者に指名されていた朝鮮労働党書記・金正日(朝鮮民主主義人民共和国国防委員会委員長)が執ったと言われています。金賢姫は韓国で1年間の取調べの後、「トランジスターラジオにセットした時限爆弾で858便を爆破した」と認定され、韓国の国家保安法、航空法、航空機運航安全法違反で1989年2月3日に起訴されました。韓国の裁判所は一・二審とも死刑判決を下し、1990年3月27日に確定しました。しかし、盧泰愚大統領は「事件の生き証人」という政治的な配慮から、事件遺族の抗議の中、4月12日に特赦しました。

今日の誕生日:酒井忠清、島津重豪、クリスチャン・ドップラー、井伊直弼、ルイーザ・メイ・オルコット、西太后、ジョン・アンブローズ・フレミング、田中絹代、尾崎秀樹、勝新太郎、ジャック・シラク(元フランス大統領)、柏戸剛、林家ペー、高橋長英、沢木耕太郎、舛添要一、小林麻美、定岡正二、愛華みれ、尾崎豊、田中慎弥、鈴木浩介、田口淳之介(元KAT−TUN)、高柳明音(元SKE48)、照ノ富士春雄、阿部マリア(元TPE48、元AKB48)、菅井友香(元櫻坂46)、平野歩夢、SUZUKA(新しい学校のリーダーズ)、車寅次郎

今日の記念日:パレスチナ人民連帯国際デー、議会開設記念日、いい肉の日、イーブックの日、いいフグの日、いい服の日、ダンスの日、いい文具の日

今日の「今日訓」:本日は、1890年11月29日に、初の帝国議会が開かれた事で「議会開設記念日」、1947年の「国連総会」でパレスチナ分割に関する決議が採択された事で「パレスチナ人民連帯国際デー 」、鹿鳴館の開館日の翌日で「ダンスの日」、「い(1)い(1)に(2)く(9)」の語呂合わせで「いい肉の日」、「い(1)い(1)ブ(2)ック(9)」の語呂合わせで「イーブックの日」、「いい(11)フグ(29)」の語呂合わせで「いいフグの日」、「いい(11)ふく(29)」の語呂合わせで「いい服の日」、「いい(11)文具(29)」の語呂合わせで「いい文具の日」となりました。
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